そこまで昔のことではないのに、再びその山に足を踏み入れた一葉は懐かしさすら覚えていた。
車道も走る正規の登山ルートから外れ、獣道と呼ぶべき小道をヘルヴォルが進む。
冬の登山は危険である。ただそれでも雪景色や静謐を求めて冬に登る登山家は存在するし、今回は頂を目指すわけではないのでそこまでの難度ではない。あくまで登山そのものの難度に限った話だが。
大江山では昨晩降ったと思しき雪が斜面に雪化粧を施していた。朝方には既に止んでいたのだが、日が昇ってからも溶ける気配は見られない。くるぶしをすっぽり覆うほど積もった雪に多少の不便を感じながら、五人は秘封俱楽部からの情報を頼りに登り続ける。
葉が散った木々の茶色に、地面の白。そんな中を行くエレンスゲオーダーの紫は周囲の景色にとても映える。こそこそ隠れる必要は無いし、むしろ彼女に会うのが目的なので問題は無かったが。
「ヒュージ、出ないねー」
一本縦列の二番目を進む藍がそう言った。
前回訪れた時は少ないながらも遭遇したが、今回は今のところ目撃数すらゼロだ。
「あの鬼っ子が全部倒してくれたんじゃないの?」
「それは希望的観測が過ぎますね」
隊列先頭の恋花が前を向いたまま冗談めかして言うと、中央の一葉は否定的な意見を返した。
「あながち、間違ってないかもしれないわ」
「千香瑠様?」
「勿論、私たちのためではなく自分自身のために。私たちとの対立も含めて
「そういうものなのでしょうか、妖怪というのは」
「彼女たちが儀式や形式に拘るのは、それが意味を持つからよ」
後ろから千香瑠の戒めるような言を聞きつつ、五人はだんだんと目的の地に近付いていく。
獣道からも外れ、いよいよ道なき道へと移った。これが夏場だったら鬱蒼と生い茂る緑に大いに苦戦させられていただろう。今が冬なのは不幸中の幸いである。地域によっては雪国の如く降り積もる京都で大した量が降らなかったのもまた、幸いである。
「地図によると、そろそろです」
一葉は立ち止まって周囲に注意を促す。
結界の境目と言っても、一葉には何か特段の変化を感じ取れるようなことはなかった。
「千香瑠様、何か分かりますか?」
「いいえ。少なくとも妖怪や怪異の気配はまだ無いわ」
五人は縦列を解き、現在の地点で円陣を組む。はっきり言って戦い易い地形ではない。草葉が繁茂していない分、視界はまだマシではあるが。
「本当に、メリーと蓮子はこんな場所まで来たのかねぇ」
恋花が周囲に視線を走らせながらそう零した。
元々ヒュージの出現報告が少ない地域ではあるが、おいそれと一般人だけで立ち寄れる場所には見えない。
五人が四方へ向けてチャームを構えていると、辺りに薄っすらと白い霧が漂い始めた。
皆、チャームを握り直し気を引き締め直した。
どちらの霧か? などと問うのは愚問であろう。
十の瞳が見つめる中、山林の狭間に霧が集まっていき、小さな人型を成した。
「わざわざここまで来たってことは、腹を決めたのか」
袖の無い服。鎖で体と繋がれた三つの分銅。赤茶色の長髪に、生き生きと伸びた二本の角。
「貴方を止めに来たのです。萃香さん」
一葉がはっきりとそう宣言した。
すると霧の如くぼやけていた人型の輪郭もまた、はっきりとする。
「止める? どうやって?」
「必要とあらば、チャームを以って、実力を行使させて頂きます」
ブルトガングが、他の四機のチャームが萃香一人に向けられる。
勿論本音を言えば、ここで止まって欲しい。そんな淡い期待を薄っすら抱くも、一葉は内心の内に仕舞っておく。
一方で、萃香は五人を見渡した後に軽く笑む。
「フフフッ、それじゃあ試してみるといい。本気で鬼を止めるつもりがあるのなら」
萃香の右手が自身の腰に吊るした鎖に伸びた。
