鉛色の空が日の出によって薄ら白み始めた頃、小高い丘の頂に立つ一葉は海の沖合を双眼鏡を通して睨む。
その場に居るのは彼女一人。他の仲間たちは灯台とその周辺で各々の役割に務めている。
時折、海から吹き付ける冷たい秋風が一葉を撫でた。青みがかった黒髪のショートが揺れ、濃紫のジャケットに備わる同色のマントが音を立ててはためく。
「動いています。真っすぐ、灯台方面に向けて。作戦通りです」
通信機のインカム越しに、遠く離れた仲間へ状況を伝える。
目標の監視自体は灯台からもできなくはないが、やはり情報の正確さと不測の事態への備えを考えると、他のポイントからの監視も必要だった。
「エレンスゲの強引な交渉ならガンシップを借りることもできたんでしょう。でもやっぱり陸の上で戦えた方が安心できるわね」
「そうですね、千香瑠様」
自ら三次元的な機動が可能なリリィにとって、機上や船上での戦闘は利点だけでなく制限も多い。
更に言えば、ヒュージと海の上でやり合うのは大きなリスクが伴う。水場はヒュージのホームグラウンドと言ってもいい。
仮にヒュージが出現当初から積極的な海上通商破壊を仕掛けていたら、人類側の戦線はとうの昔に崩壊済みだと考えられているぐらいなのだから。
「これ、こっからだとよく分かんないんだけど。本当に怪異が釣れてるの?」
「本当ですよ。引き続き投光器の照射をお願いします」
一葉に対して疑問の声を上げたのは恋花だ。彼女と瑤で灯台の中に入り、沖合の怪異に向けて投光器を作動させていた。
ちなみに千香瑠と藍の担当は灯台下での周辺警戒である。
監視が必要とは言え、一葉だけ配置が離れているのはやはりリスキーだった。
ドローンの一機でも飛ばせば
一葉が監視ポイントの丘にバイク等の移動手段を用意していないのも、例の団体とのトラブルを避けるため。町で調達すれば察知される恐れがあった。
「それにしても……」
一体アレは何なのだろう。
このところ怪談や都市伝説について勉強していた一葉だが、今回の怪異については見当もつかなかった。
島のように巨大で生白い半球状の物体。広範囲にわたって人間の意識に干渉する能力があるかもしれない。
そんな存在、千香瑠や恋花でさえ心当たりが無いのだから、物語上で語られていない要素なのだろう。
「……?」
じっと監視を続けていた一葉はふと変化に気付く。灯台を目指す怪異の移動速度が先程より増していたのだ。
見間違いではないかと何度も見返すが、やはり増速している。それもちょっとやそっとの増加ではない。この遠距離からでも明らかに分かるほど加速していた。
「恋花様、聞こえますか?」
「はいよ」
「投光器を切ってみてください」
「うん? 分かった、待ってよ」
通信機での唐突な指示にもかかわらず、恋花は実行に移してくれた。
それから更に暫く様子を見る。
しかし怪異の動きは変わらない。さっきまでの沈黙が嘘のように、高速で陸へと突き進んでいる。
「緊急事態です。目標が大幅に増速しました。照明を中止しても止まりません」
「ええっ!? こっちに突っ込んできてるってこと!?」
「我々を明確な敵だと認識したのかもしれません。急ぎそちらに合流します!」
一葉は通信を終えると、監視地点である岸壁に背を向けた。
移動手段が無いゆえに自力で灯台まで辿り着かなければならない。あの怪異の速度だと、戦闘に間に合わせるにはマギによる跳躍が不可欠となるだろう。マギは温存しておきたかったがこの際仕方ない。
「見通しが甘かった。間に合えっ……!」
◇
「急いでるのか?」
丘を駆け下りようとする一葉に声が掛けられた。
紺色の作務衣を着た中年男性。この丘にある海鮮丼屋の店主だった。
「ひょっとして、こいつを運転できたりするか?」
男性が右手の親指で、自身の後ろの方を指す。その先には彼の営む店、そして店の脇に停められた一台のバイク。
リリィが――身長制限こそあるものの――特例で諸々の運転免許取得試験を受けられるのは一般にも知られた話である。
「はい。大型自動二輪の免許を持っていますので」
「だったらこいつに乗っていけ。それで、俺たちの町をおかしくしやがったあのデカブツをぶちのめしてくれ」
思わぬ提案に一葉は内心驚く。
