火種の匂い
稲妻の昼時は璃月と少し似ている。そこかしこで料亭や屋台から料理の良い匂いが手招きしてきて、うろうろしたくなってしまう。けれど今日は無憂が昼食を用意してくれているので、我慢を重ねるつもりで世間話を無理やり捻り出していた。
昨夜の花火は圧巻だった。それを言うなら一昨日の祭りだって稲妻の伝統を身に感じられてよかった、パイモンは緋櫻えびせんべいを手が油でべとべとになるまでたくさん食べられたからでしょ、なんてからかったりからかわれたりしながら作戦通り威勢のいい宣伝文句に引っ掛からず花見坂に差し掛かったときだった。
「やあ二人ともこんにちは奇遇だね実は君らに頼みがあってちょっと来て欲しいんだけどいいかな!?」
そんな風にして不自然極まりない声の掛け方をするなり珍しく有無を言わせない強引さで木漏茶屋に引き込んできた神里家の家司トーマは、茶の間で向かい合うなり全面降伏の姿勢と垂れた耳が見える困り笑顔でそう開口一番に頼んできた。
「おいなんだよ突然……オイラたちこれから見浦屋でご飯食べるつもりだったんだぞ」
「そう、それ、その辺りの話で……」
「あーわかった! トーマおまえ、無憂に用があるんだろ」
わかりやすく呻き、観念したと言わんばかりに長く溜息を吐きながら机に突っ伏した。三回瞬きする程度見つめていると喋り出す。
「…………この間、正勝先生を助ける時に無憂さんから町奉行所に関する情報を提供してもらっただろ? それについてお嬢からの御礼と言伝があるんだけど……」
先日、神里綾華に頼まれて、神の目に似せた宝飾品を製作することができるほどの腕を持つがゆえに怪しまれ、天領奉行によって投獄されてしまった手芸職人──正勝先生を救うために、長野原花火屋の一人娘と協力して侵入した時の話だ。その際、厳重な警戒態勢だった町奉行所の抜け穴の情報を予め長野原宵宮に伝えてくれていたのが、何を隠そう『火の立つところに花鈿無憂』で名の知れる彼女であったのだ。
「あと、若から紺尾への書状もあって」
「紺尾また仕事かな……」
「アイツ怒るぞ〜……」
なぜあれほど情報通なのかはさておき納得を得ていると蒲公英色の髪がしゃべり出す。
「でもオレが行くと嫌な思いさせちゃうから……」
「おまえも大変だなあ」
「でも、本当にどうして無憂はトーマをそう邪険にするんだろう?」
花鈿無憂の見浦屋に居付いてからというもの彼女と話す機会は多分にあるが、そう気難しい面がある訳でもなく、扱いにくい面がある訳でもないことは既にわかりきっていることだった。寧ろ勝手に喋って勝手に聞いて勝手に喜ぶので非常に楽しい人柄だ。客が暴れ出して対処に向かっても決して苛立ちを見せることなく娯楽の一環として喧嘩を暴力的ながらも華麗に止める。
しかし、トーマの話が出るだけで、無憂の機嫌は面白いくらいに急降下するのだ。
「……昔は仲良かったんだけどなあ」
そう起き上がりつつ前髪をくしゃくしゃとかいてぼやくのに、思わず湯呑みを置いた。
「仲良かったの?」
「そりゃもう! 毎日外で日向ぼっこして遊んだ仲だよ」
思い切り疑いを込めた視線をパイモンと共に送ると、しおしおと萎んだ微妙な笑みを疲れ目に合わせて広げていく。
「そういう反応だよねー……わかってるよ……」
言われ慣れている反応だった。しかし、自分の頭には辛うじて彼と彼女を結びつけられそうな証拠が、一つだけ。
「……トーマってモンド出身なんだよね」
「え、ああ、うん。そうだよ」
「無憂との知り合いって、もしかしてその頃からってこと?」
驚いたのか僅かに目を見開き、慌てて頷く。
