昼間は人々の生活音が聞こえてくる住宅街も、日が暮れて暗闇にどっぷりと浸かってからは静まり返っている。
道路の脇、民家の板塀付近に生えている街灯だけが周りの光景を照らしていた。
街灯はぽつりぽつりと距離を置いて点在しており、もたらす灯りの範囲も狭い。だがそれでも、夜闇においては心強い光となる。
そんな限られた灯りの下に一匹の犬が居た。野良犬だろうか。こちらにお尻を向けながら、頭をこすり付けるかのように電柱の根本にくっ付けている。
ふと、気になった。犬が何をしているのか。
万全ではない視界の状態で、目を凝らしてジッと見つめてみる。
犬種は?
本当に野良犬か?
電柱の下に何かあるのか?
疑問が幾つも湧き上がってくる中、突然に声がした。
「何見てんだよ」
低い男の声。
驚いて辺りを見回すが、人の影も形も見当たらない。先程までと同じく、民家の塀と道路のアスファルトが続くばかり。
「こっちだ、こっち」
再び声がするものの、やはり影も形も見つけられない。他に人など居ないはず。
その時、ある一つの馬鹿げた考えを思い付いた。本当に馬鹿げた内容で、こんな状況でなければ思いも寄らなかっただろう。
その考えとは、今も電柱の下に留まっている犬が声の主だということ。根拠も証拠も何も無いが、他には考えつかなかった。
一度思い付くと、不思議なことに段々と真実味を帯びているように感じてくる。
だが中々勇気が湧いてこない。犬に近付いて確かめるための足が踏み出せない。座敷犬の如く小さな獣の後ろ姿に気圧されていたのだ。
「だから、こっちだよ」
まごついている内に、犬が動いた。電柱の根元を見下ろしていた首を持ち上げて、ゆっくりと後ろの方へと回す。
まるで金縛りにあったかのように全身が動かない。なので犬から目を逸らせない。
夜の暗闇でも視界が利くのだろう。街灯の光を浴びてないこちらのことを、ソレは正確に見据えているようだった。
振り向いたソレの顔とは――――――
◇
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!」
恋花の話が全て終わる前に、鼓膜を震わす絶叫が轟き渡った。
ここが防音機能のしっかりしたレギオン控室のリビングで幸いである。
「もーーーっ! 止めてって言ってるのにぃ! 恋花のばか! おたんこナスビ!」
「ありがとナスビ~。って言っても、噂の検証だから仕方ないっしょ」
藍が瑤の膝の上に泣き付きながら、怪談の語り手へ悪態を吐く。
吐かれた方は意に介さず平然としているが、事実、巷に流れる噂は怪異の確認のために知る必要があるので、彼女は何も悪くなかった。悪くはないが、ちょっとした悪意はあったかもしれない。
「ですが、これは少し問題ですね」
すると、一連のやり取りを見ていた一葉が真面目な顔をして口を挟む。
「こうも怪談を怖がっていては、実際に怪異に遭遇した際に対応できるか不安です。『皿屋敷』の時は私も人のことを言えませんでしたが」
一葉の危惧はもっともだった。
ヒュージの動きが低調となり、ガーデンから対怪異の活動を認められた今、ヘルヴォルは積極的にこの手の事件に挑むつもりである。にも拘らず、レギオン最大火力の藍がこの有様なのだ。
「怪異に普通のチャームの攻撃が通用するとは限らないけれど。藍ちゃんはいつもの藍ちゃんの方が心強いわね」
千香瑠がそう言うと、すかさず恋花が反応する。
「あ、やっぱり物理じゃどうにもならない奴も居るんだ。皿屋敷の時も、チャームは使ってなかったもんね」
「そこは怪談ごとに変わってくるわ。でも大体の場合、ただの力押しでは解決しないと思ってちょうだい」
「……あれ? 首根っこ掴んで塩を突っ込むのは力押しなんじゃ……」
ふと思い出したかのように恋花は突っ込みを入れる。
ところが、聞こえているのかいないのか、それとも聞こえなかったことにしたのか、千香瑠は藍の方に向き直る。
「藍ちゃん。藍ちゃんはお化け退治、平気? 夜にお外へ出れる?」
