櫻の香りは想像していたよりも軽く、それでいて身体の隅々までに澄み渡る確かさを持ちながら、甘く、嫋やかだった。そして理解した。このようにふたとない国華を離島に植えない、狡い訳を。
夕暮れに染まる花見坂も終わり頃、左手に熱気と共に見えてくる秋沙銭湯とぱったり閑古鳥の鳴いている手芸品店との間、川岸まで階段を降りていくとメモの記載のままに裏手通りが川を挟んで宇を連ねているのが見えた。頭の横で歓声を上げる者が小さな手をぱちぱち叩く。
「わーっ、舟の灯りと店の灯りがキレイだな!」
文句なしに頷く。枝垂れた櫻の花弁が水面に広がり、その水面を滑り行きぽっと染めていく舟行燈の淡い炎、それに呼応するように吹く東風。茜と呼ぶらしい夕焼けに照らされる瓦屋根は満遍なく橙を反射し、その下で活気付き始めた裏通りを行き交う人々は暖簾を下ろし店先行燈に火を灯し掃き掃除をしてと忙しなく、商売前の開店準備に奔走しているのが見て取れた。
しかし同時に、気後れする心が浮き上がってくる。手の中の、ご令閨神里綾華の達筆な字で書かれた道案内を再度頼るように見直す。
「おい旅人、どうしたんだよ? 早く行こうぜ、オイラたちが一番だ!」
「あのさ、パイモン。やっぱりここはあなたが思うようなお店は並んでないと思うんだ」
「えぇー? でも、酒屋は夕方からこうやって開店準備するだろ? それに無憂もお茶出すって約束してたしさ」
「それはそうだけど」
用事もある、行かないわけにはいかないが。パイモンの不満混じりな顔からまた通りに視線を戻すと、あちらこちらの店から耳慣れない弦楽器の音が途切れ途切れに、合わせて流れる歌声がうっすら聞こえてくる。
「えーと、見浦屋は『行けばわかるくらいとにかく大きい店』だったよな。行こうぜ!」
ああ、やはり、ここは。
「おあんなさい、おあんなさーい」
足を進めるにつれ、錯綜していく。
「おい、あの子素敵じゃないか?」
「当然だろ、引き手茶屋でも行かなきゃ遊べないよ……」
行き交う客の人いきれ、からからと板を打ち鳴らす若い男衆、色とりどりの華やかな着物が呉服屋の生地のようにずらりと並ぶ木格子、内に行儀良く座る女性たちの白い手で爪弾かれる趣深い和楽器の音らが、前後感覚を少しずつ、手ぐすね引いて盗んでいく。櫻の匂いなんてもう忘れてしまった。はしゃぐ相棒の星の残滓を追いかけながら、人混みの隙間を塗って重たい足を前へ前へと動かす。
トーマの言いつけ通り神里の屋敷に向かった自分たちを待っていたのは、また新たな試練。今度は神里家の令嬢に、自分の知り合いに会ってほしいと稲妻の仕切り板であるらしい屏風ごしに頼まれ、しかしまだこの国の道には慣れていないだろうから紹介役を任じたと気を遣われ、この裏通りに足を運ぶこととなった。
「あ、なあなああの店じゃないか?」
首を伸ばして指差す方を見ると、確かに板看板に『見浦屋』と墨字で書かれているのが視認できた。とりわけ人の多い店先にどうにか躍り出て、紅の傾きがきつくなってきた赤い空を見上げ、水中から顔を出すようにしてようやく一息つけた。汗が首を流れて落ちていく。
「あっついな〜」
「うん、ほんと……」
開けた入り口へ進もうとすると肩を掴まれる。稲妻人特有のおうとつの薄い顔立ちながらも、重ねた歳により刻まれたのだろういくつもの皺が古木の佇まいを思わせる厳しさを演出していた。
睨みを効かせながらくいと横柄に顎を上げる。
「何用か」
「これを」
神里家の家紋の彫られた鈴結びをしゃらりと膨らんだ鼻の先で掲げると途端にいかった肩を下げ、大柄な身体を丸めて礼をした。
「神里のお客様でしたか、大変失礼致しました。店柄故不届き者が押し掛けることも多く……この無礼どうかお許しいただけるとありがたい」
「ふふん、わかればいいんだわかれば!」
「平気です」
「ご容赦感謝します。すぐに無憂さんのおられる内証にご案内致し」
「さあさあ道を空けさせてください!」
手を叩きながら店から颯爽と出てきた女性のたなびく紫の推移と骨の多い傘に、心当たりがあった。
「無憂」
「ん?」
かつんと足を止め、差した傘ごと振り返ってぱっと顔を華やげる。
「おやおや御兄いさま方! 来てくれたのね!」
ぎゅっと両手を握られ、何の打算もなさそうな笑顔が咲く。
「ちょうどよかった、良い時に来てくれた。流石は御兄いさま、持ってるね」
「なんだ、なにが始まるんだ?」
「稲妻で最も華やかな行列が通るの」