「そ、そうなんだよ。はは、そういえば君たち彼女の喜ぶ情報を得るためにモンドに行ったんだったね。いいなあオレも一度は帰りたいよ、今どんな感じなの?」
「……あともう一つ聞きたいんだけど」
奔狼領の急きたてるような突風の如き早口で話題を強風に吹かせて逸らそうとする、どうも何かを隠したいような態度にいよいよ疑念が確信に変わっていく。ダメ押しに腰に手を当て睨みつけてみると不自然に口端が固まった。
「綾華が情報吟味をさせるような二枚目の手紙のことなんて知らないって言ってたんだけど、あれどういうこと?」
「…………それは……」
「やっぱりあれ、トーマが仕組んでたのかよ!」
神の目を失った三人の元へ話を聞きに行ったあの日──神里綾華から花鈿無憂宛の二つの手紙を、トーマを通じて貰った。一つは稲妻の案内を任せる旨、もう一つは、自分達の情報収集能力を測る試験をしてほしいという旨。
どうも後者が引っかかったので、祭り帰りの道すがらそれとなく聞いてみれば、綾華はきょとんとした表情を狐の面のそばから覗かせていたのだった。
「あ、いや──本当にごめん! 余計な仕事を増やしたのはオレのせいだけど、違うんだ! 君たちを疑っていたわけじゃなくて」
「わかってるよ」
「え、わかってるの?」
「え、旅人おまえ、トーマの心でも読んだのか?」
「読んでない。でもわかった」
今の話をなぞるような話になるが、と冷めた茶で舌を湿らせる。
「トーマ、無憂の益になる情報がなんだったかを探って、後で自分が無憂と話する時の話題の種にしようとしたんでしょ」
「……お見通しだな」
「間違えて機嫌を損ねないために……」
「お、おまえ……なんて健気な……」
パイモンが慈悲と哀れみの真ん中くらいの感情で慄くか、トーマは俯いたまま動かなくなる。語る言葉も思いつかないほどの正中を貫かれた、致命的図星らしい。その意気消沈した姿に少しくらいはからかって仕返ししてやろうという悪戯心もしゅるしゅる空気が抜けていく。そのらしくもないしおらしい態度を更に可哀想に思ったのか、パイモンがぽんぽん頭を撫でに行った。
「でも、誰にでも苦手な相手っているだろ、そんな無理して仲良くする必要もないんじゃないか? 昔は昔、今は今で、無憂も何か思うところが今のおまえにあったりして……」
相棒の言う通りだと頷くと、おずおず顔を上げる。申し訳なさそうに眉を下げながら、それでも喉に刺さった魚の骨が取れないような微妙な顔で、それでも目が合うと力なく笑った。
「……だからこそだよ。オレは、昔みたいに戻りたいだけなんだ」
慰められていた本人が浮いていたパイモンの背中を指先でとんとんと軽く叩けば、渋々帰ってくる。ゆっくり手を組み、いつになく暗い様子で雨樋から泥水が垂れるような語り口で言う。
「きっと、オレがどこかで何かしてしまったんだ。モンドから稲妻に来て、彼女に会った時にはそうなっていたから」
「トーマ……」
「ああいや、引き止めてごめん。とにかくその……協力してもらえると嬉しい」
「それはいいけど」
「もちろん埋め合わせはするよ、夕飯は任せてくれ」
明るい調子で言いながら立ち上がり、いつも通りの完璧な人当たりの良さを存分に発揮しながら歯を見せて笑う。
「それじゃあ、ありがとう。また」
足音は軽快で、人懐こい犬が爪を擦らせながら走る音に似ている。彼に懐柔できない生命などこの世には存在しないものと信じていたが、ちらりと手紙を見下ろす。押し花がつけてある。そうっと持ち上げて鼻に近づければ、どうやって手に入れたのか清心のほろ苦い香り。見せるわけでもない澄まし顔になって、背後に手をつき天井の梁を見上げる。
