幽霊騒動の調査を開始した翌日の朝、ヘルヴォルは自分たちの控室に起きた異変を目の当たりにした。
それは軽く朝のミーティングを開こうと集まった時のこと。ミーティングといっても、昨晩の張り込みの疲労が多少なりともあるので、コーヒーを飲みながら談笑する程度の予定だった。
その矢先に彼女たちが目にしたのは、キッチンの床に散らばる白い破片である。
「瑤様と藍は部屋の外を警戒! 千香瑠様と恋花様は室内の確認! 私はガーデンに報告してきます!」
一葉が矢継ぎ早に全員へ指示を出していく。そこに迷いも躊躇も無い。
次いで180度くるりと向き直って一葉は控室をあとにする。
直後、背を向けた方向から、辛うじて聞き取れる声が耳に届く。
「酷い……。皆で買った、お揃いのソーサーが……」
静かな、それでいて何故かはっきりと聞こえる千香瑠の声だった。
◇
「昨日から今日にかけて、マスターキー持ち出しの申請も実際に持ち出された形跡もありませんでした」
歯噛みする思いで一葉が言う。
「廊下とその周辺に異常は無かったよ」
沈着冷静な低い声で瑤が報告する。
「控室の中にも誰も居なかったし、窓はちゃんと全部閉まってた。異常なーし。あたしらのソーサーが五枚割られてた以外は、ね」
最後に恋花が
「つまり、今朝私たちが訪れるまで、この控室は完全な密室だったということです」
信じ難くも認めざるを得ない事実を、一葉が口に出して自分を含むヘルヴォル全員へ突き付けた。
現在、ガーデンでの講義を終えた放課後。
五人は事件について話し合うべく再び控室に集っていた。
「あれから、すぐに風紀委員が捜査し始めたんだけど。今のところ何も出てないみたいだね」
眉間に皺を寄せ若干悔しそうな様子の恋花。彼女は現ヘルヴォル入隊以前、風紀委員長率いるレギオンに所属しており、風紀委員の友人たちが居るのだ。
原則として、ガーデン内部の事件については、そのガーデンの風紀委員が捜査することになっている。即ちリリィに警察権を認めているのだ。さながら
「それでどうするの? 一葉ちゃん」
「ヘルヴォルにも、引き続き本件について調査する許可が下りました。これまでのようなただの噂ではなく、今回は明白な実害のある事件ですから。ガーデンとしても本腰を入れて解決に動き出したようです」
千香瑠の問い掛けに答える前に、一葉はまず現状を説明した。自分たちが動くか動かないかは別として、動く環境は整っている。
本件において、実際の被害はカップの受け皿を五枚ばかり棄損されたというもの。だがそれはあくまで目に見える被害に過ぎない。
重要なのは、エレンスゲ女学園のトップレギオンが使用する控室に、何者かが気付かれずに侵入したという点だ。ガーデンの沽券にも関わる事態と言えた。
「一葉ちゃん、提案があるわ」
「何でしょうか?」
改まった調子で、決意を秘めた面持ちで、千香瑠が訴える。
「今夜から張り込みましょう。私たちの控室に」
「……理由を教えて頂けますか?」
「ちょっと信じられないかもしれないけれど。第六感、かしら」
本人の言う通り、一葉は信じられなかった。いきなり第六感などと言われても、正直困惑せざるを得ない。
しかし同時に、ただ切って捨てることもできなかった。本校舎の控室が危ないという、昨晩の千香瑠の懸念が見事に的中したのだから。
相澤一葉というリリィは真面目だが、杓子定規というわけではない。むしろ臨機応変な行動を積極的に取るタイプであった。
「分かりました。『犯人は現場に戻る』とよく言いますが。新たな発見が得られるかもしれません」
完全に納得してはいない。
それでも一葉は千香瑠を信じて大きく頷いた。
「ふぁ~あ……また幽霊退治するの?」
「幽霊かどうかは分からないけどね」
寝惚け眼の藍が欠伸をしながら聞いてきたので、傍に居た瑤は彼女の背中をさすりつつ答えた。
実際、下手人は何者なのか?
学園内部の犯行か?
よそのガーデン所属のリリィの仕業か?
