「15時からアポイントを取っている、サンレイレーザーと申します」
「承りました。彼女は既に4階の〇号室でお待ちです」
ここは都内某所に位置するURA本部。一体どうしてサンレイはそのような場所へと足を運んだのか、それはつまり、自身の母ラスカルスズカからの勧めに他ならなかった。
母はスズカさんの妹としての話をよく聞かせてくれたが、レースのことは、そして彼女がトレセン学園に入学した後のことについてはよく知らなかった。
それも当然だ。トレセン学園に入学してしまえばあとは寮での生活を強いられることになる。2年も早く入学したとあれば、その実態については最早全く認知していないと認識していいだろう。誰にその話を聞こうか頭を悩ませるサンレイに、母は次のように言葉を続けた。
「そういえば毎年姉の命日になると、手紙をよこしてくれる人がいる」と
もしかすると、生前彼女と親しかった人物なのかもしれない。その人物を訪ねようとその住所や勤務先をトレセン学園に尋ねると、その人物は現在URA本部に勤務していることが判明し、こうしてアポイントを取って尋ねに赴いた次第だ。
近未来的なデザインが施された建築物の中を案内に従ってサンレイは歩き進む。やがてとある部屋の前で立ちどまると、ドアを短く2度ノックした。
―――どうぞ
凛とした声が室内から返ってくる。サンレイがドアを引き開けると、そこにはボブカットのウマ娘が一人座っていた。
「この度はお時間を作っていただきありがとうございます。私はサンレイレーザーと申します」
その人物に向かって深々とお辞儀をすると、彼女は徐に口を開いた。
「スズカのこととなれば、私はいつだって話をするための時間をつくろう。彼女の姪となればなおさらだ…紹介が遅れた、URA本部第1法務部チーフ、エアグルーヴだ」
仰々しい肩書の後に自己紹介をされた彼女の名前。その名前を知らないものはいない。何しろ彼女は「女帝」としてその圧倒的な実力と堅実なレース運びで数々のタイトルをものにした、伝説とも言うべきウマ娘の一人だからだ。スズカ同様、彼女の経歴もまとめられその資料館に掲示されることが決定されており、その取材のあとでこのような時間を設けてもらった次第だ。
「それでは、お話をお願いします」
テーブルの上にボイスレコーダーがおかれたことを確認すると、エアグルーヴは徐に口を開いた。
私が産まれたのは都内の某所で、両親から一身の愛を受けて…自分で言うことは少々恥ずかしいが、ごく普通の家庭で生まれた。物心ついた時から私は将来はトレセン学園に進学して、「女帝」と呼ばれるにふさわしいウマ娘となろうという目標があったが、それは紛れもなくお母様の影響によるものだ。お母様は私同様かつてトレセン学園に進学して優秀な成績を収めたウマ娘で、その様子から現役時代は「女帝」、そう呼ばれていた。そのお母さまの背中を間近で見てきた私にとっては、必ずお母さまと同じようにその軌跡をたどるという信念が、幼いときから身についていたことは言うまでもない。
一般的に言えば、ウマ娘という種族すべてが競技者としてトレセン学園のような機関でその研鑽を積み、レースに出場することができることができるかと言われればそれは断じてない。人間にもスポーツの世界で活躍できるのはそれを志すものの内、ほんの一握りであるように、私たちウマ娘もまた同じ極々少数でほとんどのウマ娘は各々高校や大学を卒業し、就職したり結婚したりと普通の人たちと変わらない人生を送ることが常だ。そんな中で私が競技者としてターフの上に立つことができたことは、正に運がよかった。そう言い切ることができるだろう。
ましてやその内で、我々ウマ娘たちを指導し勝利に導くために切磋琢磨するトレーナーにスカウトされ、実際にレースで結果を残すことができる者は上澄みも上澄みであることは念頭に置いておかなければならない。トレセン学園に入学したウマ娘のほとんどは、トレーナーに見初められることなく、特にレースで結果を残すことができないことで学園を去ってしまうこともザラにある。私のクラスでも、1学期が終わったころには2人、1年が終了した時には10人のクラスメイトが教室から姿を消し、その空間には持ち主を失った木製の机と椅子が物悲しくそこに鎮座し、その世界に身を投じた私たちに敢然たる、そして残酷な事実を叩きつけていた。
