彼女は一体どんな人物だったんだろうか?
―――少し変わった、でも誰よりも走ることが大好きな少女。
母であり、スズカの妹であるラスカルスズカと、スズカの親友だったエアグルーヴの記憶の断片を繋ぎ合わせた、今のところの彼女の人物像。これから人から話を聞くことでそのイメージはいくらか覆ることはあるかもしれないが、大方のところはそんなものだ。ウマ娘としての原体験である「走る」という衝動に取りつかれた彼女は、イカロスのように天高く空を舞い、そしてそこから帰ってくることがなかった。
彼女は一体、どんな気持ちで最後のレースのゲートを潜ったのだろうか?唯々、いつものレースと変わらずに、先頭の景色を見たいという気持ちに駆り立てられていたというのだろうか?それとも、なんらか別の意思…虫の知らせとでもいうような代物によって、彼女は全く別の気持ちで走ろうとしていたというのだろうか?
いずれにしても、既にこの時点でサンレイはただの押し付けられた仕事ではない、自らの意思によって…かつて存在した一人のウマ娘の魅力に取りつかれたものとしてその調査にあたっていた。彼女についてもっと知りたい。そして彼女の核心について触れたい、もう決して届くことのないその背中に触れたいと内心考えていた。
だがその尽きぬ疑念の全てを解決する手段など、もう自身は既に持ち合わせていない。唯一の方法は本人にそのことを尋ねるというものだが、それは最早この世に彼女がいない以上はその機会は逸し、叶わぬ願いと言っていい。こうなってしまった以上は、彼女に所縁のある人物を訪ね歩き、彼女が何を言っていたか、その時どうしたか…そんな客観的な情報、しかも20年という月日を隔て、既にその鮮明さに陰りが見え始めたピースを拾い集め、その断片を何とか一つの形にこしらえていくほかない。
「サンレイ!」
彼女の思考は、自身の名前を呼ぶ声によって現実に引き戻された。サンレイは自身が授業中に先生にずっと指名されていたというのにその呼びかけを無視していたことに気が付くと、急いで立ち上がり、これ以上に深くはできぬほど頭を下げ、謝罪の意を示した。
翌日、サンレイは東京駅から新幹線に乗り込むと、とある場所…即ちスズカのことを知る人物から話を聞くために、その人物がいる場所に向かっていた。
前回エアグルーヴに話を聞いた折、彼女について知る人物を紹介して欲しいと頼んだところ、それならばとエアグルーヴに一人のウマ娘を紹介され、サンレイはこのように新幹線に揺られ、そのウマ娘にアポイントを取った上でその場所へと向かっていた。そのウマ娘を紹介された際、彼女はこのように付け加えてもいた。
「彼女は最後にスズカの背中を見たウマ娘の一人だ」と
新幹線に揺られ、数時間。旅行気分で乗り込んでいた新幹線での移動も、母を訪ねた際に続いて短期間で2回目となってしまえばその気持ちもおさまるというものだ。東京駅から新幹線に乗り込み車内で揺られ、時間をやり過ごすために前の座席から机を引き出すと、そこにタブレットを置いて20年前の…彼女のレース映像に目を通した。
…毎日王冠。
10月上旬に東京レース場で行われる、芝1800メートルのG2マイル線。このレース自体はG2である以上そこまでの重要性はないように見受けられるが、このレースにおいて最も価値を持っているのは紛れもなく開催される「時期」だった。
10月上旬に開催される本レースは、秋から師走の有馬記念まで続く怒涛のG1ラッシュにおけるシニアの初戦、秋の天皇賞やそのあとのジャパンカップ、そして安田記念においてその前哨戦として、その勝敗は皐月賞前の弥生賞のように極めて重要視される傾向にあり、スズカが出場した年は彼女以外にも非常に強力なウマ娘たちがしのぎを削るものであったとファンの間では有名な話だったようだ。
画面の向こうに映し出されるスズカの逃げ、いやそれさえも凌駕する「大逃げ」の走りはその他すべてのウマ娘たちを寄せ付けぬような圧倒的なスピードで序盤から飛び出し、その背中をとらえるものが出ることなく彼女は先頭でゴールを迎えていた。
…これが生涯で彼女が勝利でゴールを通過した、最後のレース。
スズカさんはこのレース、一体どんな心持ちで挑んだというのだろうか?