それを見た一葉はブルトガングのトリガーに指を添える。
ところが萃香は鎖を掴まず、右手を勢いよく左右に振り抜いた。その軌道に沿って、赤みを帯びた光弾が宙に浮かび上がる。
萃香の前方へ扇状に繰り出される無数の光弾。弾速は普通の銃弾などよりずっと遅いものの、視界一杯にびっしりと展開する弾幕は圧巻の光景だ。眩く輝く弾丸は、対峙する者に華やかさと威圧感を同時に植え付けていた。
「くっ、後退!」
光弾が形成された時点で一葉は退くよう指示していた。
萃香が作り出した弾幕は一見すると脅威に映るが、密度はそこまで高くない。扇状に展開するなら尚更だ。
故にヘルヴォルは後方へ飛び退いて弾幕の隙間で躱すことにした。
「まだまだぁ!」
しかし敵の後退は織り込み済みなのか、光弾が止んだ傍から萃香は投石を開始する。
初めは小さな小石を指で弾き、次に握り拳サイズのものを手首のスナップをだけで放る。それらは先程の光弾よりも速く、弾丸の如き苛烈さで襲い掛かる。
地面から拾う素振りは無い。掌で生成したかのように、矢継ぎ早に次弾が放たれていた。派手さは乏しいが、紛うこと無き弾幕だった。
石つぶての弾幕の中を、ヘルヴォルはチャームを盾にしつつ凌いでいく。時折、捌き切れなかった石に制服の上から打たれるが、致命傷は回避できていた。
徐々に散開気味となるヘルヴォルの陣形にあって、恋花は瑤の前方でブルンツヴィークを振るって弾幕をいなす。固まっていては、いい的だ。しかし今はこれで良い。
「皆さん、耐えてください!」
「耐えてばかりじゃジリ貧だぞ」
萃香の忠告通りだ。実際、彼女は無尽蔵と思えるほど次々に弾幕を繰り出している。
その萃香が不意に足元の地面へ右手を突き入れた。何か掴む仕草を見せた後、引き抜かれた右手には、彼女自身の体積を何倍も上回る大岩が乗せられていた。
右手一本で萃香の頭上に掲げられた大岩が今まさに投擲されようとしたその時、一葉は好機を見出した。
「今です!」
大技のため弾幕が途切れた隙に、瑤の前方を守っていた恋花が真横へ飛び退いた。
後ろの瑤はチャーム、クリューサーオールの砲口に白光を瞬かせ、射線が通った瞬間にトリガーを引き絞る。
巨大なマギの奔流、高出力砲が雪山の山林を翔けた。
その一撃は萃香の掲げた大岩を穿ち、貫通箇所からどろどろに溶かしていった。
「おおっと」
萃香は右手を振り上げたままバランスを僅かに崩す。
それを合図に、防戦一方だったヘルヴォルが反撃を開始した。
千香瑠のゲイボルグが実弾の掃射で牽制すると、一葉と藍、少し遅れて恋花が間合いを詰めるべく動く。
巨大な鉄塊を携えた藍が正面から。嫌が応にも目を引かれることだろう。
そして藍の右後方から一葉が追従し、左後方からは恋花が回り込むように駆ける。
一葉たちの攻勢を目にした萃香は動かない。その場で足を止めたまま。弾幕を放つことさえ中断していた。
そこにヘルヴォルの一番槍が放たれる。
「たぁぁぁぁぁぁっ!!!」
大上段に掲げられ天を指したモンドラゴンが重力と藍の膂力によって一直線に下降する。
金属同士がぶつかる不快な擦過音。
萃香の左手が、左手首にはめられた鉄の輪が藍の殴打を受け止めていた。
そんな萃香の左側方から、無防備に腕を上げた左脇腹を狙う一葉のブルトガングが迫る。
しかしながら、藍緑色のフレームと鉛色の刃で構成されるチャームの接近は飛んできた三角錐の分銅のせいで阻まれてしまう。
萃香は鎖にも分銅にも手を触れていない。だが妖力なり念動力なりで触れずに操ったとしても、何も不思議ではなかった。
似たようなことが萃香の右側方に回り込んでいた恋花の身にも起こる。立方体の分銅に誘導弾の如く追い立てられ、接近し切れないでいた。