だが今は有り難い。躊躇せず首を縦に振る。
「ありがとうございます。事が済み次第お返しします」
「いや、無理に返しに来なくていい」
バイクのキーを投げてよこしながら、店主がそんなことを言ってきた。
一葉も今度は流石に躊躇する。
「いえ、そういうわけには……」
「こいつは、昔東京のガーデンで教導官をやってた娘が乗ってたんだが……。今はもう、うちには必要の無いものだ」
店主は店の方にくるりと向き直り、一葉へ背中を向けた。表情を見られないように。
「だから、返さなくていいよ」
それっきり、店主は口を閉じて押し黙ってしまった。
一葉は目線を落として少しだけ逡巡しながらも、彼の背に一礼してバイクへキーを差しに行く。
駐輪場所から押して歩き、丘を下る道に着いたところでエンジンを始動させる。するとバイクから重たげな音が威勢良く響き始めた。
シートに跨ってそのまま走り出す前に、一葉はもう一度店主の背中に目を向ける。
「必ず返しに行きます!」
エンジン音にも負けない声でそう宣言した。
◇
白い飛沫を高く上げ、波濤を掻き分けソレは来る。生白い体の上半分を海面から露出させ、海岸線にぐんぐんと迫って来る。
全長100メートルを優に超えるその巨体は、陸地から見る者に対する圧力を刻一刻と増していた。
恋花たちは灯台から離れた岸壁の上に陣取っていた。まず遠距離から砲撃を加えて様子を見る手筈である。
海岸から距離があり、高所を取っているにもかかわらず、怪異からもたらされる威圧感は並ではなかった。
「タイミングは砂浜に上がってきた瞬間。フライングは無しだからね」
皆にそう言う恋花の指にも自然と力が入る。チャームを握る指なので、力み過ぎはあまり好ましくない。
恋花はそれを、軽い口調で喋ることによって和らげる。周りの人間のみならず、自分自身にとっても大切な行為であった。
「来るわ」
千香瑠が短く言った。
直後、水飛沫に混じって激しい砂埃が海岸に舞う。さながら局地的な砂嵐のようだ。
「攻撃開始!」
恋花の合図を受け、まず二条のレーザーが海岸へと奔る。ゲイボルグとクリューサーオールが放った高出力砲だ。
左右から同時に極太の光線を浴びて、上陸したばかりの怪異は爆煙に巻かれて前進を止める。
やがて砂埃も煙も薄れてきた頃、ヘルヴォルはソレの姿をはっきりと視認した。今までも海面から露出した部分は見てきたが、全貌を目にするのはこれが初めてだ。
丸みを帯びた体に、太くて長い二本の脚。顔や首は無く、胴体に目のような二つの窪みがあるが、眼球らしきパーツは確認できず。口も見当たらない。
恋花はこの時、ようやく怪異の正体に思い当たった。
「ニンゲン」
「えっ? なに?」
「怪異の元ネタ。ニンゲンって怪異の都市伝説があるのよ」
「全然人間じゃないよ! らんたちあんなに大きくないよ!」
「そういう名前なの!」
通信機越しに恋花と藍とで盛んに言い合う。
だがその間にもヘルヴォルは次の段階に向け動いている。
岸壁から飛び降りて砂浜に着地。藍を正面先頭、その後方に恋花、そして左右両翼に瑤と千香瑠を配した菱形のフォーメーションを組む。
「間合いは取ってよ! 下手に近付かないように!」
事前のミーティングでも繰り返していたが、恋花が改めて注意を促した。
大質量というものは、それだけで凶器足り得る。ただ動いただけでも、相手をする身からしたら気を配らなければならない。
もっとも、そんな連中と散々やり合ってきたのが彼女たちリリィだ。
今も四機のチャームが頻りに発砲炎を灯し、海岸に立つ怪異に砲撃を浴びせ続けている。
現状、致命的な傷を与えられた形跡は無い。しかし同時に怪異からの目立った反撃も無い。
水中での速度こそ目を見張るものがあったが、陸の上では見た目通り鈍重のようだ。僅かに身じろぎするものの、遠方から撃ってくるヘルヴォルへ距離を詰めようとする行動は取ろうとしない。
「よーし、そのまま大人しくしてなさいよ。一葉がこっちに来るまでね」
恋花はブルンツヴィークのトリガーを引き絞りながら舌なめずりする。
五人揃ってからが本番なのだ。それまでは時間稼ぎに過ぎず、あわよくば敵を消耗させるために攻撃を加えていた。
そのはずなのだが――――
「……あれ?」
