誤解貴賎
紺田村には以前、神の目を失った人間の一人──手島へ話を聞きに行く際、無憂に案内されたきりだった。賑わいを聞かせる城下町から離れたこの村は長閑で、さらさらと草が微風に流れる音がするほどだった。地下水を汲み上げる水車の素朴な駆動音、駆け回る子供の笑い声、そんなもの。人口のなさと遠目に見える寂れた神社の赤鳥居のせいで、ゴーストタウンにも思えてしまうけど。
手島の家の裏手、山から流れる川近くの一軒家の庭から、不思議な旋律が聞こえてきていた。リズムが取りにくい、陽気なモンド音楽とも古風に積み重ねられた璃月音楽とも違う、牧歌的でありながら得体の知れない民謡を、鞠をつく中年の女性の声が伸び伸び奏でていた。
「あんた方何処さ、緋木さ、緋木何処さ、夜叉織さ、夜叉織何処さ、たたらじゃ……」
ぽんぽんぽん、とテンポが揺れる歌に合わせ、手と地面の間で色合いが褪せた球が跳ね返る。口ずさむ旋律が終わりを迎えれば、その球は手の上に戻り、しゃがみ込んでじっと眺めていた見覚えのある女の子はすかさず拍手をした。女性は目尻を下げて頭を撫でた。高価な青染めの髪飾りがしゃらしゃらと氷雪が擦れるように音を立て、それを眺めていた無憂が緩慢に一歩を踏み出した。
「燐」
その声に女性は鞠を落とし、女の子は顔を明るくした。
「無憂様!」
「だめ!」
駆け寄ろうとした燐の細い手をがっちり掴み、家の中から一人の男性が大股で出てくる。
「どうした」
「あんた、あの人が」
二人とも、無憂を見るなり顔色を変えていた。それを知ってか知らずか、深々とお辞儀をする。
「どうもこんにちは、お久しぶりです。お元気でしたか」
肩を震わせる二人は表情をこわばらせながらも、きょとんと事態を判らないでいる燐を守るように立ちはだかった。
「ど、どういうことだ、無憂。燐は誘拐されたんじゃ……なんか、普通に家族っぽくないか?」
「……変だとね、思ったから」
浅く溜息をつき、広げていた腕を組む。
「誰にせよ、うちの紺尾が見ていたのに誘拐なんぞに気づかないなんてことは有り得ないのさ。なら、燐が望んで走っていったんじゃないかと思って」
「紺尾は番犬か何かなのか!?」
「まあ似たようなものさ。それで、手がかりは紺田村に続いてるっていうでしょ、だから気乗りしなかった」
そうして燐の両親らしい二人をすっと見つめると、相手らは気まずそうに口角を内に縮める。
「手招きしたんでしょう、御二方。静かにするよう人差し指を口に当てながら。それで燐は喜んで走っていき、紺尾は燐の足音だからと気に留めなかった」
「……それで無憂、途中から行きたがらなかったんだ」
見浦屋は料亭でも宿屋でもなく、遊廓だ。そこで働いている人間は男も女も大人から子供に至るまで大抵、売られてきた人間のはずだ。あの店の雰囲気を作る彼女らの肩で風を切るような振る舞いに、後ろめたいところがまるでないのがその事実を絶妙な加減に誤魔化しているけれど。
「無憂さん……何も言わんでくれ、あんたのことを信用してたのに」
「……どういうことですか」
「初めの話じゃ、この子の衣食住も仕事もきちんと保証するって話だったじゃないか。俺たちはそれを信用した、なのに……」
話が噛み合っていないと思ったのか、ひび割れた箇所を手探りで探すように問いを返す。
「確かにそうお約束しましたが、具体的には」
「あんた、従業員には随分酷い態度を取るらしいじゃないか。給料も絞るだけ絞って、朝から晩まで働かせて」
そう横槍を入れてきた母親の目は非難の一色だった。確信があって人を責め立てる厄介な目つきだ、思わず弁解を申し出る。
「無憂はそんなことしてない」
「そうだぞ! 第一、そんなケチで性格悪い奴だったらここまで燐を探しになんて来ないだろ」
しかし取りつく島もない様子で睨みつけてくる。
「ふん、どうだか……労働力が無くなったら誰だって困る」
「おやっさん、なんだか誤解が生じてるみたい。少し腰を落ち着けてお話しませんか、もう一度うちの説明と燐のことを」
「だから遊郭なんかに働きに出すのはよせと言ったんだ、あんな下品な女と男たちがひしめく場所は何処も変わらん、俺たちは無憂さんの口車に乗せられたんだ!」