「藍! 引いて!」
連携攻撃の失敗を悟った一葉が叫んだ。
しかしわざわざ後退するまでもなく、藍の体は萃香から引き離された。萃香の左手一本に押し返されたことで。
「がっかりだよ」
藍を吹き飛ばした萃香は期待外れと言わんばかりの言い草で、一歩一歩ゆっくりと歩き出す。
「これは決闘じゃない。儀式だ。人の世が幻想を乗り越え、こちらとそちらの境界を確固たるものにするための」
勿論一葉も分かっている。今までにも幾度か耳にしてきたのだから。そのために五大怪異と戦ってきたのだから。
「なのにお前たちときたら、未だに私を討つことを躊躇している。鬼相手に、慢心この上ない。慢心するのは妖怪の側だと昔から相場が決まってる」
ゆっくりと、しかし着実に近付いてくる萃香に対し、ゲイボルグから連続した発砲音が鳴り響く。
ひょいと体を横にずらした萃香の頬を実弾の火箭が掠めた。しかし子供然とした見た目の肌が鉛玉に引き裂かれることはなく、ほんの少し黒ずんだ汚れが付着しただけだった。
「巫女ならば十分理解しているはずだが。仲間の情が移ったか?」
「それはっ……。それだけじゃないけど、今は私も皆と同じ気持ちです」
少しだけ戸惑いながらも千香瑠がそう答えると、萃香はわざとらしく首を左右に振った。
「だがお前たちは鬼を見誤った。その代償は高くつくぞ」
それは脅しでも警告でもなく宣言だった。
宣言を聞き終わるや否や、瑤と恋花が再び動く。
高出力モードではないものの、それでも重いクリューサーオールの砲撃が棒立ち状態の的に命中する。
よろけて後ろへ数歩ほど後ずさった萃香へ、鋭角的なブルンツヴィークのブレイドが振るわれる。
ところが恋花の斬撃は目標を捉えることなく空を切ってしまう。萃香の全身が一瞬の内に霧散したのだ。文字通り霧と化すことで。
「なっ!? 全周警戒――――」
一葉が言い終わる前に、藍の体が宙を舞う。目の前で突如として実体化した萃香に放り投げられていた。
すぐさまチャームの砲口を向けた瑤に対しては、米粒状の小型光弾の群れが襲い掛かる。
見れば、萃香の右手首から先が再び霧状化していた。霧状化させた自身の肉体を無数の光弾に変じていたのだ。
剛性の高いクリューサーオールを盾にする瑤だが、その盾の上から間断ない被弾の衝撃に晒された上、盾を迂回してきた米粒弾を浴びてしまう。
更に萃香の左手首からも米粒弾幕が放たれた。こちらの狙いは恋花である。
恋花は小刻みに跳ねて軽やかなフットワークで回避を図る。
ところが萃香の弾幕は逃げる獲物を追い掛けるように飛び回り、驚く恋花を追い詰めて打ち据える。
あっという間に三人。三人が雪の上に伏していた。
「一葉ちゃん、援護を!」
「了解!」
千香瑠が射撃しつつ駆け出したので、それに呼応して一葉も発砲する。
二人の十字砲火は萃香の周囲に積もる雪と雪に隠された土の地面を激しく掘り返していく。精度は二の次だったが、距離がそう離れてないので少なくない命中弾を与えているはずだった。
千香瑠が接敵するより先に、相手が動く。萃香を包む弾着の煙の中から分銅付きの鎖が飛び出してくる。
避ける間もなく、一葉の構えるブルトガングの機体に鎖が幾重にも巻き付いてきた。
「燃えろ」
萃香の声が響いた直後、鎖が赤熱する。
「あぁぁぁぁぁぁっ!」
熱は鎖にからめ捕られたブルトガングを伝って一葉の身を焦がす。
視界が白黒に明滅し、絶叫して雪の上に転倒する中、それでもチャームを手放さなかったのはリリィとしての本能が為せる業か。
四人。これで四人が膝を突いた。
「はっ!」
そこへ、遂に肉薄した千香瑠がランスモードのゲイボルグを抱えて躍り出る。