恋花はふと違和感を覚え、トリガーに掛けた指を止めた。当然ながら銃口からのレーザーも止まる。
無理に今、戦わなくてもいいのではないか? そんな考えが頭の中に浮かぶ。
町を直接襲ったわけではないのに、倒す必要は無いのではないか? 考えれば考えるほど、指や手に込めた力が弱まっていく。
他の三人もまた恋花と似たような状況らしい。皆してチャームを構える手が止まっている。
気が付けば、怪異が鳴き声を発していた。
いや、正確には鳴き声ではない。何故ならそれは耳から聞こえたのではなく、頭に直接入り込んできたから。もしも人間が超音波を知覚できるのなら、こういう風に聞こえるのではないだろうか。
「…………」
恋花は戦意を失いかけた状態で改めて怪異を見つめる。
生白い巨体には、やはり表情や感情といった類は読み取れなかった。
「皆さん!」
インカムから轟く大音量に、恋花は頭を殴られそうになる。
「一葉ぁ! あんた通信機に思い切り叫ぶんじゃないわよ!」
「先程から呼び出していたのですが、反応が無かったもので」
遠い岸壁の上、藍緑色のチャームを握るリリィの姿があった。
先程まで薄れていた戦意はいつの間にか戻っていた。
「皆、無事!?」
「……はっ! 寝てないよ! らん寝てないよ!」
「藍ちゃん、ぼーっとしてたのね……」
千香瑠が他の者の安否を気遣う。
「千香瑠、これは?」
「怪異の精神干渉よ。町の人の意識に影響を与えていたのも、多分これ」
「千香瑠は平気だったの?」
「恥ずかしながら、一瞬干渉されそうになってしまったわ」
「一瞬なんだ……」
「神社生まれですから」
「神社生まれって、凄い」
千香留も、静かに感心する瑤も、今は己のチャームをしっかりと握り締めている。
「千香瑠はああ言ってるけど、一葉は何で平気なのよ?」
「それは恐らく……いえ、きっと、熱い想いを受け取ってきたお陰です!」
「何言ってんだあんた」
「人の想いが、怪異の妖術を乗り越えたのです!」
若干引き気味の恋花と熱く盛り上がる一葉。
何にせよ、ヘルヴォル五人揃って反撃の時が来た。
崖下に展開する四人は一葉を加えたフォーメーションへ移行しようと動く。
ところがその前に怪異が先手を打ってきた。
アァァァァァァァァァァァァッ!!!!!
これまでとは様相を大きく異にする、獣めいた咆哮。
そして咆哮の後、怪異の生白い胴体から幾条もの線が伸びる。
「一葉ちゃん!」
崖上に線が向かうのを見て千香瑠が叫ぶ。
線は切り立った岸壁に命中すると、硬い岩肌をいとも容易く砕き割った。
幸い一葉は岸壁から飛び降りて難を逃れていたが。
「あれは水だね。超高圧の水。あの白い体の中に水を貯め込んでるんだ」
怪異をつぶさに観察していた瑤が真っ先に仕掛けに気付いた。
確かに高圧の水はとんでもない武器になり得る。
「搦め手が失敗した途端、実力行使に出るわけか。ヤラレ役のお手本だね」
「ではキッチリと成敗して差し上げましょう」
恋花がいつもの余裕を取り戻すと、崖下に着地した一葉がその隣に並び立つ。
そんな一葉と恋花の二人から目配せを受け、千香瑠が懐から一発の銃弾を取り出した。それこそが彼女たちリリィの切り札である。
「京都の霊水で清めてきたノインヴェルト戦術用特殊弾。役に立つ時がようやく来たわね」
そう言って千香瑠は弾丸をゲイボルグに装填し、銃口を味方である藍へと向ける。
放たれた一発は淡い光球となって戦場を翔けた。
「藍ちゃん!」
「はーい」
藍のモンドラゴンに触れた途端、光球は赤紫の機体に吸い付くように受け止められた。千香瑠が放った時よりも光は大きく強くなっている。
リリィが自分たちより遥かに巨大な敵を討つべく編み出した連携必殺攻撃、ノインヴェルト戦術。五人だから正しくはフュンフヴェルトだが、その性質は変わらない。リリィ全員のマギを
「じゃあねえ、次は……」
「藍、こっち」
「瑤だね!」
藍が巨大なチャームを軽く振る。
するとマギスフィアは砂浜を駆ける瑤の方に飛んでいき、頭上に伸ばされた大剣――クリューサーオールの刀身にキャッチされた。
眼下で繰り広げられる光景に脅威を感じたのか、怪異『ニンゲン』が再び超高圧の水流を放つ。マギスフィアを保持する瑤を狙い、機関銃の如き勢いで間断なく撃ち下ろされる。