「……不憫だなあ」
「そうだな……」
*
昼間の櫻川裏通りは虫が休む夜中より静まり返っている。時折禿の女の子がぱたぱたと外を走ったり、蹴鞠をしたりしている程度だ。ここの時間は表通りとは逆転している。何度訪れても、うららかな日差しが遮られずに照らし、柳のそよぐ繊細な音だけが響く通りの新鮮さは褪せなかった。
通りに転々と並ぶたそや行燈は暗いまま、見浦屋の名を戴く赤褐色の暖簾もだらんと下がったままで、ただ揺蕩うような沈黙を守っている。
「あ、空お兄ちゃんと、パイモンちゃんだ」
「よう燐、今日もけんけんぱか?」
うんと頰を上気させたまま頷き、開きっぱなしの戸の前から退く。
「どうぞ、おあんなさーい」
「ありがとう」
やはりがらんとした炊事場を横目に大広間に靴を脱いで入り、下駄箱に仕舞うことなく端に寄せるだけで済ませる。しかし畳のなめらかな足触りは慣れたものだ、そう思いながら内証に近づいて、壁をこんこんとノックすれば不機嫌そうな了解の声。珍しく簾を下ろしていないが、吊るしてまとめてあるそれに頭をぶつけないように中腰で踏み入れば今日も文机でさらさら筆を扱う爪の綺麗な手と迷惑そうな顔。
「珍しいな。いつも昼間でも簾下ろしてるのに」
「あー放っておいてくれ」
一瞥もせずに顎をくいと上げる。
「で、何」
「手紙」
張った糸に半紙を洗濯ばさみで留め、短く息を吹きかける。
「誰から」
「綾華のお兄さんから」
「ゲッ」
殆ど条件反射で蛙が喉を潰した声が鳴る。手元を見れば、新しい半紙に当てていた筆が割れて墨が池を作っていた。納豆と渋柿を口に突っ込まれたように目も口もぐしゃぐしゃな表情まま、そろりと目だけで手紙を見、凄まじい速さで奪い取るように受け取って読み、机をひっくり返そうとし後の惨事を理性が見せたのか手が震え始めて止まり、ついに片手で机を叩きながら手紙だけを投げる。
「あ"ーっクソあの糞優面鬼男が!! アイツ本気で嫌いだ!! 今すぐ豪雨に降られて寝込んでしまえ!!」
「可哀想だ……」
「可哀想に……」
「手を合わせるな!」
本当に気の毒で最近覚えた合掌をせずにはいられなかったが噛み付くように怒られた。ふと疎な人の話し声、あくび混じりにこちらを覗き込んだ遊女数人が一気にその気怠げな靄を払った。
「やだ紺尾、朝から客引きかい?」
「お盛んなこと」
「こんばんはあ旅人さん方」
「邪魔すると悪いよ」
「あーっうるせえうるせえあんたら厠行ったんだったら早く寝ろ!!」
「きゃあ怖い」
「空くんもパイモンちゃんもまた座敷遊びおいで」
「紺尾ぉわっち月のものになりんしたあ」
「ごめんねえ布団汚しちまったよ」
「初音は寝ろ浮橋も代わりの布団出して寝ろ汚した方は洗い場に出しとけ!」
「ありがとねえ」
「紺尾大好き!」
「黙って早く帰れ!」
「怒ると禿げるよ」
「やだ夕顔姉さんたら」
「それ言うなら若白髪が先さ」
「背伸びなくなるよー」
「本気で言っとくけど伸びてるからな!!」
「あはは!」
顔を真っ赤にしてまで怒鳴り散らそうと常春の陽気のような空気感を纏う彼女らに叶うはずもなく、喜色満面の笑いを口々に飛ばされてあえなく撃沈してしまった。
嬌声のような笑い声がやっと立ち去っている中でもまだ机の上で握った拳がぷるぷる震えている。毛が逆立っているような幻覚を見ながらうっすら笑いつつ、奥の母屋の方向を指す。
「無憂起きてる?」
