血傘美人見返図   作:アクエリ

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指切りの雨

 

「無憂って、武家の出身なんだ」

 

 稲光がひっきりなしに光り轟く上空とは反対に凪いだ海を渡る最中、舵を切りながら迷った末にそう問いかけた。後部座席から返答が明るく発せられる。

 

「実はね。とはいえ妾の子だから、別に普通だよ」

「確かに、オイラちょっと変に思ってたんだよな」

 

 見なくとも首を傾げていると少し潜めた声色でわかった。

 

「神の目を持ってるやつはみんな正勝先生の偽物を持ち歩くようにしてるだろ。でも無憂は本物をあんなに堂々と付けて、使ってもいるのに、今まで獲られなかったし。おまえ、一体どんなお嬢様なんだ?」

 

 無憂の神の目は右足に組紐で巻き付けられている。火消の際は勿論、喧嘩の際にも振り上げた足の先でぼんやり光る目はよく目立つ。

 

「んー……」

 

 かつかつとブーツの踵と木下駄がぶつかる音がする。

 

「まあ、そこそこかな?」

「そこそこってなんだよ!」

「あ、敬ってくれてもいい。無憂様〜今日もあったかい寝床とご飯をありがとうございます〜って」

「誰が呼ぶかあ!」

「あはは、それで結構!」

 

 まともに答える気はないらしく、流されたことにも気づかないパイモンは無憂の朗らかな口調に乗せられ、残してきた昼飯への未練を熱意たっぷりに話し始めている。肩透かしを食らった気分のまま、前方一面の暗い青の上に浮かぶ島を見つめる。

 

 花鈿無憂の不自然なところは、挙げてみればそれなりにある。目狩令云々の話もそうだが、紺尾の態度もそうだ。

 

『加えて恐れながら申し上げます、燐の捜索をどうか俺に任せてください。迅速に、必ず見つけ出します』

『ですが無憂様』

 

 あのあと、すぐこちらに気がついて普段の生意気な物言いに変えていたけれど、あれはどう見てもただの従業員と雇用主の会話ではない。紺尾には無憂個人に対する確かな敬意と気遣いがあった。

 

 それだけではない。千手百目神像に向かう際の気後れした態度、重い足取り、必要以上に回る舌、稲妻城付近で感じた妙な視線、天領奉行たちのへっぴり腰。

 

『母は小指を切りましたから。その高貴な血のために』

 

 そして、あの発言。

 それらを総合して、考えてみると。

 

「御兄いさま?」

 

 肩を叩かれ、意識を戻す。ファデュイが仮拠点にしているという穴蔵の前で、傘を畳みながら無憂が心配そうにこちらを見ていた。

 

「疲れた? ごめんね、お腹減ったよね」

「いや、平気。ちょっと考え事」

「そう? ならいいけど……ああそうだ、さっさととっちめたら表座敷で豪勢な宴会でもやろう!」

 

 ばっと両手を広げ、対照的な満面の笑みを浮かべてみせる。

 

「うるさくすると悪いから四ツ時までになっちゃうけど……貸切!」

「おーっ! オイラあれ食べたいな、いなり寿司!」

「もっちろん。肉も魚も踊り食いさ!」

「肉の踊り食いはないだろ!?」

 

 不可思議に陽光を反射する菱形の瞳孔がご機嫌にまろやかな曲線を描く。

 

「ね、御兄いさま」

 花鈿無憂は名前の通り、憂いを他人に与えない人物だった。

 いつも破天荒で型破りで、ジンジャーエールのような甘辛さを存分に振り撒いたと思えば弾けた炭酸でしっちゃかめっちゃかに場を壊し、瞼を擦りようやく開けた目に残るのは鮮やかな後ろ姿だけ。

 

「あなた達、何してるのさ」

 

 打ち捨てられたかつての武家屋敷、敵を蹴散らしその奥の奥。勧善懲悪物語を演じる一枚目の如くだんと右足で床を踏めば、震え上がるは異国の闇。

 

「か、花鈿無憂!?」

「おや、よく見れば二日前に店に来た坊主らだ。なるほど、おいたをしたんで店前に裸釣りにしたのを根に持ってるのか」

「貴様のせいでマトヴェイ様の御身体が衆目に晒される結果になったんだ!」

「我々は稲妻との友好関係を築かんと活動しているというに、稲妻人はなんと横暴か!」

 

