人界から遠く離れ、天にも達しようかという高山。真っ白な絨毯の如く空を覆う雲海よりもまだ高いその山は、真冬という時節も相まって、およそ一般の人間とは縁遠い場所となっていた。
山頂よりもやや下った辺りで鼻歌が響く。壮麗かつ厳粛な周りの風景には似つかわしくない軽快な鼻歌だ。
場違いなBGMの出どころは、山肌の一角をそのままくり貫いてきたかのような大岩の上で寝そべっている少女だった。赤茶色の長い髪から二本の立派な角を生やし、極寒の天空も物ともしないノースリーブと薄地のスカート。鼻歌はともかく、容貌は人間離れしていると言えた。
「んふふふふっ」
岩の上で横に寝転がって片肘で頭を支え、瓢箪を咥えて内容物をごくごくと飲んでいく。
頬が薄っすらと赤い。酔っている。酒を飲んでいるのだから、酔うのは当然だ。
彼女、伊吹萃香は上機嫌だった。彼女の友が目の当たりにしたら訝しむぐらい機嫌が良かった。
「ふふっ。四つ、もう四つだ。五大怪異もあと一つ」
幻想世界と現実世界を隔てる概念の結界。その補強のための、人間による怪異討伐の
「まあ本当は、『ぬりかべ』は怪異じゃなくて妖怪なんだが」
結界内の世界でスペルカードルールが導入されて幾らかの時が過ぎた。世界を壊さない程度に競い合うこの制度は今のところ想定通りに機能していた。
だがそういった
初めから直接人間を襲うのではなく、不可思議な現象を起こし続けて疑念を抱かせる。そうして満を持して討伐にやってきた人間と果たし合う。
鬼の萃香から見ても、妖怪譚として上出来な物語だった。85点ぐらいはつけてやってもいいと思った。ここまでくれば勝敗など些細な問題なのだ。
もっとも、今の萃香たちにとっては人間に勝ってもらわねば困るのだが。
体を霧と化せば、この地上のどこへでも行けるし見聞きできる。萃香の『密度を操る能力』の一端。彼女の友曰く「何でもできるインチキ」な能力だ。
ただ萃香からしたらインチキはお互い様だろうと言いたいところである。
これまで、暇潰しがてら萃香は霧状化して様々な物を見てきた。
昨今――――50年は彼女にとって昨今――――外の世界を騒がせているヒュージ自体に大した興味は無い。だがヒュージを相手にする人間側の、兵法の変遷には関心を持っている。
かつて、新潟の佐渡島に巣食ったヒュージを討伐した戦いがあった。その詳細が公表された直後、とある新聞社の電子記事に掲載された軍事ジャーナリストのコラムが物議を醸した。
『佐渡島に全く関係の無い中禅寺湖ネストの攻撃は戦線形成を全く無視した素人采配。民間組織と子供に戦略は立てられない。今すぐ軍に頭を下げて戦争のプロを招致するべき』
これに対して新聞社に心無いコメントが多数寄せられた。
『ケイブがあるのに戦線もクソもあるか』
『迂回突破されたマジノ線かな?』
『大西洋の壁かもしれん』
『戦争のプロは日本を取り戻せましたか…?』
『ジャーナリスト()』
大マスコミの権威を無視した誹謗中傷だ。
ただ応援する声も少数ながら見られた。
『コメント欄閉鎖しないの偉いですねぇ~』
コラムの是非はともかくとして、現役・退役の軍人だったらこの軍事ジャーナリストのような主張はしないだろう。彼らは従来の軍事常識がヒュージに通用しない事実を、その血を以って思い知った過去があるからだ。
では対ヒュージ戦略においてどのように防衛戦略を立てているのかというと、各地のマギインテンシティを計測して判断材料としていた。即ち、マギ濃度が上昇した地域のネストでは大型ヒュージが出撃したりケイブが形成される可能性が高いということである。
故に地理的に近くてもマギインテンシティが低ければ脅威度が低いし、逆に高ければ遠くても危険というわけだ。
すると必然的に、人間の取るべき戦略は戦線の押し合いではなく敵戦力への打撃になる。
萃香は以前、友と碁を打っている最中にこの話を振ったことがあった。
「何も目新しいことをしているわけではないわ。陸戦によくある陣取り合戦から、敵根拠地や機動戦力の撃破に変わっただけ。海戦での戦い方と同じでしょう」
「ああ、そう言えばそうか」
なお碁は萃香の完敗だった。
「随分と機嫌が良さそうね」
他に誰も居ないはずの山の上で、女性の声が聞こえた。
直後、萃香の目の前で空間に亀裂が入り、数十センチの隙間が開いた。隙間の向こうはおどろおどろしい紫色に塗り潰されている。
声に若干責めるニュアンスが含まれていると気付いたが、萃香は意に介さず口を開く。
「私の思った以上に働いてくれるからね。ちょっとばかりだが鍛えてやった甲斐があるってもんだ」
「あらそう。貴方自身ももう少し働いてもいいのだけど?」
既に酔いが回っている萃香は「ははは」と笑い、また一口瓢箪から酒を飲む。
「何だよー。お前さんだって、食うか寝るか冥界で亡霊と乳繰り合ってるばかりじゃないか」
「失礼な。結界の管理もしています」
「寝ながらできるだろ」
軽口の応酬はいつものこと。
無論、この友人が愚痴のためだけにわざわざ来るはずがないのは萃香にも分かっているのだが、顔を合わせてからいきなり本題に入るほどせっかちではなかった。
「ところで、件の儀式のことなのだけど」
「うん?」
ようやく本来の用件が出てきそうなので、寝転がっていた萃香はゆっくりと起き上がって岩の上で胡坐を組む。
「このままいくと、あと一体じゃあ足りないのよ。結界の補強には」
それを聞いた萃香は「やはり」とほくそ笑んだ。儀式の協力を二つ返事で引き受けた時から、こうなるんじゃないかと薄々感じていた。
そして萃香が予見できたのだから、この抜け目ない友人が考慮していないはずがない。
「そうかそうか、足りないかぁ」
萃香は胡坐を解いて立ち上がると、大岩の上から飛び降りた。華奢な体は二本の足で綺麗に着地する。
「儀式の怪異が足りないか。そいつは困ったなあ」
亀裂の向こうの友に背を向け、山道とも呼べないぐらい足場の悪いボコボコ地面を萃香が下り始めた。その口角が持ち上がっていたのは酔いのせいではないだろう。