水流の噴射口は一つではない。ニンゲンの胴体周り360度、全方位から放たれていた。
瑤は忽ち水流に囲まれて移動を制限されてしまう。
その状況を見て取った恋花は瑤から遠ざかるように走り出した。
「おーい、瑤ー!」
呼び掛けると、すぐさまパスが回ってくる。ノールック、予備動作無しで。
そうして送られてきたマギスフィアを、恋花がダッシュからのジャンプによって受け止めた。
「よし、じゃあ最後!」
「ここです恋花様!」
「ここって、どこよ!?」
突っ込みつつも恋花は声の主を視認する。間にニンゲンの巨体を挟んだ反対側で、一葉がチャームを掲げていた。
恋花のブルンツヴィークがパスを出す。
低空を這う軌道でマギスフィアが奔る。
狂ったように撃ち出された何本もの水流をくぐり抜け、ニンゲンの巨木みたいな脚の脇をすり抜けて、より一層成長した光球はついに五人目の元に到達した。
「人の心を弄ぶ怪異、許せません!」
一葉がブルトガングで撃ち出した五人分のマギは、生白い怪異の体を貫いて眩い白光の中に包み込んだ。
◇
後日、海を見渡せる丘の上。
四人掛けのテーブル席に椅子を一つ追加して、白衣のエレンスゲ標準制服に身を包んだヘルヴォル五人がランチを楽しんでいる。店の中でも窓際で、見晴らしの良い特等席だ。
「いや~勝利の後の御馳走は格別だね~」
「恋花、さっきはラーメン屋がいいってゴネてたのに」
「昔のことは忘れたよ」
瑤は肩をすくめて呆れ気味。
女子高生が五人も集まって物を食べていたら多少は五月蠅くなるものだが、店内は今貸し切り状態だった。無論偶然などではなく、店の好意である。
「そう言えば例の環境保護団体ですが、港湾施設への不法侵入や漁船への建造物損壊罪などで主だったメンバーが逮捕されたそうですよ。組織としても壊滅状態だとか」
「それは……良かったわ。ニンゲンが討伐されて精神干渉が解かれたお陰ね」
一葉から朗報を聞き、少しだけ複雑そうに目を細めて安堵する千香瑠。
ところがこの話には続きがあった。
「いえ、どうやら町の人たちが警察に被害を訴え出たのは、私たちがニンゲンを討つ少し前みたいです」
「えっ? それって……」
「はい! 人々の意志が、怪異の妖術に打ち勝ったんですよ!」
一葉が拳を握って熱く語る。
先の戦闘中でも同じことを言っていたが、何も戦いの熱に一時的に浮かされていたわけではない。相澤一葉とはこういう人間なのだ。
「一葉ぁ、早く食べないと美味しいお魚もったいないよ」
「あ、そ、そうだね。ごめん」
それまで一生懸命箸を動かしていた藍が一葉を注意した。さもありなん。彼女らの前に並んでいるのは海鮮丼なのだから。
赤身や白身は勿論のこと、瑞々しいイクラ、プリプリの海老。それら海の幸が白米の上に円を描いて乗っかっている。
地元にも海鮮丼自体は存在するが、やはり風光明媚な海のすぐ横で食べるのは一味違うというものだ。
「藍ちゃんは何がお気に入りかしら?」
「イクラ! 食べるとプチプチして、楽しくて美味しい。千香瑠も作ってー」
「そうねえ、いつもイクラ料理ってわけにはいかないから。代わりに似た味や食感のものを考えてみましょうか」
戦い終わった海辺の町は以前よりも賑やかになっていた。
◇
「本当にすぐ返しに来たよ……」
海鮮丼屋のカウンター裏で、店主の男が困惑半分嬉しさ半分の声で呟いた。
彼の視線の先では、五人の少女が彼の作った丼へ箸を伸ばしている。
当初、サービスで貸し切りを提案された少女たちは遠慮していた。だが店主からすれば、営業再開したばかりで他の客がすぐには見込めなかったので、大したことはしていないつもりである。
不意に、店の奥から甲高い着信音が響いてきた。
店主が「はいはい」と言わんばかりの仕草で受話器を取ると、今度はその受話器の向こうから高い声が響いてくる。
「ちょっと父さん! 私のバイク手放したって本当!?」
「電話でうるせえなあ……。あれは元々俺のだし、今でも名義は俺だ」
「だからってねえ。また使うことあるかもしれないし」
「大体な、教え子に手を出して左遷されるような奴に、乗せるバイクは無い」
「酷っ! ちゃんと責任取って、卒業後に結婚したじゃない」
「そういう問題じゃないんだよ!」