 次々投げられる言いがかりもなんのその、肩をすくめてくびれた腰に手を当てる。

 

「……あのね、堂々と引き手茶屋にも行かず楼に乗り込んでくるのって非常に無礼。おまけに止めようとしたうちの門番を蹴り飛ばして、ありえない」

「やめなさい。……そうは言いますがね無憂殿、以前こちらの資金援助を小坊主の裁量で門前払いされた件につきましては、どう釈明をなさるおつもりで」

「……紺尾を小坊主呼ばわりするなんて、あの子の目に狂いはなかったと言えましょうね」

「何」

「まったく、そちらの冷酷非道で過激な執行官『散兵』殿だって見た目は愛らしい子供だともっぱらの噂ですのに」

「な、なぜ『散兵』様のことを!?」

「少しばかり、ファデュイには詳しいの。……ともかく、あなた達の罪状は名誉毀損詐欺窃盗逢引妨害!」

 

 顔を引き攣らせる相手に傘を突きつけてまで好戦的に笑う無憂は、いつだって、楽しそうだった。

 

 

「璃月全席。覚悟して」

 

 

 *

 

 

「貝拾いは楽しい。わたしの秘密の暇潰し」

 

 言葉通り屋敷に隠れていたファデュイをこってり躾け、騙し取ったお金も宝も取り戻し、ついでにふん縛って目立つ場所に裸吊にした後、さっさと無憂は日暮れの進み具合を一望できる海岸沿いを歩き始めた。船着場までは遠回りだろうにこちらの道を選んだことには、おそらく、九条陣屋に近づきたくないからだろうとうっすら察していたので、何も言わなかった。

 貝を拾い上げ、砂を払って昼の装いを脱ぎかけている橙の陽光に翳す。

 

「スメールの学者さまによると、人間という生命が生まれた頃から貝は存在したと一説にはあるらしい。否定する人も多いらしいけどね」

「こんな小さな貝がかあ?」

「ほら。人間だって、いつこの形になったのやら」

 

 パイモンの疑いばかりの怪訝をそう流し、また笑った。

 

「貝はいいよ。首飾りにもなるけど、何より貝合わせの材料になる。盛り上がる」

 

 花鈿無憂は物知りだ。といっても、一般的な雑学や遊びの方面で。

 

「本当、無憂はいろんな遊びを知ってるね」

「そりゃ、浮世を練り歩く遊人だから」

 

 ばしゃんと波打ち際を踵で叩き、足に飛び跳ねた水光性のゼリーをにやにやしながら指差す。

 

「ウミレイシ、こんなふうに潰して遊ぶのも楽しいよ」

「汚したら紺尾に怒られるんじゃない?」

「大丈夫大丈夫、燐を見つけたことでチャラ」

「でもオイラ、ちょっと感心したぞ。無憂は紺尾を困らせることか自分の趣味かどちらかしかしないもんだと思って……あ、どっちもおまえ的には面白い遊びか!」

 

 くすくす悪戯をしでかした子供のようにふざけ混じりに言うのに、無憂は少し首を傾げ、困ったように口端を緩めた。

 

「みんなが楽しんでる姿がわたしも楽しいってだけ。だから何でも『遊んでる』だけ。碌でなしなことには変わりないさ」

 

 遠目に聳え立つ稲妻城の影を見やることで会話を切る。大概、古びた礼儀の空気感を纏いながらいちいち文を区切って差し止めにするような話し方をする人だから、会話の終わりを掴むのも難しい。つくづく自分が中心なのに、いつのまにか他人を巻き込んで、結果的に全員がその独特を愉しんでいる。

 

「あ、そういえばさっきのファデュイたちとも指切りしてたけど」

「うん、それがどうか?」

「いやあ……悪いやつとただ指切りして『もうしません』って言わせても、あんまり信用ないよなあって。璃月みたいに分厚い誓約書を書かせて、血印を押させた方がよかったんじゃないか?」

「……そうね、一つ話をしよう」

 

 潮風に吹かれ、紫水晶を加工した石のように色の凝縮された毛先が踊る。

 