彼女がそういうように、なぜかひしめく客や従業員が大通りや川に掛かる大橋から離れて、店先に横列を成していく。また人波に溺れそうだと身構えた途端、無憂がこちらの手を引っ張って列の前まで抜け出した。
「ほら、見て!」
まるで母親に砂の城を紹介するようなはしゃぎ具合で無憂が通りの奥を指さした。不思議と押しのけて前に出た自分たちへの野次はなく、皆も同じ方向を見ていた。離島での大人びた振る舞いとは真逆の雰囲気に戸惑いながらも目を向けると、特段質の違う着物の群れが歩いてきていた。
「今日は見浦屋さんだ!」
「かーっやっぱり格が違うよなあ」
「見ろ、玉鬘だ!」
絢爛豪華な錦糸魚の群れ、とでもいえばよいのだろうか。
「す、す、すごいな!? 着物ってあんなに柄が付いてるのもあるんだな」
「付いてるんじゃないよ小さいお嬢ちゃん、あれは手で縫ってるのさ」
「ええ!?」
「あんな緻密な模様を、縫えるのか!?」
「はは、稲妻人特有の手の器用さと繊細な心遣いの賜物さね」
赤、金、水、緑、紫。細かすぎて、他の色の判別はつかない。目がちかちかするほど多彩な糸で縫い込まれた花や鯉の姿が、ゆっくりと川にかかる柳や緋桜を背景に近づいてくる。
自分の肘までくらいの高さがある黒下駄を履いた中央の女性が、しゃなりしゃなりと足先を内側に斜めに入れ込む不思議な歩き方をしながら、色のついた歓声をあげる観客の固唾を急かすように微笑みを浮かべた。
「天晴!」
張りのある合いの手を入れた無憂に気づくなり可笑しそうに笑って、また上品な澄まし顔に戻る。その隙間で、結い上げた髪に刺さる箸のような髪飾りから結晶の加工品がちらちら夕陽を受けて光った。
「ねえ、綺麗でしょ?」
「ああ、とっても……」
「わたし綺麗なものが好きなの。御兄いさまもそうだったら嬉しいと思ってた」
陶酔した横顔がほんのり赤く染まっている。ふと横目でこちらを見つめ、また目端を下げた歪みの見える笑い方をする。
「あなたのために今日の道中を勝ち取ったの。どうか喜んで?」
純情な少年を揶揄うような口調でそう簡単に告げられる。その言葉を聞いた周囲の男客が低くどよめいたことに、一生かかっても払えるか怪しいくらいのモラが一夜にして動いたことを理解して胃が冷えるのを感じながら、どうも無邪気な無憂の、傘内で反射する薄水面に潜む傷物のアゲートのいびつな赤光に、また唾を飲んでいた。
*
結論から言えば、『見浦屋』は稲妻の娼館なのだろうと流石に理解した。パイモンはまだわかっていないようだが、別にわざわざ教える必要もないだろう。しかし、今までに訪れたどの国にも見られないような、異様とも思える華やかさがあって、最初は納得しづらかったけれど。
「姉さん簪」
「ああ、ありがとう」
「松本様もういらっしゃってるって」
「大根足りてるか」
「ちょいと砂糖あるかい!?」
入ってすぐ、慌ただしく人が行き来する広間にはもうもうと飯炊の熱気がこもっていた。鼻をひくつかせる。これが噂のダシの奥深い匂いだろうか。
「わあ……」
「いい匂ーい!」
着物をはだけて着る男性達が外から野菜や魚、両手で抱えるほどの茶瓶などを次々と入れ込んで、袖を肩までまくった女性達がそれを受取り、床に設置された火の前で料理をしていく。奥の右端、簾が垂れた区画を除き、襖の前では先の行列で歩いていたような、綺麗に着飾った女性達と年端の行かない子供達がてんやわんやと慌ただしく入れ違っている。
これではまたパイモンが誤解を深めるなと思いながらもしかし、どこを向いても殺気立っていて、思わずおおと感嘆の息を溢してしまった。
「ほら旅人、やっぱりご飯屋だ!」
「そうだね」
「すごいな、美味しそうだ!」
「おや、食べたいなら少し貰っていこうか」
「え、いいのか!?」
微笑をたたえながら頷き、ぱんと手を打つ。そういう習性であるかのように一斉に皆がこちらを向いた。
「忙しい時にごめんなさい、お客人の紹介だけ。こちらは空さん、こちらはパイモンさん。御兄いさま方には優しくしてください」
「わあ外の人だよ」
「美しい金の髪」
「ふよふよ浮いてるのすごいね姉様」
「ようこそ見浦屋へ!」
「ちょっと主人様あ、今度は異人さんかい?」
「雇ってないよ、はは!」
茶化しにどっと笑いが起きるが、無憂がまた手を叩くと各々それぞれの仕事に戻り始めた。そのまま屈み、側の給仕に声をかける。
「ごめんなさい、後でわたしの部屋に刺身の盛り合わせと鯛の清汁と……米も二人前、お願いしていいかな」