あるいはもしや――――――
◇
校舎一階に位置する宿直室を拠点として、ヘルヴォルは新たに監視体制を構築した。
今度は空き部屋ではなく、正真正銘現役の宿直室だ。ガーデンが事態を軽く見ていたら、トップレギオンとはいえ借り受けることはできなかっただろう。
「配線、繋いだよ」
「受信機、感度りょーこー」
瑤と恋花が機材のセッティングを終えた。
一葉もまた、モニターのディスプレイに複数の映像が映ることを確認し終えた。
部屋の隅では藍が自身の体にも匹敵する巨大なチャームを腕に抱き、カチャカチャと弄って暇を持て余している。
千香瑠も当然チャームを傍に置いてはいるが、こちらは落ち着き払って絨毯の上で正座を組んでいる。
「チャームの出番が来なければ良いのですが」
独り言のように一葉が呟いて以降、夜の宿直室に暫くの静寂が訪れた。
ディスプレイには、ヘルヴォル控室の内と外、暗がりの向こうへと伸びる廊下、他のレギオン控室の扉近辺といった各所が映し出されていた。
一葉は映像を注視しつつも、先日の恋花の発言を思い出す。
『あーっ、もう! 都市伝説に理屈を求めるんじゃないよ!』
『これはこういう話なの』
本当にそうだろうか。事件の犯人が噂話を故意に流しているのだとしたら、皿を割るという行為にも何か意味があるのではないか。そこから手掛かりが見出せるかもしれない。
そんな風に黙々と思考を巡らせていると、突然低い唸り声が部屋に響く。
「お腹減った……」
どうやら藍のお腹に飼ってる獣が吼えたらしい。
「う~ん、食べちゃお」
「たい焼き、また持ってきてたんだ。それ食べたら幽霊をどうやって退散させるのかな~」
「チャームがあるもんっ。恋花にはたい焼き、あげないよ」
二人のやり取りを耳に入れた一葉はクスッと笑みを漏らす。
姉妹にして悪友。そんな言葉がこの二人以上に似合うリリィはエレンスゲにはそうそう居ないだろう。
「今、何か音がしなかった?」
千香瑠の問いに、一葉がハッとする。
確かに気は緩んでいた。だが決してモニターから目を離してはいない。
幾らか沈黙を挟み、今度は聞き逃さなかった。戸棚が軋む微かな音を。間違いなく映像の向こうから聞こえてきた。
「恋花様、瑤様、ここでモニターを続けてください。千香瑠様、藍、行きましょう」
チャームを手にし、立ち上がり、指示を出して出入り口へ駆ける。
仲間たちも各々指示通りに動き出す。
まるで狙い澄ましたかのような、都合の良い襲撃。
一葉は一抹の不安を覚えながらも、自分たちの控室へと急ぐのだった。
◇
天井の常夜灯によってほんのりと最低限度の灯りに照らされる中、三人のリリィは校舎の廊下を走り抜ける。可能な限り音を立てず、可能な限り迅速に。
そうして目的のドアの手前までやって来たところで、先頭の一葉がハンドサインで後続の二人を制止した。
やはりドアは閉まっている。辺りに不審な形跡も無い。
「一葉、カメラに変化は無し。集音マイクも、今は異常無し」
インカムによる通信で、宿直室に残った恋花が状況を知らせてくる。
それを受けた一葉は突入を決断した。アイコンタクトとハンドサインによって千香瑠と藍にもその意を伝える。
後方に居た千香瑠が前に出てきて控室ドアのドアノブを握り締めた。
千香瑠に代わって藍がやや後ろに下がるが、いつでも突撃できる態勢を取っている。
そして一葉が左手のチャームをドアに向けて突き出し、その瞬間を待つ。
一葉の装備するチャーム、ブルトガングは尖った特徴の無い安定した機体だった。敢えて言うなら、故障率が低く耐久性に優れるという持ち味がある。
藍緑色のボディパーツと鉛色の刃から成る至ってシンプルな構造で、変形機構は単純明快。故に堅牢。
一葉もこの機体のことを信頼していた。
そんなブルトガングの刃が向けられる前で、いよいよドアが開く。
ドアノブを握る千香瑠が手を引っ張った直後、刃をかざした一葉の体が跳ぶように室内へ踏み入った。
チャームを構えたまま、一葉が広々としたリビングを見渡す。誰も居ない。
続けて突入した藍が仮眠室の扉を開ける。誰も居ないようだ。
千香瑠がトイレとバスルームを確認しに行く。異常無いようだ。
遠巻きにキッチンへも視線を向けるが、やはり無人だった。
「こっちは相変わらず何も映ってないよ。集音マイクの故障だったんじゃない?」
訝しむ恋花の声がインカム越しに届いた。
黙考する内、一葉は恋花の意見に同意するようになってきた。