「璃月の契約とは、岩神が世にもたらした概念の中でも高尚で画期的。この規則のおかげで、人々は他人とも確実な取引をすることが可能になった。だけど、契約というのは元より、双方の同意があれば変更可能なもの」

「無憂がオーナーになった時、当時の遊女たちとの雇用契約を全体的に改訂したみたいな話?」

「そうそう。だからね、契約というのは双方が破ることを許されず、双方が守ることを強制される、最高の保険なの」

「じゃあ、指切りは? あれもまあ、契約だろ?」

 

 足にへばりついたウミレイシの残骸を器用に剥がしながら手を横に振った。

 

「言ったでしょ、指切りの語源は遊女の『指切り』だって」

「ああ……あの幽霊も真っ青な怖い話な」

「切った指は、二度と元に戻らない」

 

 そこで、彼女のいう指切りの本質はそこにあるのだと気づいた。憂いない横顔はさっぱりと語る。

 

「だけど、パイモンさんの指摘通り、指切りに拘束力はない。あるのはウミレイシのように、どろどろべたべたとした情念だけ……」

 

 下駄を脱いで、片足を波に遊ばせる。

 

「残酷な話でしょ。刹那の爆発的な感情で、永遠を契るんだ。ある意味、稲妻にはお似合いだけど」

「じゃあ、破ってもペナルティーがないのか。それ狡いな」

「そんなことはないさ」

 

 不意に顔を上げ、濡れた素足に下駄を突っ掛けながら真っ直ぐこちらの肩にもたれるように接近し、吐息の数がしっかり数えられるくらいの距離にまで近づいた。ほんの真横で、とうの昔に虹彩のバランスを失っている瞳の歪みが狐の悪巧みのように細められる。

 

「指切りを破られたら、雨夜の内に相手の小指も切り落としにいき、そうしてこう、まじないをかけるように囁いてあげるのさ」

 

 唇が耳たぶのそばでゆったり動いた。

 

「『地獄で待ってる』……って」

 

 その声の冷たさに思わず身を引くと、面白がるように覗き込んでくる。今にも風に折れそうな小指を立てて、わざとらしく、見せつけるように。

 

「地獄は、死者の刑務所だと思って。武器をふるうあなたならわかるかもしれないけど……刀はね、小指がなければまともに支えられないの。なのにそんな風に呪われてしまう。でも役立たずの指を切られたら自刃すらできなくなる。面白いでしょ、永遠の役立たずを取ったら永遠の木偶の坊が残る」

 

 彼女はまるで、実際に報いを受けさせたことがあるかのような、実践的な喩えを使った。

 

「指切りは引き摺る永遠。後腐れない契約とは根本から違うのさ。……あ、だからね、御兄いさまがわたしと逢引してくれて嬉しかった。ありがとう」

 

 花鈿無憂はおそらく、誰かと指切りをして、破られて、そのツケを余さず払わせたことがあるのだ。

 

「火事も喧嘩も指切りも、燃え上がるのは刹那のこと。永遠には似合わない。だけど……火事も喧嘩も指切りさえも、しんと静まればその沈黙ごと『永遠』に昇華される」

「……沈黙」

「わたしみたいな人を脅してばかりの人間が周りを楽しくさせられる唯一の娯楽は、そうやって嫌なものを完全消化すること」

 

 子供らしく尖らせた口が蛸のようで、ようやく気が緩む。

 

「だからわたしはトーマが心底嫌いなの。あの火の不始末、怖くて見てられない」

 

 そこに落ち着くのかと呆れも覚えながら、気まずい思いで身が縮みそうになり、思わず目を逸らした。なんとなく、わかった。彼女が過激だとか、彼女の気性自体が恐ろしいだとか、そんな話ではないのだろう。彼女は根っからの善人で何事でも自分を楽しませる遊び人だけど、だからこそ、ある方向において潔白すぎるし、真面目すぎるし、情熱を秘めすぎている。

 

 その方向というのが、つまり、他者に対する義理人情に関する領域だ。

 

「じゃあ、そう言ったらどうだよ。あのまんまじゃトーマが可哀想だぜ」

「何度も言ったさ……何度もね。だけど、お嬢と若のためだからと、それこそ門前払い。ほんと、思い通りにならない人って嫌い」

 