そんな環境が常に渦巻く世界だ、日頃学友として日常を切磋琢磨する我々も、一度トレーニングやレースとなれば、瞬く間にそこは殺伐とした世界へと早変わりする。気を抜くことなど許されない。道行く途中で倒れた者に手を差し伸ばすことなど許されない、そんな鬱屈とした世界へと。
だからこそ、私にとって…いや、学園にいたウマ娘にとって、スズカは正に「異色」な存在だった。
私はトゥインクルシリーズ、そして母から受け継いだ「女帝」として完全な存在となることを目指すにあたって、とあるチームに所属していた。君も恐らく名前くらいは知っているだろうが、「リギル」というチームだ。
チームリギル。三重連星によって構成されるケンタウルス座のうち、主星であるリギルケンタウルスからその名をとったチームで、既にそのチームはトレセン学園には存在しておらず、またそのチームを導いた東条ハナトレーナーも数年前にトレセン学園を退職しているため、その名残は既に学園から完全に消失してしまっていたが、そのチームの名前なら学園に通うウマ娘なら全員が知っている、伝説と言っても過言ではないチームだった。
「皇帝」としてG1を7勝した、勝利を語るよりも生涯でたった2度だけ喫した敗北を語りたくなる、それほど圧倒的な実力を誇った伝説、シンボリルドルフ
「シャドロールの怪物」、クラシック3冠を制しその名声を欲しいままにしたウマ娘、ナリタブライアン
「スーパーカー」、圧倒的な実力と走法で勝利を手にしたウマ娘、マルゼンスキー
……そして気高き理想とそこに裏打ちされた高い実力と頭脳でオークス、天皇賞、大阪杯というビッグタイトルをものした「女帝」、エアグルーヴ。
彼女たちをはじめとした、正に伝説ともいうべき錚々たるウマ娘たちが一つのチームで研鑽を積んでいた。その事実にサンレイは思わず背中を直線に引き延ばす。その様子を見つめたエアグルーヴはほんの少し口角を緩めると、言葉を続けた。
私は理想を叶えるために、何が何でも勝利を重ねる必要があった。それは私だけではない、各々がその信念と執念を抱いてその門戸を叩いた。そしてある日、私は運命的な出会いをした……すなわち、私はスズカに出会ったんだ。
「今日は選別レースを行う。タイムを計り、そのタイムの上位2名を、今年度のチームリギルへの加入を許可するからそのつもりで」
ボディラインに沿った皺ひとつ見受けられない、上等なスーツを身に着けた、ロングヘアーを後ろに一つでまとめた黒縁眼鏡の女性、東条ハナトレーナーは体育座りをした、入学して間もない私たちに対してそう言葉を投げかけた。
2人だけ?
その言葉に新入生の間からは、不安な色を孕んだくぐもった声があちこちから発生し、波及していく。ざっと見ても、体育座りをしていたリギルへの入会希望のウマ娘の数は100人を超えていた。その中で選ばれるのは僅かに二人。あまりにも狭き門にウマ娘たちも動揺を隠しきれてはいなかったが、その中にいた当時の私は興奮でその身が打ち震えていた。恥ずかしい限りだが、新入生の中には今私に勝てるようなウマ娘など存在しないと考えていたんだ。私は母の娘として、そして女帝としてこんなところで躓くわけにはいかない。そう思っていた。
選抜レースとはいえ、私はそこではじめてトレセン学園でターフの上を駆けた。あの感覚は今でも忘れらない。地面を脚で蹴り上げて、正面から風が頬を撫でつけていく。そしてゴールを通過あの瞬間の、世界が一瞬だけ停止する、あの感覚だ。なにはともあれ、私は横を走るウマ娘たちを一蹴し、見事にそのグループで1位を獲得したし、タイム自体も全体で1位だった。これは確実だ、私は胸を張ってリギルに入ることができる、そう思っていた。少なくともこの時までは。
彼女は私の次のグループで走っていた。今でも覚えているよ、いや忘れようにも忘れられない、彼女の走り。ペースだの戦術だの、そんなウマ娘がレースで勝利する上で基本的ともいえるような要素を全て度外視した、ハナから全速力でつき進むその姿勢に、見ていた私からはどよめきが走った。彼女がゴールを通過した時、私はとてもではないがタイムを確認する気にはなれなかった。そんなことをせずともわかる、覆しようもない完膚なきまでに敗北を叩きつけられたことを、実感したからだ。