「あんたらの昼飯用意させてから機嫌よく禿と遊んでやがるよ! これ以上余計な仕事を増やさせる前に早く連れ出してくれ!」
「わかったわかった」
「お土産買ってくるな〜」
「全く本気で俺のことなんだと……」
ぶつぶつキレのいい文句を言いながら増えた仕事を再開させるのに、パイモンを顔を見合わせて苦笑する。きっと彼女らにとっては弟分のようなのだろうから、可愛くて仕方がないのだろう。そして紺尾は、なんだかんだ世話焼きなのだ。
もう勝手の知れた廊下だ。清搔の音階を口ずさみつつ、左手の中庭を見ながら手前の芒が揺れる板絵戸をこんこんと叩く。どうぞと返事、横に引いて開ければ無憂と、そばの布団で並んで眠っている女の子二人。掛け布団を掛け直してやりながら少し微笑む。
「お手玉してたら寝ちゃった。ご飯隣の部屋だから、そっち行こうか」
傘を手に取り、鏡板戸を引いて手で招く。二人で息を潜めてそちらへ移り、再度閉め切った。
「お腹減ったでしょ。はいどうぞ」
押し出された膳の前に座り、稲妻式に手を合わせて挨拶をする。
「いただきます」
「いただきまーす」
「おや、気持ち静かにしてくれたのねパイモンさん」
「当然だ。出来るガイドは配慮も忘れないからな……うま〜い……」
しみじみ染み渡るような声ととろけた笑みにくすくす笑う。こちらも味噌汁の温かい味を存分に味わう。学んだのだが、一番最初に汁物に手をつけると箸が濡れるお陰で米粒一つ残さず食べることができるのだ。
稲妻においては、米ひとつにも神様が宿っている。
「今日は、魚とダイコンの煮込みと卵焼き、ご飯に海藻お味噌汁だよ。鳥有亭の卵焼きには負けるかもしれないけど、うちは砂糖の甘い味付けだから」
「うん、すっごく美味しいぞ」
「甘い卵焼きもご飯に合うね」
「案外しょっぱい料理も多いから」
それで、と急須からお茶を注ぎながら言う。
「正勝先生はお元気でした?」
「うん。でも大変だった」
「そうそう、オイラたち天領奉行の九条裟羅に会ったんだ。見逃してくれたけど……」
湯呑みを差し出しつつ、小首を傾げた。
「九条裟羅は真面目だから。先生の逮捕は正直言って証拠不十分だったし、気になっていたんだろうさ」
「無憂はすごいね、なんでも知ってる」
「あはは、知ってるのはわたしじゃなくてお客さん。酔っ払って、綺麗な女の人の前ともなれば、口が緩む武士も多いから」
「無憂の情報の出どころはそこなのか……」
ダイコンを箸で切り、口に含む。
「宵宮も無憂に世話になったーだって」
「あの人律儀でしょ。だから、昨日の長野原花火大会で打ち上げてもらった見浦屋の花火、相当割引されたよ」
「おおーっ、見浦屋も上がったのかあ」
「綺麗だったなあ……火は嫌いだけど、花火はすぐ消えるから好きだな。派手で、風流だし」
火は嫌い、と言い切る姿に思い出し、小包付きの手紙を取り出す。
「無憂、これ。綾華から」
「おや、どうもありがとう。……ああ、清心だ。良い匂い、綾華様がつけてくださったのか」
なんとも言えない心地で口の中でモゴモゴ咀嚼する。無憂が茎の短い清心を、璃月産らしい陶器の小皿に乗せて水をかけて浸した。
「清心はわたしの香膏の材料なの。自分でも輸入を試みるんだけど、専門外だからうまくいかなくて。趣味だから紺尾に頼むわけにもいかないし……でも、綾華様がお優しいのでいつもくださる」
どうやら口裏を合わせているらしい。堂々と自分が手に入れていると言えばいいものを、と自分は思うが、燃え立つような誠実を秘める彼としては物で釣るのは嫌なのかもしれない。
「璃月の花も、モンドの花も、わたしは大好き。もちろん、稲妻の花も好きだけどさ。異国のものに心惹かれてしまうから」