今私が向かっている彼女からの話を聞ければ、そのことがわかる…もしくはそのヒントを得ることができるかもしれない。エアグルーヴが言っていたような「いつもの勝利とは違う表情を伺わせていた」というスズカのことも、何かわかることがあるかもしれない。
やがて新幹線は、アナウンスと共にゆっくりと停車する。天井のラックに上げていた荷物を取ると、外へと足を繰り出した。駅から出たサンレイは、手を挙げるとタクシーに乗り込み目的地に赴いた。
市街地をしばらく走ると、そこには一軒の、時代の名残を伺わせる伝統的な建築様式で造られた家が鎮座していた。住所に基づけば、どうやら彼女が住んでいるのはここのようだ。
―――朝日杯フューチュリティステークス、宝塚記念、そして2度の有馬記念制覇。
類まれな成績を残し、トレセン学園を卒業してからは茶道の家元に弟子入りし、その腕を大成させたというが……
ガラス戸の前に立ったサンレイは静かに息を呑むと、トントンと2度扉を叩き声を掛けた。
「……電話で申しましたが、お話を伺いに参りました、サンレイレーザーと申します」
「どうぞ」
清涼の如く透き通った、しかし張り詰めたその声に緊張しながら戸を開けると、そこには一人のウマ娘…現役のウマ娘と見まがうようなプロポーションでありながら、妙齢のウマ娘では決して醸し出すことができない雰囲気を纏った彼女は戸から姿を現したサンレイを目に止めると、静かに頭を下げながら徐に口を開いた。
「遠路はるばる、ようこそいらっしゃいました。グラスワンダーと申します」
すぐにスズカについての話を聞こうと思っていたが、サンレイは玄関から室内へと上げられるとなぜか客室ではなくそこを通り過ぎ、その奥へと案内された。
「えっと…これは?」
「……これから話すことは、私にも少々覚悟が要ることです。ですから、より繕うことなく素直にお話しできるように、ここへ」
そこは彼女の本業…魂の対話の場であり、そこでは身分や環境、すべてを除外し一人の人やウマ娘としての会話を臨む茶室だった。
「どうぞ」
グラスに促され、おずおずと一角に正座したサンレイは見事な手さばきで、まさに達人とも言える無駄のない所作で茶を淹れると、その椀を静かにサンレイのもとへと差し出した。
「ありがとうございます。」
手渡された茶碗を、テレビやネットで齧った知識で、2度ほど回して口に含む。果たして作法はこれであっているのだろうか?ひょっとして失礼なことをしてしまっていないだろうか?恐る恐るグラスの方へと視線を向けると、彼女はその口元を僅かに上に上げ、穏やかな表情を浮かべていた。
「あ、あの…」
果たして今の所作で大丈夫だっただろうか?その意を込めておずおずとグラスに尋ねようとすると、グラスは全てを見透かしたような、まるで菩薩のような笑みを浮かべてそれを制した。
「大丈夫ですよ。マナーとは寛容なものです。サンレイさんがマナーに合わせようと努力しただけでも、立派なマナーだと私は思います」
「……あ、ありがとうございます」
緊張で味わうことさえできなかった茶の一口目も、グラスにそう言われていくらか緊張もほぐれると、続けて口にしたそれの苦みや、その奥に宿る味わい深いうま味やそれを引きたてる薫りにも気が回るようになってきた。当たり前のことではあるが、近所で買ったような茶葉では決して味わうことができない代物に舌鼓を打っていると、それに視線を送っていたグラスは徐に口を開いた。
「それで、貴方の叔母…スズカさんのことについて聞きたい。ということですね」
「はい…どうかグラスさんが知っていることがあれば、何か教えてほしいんです」
そう言って向き直ったサンレイの瞳を、まるでその真意を図るようにじっと見つめるが、やがて笑みを浮かべると、徐に口を開いた。
「わかりました、私からお話できることは全てお話します」
その話の切り口は、まるで何かを覚悟するような、嵐の前の静寂が包み込むようなそんな空気が満ち満ちていた。
意外と思われるかもしれませんが、私は日本で生まれたわけではありません。アメリカ合衆国で生まれ、小さいころに日本に移住してきました。日本生まれではありませんが、幼いころから日本の文化に慣れ親しんで、茶道や華道に日本舞踊、書道そして薙刀、日本が大好きな両親の勧めを受けて、さまざまな日本の伝統文化について学び、そのいろはについて触れて誰よりも日本を愛している、そんな自負をしていました。
