京都市内。
一行は結界の向こう側から無事に帰還した。
協力者として同行してくれた秘封倶楽部を、ヘルヴォルが京の街まで送り届けているところであった。
「さて、今回で空からの結界越えを実証できたわけだけど。次は海からか。神戸にでも行ってみる?」
「蓮子、その前に鹿野苑に提出するレポート書かないと」
「分かってる分かってる。でも夢美先生やちゆり先輩が知ったら悔しがるでしょうねえ」
結界越え常連の不良サークルでも流石に天空の世界は新鮮だったのか、二人とも満ち足りた様子である。
彼女らは何かに直接襲われたわけではない。が、たとえ襲われていたとしても似たような反応をするであろう。この御時世に野外へ出歩きフィールドワークに勤しむには、そのぐらいでなければ務まらない。
「結界探索も程々にしてくださいね? 妖怪にもヒュージにもそれ以外にも、色々居ますから」
忘れず釘を刺しておく千香瑠。
ガーデンの後ろ盾があるとはいえ、彼女らの活動は京都周辺に止まらないようだ。
「今度東京に来たら、うちに寄ってよね。埋め合わせに案内ぐらいするからさ」
恋花はあっけらかんといった調子で見送る。
これまでの京都行でもそうだが、彼女のコミュ力と交友関係はどこに行っても重宝しそうである。
「ほら藍、挨拶しないと」
「バイバイ、またね」
瑤に促された藍は服の袖に包まれた右手を左右に振った。
するとそこへ、メリーが腰を屈めて目線を合わせてくる。
「ねえ藍ちゃん、もうちょっと京都で遊んでいかない?」
「えーっ? やだ。帰る」
「京都には美味しいお菓子がまだまだ沢山あるわよ」
「う~~~っ…………やだっ。帰る」
「あら、残念」
お誘いを断られて眉尻を下げるメリー。その傍らで肩をすくめる蓮子。
彼女たちとも、一応のお別れの時が近い。
「蓮子さんメリーさん、ありがとうございました。あなた方のご協力が無ければ、どうなっていたことか」
「私たちのこと含めて筋書き通りって気がしないでもないけど……。でも、どういたしまして。秘封倶楽部としても、また一つ結界の謎に迫れたから有意義だったわ」
真っ直ぐな感謝の言葉と共に頭を下げる一葉に対し、蓮子は若干視線を彷徨わせた後に応じた。
そうして秘封俱楽部は京の喧騒に向けて去っていく。後ろを振り返らず前へと進んでいく様は、また次の活動に向かってひた走るようであった。
暫く二人の背中を見送った後、ヘルヴォルも動き出す。
「それじゃあ、あたしたちも帰りますか!」
音頭を取ったのは恋花だ。
彼女がちゃんとこの場に居るからこそ、帰るという言葉の意味も
◇
ガーデンへの報告とそれに対する聴取を終えて、一葉がヘルヴォルの控室に到着したのは夜の帳がすっかり下りた頃だった。
聴取はメンバーそれぞれ別個に行なわれた。事の重要性を鑑みれば当然の処置だろう。一番長引いたのは、やはり隊長である一葉である。
その一葉が扉の前に立ってすぐ、控室に違和感を覚えた。入口のロックが開いており、中の灯りも灯ったままだったのだ。
本日はもう解散済みのはずなのだが。
「……先に帰ってもらって良かったのに」
リビングのソファに脚を組んで座っている恋花を見つけて声を掛ける。
すると恋花はソファの横まで歩いて来た一葉へ首だけ回して目を合わせてきた。
「どうだった? 教導官から絞られた?」
「別に絞られてはいませんよ」
「そっかー」
エレンスゲのリリィを攫った鬼を撃破して全員生還した。ガーデンからしたら十分な作戦結果と言えるだろう。
無論、恋花とてそんなことは分かっているはずなので、いつもの単なる軽口に違いない。
「これで結界が補強されて本当に怪異が出なくなるのなら、その分だけ桜ノ杜や鹿野苑のリソースが対ヒュージに回されるので、リリィ全体としても十分得る物があったと思います」
「うんうん、それはいいことだ。いいことなんだけどさあ……。ヘルヴォルからしたら、あたしが戻ってきただけだからプラマイゼロなんだよね」
「十分です。それに見返りを求めてのことではありませんし」
「う~ん……でもやっぱり、ちょっとぐらい報いがあってもバチは当たらなくない?」
奥歯に物が挟まったかのような微妙な言い回しに一葉は首を傾げた。
すると恋花が急に立ち上がってソファの隣に立つ一葉と同じ高さ――身長が幾分か低いので全く同じではないが――に並ぶ。
次の瞬間、ふにっとした柔らかい感触。