そして何より当時の未熟な私を動揺させたのは、彼女の走りはもちろんだが、最たるはそれではない。それは「彼女が楽しんで走っている」ことだった。
「……それは一体?」
サンレイの口から発せられた疑問にエアグルーヴは顔を向け、腕を組むとつぶやくように言葉を続けた。
「君もウマ娘ならわかるはずだ。ウマ娘が勝負の世界に身を置くということになれば、その精神構造は少々、いやかなり変革をとげることになる。最初は楽しいだとか、期待だとか抱いて走っていたとしても、そんなものは多少なりともこのレースの世界に身を投じる上で、執念という最も精神的な、不確定な要素が心の中を覆いつくしていくはずだ。」
エアグルーヴはそこで言葉を止めると、その視線をサンレイへ向けた。彼女の言うことは最もだ。
「だがそれは決して悪いことではない。この執念というものを抱かなければ、あまたのレースをはねのけて勝利を手にすることなど土台無理な話…そのはずだった。」
「つまり、楽しんで走っていなかったと?」
「決してそういうつもりではないが、そのような勝負の世界に身を置き続けるうちに少しずつその気持ちは何処か置き去りにしてしまっていた。少しずつ擦れていくものだと思ってくれて構わない。君もそうだろう?今君は楽しいと思って走っているか?」
その言葉は、今のサンレイには実に鋭く突き刺さった。確かに私は今、楽しんでレースに臨んでいるかと聞かれれば、決してそういうわけではない。振るわない成績に、ハードなトレーニング。自身の走りは、ある種の切迫感に駆り立てられていたものであると言わざるを得なかった。
その問いかけに対して返事に窮していると、エアグルーヴは静かに彼女の顔を見つめて頷き、そして言葉を続けた。
だからこそ、はじめてスズカの走りを見た時、正直嫉妬したよ。彼女は私たちが何処かで置き忘れてしまったものを未だその走りに宿し続けていた。彼女には執念や勝利への渇望では決してない、「走りたい」というただそれだけの想いを胸に彼女はレースの世界に身を投じていたんだ。だからこそ、ウマ娘としての原体験を宿した彼女の走りは、それを目撃した観客はもちろんだが、私たちのようなウマ娘さえもその魅力に取りつかれたものも少なくない。私もその一人だ。
選抜レースを終えたあと、彼女は皆が姿を消したターフに一人残り続けていた。それに気になった私は彼女に声を掛けたんだ。なぜ彼女に声をかけたのか……それはたぶん、彼女が一体どんな人物だったのか。それを知りたかったのだろう。私を負かした彼女の顔をじかに拝んでおきたかった。
「……サイレンススズカ」
彼女の顔は夕陽を浴びて、伺うことはできなかった。トレセン学園での初めてのレース、彼女は一体何を思っていたんだろうな。今となってはそれはもうわからずじまいなわけだが。
「…あなたはエアグルーヴね」
物静か。それが彼女に抱いた印象だった。聞いたこと以外は余計なことは特に話そうとしない。気まずいと思って無駄な会話をつづけようとする様子もない、そんな印象だった。その一言の応酬の後、しばしの沈黙が二人の間を支配していたが、意外にもその沈黙を打ち破ったのは彼女の方からだった。
「ねぇ、エアグルーヴ。アナタは生徒会の副会長よね?なら一つ聞きたいことがあるんだけど……」
「なんだ?」
「門限って何時かしら?」
門限の時間を聞くとは。あまり不真面目な生徒には見えないが、夜遊びでもしたいというところだろうか?そう思った私は少々警戒しながら言葉を投げかけた。
「…どうしてそんなことを聞くんだ?」
私がそう尋ねると、スズカは少々申し訳なさそうに首をすくめながら私の問いにこう答えたんだ。
「……実は夜のランニングに行くと時間を忘れてしまうことが多々あって。気が付いたらどこまで来たのか分からなくなることもあるから、気を付けないとって思って」
物静かで、そして変わった奴。そして何より走ることが大好きなウマ娘。彼女の印象はそれに決した。
それから私たちは同期として、ライバルはもちろんのことだが良き友人として交流するようになった。彼女は本当に走ることにしか興味がなくてな。よく練習後にランニングにいっては門限を忘れて走り込んでしまって、そのたびに私が叱らなければならなかったものだ。そのたびに彼女は申し訳なさそうに耳を垂らすが、また数日たつと同じようなことをしでかしてしまう。全く手を焼くやつだった。