「う~~~、分かんない……」
「そう。そうよね。その時になってみないと分からないわよね」
千香瑠に優しく共感を示されて、藍は少しだけ機嫌を直した。
けれどもそれだけでは問題の解決にはならない。
「大丈夫。いざとなったら私のレアスキルがあるから」
「あ~、瑤のレアスキルかぁ。確かに精神を安定させる効果があるけど。こういうホラー系にも効くのかな?」
藍に抱き付かれてどことなく上機嫌な瑤が自信を見せた。
するとそれまで熟考していたであろう一葉がおもむろに口を開く。
「ともかく、予定通り明日の夕刻から『人面犬』の調査を始めましょう。藍の件は不安要素ではありますが……。元より何が起きるか分からない任務です。案ずるばかりでは切りが無い」
「オッケー、それじゃあ全員参加ってわけね」
色々と茶化していた恋花だが、藍の参加はあっさりと当たり前の如く承諾した。
それでもやはり、藍の気が完全に晴れることはなかった。怖いものは怖いのだから。
◇
次の日。青空が赤く焼け始める少し前に、ヘルヴォルは調査場所に集まっていた。
エレンスゲの本拠地である六本木の南方、南麻布が今回の都市伝説の舞台である。
現在、南麻布は閑静な住宅街となっていた。また記念公園を始めとした緑地も多く、都会の中のちょっとした憩いの空間と呼べるだろう。
「これまでの情報によると、『人面犬』が目撃された時間帯は19:00から24:00に掛けて。いずれも暗がりで、遠方だったため、詳細な姿は不明です。ただ四足歩行で形容し難い奇声を発していた点は共通していますね」
一葉は手に持つスマートフォンに表示された情報をメンバー四人に伝える。
今はまだ目撃時間には早いものの、あらかじめ現場を確認しておくのは悪いことではない。
「街中に堂々と出てきてる割に、証言がどれもおぼろげじゃない?」
「遭遇した途端に逃げられたり、目撃者の方が逃げ出したりしているので。近くまで寄って見た方は居ないようです」
「あちゃー、それは長丁場になりそうだ。夜更かしはお肌の大敵なんだけどなー」
「そうですね。では恋花様の綺麗な肌のためにも頑張って迅速に解決しましょう」
「そうそう、頑張ろう」
恋花の軽口をいなして一葉が話を締めた。
リリィたるもの、夜間出撃にも当然備えなければならない。
ただ翌日の講義等に関しては、代替措置を取るなり免除するなり、ガーデンが当該リリィに対して配慮していた。
「二手に分かれて巡回しましょう。私と藍、瑤様は麻布通りを南下後に西進。恋花様と千香瑠様はここから北西に進んだ後に南下。記念公園にて合流しましょう」
事前に決めてきたであろう巡回ルートと組み分けを一葉が発表する。
藍はてっきり五人でわいわい言いながら探索するのだと思っていた。そのため急な話に不安が募る。
「皆、一緒じゃないの? らんは一緒がいい」
「大丈夫よ、藍ちゃん。悪さをするお化けが出たら、私がお仕置きしておくからね」
「千香瑠が言うとマジで洒落にならないんだよなあ……」
恋花はそう呟いた後、千香瑠と共に北西に向かって歩き去った。
続いて一葉が南に歩を進めたので、藍は瑤に軽く促されながら、渋々といった調子で進み始めるのであった。
一葉が先頭で、瑤が最後尾で、中央に藍を配置した進軍隊形。
これが戦闘時なら、ヘルヴォルで最も打撃力が高い藍を中心に据えた手堅いフォーメーションと言えるだろう。
しかし今この時に限っては、藍を安心させるためという理由が大きいのかもしれない。
そんな隊形で、片側三車線の大通りを横目に歩道を歩く。
空が段々と薄暗くなってきた。時折、車道を行き交う車の眩いヘッドライトが視界に突き刺さってくる。
特に異常も無く、時間が刻々と過ぎていった。だが藍にとっては妙に長く感じられる道程だった。
「ねえ、瑤」
「うん」
「よーうー」
「うん、ちゃんと後ろに居るから」
「うーーーっ」
不安から、後方の瑤に特に意味も無いのに話し掛ける藍。その間にも周囲の警戒だけは怠らないのは、彼女のリリィとしての資質だろうか。