そんな油断があったがために、不意の変化は一葉の頭を一気に凍えつかせる。
「寒い……」
藍が小さく呟いた。一葉だけの勘違いではないと証明された。
5℃か6℃ほど気温が下がったような感覚に、武器を握る手や体重を支える脚が軽く震える。
今は間違いなく夏のはず。なのに、蒸し暑いはずの空気がいつの間にか肌寒ささえ感じる始末。
あり得ない。こんなことはあり得ない。
そんな風に一葉は必死に自らへ言い聞かせるものの、腹の奥が底冷えし、喉の奥がチリチリと痛む。無駄な抵抗、と何者かに嘲笑されているかのようだ。
ギィ、と金具が軋む音。
聞き間違いではない。現にキッチンの戸棚が開いている。
風の悪戯でもない。窓は完全に閉ざされている。
ブルトガングのグリップを握る一葉の左手がより一層の力を込めた。
しかし、そもそも、チャームの刃が通じる相手なのだろうか? 自分たちが相まみえようとしている存在は。
今更ながら懐疑を抱く。
そもそも本当に霊的な事象だとは思ってもみなかった。
けれども、彼女らは立ち向かわなければならない。
一葉が決意を新たにしたところで、ようやく
「あ……っ」
後ろの方で藍が息を呑み込むのが分かった。
少し前までのお泊り会気分は跡形もなく霧散しているようだ。
どんなに巨大で強大なヒュージを前にしても果敢に向かっていく小さな少女が、怪談相手に足をすくませている。それは恋花の語り手としての優秀さを示していた。
リリィたちの前に現れたのは白い影だ。輪郭が曖昧で、いつ空気に溶け込んでもおかしくなさそうな、ぼんやりとした影。
「そこで、何をしているのですか」
刃をかざしながらの一葉の問い掛けに、影は言葉ではなく行動で答えた。
曖昧だった輪郭が徐々に浮かび上がっていき、明確に人の形を取ってきた。
「……っ!」
今度は一葉も息を呑む。
死装束を思わせる白い和装を纏い、腰よりもずっと長い黒髪を垂らし、ソレは佇んでいた。
今まさに一葉たちの見ている前で、そこに現出したのだ。
リリィの保有するレアスキルで似たようなことは可能かもしれないが、目の前のソレは違う気がした。理屈では説明できないが、本能が違うと訴えていた。
ソレの表情は長過ぎる髪に隠れて窺い知れない。ただ、その髪が水に濡れて異様な雰囲気を放っているのは、離れていてもはっきりと分かった。
ソレが何事か声を発している。
はっきりとは聞き取れなかったが、黒髪の隙間から視線で射すくめられている感覚により、友好的でないのは明らかだった。
ソレが再び言葉を発する。
一葉たちが答えられないせいか、先程よりも音量が大きくなっていた。
後ろの藍は未だ声を上げられない。だがそれは一葉自身も似たようなもの。
そうして、ソレが
三度目の正直。今度はしっかりとその意が伝わった。
「――――――足りない」
枯葉の如くしわがれたソレの両手には、予備のソーサーが握られていた。
「そのソーサーをどうするつもり?」
一葉はハッとした。今の言葉は誰のものか?
答えはすぐに分かった。千香瑠だ。千香瑠がソレの背後に立っている。
一葉は困惑した。
ソレも困惑しているようだった。
「貴方の皿はもう無いの。この世のどこにも無いの」
本人以外が呆然とする中で、千香瑠は憐れむような慈しむような声で語り掛ける。
ソレの全身が揺らぎ、輪郭がぼやけで薄らと半透明になり始めた。
ところが、ソレがキッチンから消え去ることは叶わない。にゅっと伸びた千香瑠の右手に肩を掴まれていたから。
「だからもう、終わりにしましょう」
千香瑠の左手がソレの口へと伸びていく。手の中にあるのはガラス瓶。恋花が洒落で用意していた塩の瓶。
「お塩つめつめ……お塩つめつめ……」
超常の存在が拘束されて、口内へ塩を詰め込まれる。
その異常な光景に直面し、涙目の藍は一葉にしがみ付いてブルブル震えている。
正直、泣きたいのは一葉も一緒だった。ただヘルヴォルの隊長という立場が彼女を踏み止まらせていたのだ。
やがてソレの体から淡い光が漏れてくる。
「も゛っ゛」
苦悶の奇声と共に跡形もなく消え去った。
初めに控室へ踏み込んだ時と同じ、ヘルヴォルの三人だけがそこに居た。
最初と違うのは、千香瑠の右手がソーサーを一枚掴んでいる点か。
「はぁ……」
自身の頬に左手を当て憂いを帯びた面持ちで溜め息を吐く千香瑠。
「また皆の分、買いに行きましょうね」
彼女だけは絶対に怒らせないようにしよう。そう心に固く誓う一葉であった。