その言葉を口にしたエアグルーヴの瞳には、懐かしむような色と、そして同時に既にその日々は決して戻らないことを悔やむ悲しみの色も宿していた。サンレイはそんな彼女の何とも言えない表情を見つめながら、徐に口を開いた。
「……それこそ、その走りたいって純粋な想いがあったからこそ。彼女は強かったんですかね」
「いや……確かに彼女は強かった。だが、彼女は初めから強かったというわけではないんだ」
「………?」
その言葉にサンレイは思わず首を傾げた。どうやらエアグルーヴの話によれば、サイレンススズカのサクセスストーリーは初めから順風満帆というわけにはいかなかったようだ。
「彼女の魅力……そして彼女の走りの武器は「大逃げ」だ。ハナから足を溜めたり、ペース配分に気を配ったりといった展開など毛頭するつもりのない、ただ先頭の景色を求めて全速力でつき進むのが彼女のスタイルであり、彼女のすべてだった。だが……それはあまりにもセオリーからは逸脱した走りだし、あまりにも荒唐無稽な代物と言わざるを得なかった。見事選抜レースで1位のタイムを叩きだし、リギルに入団したスズカだったが、東条トレーナーの指示は、その逃げを封じて、「普通」の選手としてのウマ娘としてのトレーニングを受けるように、というものだった。彼女はその指示に従って、先行策や差し策でトレーニングを行い、クラシック戦初戦である皐月賞に出場したが、結果は惨敗だ。あの走りは今でも覚えている。まるで走ること自体が苦痛みたいに、顔を歪めせて走っていた。バ群に身体が埋もれてしまい、元々ウマ娘としても他の選手に比べても身体が小さい彼女だ、思うように前へ抜け出すことはできなかった。
そんな調子の彼女だ、弥生賞では勝利を収めることができたが、続くクラシックの日本ダービーでも思うように結果を残すことはできなかった。彼女にとって、それは「走る」こと自体が楽しいということに疑念を抱くようになるには十分すぎる出来事だっただろう。スズカにとって、先頭の景色を見たい故の逃げの走りであって、それを封じられたとあれば彼女にとっては多大なストレスだったことは言うまでもない。彼女は夏を迎えるころには、東条トレーナーにレースに出たくないと申告するまでに事態は深刻なものと化していた。
ある時私はそんな彼女に尋ねたことがあった。あれはチームの練習が終わって、寮へと戻る道中の時だ。彼女はその時、いつもの無口な様子とは明らかに毛色の異なる、落ち込んだ表情をしていた。
「……スズカ」
「……エアグルーヴ」
彼女の憔悴具合は、正に今にも火が消えてしまいそうなロウソクのそれだった。友人として彼女に何かしてやれることはないかと思ったが、この時の私は未熟だった。その時の私には、落ち込むスズカに対してかけてやれる言葉はなかった。ただ彼女の肩に手を置いて、その気持ちに少しでも寄り添うことしかできなかった。
「でも、彼女は勝てるようになったんですよね……?」
「あぁ」
サンレイの問いに、エアグルーヴは静かにうなずき返す。すなわちエアグルーヴや話に出てきた東条トレーナーの他に、彼女の気持ちを突き動かす動機が存在したということだ。
……そんな彼女が勝てるようになった。それはトレーナーに出会えたことが大きいだろうな。
当時彼は新人トレーナーで、これまでにウマ娘を担当したことはなかった。それは言ってしまえば経験がないことに他ならない。そんな彼のような新人トレーナーには、中々ウマ娘が担当に付くことはない。ほとんどの新人は、選抜レースで振るわずあぶれてしまったウマ娘を、お互い仕方なしに契約を結ぶことがほとんどだ…だがそれもある意味当然の帰結だと言えるだろう?君だって、右も左も分からないような新人に自分の人生を任せてしまうことは少々リスキーな行動と言えるだろう?出来ることなら優秀な、多くの担当経験があるベテランに担当になってほしいと思うはずだ。
……だが、新人のいい点は、凝り固まった先入観が存在しないことだ。彼も例にもれず、真っ白なキャンバスが如く、セオリーに固執しない指導方法を行うという気概をもってトレセン学園にやってきて、そして燻っていたスズカに出会った。