矛先が妻に向くがじっと口を結んだまま燐の頭を辛抱強く撫でるだけで、意地でも返事はしようとしない。
「あいつ、どうしちゃったんだろう……無憂の悪口言う奴なんて、それこそ幕府の奴らしかいないだろうに」
怪訝に耳打ちしてくるのに頷く。見浦屋は裏通りで最も内外の評判がいい店だ。本人に求心力があることもそうだが、従業員はみんな融通の利く無憂を慕っているし、抜本的改革を切り出す無茶振りばかりの彼女を面白がっているし、あの店にはそもそも自分の仕事に誇りを持っている人間しかいない。彼が前提からおかしい情報を信じきっているのは誰の目にも明らかだったが、今更になって一体どうしたというのだろう。
「今なんとおっしゃいました」
「は?」
ともかく相手を落ち着かせないことには話も進みそうにない。口を開きかけ、すぐに閉じる。
無憂の目から、愛想が消え失せていた。
「聞き捨てならないなあ。一生懸命働いてお金を稼いでいる人に貴賎なんてないと思うけど」
「な、なにを」
「世のため働くお奉行様たちと人のため働くうちの従業員たち、何が違う?」
たんと急かすように足踏みをすると肩を震わせた。無憂がそれを見、圧迫感を持たせるように首を斜めに傾ける。
「何が違うか答えて。わたしとしては、お互い違う分野で稲妻を良くするために働いているのだと思うけど」
「お天道様の下を……堂々と歩ける仕事じゃ」
「それはあなたたち外野がそう思って、そうさせているだけのこと。何かを後ろめたいと思うのは、思う人間に負い目があるから」
素気無く蠅を叩き落とすように言い切り、自嘲気味に笑う。
「可哀想よね、身体を売るなんて。だけどそういう仕事がなくなることは有り得ない。だから見て見ぬ振りをする。自然と遊郭は廃れ、劣悪な環境が跋扈、悲惨な結末」
「……」
「上に任せていちゃいつまで経ってもそんなんだろうから、わたしは痺れを切らして見浦屋を立ち上げたのです」
芝居がかった仕草でまた一歩前に出る、袋小路に鼠を追い詰めるようなぎらついた薄縹の瞳、呼吸ひとつ見逃さない瞳孔、花鈿無憂の長広舌。
「健全に、健康に、かつ絢爛に」
小難しい話題で紺尾に勝てる大人はそういない。無憂だって紺尾の前ではばつの悪い幼児同然だ。しかし、無憂には唯一無二の空気があった。
それを威圧ととるか、魅力ととるかは、場合に依るだろうが。
「つまりは最低完全週休二日、外出可能、高給取り、その他福利厚生諸々と。裏通りでは一晩で稲妻城に勤める人間全員の一年分の俸禄が動きます」
「そ、そんな大金が毎日動いてるのか!?」
「しーっ」
慌ててパイモンの口を塞ぐ。凛とした佇まいの無憂は続ける。
「ご利用されるお客様も従業員も、皆余さず毎夜楽しめるように。昨年の改革で、遊郭に売られてきた者が背負う借金は全て見浦屋が代わりに払うことになりましたので、今裏通りに残っている人たちは望んで仕事をする者だけです」
「えっ……」
「とはいえ簡単な仕事ではないので。わたしや紺尾も、労働環境と契約内容には常に気を配るようにしていますが」
「だからって」
「だから、見浦屋は稲妻一の遊郭なのです」
言葉に詰まるのを尻目に不意に身を引けば、さらりとまとめた髪が肩を撫でた。途端、今度は深いため息をつき、落ち着いたすまし顔に戻る。
「……昨今の戦争や目狩令により、望までうちに来た子もおります。そのため皆には仕事の選択権を与え、その上で早めの復帰を手助けしています。無論、禿にも」
母の背中に隠れさせられている燐がにっこり笑ったのに頬を緩め、お愛想に軽く頭を下げる。
「ともかくみんなが楽しくやれれば良いと思っていますが、まあ、わたしの言葉が信じられないのなら社奉行印の財務諸表や改訂された風俗営業法の簡易版をお見せしても構いません」
「あ、いや」
「一応言っときますけど、うちだって経営苦しいんですから。わたしが言うのもなんですけど……割と本気で」
「そうだよ! 紺尾はね、帳簿見ながら無憂様のこといつも怒ってるもん、いくらなんでもこんな収支ないだろーすぐご褒美あげるなよー頭花畑かよー花畑無憂に改名しろよーって」
「ぶふっ……」
「こら」
「……こ、こほん」