 無憂は、自分が何を曝け出したのかわかっていなさげな口調でそう言った。

 

「ははーん。それじゃあ、おまえが嫌いなのって、トーマじゃなくて、トーマの処世術なんだな」

「え?」

 

 急に止まり、振り向いた。純粋な驚きで表情が消えていた。その妙な動揺にふれることなく、先を受け持つ。

 

「無憂って、物凄く心配性な良い人なんじゃないかって話」

「そそ、そんなわけないって、やだなあ御兄いさま方、わたしを揶揄うのはよし」

 

 意識の間隙が刺突された。突然だった。無憂の言葉を遮るように、突如として爆発音が場を引き裂いた。耳が麻痺するほどの大きさに、目の前で閃光が絶え間なく弾け続けるように明暗が繰り返される。

 爆風に肩をあおられ、たまらず押さえた耳がじんじんと熱く痛んだ。幾たびか地鳴りがし、地面が揺れ、辺りがひときわ静まった頃、パイモンががむしゃらに胴へ抱きついていることに気がついて背中をさする。

 

「大丈夫?」

「び、びっくりしたぞ……なんの音だ!?」

「たぶん、元素反応じゃないかな。凄く荒れてる」

 

 肌に感じる元素の粒がひりついている。これは覚えがある。

 

「雷元素と……炎元素じゃないかな」

「あっ見ろよ! 九条陣屋の方から炎と黒い煙が上がってる!」

 

 慌て声と共に指差す先を見ると、ぞっとするほど猛々しい火炎がもうもうと立ち昇っているのが見えた。

 思い当たり、一気に溢れた唾が、飲み込みづらい。息を吐く。

 

 

「戦争だからだ。誰かの放った火矢が、雷元素の神の目を持ってる兵士の力とぶつかったんだ……」

 

 

 油にでも引火したのかまた小規模な爆発音がした。火事を知らせる半鐘は既に鳴っている。しかし、陣屋には間違いなく、元々火消を担当していたこともある兵士が揃っているはずだ。

 

「大変だ、行こうぜ無」

「待って」

 

 そう思わず言った途端、隣の影が悪態を吐き捨てながら走り出した。

 

「全く本当に……!!」

 

 昨日の昼、無憂の悪口を井戸端会議で話していた町人を注意しに行った宵宮が言っていた。

 

『無憂、ぜんぜん悪い人やないんよ? 花火の相談しに行くといつも親切にしてくれるめっちゃええ人やし、遊んだらお互い一日笑いっぱなしの楽しい人や』

 

「なあ旅人、無憂いいのかな……九条陣屋の方、行きたくないんじゃないのか?」

 

『でも……他人を傷つけるような悪いことしてる奴には別やから。"血傘美人"のモデルやーなんて言う奴もおるくらいやし……ああこれ、有名な市井怪談なんやけど。流行った時期が、無憂が有名になった頃と一致する言うて、よく言われるんよ』

 

「……無憂が行くって言うんだ、手伝わなきゃ。そうでしょ?」

 

『まあともかくな。無憂に当たり強い奴はみんな、大抵が後ろ暗いことしてる奴なんや。気ぃつけな』

 

「どうして無憂は、やらなくていい嫌な事にも無理やり介入して楽しくしようとするんだろう……」

 

 彼女は根っからの善人で、何事でも人を楽しませようとする遊び人だ。火を消すことが、彼女の使命だ。

 

 だけど、本当は、誰がそれを望んでいるのだろうか。

 

 

『火は嫌いだし、揉め事も本当はそんなに好きじゃない。でも、だからこそ楽しくしなきゃだし、楽しまなきゃでしょ?』

 

 

 本当はやりたくないことを、進んで徹底的に片付けようとするのは、どうしてだろう。

 

 果たして『自分のため』が一番だろうか。

 果たして『趣味のため』が一番だろうか。

 果たして『嗜好のため』が一番だろうか。

 

 そうではなく、善人だからこそ、他人のためという動機が、一番大きくなるのではないだろうか。

 

「ああ、火があ!」

「政仁様がおられない時に!」

「点呼終わったか!? 全員いるのか!?」

「山本がいない!」

「あいつ米倉だ、さっき俵を取りに」

 