彼は既にチームに所属していたとは知らず、既にその注目はすっかりと尻すぼみとなっていた、スズカに声をかけて、彼女の話を聞き、そして逃げを否定しない練習を個人連の時間にアドバイスして、そしてスズカは彼のアドバイスに従った。そしたらどうなったと思う?彼女の走りは、再び息を吹き返したんだ。窮屈な、息苦しさを窺い知れるような走りではない、まるで「自由」を体現するような走りを取り戻したんだ。
やがて彼女は、チームを抜けてそのトレーナーと契約を結びたいと東条トレーナーに申し出た。トレーナー自身も自身のトレーニング方法が彼女とは相性が悪いことは重々承知していたのだろう。東条トレーナーも彼女を無理に引き留めるような真似はしなかったそうだ。
結局スズカはリギルを辞めて、そのトレーナーと二人三脚でトレーニングに打ち込み始めた。リギルを辞めても、私たちの関係が変わるようなこともないし、東条トレーナーもそれで特に彼女に対する扱いを変えるようなことはしなかった。彼女は人格者だし、そうでなければ優秀なウマ娘たちを率いることなど叶わなかったはずだしな。
そして私とスズカが相まみえたのはシニア期の宝塚記念の時だった。
―――宝塚記念。
有馬記念と並ぶ、上半期を締めくくるファンの人気投票によって選ばれたウマ娘しか出場することが許されないG1レース、宝塚記念。スズカが出場した20年前の宝塚記念の映像を、私は見たことがあった。その時の彼女は、確か……
サンレイがエアグルーヴへと視線を向けると、彼女は少々むっとしながら、そして少々笑みを浮かべながら言葉を続けた。
「君も知っている通り、結果はスズカの完勝だった。私と、そしてリギルは彼女の先頭をひた走るその背中にたどり着くことはついに叶わなかったわけだ。悔しいという気持ちが微塵も感じられぬほど彼女の走りは最早完成されたものになりつつあった。あれはなんというか……即身仏を見た時のような、そんな気持ちだった。」
ウマ娘としてあるまじき「心の中で敗北を認める」それは心の中の柱である執念を捨て去ることに他ならないが、事実粗い画面の向こうで歓声の中で、先頭でゴールを迎える彼女の姿には、そう思わせる圧倒的な何かを感じさせた。画面でもそう感じるのだ、彼女のライバルとしてそのレースに出場した彼女であればそれはなおさらのはずだ。
「だが、先頭でゴールを迎えて、レースを終えた彼女の気持ちは目のまえの勝利を喜ぶようなそれではなかった。少なくとも私には……同じレースに出場して彼女のそばを走った私には、少なくともそう感じた。一体彼女が何を思って、あのレースに臨んだのか。それはもうわからない。」
6月に行われた宝塚記念の僅か4か月後。彼女は、サイレンススズカは天皇賞に臨み、そして事故に遭った。一体彼女が宝塚記念に見せた表情とは一体なんだったのか?そして彼女は天皇賞にどんな気持ちで臨んだというのか。疑問は解消するどころか、ますます深まるばかりだ。口をつむぐサンレイをよそに、エアグルーヴは静かに立ち上がると壁にかけられた時計に視線を送った。
「スズカの身にあんなことがあっても、私はレースやトレーニングに打ち込んだし、トレセン学園を卒業してからはここに就職して我武者羅に働いてきた。それは偏にその悲しみについて少しでも考える時間を減らしたい、忘れたいという気持ちあってのことだったんだろうな」
「……」
「さぁ、私の話せることは全て話せた。ありがとう……君がこうして訪ねてくれなければ私はきっとスズカのことを胸に秘めたままだった。君の行動で、確かに結果は変わった。」
「いえ…叔母のことを、スズカさんのことを教えていただきありがとうございました」
「もう彼女の声を、思い出すことは叶わない。時間というものはそれだけ……20年という期間はそれだけ残酷ということだ」
室内の時計の針が進むたびに、その音が静かに、しかし着実に室内に響き渡る。
彼女はそうつぶやくと、エアグルーヴは自身の目じりに刻まれた小さな皺を指でなぞりながら、話し込んですっかり暗くなってしまった夜の景色を覗き込んだ。
「私は、今迄楽しいことも辛いことも沢山経験してきた。スズカのことも、それの最たるだ。この傷が癒えることは、私の息が止まるまで決してないだろう。ずっと心の中で蠢き続けるそんな傷だ」
「私も、聊か長く生き延びてしまったな」
そう口にした彼女だったが、サンレイは思わずにいられなかった。恐らく彼女はこう言いたかったのだろうと。
「私もまだ、生きなければな」と