「人通りが減ってきましたね。噂の影響でしょうか」
一葉が前方を向いたままそう言った。
夜とは言え、閑静な住宅区とは言え、ここは首都東京なのだ。あまりに寂しい光景である。
「せっかくヒュージが大人しくなってきたのに、これじゃあ意味が無い」
「瑤様……。そうです、その通りです! 私たちリリィの使命は人々の生命と暮らしを守ること。このような状況は見過ごせません!」
瑤の言葉に一葉は熱くなる。
しかしその一方で、藍だけは置いていかれたような心境だった。
お化けは怖い。
恋花の語りの上手さもあるが、それ以前から藍にとってお化けは怖いものだった。
ヒュージはいい。叩いてやっつけられるから。
だが叩いてもやっつけられない、よく分からないモノは怖い。
藍が気の沈んだまま歩いている内に、周りの風景も毛色が変わりつつあった。民家の立ち並ぶ光景から一転、前方に豊かな緑が見えてくる。合流地点に指定した記念公園だった。
「今日は空振りでしょうか」
「まだ初日だし。仕方ないよ」
「はい。最後に公園内を捜索しましょう」
二人の会話を耳にして、藍はホッとした。実際は明日以降に問題が先送りになっただけなのだが、それでも安堵したのだ。
ところが記念公園の入り口に到着したところで、藍の安堵は無に帰すこととなる。
突如として軽快な掃射音が夜の公園内に響き渡ったのだ。
「ゲイボルグの銃声!」
「瑤様! 藍! 行きますよ!」
いつもなら真っ先に駆け出すはずが、藍の足取りは重い。
しかしこの先で待っている千香瑠と、ついでに恋花のために、藍は遅れて地面のアスファルトを蹴った。
◇
「これが…………人面犬?」
木々の生い茂る公園の中で、一葉たちはソレに遭遇した。
一葉が構えるブルトガング、その砲口下部に取り付けられたライトが前方を照らす。
そこに居たのは確かに四つ足ではあるが、犬より巨大な牛ぐらいのシルエット、鈍色の金属質な体躯、槍の如き鋭く角ばった四肢。そして顔の部分には目玉の代わりに菱形の青い光点が一つ。
「そいつ! 見たまんま、ヒュージよヒュージ!」
ソレの更に向こう側から、恋花が叫びながら走ってくる。シューティングモードのゲイボルグを構えた千香瑠の姿もある。
「つまり、噂の正体はヒュージだったと……?」
疑念と安堵が入り混じったような声を上げる一葉。
そんな一葉の反応をよそに、藍は駆け出した。目の前のヒュージに向かって一直線に。
「ヒュージ? ヒュージだったの? お化けはヒュージだったの?」
瞳を爛々と輝かせながら、口元には嬉々とした笑みを浮かべ。藍は両手に抱えたチャームを振り上げる。
藍のチャーム、モンドラゴン。それは斧と呼ぶよりも、鈍器と呼ぶよりも、一振りの巨大な鉄塊という表現がしっくりとくる。使用者の小ささも相まって、より一層規格外染みて見えた。
「たぁーーーっ!」
跳躍と共に振り下ろされたモンドラゴンは、横に逃げたヒュージの左前脚を捉えた。
直撃こそ免れたものの、鉄塊に押し潰された脚は青い体液を撒き散らしながら、飴細工の如くひしゃげてぺしゃんこになるのだった。
勢い余って地面に突き刺さったモンドラゴンを軽々と引き抜いて、藍は口角を持ち上げる。
「やっぱり! 叩いて潰せる! ヒュージみたいに! あはははははっ!」
恐怖の対象だったものが打ち倒せると分かり、心底から嬉しくて楽しくて笑う。
四肢の内、一本を失ったヒュージ――――スモール級ファング種アッシャー型は菱形の一つ目を光らせて熱線を放つ。
藍が咄嗟にチャームを前にかざすと、盾となったモンドラゴンは至近距離で放たれた熱線を受け止める。
そうして更に一歩、藍は前へと踏み込む。
ヒュージは残る三本の脚を屈めて跳躍の体勢に入る。
そのヒュージの頭上を抑えるように銃弾が飛んできた。恋花の牽制射撃だ。跳躍は実行に移せない。
「このーーーっ!」
直後、横薙ぎに振るわれたモンドラゴンが敵の頭と胴体を打ち据える。