ぐいぐい親二人の手を引っ張る燐と吹き出したパイモンに気まずそうな面持ちで咳払いをする。無憂は少々金銭感覚に疎いところがあるらしく、しょっちゅう紺尾に詰め寄られて小さくなっているのだ。そのためか逃げるように話題を乗り換える。
「り、燐は今、うちの稼ぎ頭の花魁、玉鬘のお付きです。ご存知の通り愛嬌があるので評判で……よくお駄賃なんてもらったりして」
「あ……さっきの、金平糖」
懐から布包みを取り出すのに燐が大きく首を振った。
「だからさ、凛子言ったもん。無憂様はそんな怖いこと言わないししないよーって」
燐は源氏名なのだろう、そう訴えるのに段々と張っていた空気も和み、紺尾の本人はほとんど覚えていないのだろう愚痴の内容もあって対立する雰囲気ではなくなってきた。
それを感じ取ったのか警戒していた凛子の両親も態度を軟化させ、父親が軽く後頭部を掻いた。
「いや……なにやら、早とちりのようで……」
非常に言いづらそうにちらちら無憂の顔を窺いながら押し出すのにやんわり相好を崩す。
「いえ、誤解が解けたならよかったです。しかし、なぜ急にそのような話に」
「実は……」
視線を交わし、おずおず話し出す。
「妙な男らに吹き込まれまして……初めは相手にしていなかったんですけど、あまりにしつこいので、本当なんじゃないかって心配になって……」
「裏通りの抜け道を教えてやるからと金銭を要求されて、思わず」
「払ったのか!? いやいや怪しすぎだろ、ぜーったい詐欺だぞ詐欺!」
パイモンの純粋な驚きにどんどん青ざめ、萎んでいく。
「いくら払ったの?」
「……五千モラほど……」
「うわー……オイラたちの一週間の食費だ……」
自分達はそれくらいで済むだろうが、彼らにとっては一大事な金額だろう。娘のこととなって、度外視してしまったに違いない。
「正直、後に引けない思いもあって……本当にすまん、無憂さん」
「因みにそいつらなんて名乗ってた?」
「確か、ファデュイとか」
むかっ腹が立ってきた。なるほど、納得だ。稲妻での活動資金を稼ぐために片田舎の人間を騙し、小銭を集めているのだろう。おまけに見浦屋の花鈿無憂はファデュイだろうと宝盗団だろうと従業員や他の客に無体を働く者はみんな『しつけ』てしまう。その辺りで名も知れていたはずだ。
無憂が物わかり良さげにああと声を上げる。
「なるほど。……とはいえ、信じてしまったのはわたし達の信頼不足のせいもあります。ここは一つ、わたしがお金を取り戻してきましょう」
「い、いいのか……!」
「構いません。ファデュイはどちらに?」
「小船に乗って……たぶん、神無塚の陣屋の方に。あの辺りにしか船は停められないはずですから……」
「結構」
きっぱり区切りをつけて幕を引く劇場かのように踵を返し、流麗な動作で傘を差す。
「日没までには戻ります。それまでは燐をお願いします」
「いやでも無憂さん、あっちは今海祇島の抵抗軍と天領幕府が戦争してて危ねえって!」
「──問答無用」
なんとなく、これは止められないぞと思った。
「わたしは火種を許しません。いつ何時であろうとも、消火です」
半円を描くように右足を地面につけたまま滑らせたかと思えば、傘の下から真摯に怒りを表現する半笑いを日に二分割されながら覗かせてくる。
「だいたい最近ファデュイの連中は調子に乗ってると思ってたのよ、最適機会」
そのまますたすたと目もくれずに甘金島の方に向かうのに慌てて着いて行こうとすると、気掛かりそうな声が引っかかってきた。
「あ、そういえばあいつら、あなたのこと、本当は偉いお武家様の妾の子なんだって……だから、目狩令も三奉行の評決による営業停止令も食らわないんだって言って回ってた……それもホラなんでしょう、もしかしたら他にも吹聴されてるかもしれないよ」
つんのめってしまう。無憂が立ち止まっていた。遺跡の壁の如く、静かな背中。
「……おやおや、それは事実ですよ」
思えば、いつも呼び止められれば必ず振り向いて笑顔を見せていた無憂が、振り向きもせず瞳に憂いの陰を宿していたのは、初めてだった。
「母は小指を切りましたから。その高貴な血のために」
花鈿無憂の横顔から淑やかな哀しみを感じたのは、はじめてだった。