 丘を登りきった時には既に、想像を絶するほど膨らんだ炎は古い様式の横長屋敷を飲み込むことに飽き足らず、天さえもを焦がしていた。慌てふためく兵士の群れが焦燥に拍車をかけているようで、消火活動は始まっていたが進みが良くない。

 焼け石に水、という諺を思い出すほど竜土水による放水は微小な効果しかなかった。

 

「……巻物で見た、大火みたいだ……」

 

 それだけではない。火の手が激しすぎるからだろうか、戦で消耗しているからだろうか。纏を持ち突入する人間も、建物を破壊する人間も、こちらに気づく人間もおらず、ほとんどが茫然と火の梢の揺らぎを、汗の滲む赤ら顔で見上げていた。

 

「取り残されてるって……で、でも一気に消火したらこの屋敷潰れちゃうよな!?」

「……俺が」

 

 奥歯を噛む。恐ろしさはあるが、無憂にだけ任せて見てはいられない。

 

「無憂、水かけて」

 

 だって、彼女の手が、震えている。

 

「俺が行く」

 

 天領奉行に絡まれる前も、ファデュイと戦う前も、震えていたではないか。

 それを飲み込んで、目の前の凶事を娯楽に変えようとしていたではないか。

 

「その取り残された人探してくる」

 

 振り向いて、鋭く首を振る。

 

「危険だよ」

「必ず戻る。指切り」

 

 強引に垂れた右腕を持ち上げ小指を絡めて見つめると、目の奥の諦念が瞬時に決意に変わった。ばしゃんと頭から水をかぶせられる。

 

「見えにくいけど」

 

 パイモンを無憂に預け、背を向けると、か細い小声が幻聴のように聞こえてきた。

 

「母家と離れの間に中庭がある。そこに米倉がある……」

 

 

 頷き、一歩踏み出す。

 

 

「あ、ああ、あんた、たびびとの……?」

「話は後!」

 

 熱さも煙も覚悟していたより、こちらの息の根まで手が届かなかった。甲冑を全て脱がせても重たい大人の身体を引きずるように歩いていけば、火が舞い踊るように道を圧迫しながらも、肌や喉を焦がす前に引っ込む。その先から無憂がこちらをじっと見据えている。ああしてずっと見て、自分が歩きやすいように部分的な消火をしてくれていたのだ。

 

 ああ、やはり、彼女は。

 

「無憂!」

 

 入れ違いに踏み出した彼女の手は、もう、震えてはいなかった。

 

「下がってて!」

 

 傘を空に向かって投げ、それを中心に太陽と対照的に生まれたような巨大な水玉を作り上げる。一度踵を打ち鳴らせば質量を伴って屋敷真上に到着する。

 

 二度踵を打ち鳴らせば、夕日を屈折させて閉じ込めていた万華鏡のごとし玉が破裂し、弾の雨のように満遍なく降り注いだ。

 

 三度目はない。火が消えたような沈黙を破った忌憚ない歓声が、とうに満ち満ちていたから。

 

 屋敷に背を向け、落ちてきた傘を軽やかに掴み取り川の流水の動作で開く。次いで風に乗って降ってきた細雨が、番傘に弾かれて落ちていく。憂いでいる。しっとり濡れた憂鬱が、彼女のかんばせを色づかせる。奇妙に目を引く瞳が自分を見て、少し笑った。

 

「指切り、あんな時にするもんじゃないよ。……本当に死んだら、破ることになるのに」

 

 びっしょり濡れた髪をまとめながら少し笑い返す。

 

「だから指切りしたんだ。そうしたら、頑張れるだろ」

「……御兄いさま、本当、気をつけた方がいいよ……」

「無憂こそ。本当は怖いくせに」

 

 目を見開き、急に腰が曲がったかのように一瞬縮み込み、視線を逸らし、その剥き出しの狼狽の末に、ずいと小指を差し出してきた。

 

「それはそれ、これはこれって、だけで、楽しいし、趣味だし、でも恐怖って通過儀礼みたいなものだから、その」

 

 赤らんだ頬にはもう恐怖も憂鬱もなく、ただ、年相応の秘密を乞う恥じらいがあって。

 

「…………ぜ、絶対内緒!」

 

 相棒と顔を見合わせ、呆れ笑いをした。

 

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