ボールみたいに跳ね飛んだヒュージは土の上を派手に転がった後、小爆発と共に砕け散った。
「藍!」
一葉が周囲に気を配りながらも藍の元に駆け寄って来る。
その時、藍はすっかりいつも通りの藍だった。
「ふふふっ、あははははっ。らんがお化けやっつけたよ! ドーーーンって! あはははは!」
「いや、だからアレはお化けじゃなくてヒュージだって……」
「いいじゃん、この際どっちでも。藍が本調子に戻ったことだし」
「はあ……」
一葉が訂正しようとするものの、遅れてやって来た恋花は一葉の方を制止する。
実際、白い制服に青い返り血を浴びて高らかに笑う藍にとっては些細な違いであった。
その後、戦いの余韻から仁王立ちしたままの藍の元へ四人が集まってくる。
「群れからはぐれたヒュージを暗がりで見間違えた。噂には尾びれ背びれが付き物ですが……。しかし、本当にこれで解決したのでしょうか?」
「一葉ちゃん、そのことなんだけど。ちょっと寄り道してもいいかしら」
◇
夜の街角。電信柱の傍に、都会ではすっかり珍しくなった円形の青いゴミ箱が置かれている。
辺りは静寂、周りに人の影も無い。
にもかかわらず、突然の物音。
出どころはゴミ箱だ。ガタガタとひとりでに揺れて、道路のアスファルトを叩いている。
音自体は決して大きくないが、周囲の静寂のせいで際立っていた。
そうこうしている内に、ゴミ箱の蓋が勢いよく外れて落ちた。
「ぷはーっ」
中から出てきたモノは犬……ではなく、人……でもない。
大きな口と大きくて細い目。頭からはCの字の突起物を生やし、丸っこい顔と胴体の二頭身。全身モフモフの綿毛に包まれたその生き物をカテゴライズするのは困難だろう。
ただ確かなのは、子犬程度のサイズであり、当たり前の如く人語を操っていることだった。
「鎌倉ではおっかない巫女さんたちに散々追い回されたけど、ここまで来ればもう大丈夫!」
ゴミ箱からのそのそと這い出たソレは着地に失敗し、硬いアスファルトの上にべちゃっと落ちた。
しかしぶつけた顔が赤く腫れながらも、ソレは気にした風もなく二本の足で立ち上がる。
「それにしても、フフッ。この街は人が多くて脅かし甲斐があるなあ。ここで一杯怖がらせて、ゆくゆくは僕も鵺のような大妖怪に……。ウフフフフ」
ソレは真っ黒な虚空を見上げて夢想する。周りに人影が見当たらないせいか、声を上げて笑う。
「ウフフフフフ」
「うふふふふふ」
「フフフフフフ」
「ふふふふふふ」
「フフフッ……?」
違和感を覚えた直後、ソレは地面を蹴って飛び跳ねた。
ところが首根っこを掴まれて宙ぶらりんになってしまう。
ソレを捕まえたのは、白のジャケットを纏ったポニーテールの少女だった。気が付けば背後に立っていた。お淑やかな微笑を湛えているが、ソレを掴んだ左手は固く、決して緩みそうにない。
「ヒュージの騒動を隠れ蓑に街の人たちを脅かしていたのは貴方ね?」
「…………」
「人に悪さをする怪異は――――」
「僕チャーミー! チャームの妖精チャーミーだよ!」
唐突に自己紹介する自称チャームの妖精。
しかし少女はそれには答えず、制服のポケットから円形のケースを取り出した。
「怪異『人面犬』は、このポマード油で退治します」
「それは口裂け女……むぐっ!?」
ケースごと人面犬の口の中へ放り込まれた。
吐き出す暇も無く、今度はチューブタイプのポマードを少女の手で突き入れられる。
「油つめつめ、油つめつめ……」
別に人面犬はポマードが苦手なわけではない。苦手ではないが、無理矢理に口へ詰め込まれては堪らない。
黄色かった顔が次第に青くなり、やがて全身から光の粒子が湧き起こる。
「う゛っ、う゛もっ……」
夜の街を脅かしていた人面犬はとうとう光となって消え去った。これで人々の安眠も守られるだろう。
リリィとして、巫女として、やるべきことはそう変わるものではなかった。
千香瑠はその場をあとにする前に、無手となった自身の左手を見つめる。
「人を脅かして大妖怪に……? どういうことかしら……」