噂に聞く櫻はどうやら離島には植生していないらしく、あったのは紅葉という真っ赤に色づいた手形のような葉を蓄えた木だけだった。
璃月港でも散見した楓と似ているけれど、楓ほどの漲る生命力と厚みのある葉ではなく、海風が吹けば崩れそうなくらいには繊細な葉脈で、まるで鉱石職人が熱心に製作したような薄さときめ細やかさがあった。
けれど頭上で悠然と泳ぎ続けている雷龍は呼吸を絶やすことなく、黒雲たる瞼の隙間から覗く眼球たる細い金を蔓延らせ、吐息のように豪雷を落としては轟きという哄笑を聞かせてくる。海の影響を受けた堆積物で出来た地面は柔らかく、年中このような雷雲に押されていたらいつか島ごと沈んでしまうのではないかと疑わせるほど不安定な印象を受けた。
古びた森の匂い、とでもいえば良いのだろうか。紅葉の木のそうしたどこか厭世的な枯れた香りと、それに似合う寂れた港の佇まいが、その想像を掻き立てたに違いない。
「いや、本当にほんとうにありがとう、君たちとトーマさんの助けがなかったら破産しているところでしたよ……」
苦労のしみつく声を出しながら涙ぐんだ相手にふと視線を樹木から戻す。それと同じく、視線と共にまた紅葉が散り、横目で追ってしまう。妙に印象深い葉だった。
万国商会の取締役、久利須は何度も頭を下げ、それを宥めるように異国と稲妻の風土が混ざる男がスーツの上から肩をさする。
「そう畏まらないでよ久利須さん。ここではお互い様だろ」
「そうは言っても、どう礼を尽くせばいいか」
「そんなに謝るなよー、オイラも旅人もこんぐらいの頼みごと朝飯前だし。な?」
頷く。『礼を尽くす』という言葉に代表されるように、上陸からはや数時間で稲妻人や稲妻の土地に馴染んだ人間たちの一風変わった為人が分かってきていた。
「助かったのなら何よりです。旅人とはいえ、手助けできることは限られますから」
「とんでもない……ああそうだ、いま事務所に頂き物の鉄砲フグの干物があって……口に合うかはわかりませんが」
「あ! それ璃月港の出店で食べたことあるぞ! 身の上品な味が塩で引き立って……超美味しいんだよなー!」
「よかった、持ってくるから少し待っていてください」
礼儀だ。ここに馴染むためにはおそらく、それが何より必要なのだろう。
自由の国では深入りしない賢さが、契約の国では約束を守る義理堅さがそれぞれ肝要だった。そして、大陸から見れば刹那的と言えるほど小さな島群で成り立つ永遠の国では礼儀が必要であり、そうして人が関係を保つことで、豊かとは言えない資源を喜んで分け合って円満に暮らしてゆけるのだ。
海洋国家というのは特に民族性が強かったり、血縁関係を大切にしたりする場合が多かったが、ここもそれには漏れないらしい。
止める間もなく引き戸の奥に入っていってしまうのを所在ない心地で見送ってから、背の高い金髪の男の顔色を伺う。
「俺、貰っていいのかな」
「えーっ! 何でそんな遠慮するんだよ!」
「でも結局トーマに助けてもらったし」
「ははっ、ここまで事態を好転させてくれたのは君たちのおかげだ。礼を受けるべきはオレじゃないよ」
そう返しながら大袈裟に背伸びをし、にっこり笑う。
「オレなんて、今回は自分の力というよりお嬢様の力だからね」
「そういえばおまえ、さっき何見せて」
「おやおや、そこなるは離島のお節介焼きではありませんか」
皮肉げな物言いをきっかけに、一気に、満ち満ちていた枯葉の風薫を濃厚な香の匂いが掻き消した。振り返る。港風が吹く。紫水晶の稜のような、そこはかとない薄紫から毛先に向けてゆるやかに色の深みが増す奇妙な髪を靡かせる女性が、あたかも初めからそこに植え付けられたかのように悠然と立っていた。
杖のように手に持った、骨組みの多い傘の柄をくるりと回し、集まる視線にふと愛想よく微笑む。