裾を折り込みながら座り直し、手紙をさっさと開けて読み始めるのに、ふと、聞いてみたい気持ちが湧いてきた。箸を置く。
「……あのさ、無憂って、どうしてトーマや火が嫌いなの?」
顔を上げる。ぱちぱちと瞬きをすると、年相応のあどけなさがあった。破顔して、緩んだ口元を手で押さえる。
「そこを並べるなんて、御兄いさまはお目が高い。けれど、まあ、そうだね……あなたたちにとっては意味のわからない関係だったか」
そう呟いて、肘掛けにもたれる。
「先に火の話をしようか。これに関しては単純、火って熱くて煙たくて鬱陶しいでしょ。だから嫌い。以上」
「思ってた以上にそのまんまだった!?」
「それで、バカトーマの話をしようか。わたしとあの人はね、聞いたかもしれないけど元々モンドで知り合ってるの。ディルックもそうだね、あと……ガイアも少しは話したことがあるかな」
「へえ〜……オイラたちガイアとも知り合いだぞ」
「おや、そうなのか」
親近感が湧いたのか声を幾分和らげた。無憂にとってモンドの思い出は良いものらしい。
「わたしがトーマを嫌いな理由は、二つある。一つはわたしに、一つはあちらに」
「ふむ」
「あちらの理由は……これも簡単」
うんざり、という風に口を横に引きながらため息をついた。
「トーマって、火種を最後まで消さないような人の付き合い方をするでしょ。あれが好きじゃないの。何か起きてからじゃ遅いのに、妙に恨みを買ったままにするから」
心底嫌そうに言葉を噛み砕く。彼女の『火が嫌い』というのは現象だけでなく比喩としての意味合いも含むのだと理解した。根が深い、稲妻は火事も喧嘩も多いわけだから、火事関連と人間関係関連で色々とあったのかもしれない。
「全部消せばいいんだ、隠れて弾けそうな火種なんてさ。消すから火は美しいのさ。だから、信念の違いかなあ……」
「な、なるほど……でもさ、それなら普通の付き合いの上だったらそこまで邪険にする必要はないよな?」
花鈿無憂は、確かに気難しい人間ではない。ただ少し、危ういというか、常に弱点を晒しているような、無邪気な面がある。
「……パイモンさんの言う通り」
そこを少し、扱い方を間違えると手痛い目に遭うのだろうと、最近わかってきた。
「だからね、普通に仲良くする気が湧かないほどの理由が、わたしの中にあるの。それは教えられない」
その時の無憂の目はやたらと爛々と光り、歪んだ笑みをよく浮かべる。宵宮が、あの人は悪い人じゃないけど怖い人ではあると笑っていたことが真理なのかも、しれない。
「まあ、手紙は渡したよーという報告ついでに今の話をトーマに流してくれても構わないけど」
どきりとする。相手がそれを見透かした目で舐めるようにこちらの顔色を眺めてくる。
「代わりに」
「か、代わりに……」
「わたしとも逢引してくれる、御兄いさま」
「え?」
もう無憂の瞳に怪しい翳りはなかった。わざとらしく、少しむくれたような様子で指を擦っている。
「だって、綾華様とはお祭りに行って、宵宮とは一緒に花火を見たのでしょ」
「え、まあ」
「狡い!」
身を乗り出し、小指を見せる。
「約束。いい?」
濃厚な香の匂いに目をちかちかさせながらもどうにか頷き、ぎこちなくも小指を絡めると嬉しそうに握り返された。
「ゆーびきーりげーんまーんうーそつーいたーらかーみなーりにうーたれーるよ、ゆーびきった!」
「稲妻の指切り歌ってそんな感じなのか」
「おや、もしかしてご存じないかな。この約束の起源は遊女の間夫に対する『指切り』からなのよ」