鋭い穂先は小さな鬼の肩口目掛けて突貫するが、霧から実体化した小さな右手のこぶしに遮られて狙いを紙一重で逸らされた。
しかし次の瞬間、萃香の体は
黒のタイツに包まれた千香瑠のしなやかな右脚が地面から離れてピンと伸びていた。
まさか蹴り飛ばされるなどとは
「はぁ、はぁ……。巫女ってのはどこの世界でもおっかないなぁ。お陰で今朝方飲んできた酒が腹の中から戻ってきたぞ」
「朝からお酒を飲むなんて……!」
残心を解いて右脚を下ろした千香瑠はゲイボルグを両手で腰だめに構えている。
「だが、やっぱり駄目だ。今のお前たちじゃあ及ばない」
どこからともなく取り出した瓢箪の栓を開けると、萃香は眉を顰める千香瑠の見ている前で喉を鳴らしながら中身を飲んでいく。
そうして唐突に口の中に入れていたものを噴き出した。それは外気に触れた途端、火炎となって辺りの雪に降り掛かる。
忽ちの内に積もっていた雪が溶け、土色の地面が露わとなった。
「行くぞ」
一歩、萃香がまず右足を前に踏み出した。
続いて二歩、左足を踏み出した。
そして三歩。三歩目はその場で踏み出されることはなく、体ごと掻き消え霧となる。
「……そこっ!」
千香瑠が真後ろへ振り向きざまにチャームを薙ぐ。
ゲイボルグの刃が実体化した鬼の眼前を横切り、赤茶色の毛がハラリと落ちていく。
反撃に繰り出される萃香のこぶしを、千香瑠は真横にステップして躱そうとする。
余裕を以って回避できるはずだった。
ところが萃香の右腕が、右腕だけが瞬時に巨大化。人の背丈を優に超える鉄拳が千香瑠の左半身をチャームごと殴り飛ばした。
落下時に受け身を取った千香瑠が地の上を転がる最中、追撃を受ける。真っ赤に燃える紅蓮の如き光弾が連続で飛来し、炸裂して周囲に火の粉を撒き散らす。
黒煙が薄れた時、千香瑠は膝を突いていた。
これで五人。まともに立っていられる者は居なかった。
「ふーっ」
萃香は軽く息を吐き出すと、五人が伏している中を所在なさげに歩き出す。
そんな彼女の様子を、一葉は痛む体に鞭打ち顔を上げて何とか視界の中に収めていた。
「さてと」
ピタリと立ち止まる。
「前に言ったよな? 次に相まみえる時に甘い願望を捨て切れなかったら、大切なものを失うと」
萃香は倒れている五人を順々に見渡した。と言っても、本当に何か見定めているわけではないだろう。視線を動かしているのはポーズだけというのがありありと見て取れた。
やがて視線を動かすのも止めると、またもや全身を霧状化させる。
「フフフフフッ」
その場に意味深な笑い声を残す。
皆が警戒する中、山の木を背もたれに座り込んでいた恋花を霧が覆う。
「えっ、ちょっ」
「恋花様! 逃げて!」
「何ぃ!?」
霧が消え去った時、恋花も姿も消えていた。ついっさきまで言葉を発していたのに、痕跡を全く残さず居なくなった。
「恋花っ!」
「恋花さん……」
仲間がその名を呼んでも返事はなく、ただ虚空に虚しく響くばかり。
代わりに、同じく姿を消した萃香の声が返ってくる。
「相澤一葉。お前の信念も大したものだが、惚れた女一人守れない信念に果たしてどれだけの価値があるのかな?」
一葉は己を蝕むダメージも忘れてふらりと立ち上がる。
「まだやり合う気があるというなら、相手をしてやろう。無いなら無いで、別に構わない。仕方ないから結界の件はまたゆっくり考えるとしよう」
「恋花様……」
「ただ一つだけ言っておくが、妖怪ってのは人を喰うものなんだよ」
いつもより低い声色の鬼がどこまで本気かは分からないし、察しようと思う気も起こらない。
「ククッ、ハハハハハッ」
山林に轟く笑い声の木霊を最後に、鬼の気配も完全に途絶えるのだった。
「恋花様……」
一葉の呼び掛けに答える者は、やはり居ない。