「何をしているの? その様子だとまたか細い縁繋ぎに回りくどく奔走していたようだけど」
「やあ
「やあだ、嫌味い」
きゃきゃと揶揄われた町娘が上げるような声で笑う。一方のトーマは、炭鉱夫が鍾乳石を打ち音が響き返るように言葉を返したようだったが、僅かに間があったのを見逃せなかった。それはパイモンも同じだったようで、きょとんと首を傾げてくる。
「おや、そちらの
どことなく、色気のある目つき。
「こちらは異邦人の空と連れのパイモン。先刻前に到着したばかりなんです」
「おや、それはめでたい!」
おおっぴらに手を打つなりこちらに近寄り、斜めに会釈をする。いちいち揺れる、上着の裾についた細かな装飾や、服装自体の花美さも相まってなんだか芝居がかった動きをする女性だと思った。しかし、崖途中で天に従い垂れる琉璃袋を思わせる秘かな絶佳を匂わす顔立ちながらも、まだ年若いあどけなさがあった。
「はじめまして、御二方。わたしは
「見浦屋? 食べ物屋か?」
「ある意味では……そうですね。いらっしゃればお茶くらいはご馳走できます」
「わあ、ここ出られたら行こうぜ旅人!」
少し引っかかりを覚えながらも頷く。パイモンはいつもの通りそう言うが、稲妻は何事にもモンドや璃月とまた毛色の違う名前が多い。本当にご飯屋なのだろうか。無憂の切長の目がこちらを見る。柔らかい物腰ながらも女のやり手経営者といった様子に、璃月七星の面々の顔つきを思い出す。けれどあちらと違い、裏表のなさそうな人だった。
「それで、御兄いさま方はどうしてこんな国に? 大変だったでしょ」
「雷電将軍に会いに」
瞬きの回数が数秒増え、すぐに戻る。
「それは……この背の高いだけの朴念仁なんかよりわたしの方が役に立てるお話ですね」
「よくわからないけど悪口なのはわかるな……」
小声で付け加えるのに同意する。どうやら仲が良くないらしい。あのトーマにも関係の御せない相手がいるのかと驚きもあるが。ちらりと見ると涼しげな顔。
「それはそうですね。オレもコネはあるけど、無憂さんには敵わない」
「え、でも無憂はただの経営者だろ? おまえは離島の顔役で、おまえのが凄そうだけどな」
「いやいや、無憂さんは百足草鞋の人だからね。見浦屋経営もやりつつ、稲妻の三火消の頭取もやりつつ、あとはちょっとした相談屋なんかもやってる」
「三火消?」
聞き慣れない単語を聞き返すと、つまらなそうに髪を指に巻きつけていた女性が途端に喜色満面になって口を開く。
「火事を諫めるお仕事です。火を消すだけでなく、この国は木造建築が主なので、一旦火事が起こると燃え広がらないように隣家も壊してしまうのが珍しいところ」
心臓が跳ねた。パイモンと顔を見合わせ、る前に大声が隣で放たれる。
「えーっ!? そんなの壊され損じゃないか!?」
「ごもっとも!」
ぱんと傘を豪快に開き、何の銘柄か知らぬ大輪の花が咲いた。
「けれど、こんな言葉が稲妻にはあるの」
それを踊りの振りに沿う派手な仕草で肩にかけ、崩れかけの紅葉を貼り付けたように酷く歪に破顔する。
「『火事と喧嘩は』」
背筋が、つんと伸びる。
「『稲妻の花』!」
張りのある声が響き、拍手を仕掛けた通行人を見かけすらした。
「……なんてね」
琉璃亭で一月の講演枠を勝ち取れる一流講談師のように緩急をつけた末のその一言には、凄まじい気迫があった。無憂には火消という職への拘りや誇り、執着に程近い愛着があるのだと一聞きでわかり、唾を飲む。無憂は打って変わって表情を崩して嘆息をつく。
「だけど、仕方ないことでもある。国土がちいっちゃいから家は狭苦しく並べなければ入らないし、稲妻人は礼儀正しいけれど代わりにやたらと短気だしで」
「なるほど……」
「でも、稲妻の人はそれが嫌いではないのよね」
渦巻く空を見上げる顎の先が白々としている。
「……ある意味、それも将軍の思う永遠の一部なのかもしれない」