自身の頬っぺたから恋花の顔が離れていくところを目にして、一葉は何が起こったかのか把握した。
「助けてくれたお礼」
「れっ、恋花様!?」
「どう? 見返りがあって良かったでしょ~」
悪戯が成功した子供のように笑う恋花だが、視線は一葉からずらしているし、顔はほんのり紅潮していた。
「恋花様……」
「いや~、滅私奉公の精神ばかりじゃねえ。ご褒美ぐらいあった方がモチベも上がるじゃんか。ま、今回は特に頑張ってくれたということで」
「恋花様、お礼が頬に接吻というのは、些か子供だましではないでしょうか?」
「は?」
「頬以外に所望します!」
「何だこいつ、急に図々しいぞ!」
堂々たる一葉の要求に、恋花は口と目を丸く開けた。
「いやいやいや、えぇ……」
「恋花様!」
「なっ、何よ。一葉ってばそんなにあたしとチューしたいわけ?」
「はい!」
「おおぅ……」
恋花は視線をあちこちへずらして挙動不審を隠せないでいる。
頬以外のどこか、というのはお互いわざわざ明言しない。それは野暮というものだ。
「恋花様!」
「んっ、んんーーーっ、でもなあ……」
「恋花様……」
「分かった、分かったから! そんな構って欲しそうな犬みたいな顔で見つめんな!」
押しに押した結果、遂に折れた。
一旦一葉から少しだけ距離を取った後、恋花は軽く咳払いをする。
「じゃあ、目、閉じて」
「もう閉じてます」
「早いな!」
視覚からの外部情報が途絶え、聴覚と嗅覚頼りで一葉はその場に立つ。
そこへ触覚が加わった。右手首を軽く掴まれたようだ。
それからやや間が空く。
鼻腔から空気が流れる呼吸音のみが聞こえてくる。
やがて一葉の口にそっと触れるような感触がした。唇の先端が軽く押されて僅かに形が変わり、すぐまた元へと戻る。
だが期待していたものとは微妙に違った触感に、一葉は目蓋を上げた。
すると目の前では、恋花が右手の中指と親指を重ね合わせてキツネのシルエットを模っていた。
「んっふっふ~、残念でした~。あたしとチューしようだなんて、一年早いっ!」
キツネにつままれたような面持ちの一葉を見てニヤリと笑い、恋花がくるりと背中を向けてきた。
しかしその直後、一葉の手に肩を掴まれて無造作に振り向いた。
一葉はすかさず前へ進み出て屈み込む。
「もーっ、なに――――」
恋花の抗議は最後まで言葉にならず、一葉の口の中へと消えていった。
数秒の間、時が停止する。
その後、息継ぎのために水中から脱する溺者の如く両者の顔が離れた。
「ぷはっ! ちょ、ちょっとぉ……」
「恋花様が悪いんですよ? あんな風に焦らすから」
「別に、焦らしてなんてっ」
尻すぼみになる否定の言を遮る形で、一葉はもう一度口付けする。今度は両腕を背中に回してがっちりと抱き締めて。
「んふっ、んぅっ……」
密着してきた体を押し戻そうと恋花が両の手の平で力を加えてくるが、その内勢いを失ってただ一葉の胸に添えるだけとなる。
最初は白黒していた恋花の目もやがて目蓋を下ろし、また暫くして勢い良く開く。と同時に、とろけて一つにならんばかりの唇も「チュッ」と短く水音を鳴らしながら別たれた。
「んはぁ、はぁ、はっ…………はい、お終い! お終い!」
「……そう、ですね。もうそろそろ休まないと、明日に障りますね」
程度の差はあれ互いに息を荒げつつ、取り繕うかのように締め括る。
実際、明日は訓練や待機任務の予定こそ無いものの、座学の講義には出ることになっていた。
「はい解散解散!」
「分かりました。
「うん、じゃあまたね」
一葉は最後の最後に、もう一度だけ恋花に顔を寄せる。
「続きはまた、恋花様のお部屋ということで」
「~~~~~~っ!?!?!?」
百面相みたいになる恋花を見てくすりと笑む一葉。
今夜はよく眠れそうだった。
◇
長い長い石造りの階段がある。薄らと雪が積もったその階段は途方も無く上へ上へと伸びており、変化に乏しい周りの光景と相まって、空の上まで繋がっていると錯覚するほどだった。
だが実際には天まで届くよりも前に終点が設けられている。
銀髪ショートで緑衣の少女――魂魄妖夢は空中を飛んでその終点に辿り着いた。
石段部分の雪に足跡が見られないのは、そういう理由である。ここまで来る者たちは皆、妖夢みたいに飛んだり浮遊したりしてやって来るからだ。もっとも、花見のシーズンには風情を求めて地に足を着けることもあるが。
石段の頂上に達した妖夢の前に、立派な塀に囲まれた広大な和風建築のお屋敷がそびえ立っていた。