「遊女の……指切り?」
「小指って、役に立たない指でしょ。愛されることしかできない指」
歌うように紡ぎながら姿勢を戻す。そうして、もうとっくに食べ終わって浮いていたパイモンへと手を伸ばし、小指を見せて、咲き散る櫻を見物するように微笑んだ。
「本当の愛を証明するために、その小指を切り落とすの」
寒気がするこちらに比べ面白いでしょと軽々言いのける彼女が、さあ食べて食べてと中断させた食事を柏手で再開させようとしたその時、柱が割れるかと思うほど勢いよく廊下側の戸が開かれた。
立膝をついた紺尾が垂れていた首を上げる。真っ青だった。
「報告します。燐が居なくなりました」
いつもなら溌剌と横柄さを感じさせる声が必死に焦りを隠していて、その只事でない様子に相棒が飛び出てくる。
「燐って、禿の、不思議ちゃんだよな?」
「続けて」
「店先で遊んでいたのを合間合間に確認してはいたのですが、ふと洗い場に行った隙に……大変、申し訳ありません」
今にも歯軋りしそうなほどの後悔を滲ませながら拳を床につけ、頭を深く下げる。なるほど、店先の燐が気になっていたから簾を下げずに仕事をしていたのだ。
「加えて恐れながら申し上げます、燐の捜索をどうか俺に任せてください。迅速に、必ず見つけ出します」
戸惑うくらいの慇懃な態度にこちらは気圧されたが、無憂はそれを真剣な面持ちで見るや否や立ち上がった。
「謝る必要はありません、紺尾はよくやってくれてる。わたしの責任」
「しかし」
「矢面に立つのはわたしの役目だといつも言うでしょう。それに、あなたには綾人様からの仕事があるのでしょ」
弾かれたように顔を上げる。
「どうしてわかって」
「そりゃ、わざわざトーマが遣いに出されるってことは綾人様がまた面白がったってことだから。紺尾にはわたしが居ない間の見浦屋を頼みたいね」
「ですが無憂様」
はっとしたようにこちらに一瞬視線をやり、すぐさま態度を崩す。
「お、俺が居ない間に怪我されても困るんだけど」
「それならオイラ達がついていくぞ!」
「うん、燐も無憂も無鉄砲だから心配だし」
「でも、あんたらの腕って」
手を叩いた音で紺尾の肩が跳ねた。それを面白がるような目で見ながら無憂がにんまりと口角を上げる。
「協力、心から感謝します。謝礼を楽しみにしておいて」
「やったー!」
「紺尾、あとよろしくね」
そう言いながら傘を持って廊下に出るのに着いて行こうとすると、服の裾を下から引っ張られた。縋るような目つきが弱々しい。
「すまない、どうか頼む」
頷く。
「おう、任せとけ!」
「すぐ帰ってくるからご飯下げないでね」
「わかった」
紺尾を置いて廊下に出れば無憂はもう大広間にまで着いている。追いかけて、靴を履いているその肩を叩く。
「無憂、あの子の手がかりって心当たりある?」
「蝶の髪飾り。わたし、禿の子達には一人一人名前にちなんだ髪飾りをさせてるのだけど、毎晩寝る前に水元素を含ませてる」
「防犯グッズってやつだな。旅人、おまえなら追えるよな!」
元素視覚なら辿れそうだ。自分も下駄箱から靴を出すと、ばっと無憂の番傘が開かれた。それを細い肩にかけ、顎を引く。
「とんだ逢引になったね。雨が降らないうちに行こう」
今日は晴れだと梢は店先を掃除しながら言っていた。だから彼女の言う『雨が降らないうちに』とは、事態を引き起こした犯人に逃げられないうちに、ということなのだろうと悟った。
「うん!」
物騒な匂いだ。稲妻の火事と喧嘩の匂いが、太陽の下を歩く彼女から薫ってくるような気がした。