「ああ、構いませんよ。すぐお持ちします」
「ありがとう、潔子」
立ち上がり、着いてきてくれとでも言うように目くばせして進む。
「
『はいはい……』
そう簾の中に声だけをかけ、襖を開けて廊下の奥へ歩いていく。ここは薄暗く、人通りも少なかった。突き当たりの部屋に入り、窓代わりのガラス戸を開けて回って蝋燭にマッチで火をつけていく。
「お茶を入れるから、座ってね」
平べったいクッションが二つ、座り方もたぶんありそうだ。今度トーマにでも教わることとしよう。
取り敢えず膝を崩して座り、パイモンも大人しくそれに倣う。傘を座椅子近くに立てかけて、天井近くに取り付けられた戸棚から何かを取り出し、すぐにお湯の匂いがして、鼻に抜ける茶の香ばしさ。お盆から茶菓子と厚みのあるコップを置いて、膝を丁寧に折り畳む座り方をする。
「さて!」
ぱちんと手を鳴らす。
「それで御兄いさま達は一体どのような用件で来てくれたのかね」
傘の柄をいじりながら薄く微笑む。
「ああもちろん、用件がないから来たんでも構わないけど」
薄肌色の焼き菓子のようなものと温かい煎茶をありがたく頂き始めると、そう上座で肘掛けに凭れる無憂は朗らかに切り出した。やはり港での様子とは別人だ。中から餡子が出てきたと騒いでいたパイモンが口元に小豆色の餡を付けながらふと首を傾げる。
「無憂って、なんか離島の時と印象違うな。あの時はもっと冷たい感じがしたのに」
「ああ、それは初対面だったからというのと、何よりトーマがいたから」
即答だった。顔を見合わせる。
「御兄いさま方は気にしないで。不快な思いをさせたならごめんなさい」
「まあ……誰にも相性はあるよな」
「おや、ありがとう」
柔和に笑い、パイモンの口元を拭う。そこでようやく用件を言わなくては、と思い預かった手紙を二つ差し出す。
「これなんだけど」
「どれどれ……どちらも神里の家紋だ。少し待って」
静かな面持ちになって手紙をそれぞれ熟読すると、徐に顔を上げた。不思議と先程までにはなかった好奇に満ちた視線を感じる。
「用件は理解しました。二つとも承諾します。一つ目、土地勘のない御兄いさま方をその三人の元に案内するのは構いません」
それで、と呼吸ひとつ。
「二つ目、わたしの益になるような情報を一刻以内に探してもらい、それをわたしが評価するという試みも構いません」
耳を疑った。ぽかんと見つめてしまう。
「……今なんて?」
「ほら、これに書いてあるやつ」
慌てて文面を確認すると確かに、二人の情報探査能力を調べてほしい云々が流麗な文字で書かれていた。
「綾華様にしては珍しく疑り深い要求だけど……トーマの入れ知恵かね」
皮膚表面の砂粒でも見るかのように目を細めながら指の腹を擦り、フッと息を吹きかけて斜めに笑う。
「ああ、安心して。わたしはもう御兄いさまたちのこと大好きだから、良いように見る」
「ちょちょ、そんな突然すぎないか!?」
「失礼します花鈿様、お料理お持ちしました」
戸惑いを前面に押し出しながらも無駄のない動きで目の前に一人一人の食卓を設置され、拒むことはできない。料理を置いて給仕はにこやかに去る。お腹が鳴った。なんてご馳走だ。ああ、と手を叩く。
「大好きだから、暫くの衣食住の面倒を見てもいいよ?」
「よし旅人やってやろうぜ、オイラ達の偉大な力を見せてやろう!」
一瞬で買収されてしまった。相棒がその気なら仕方ない、渋々を装いながら心はうきうきと箸に手を伸ばす。
「うおっ、うまあっ!!」
「んん!」
刺身は歯応え抜群、新鮮な魚脂と醤油に山葵の組み合わせが最高だ。温かい米と一緒に食べれば文句なしの温冷天国。ダシの効いたスープは舌をしっかり満足させて、もう堪らない。
「無憂、オイラこれ毎日食べても飽きないぞ!」
「おやおや、献立は流石に変えるよ。でも気に入ってもらえて嬉しい、うちの飯炊き女衆は天才なの」
「本当にいいの?」
「いいよ。二人くらい食い扶持増えても紺尾はなんとかしてくれる」
打算ある大商人や貴族の含み笑いではなく、終始心から人の喜ぶ顔を喜ぶ笑顔を浮かべている。この人は元々こういう人なのだろう。港では彼女が言うように、初対面故に礼儀正しく、トーマが居た故に厳しく、と織り交ぜた対応になっていたのだ。
「あ、二階には上がらない方がいい。暴れ馬に蹴られるから」
試すというより、庭で遊ばせるようだ。
「期待してるよ。御兄いさま」
生まれながらの品、そのようなものを感じ取りながら、爛々と光る菱形の瞳孔を見つめていた。