すっと視線を戻し、小さな薇人形のように右足を下げてちょこんとお辞儀をする。やっと現実に立ち戻った感覚がして、目を擦った。
「では、世間話はこの辺で消火しましょう。また会いましょうね空さん、パイモンさん。何か困ったことがあったらおいで」
「もう行っちゃうのか?」
「ここへは仕事で来たの、ごめんなさい。先方を待たせちゃうと悪いから」
残念そうに柳眉を下げ、差す傘の如く骨のうっすら浮き出た細い背を向けて、また横顔を傾ける。今度は山風の如く冷たく乾いた無表情だった。
「ああ……そうだトーマ、
風神が吐息で花を散らすようにひゅんと一枚の紙切れが差し出され、トーマが受け取り、面を見て苦笑いを溢した。
「ありがとうございます、でもちょっとくらいまけてくれても」
「綾人様からは『トーマには遠慮しなくて大丈夫です』と」
「弱ったなあ……明日にでも払いに」
「あなたが来る必要はないと言わなきゃわからない?」
静電気が寄り集まって、放電寸前までに膨らんだのを肌で感じる。ふよふよ気ままに浮いていた生き物もぴたりと静止した。
「あなたはいつもそう。人を守ると言って、厄介ごとに首を突っ込んでは傷ついて、弱さを晒して、恥をかく」
「本当……どうしてそう、厳しいんだか」
それ以上の言葉が見つからない様子で頭をかくトーマの弱り切った態度を更に突くように語気を氷柱の如く鋭める。
「あなたも稲妻と同じ、懲りずに燃え続けるの。本当に愉快な男ね」
「あなたにとっては、炎が絶えず靡いている方が良いでしょうに」
「もちろん!」
かんと石畳を踵で打ち鳴らし、それを咎めるかのように地面をじっと重苦しく睥睨した。
「でも間違えないで。わたしが好きなのは盛った火をしんと消すことだけ」
グラスをカウンター上で滑らせるようにそれがトーマに向く。
「消したくなったら教えなさい。その時はタダでとびきりの冷や水を浴びせて、静かにさせてあげる」
踵を返す際に、右足首の宝石が深潭の底で光った。目を見張る。神の目──水神の視線の証だった。
「……あーなんだ、なんか、むちゃくちゃ険悪なんだなおまえら……」
思い出したようにまた紅葉がはらはらと散り始めるのにやっと肩の力を抜きながらこちらも渦中の人物を見やると、やはり曖昧に笑った。
「まあね。見ての通り、オレもあの無憂さんはあんまり得意じゃない」
「何であんなに目の敵にされてるんだ? 無憂も悪人って感じではなさそうだったけど」
「さあ……オレが知りたいくらいだよ」
彼女が登っていった異人街への坂を目を細めて見上げるのに、雨で湿気って如何ともし難くなった火薬をひしと抱える半泣きの少年兵を思い起こした。彼はきっと火薬詰めを役目として担っていたのだろうし、今更それを手放すには心細かったのだろうとその時は思った。今のトーマも似たように見えた。もうどうしようもできなくなった不可逆的問題を抱えて、解決策も思いつかないくせにそれでも捨てきれずにいるような、らしくない不器用さが新緑の瞳にちらついていた。
「やあお待たせしました……皆さん、どうかされましたか?」
「おおっ干物だあっ」
「途端に元気になるなあ」
「腹減ってるんだよー」
しょげて干物を抱える相棒をいなしながらまた案内人を密かに見上げる。雷にとうに撃たれた人間の、こわばった目端が引きつく。
「……トーマ、大丈夫?」
そう声をかけるとはっとしたように表情が和らぎ、軽く笑った。
「いつものことさ」
それ以上は何も言わず、庭先の七輪に干物を並べるなり焼いてくれとせがまれたので、そちらへと足を運んだ。自分は動けずにいた。あの時、次に頑張ればよいと棒立ちになる彼を励ました。けれど彼は。
「おーい旅人、もう焼いちゃうぞー!」
「うん、行くよー!」
雨が降らなきゃ褒賞物だったんだと叫んだ少年兵の泣き顔が、骨の浮く紅葉舞う頭の中を、過った。