妖夢は躊躇うことなく門をくぐり、正面から屋敷の中へと入っていく。それもそのはず。ここは彼女が普段から暮らしている、彼女の主君のお屋敷なのだから。
玄関から長い廊下を経て、妖夢はある部屋の襖を開く。そこは中庭に面した居間だった。
「ただいま戻りました。昼餉の支度をしてきます」
時節柄ゆえに花を散らした大木を縁側の向こうに臨むその部屋に、妖夢の主は居た。
襦袢にも死装束にも見えるデザインで、しかし明るい色合いやフリルをあしらった奇妙なバランスの衣装。纏うのは妖夢よりも幾分か年上に見える少女だ。新雪のような肌に桜色のミディアムヘアがよく映えている。
ところがこの主、畳の上で膝を崩して座ったままうつらうつらと船を漕いでいた。
代わりに、彼女の膝を枕に寝そべっていた金色のロングヘアが妖夢の方に向き直る。
「あら、お帰りなさい。お使いご苦労様」
「
「悪いわねえ」
「まあ誤差の範囲ですから」
紫のドレスに身を包んだその客人は少女と称するにはやや大人びた風貌で、ともすれば見る者へ本能的な圧を感じさせるほどに整った容姿であった。もっとも今この時に限っては、膝枕という構図が台無しにしていたが。
「おーい、私にも酒をくれよぅ」
中庭の方からまた別の声がする。
風光明媚な庭石や庭木が絵画の如き光景を現出する中で、薄ら白い霧が不自然に漂っていた。
妖夢は霧に対して当たり前のように話し掛ける。
「その
「その辺の宙に向かってぶちまけてくれ」
「食べ物飲み物で遊んではいけません」
妖夢に
「随分と派手にやられたわねえ、萃香。霧状化がもう少し遅れていたら、本当に死んでたんじゃない?」
「死ぬ気でやらなきゃ儀式の意味が無いだろう」
結界補強の儀式の主導者たる八雲紫と実働者たる伊吹萃香。二人は友人同士である。
ちなみに紫と妖夢の主もまた友――といっても萃香との関係とは毛色が大分違うが――なので、妖夢は昔から紫にも礼儀を払っていた。
「えっ? 儀式って成功してたんですか? でもこうして贄となる妖怪が生き残ってふわふわしてますよ?」
「ふわふわしてるのはお前さんのご主人様だろ」
素朴な調子で素朴な疑問を口にする妖夢に向けて、萃香が突っ込みを入れた。
「重要なのは、人間が幻想を克服しようと抗いその意志を貫徹したということ。それにより幻想と現実を隔てる概念の結界は強固なものとなる。人間側の意識の問題であって、妖怪側の生死はあまり関係が無いのよ」
紫の解説を聞かされた妖夢は何となく分かったような分からないような曖昧な状態で「はぁ」と気の無い相槌を打つだけであった。
「……とは言え、萃香も暫くはこのままね。相手が、相性が悪過ぎた。鬼斬りの国宝なんて」
鬼ほどの妖怪になると、肉体をバラバラにされてもその内元通りに戻る。妖怪や神仏にとっての死とは、存在を否定されることなのだ。
もっとも、何か謂れのある特別な武器の場合はその限りではないが。
「そうだよなあ、酷いよなあ。お陰でこのザマだ」
「親しくなった相手に自分を討たせようとする方が余程酷いでしょ」
「いやあ、何かしら強い情を抱えていた方が儀式の効力が強まりそうじゃないか」
紫にチクリと指摘されても悪びれた態度を見せず庭に漂っている。
「まあ結界もこれであと五十年は持つはずよ」
「何だ、たったの五十年か。それまでにブリキの出来損ないどもが大人しくなってればいいが」
「心配は無用でしょう」
「未来視?」
「そんな真似はできませんわ」
益体も無いやり取り。彼女たちの間では平常運転の光景だ。
そんな中で萃香がふと会話を詰まらせる。
「にしても……いたたたっ。巫女にやられたところがまだ痛い」
霧の姿なので痛がっていても見た目からはいまいち伝わらない。ただ台詞と声色で判別するのみである。もしも元の体がそこにあったら、脇腹辺りを押さえている感じだろうか。
「どこの世界でも、巫女ってのはおっかないもんだなあ」
実感を伴ってしみじみと吐かれた萃香の言葉は、吹き抜ける風に乗って冬の寒空へと流されていくのであった。
神社生まれの千香瑠様 完
本作はヘルヴォルとエレンスゲの秘密についてはばっさりオミットして書き始めましたが、ラスバレの方は凄いことになってますね…
ともあれ無事に連載完結ということで、次回長編は神庭のお話になります。
ただその前に短編を上げる予定。
創作意欲を刺激してくるイルマが悪いんだ! 私は悪くねえ!