そういえばここに来る途中に壁に掛けられていた物々しい薙刀や、達筆な習字。そして棚に置かれていた活花など、日本の伝統文化を想起させるような代物が様々おかれていたが、それらもおそらくグラスの意匠が凝らされた物だったに違いない。
サンレイの目のまえにいるウマ娘はどこをどう見ても生粋の「大和撫子」にしか見えない。彼女自身の口からその事実を聞かされるまでは、きっと彼女がアメリカの産まれであることなど到底気が付くことなどなかっただろう。
お茶は本当にいいものです。お茶を立てているときは俗世での悩みや煩わしいことから隔絶されて…と今はこの話ではありませんでしたね。おかげ様で礼節、真心、他者への思いやりなど様々なことを学ぶことができました。未だその域には至っておりませんが学生のころの私は、礼儀正しく教養溢れる大和撫子になれたら、と日々修行に励んでおりました。
彼女が大和撫子ではないというならば、この日本には大和撫子などきっといないだろう。しかし、この分野に至っては最早自己研鑽を極めなければならないもの。きっと彼女自身が納得する答えを出すことができなければそこに辿りつくことなどできないのだろう。
…とはいえ、私もウマ娘。競技者として一歩踏み出すとなれば私も勝ちたいと願うことは必然です。トレセン学園の門を叩いた私は選抜レースで結果を残し、チーム「リギル」に所属する運びとなりました。
チームリギル。その名前を聞くのは二度目だ。
「エアグルーヴさんの…」
「えぇ。エアグルーヴ先輩は、私の1つ上の先輩でして。トレーニングの折にはよく先輩からアドバイスを賜りました。先輩の中距離に関するレース配分はとても参考になりました。私の宝塚記念の勝利に一役買ったと言っても過言ではありません」
宝塚記念。確かスズカが勝利したレースの翌年に行われたそのレース映像はここに来る前に見た。今目のまえに鎮座する穏やかなウマ娘とは全く様相が異なり、まるで勝利に飢えた獣のような、そんな走りを見せつけ同期の中では頭一つ抜きんでていたスペシャルウィークを打ち破り、その勝利をものにしていた。
私はウマ娘として、頂点を目指していました。この心に燻り、そして大火へと豹変する勝利への渇望を結果として残すために。
そして私は、チームリギルのもとで自身の競技者としてのキャリアをスタートさせました。ジュニア期には朝日杯フューチュリティステークスを制し、同期の中ではいち早くG1タイトルを制したウマ娘として注目されるに至りました。
グラスワンダーの同期は、他の世代と比較してもあまりにも粒揃いであるとされて「黄金世代」と評されていた。「日本総大将」としてジャパンカップで日本のウマ娘を率いる大将としてその強さを示し、また天皇賞の春秋の連覇といった輝かしい功績を収めたスペシャルウィーク。「怪鳥」、NHKマイルカップ、ジャパンカップ。そして日本に留まらずサンクルー大賞を制し日本はもちろん海外でもその強さを遺憾なく発揮したエルコンドルパサー。黄金世代の中でいち早く大成し、クラシック三冠のうち皐月賞と菊花賞を制するという快挙を成し遂げたウマ娘、「トリックスター」セイウンスカイ。そんな強力なウマ娘たちに必死に食らいつき、何度地面に膝をついても決して首を下げることなく、ついに高松宮記念で悲願のG1勝利を果たしたウマ娘、キングヘイロー。
そんな歴代のウマ娘の競技の中でも「戦国時代」ともいえる壮絶な戦いを制してきたのが、目のまえにいる彼女なのだ。そんな彼女が、弱いということなど決してありえない。彼女はまさに、生きる伝説の一人であることは疑いようのない事実だった。
…正直私は、クラシック期では同期にその勝利を多く譲ってきました。クラシック三冠ではスカイさんやスぺちゃん。NHKマイルではエルに勝利を譲ることになりました。これは偏に、私の力不足。そして続いてしまったケガが原因に他なりません。
そんな私ですが、夏合宿でのリハビリを兼ねたトレーニングを経て、ようやく万全の状態でレースに臨むことができるようになりました。そしてその夏合宿のトレーニングの最中で、私は初めて彼女…サイレンススズカさんにお会いしました。
夏のトレーニングも佳境に差し掛かり、他のチームやトレーナーに所属するウマ娘と併走をする運びとなりました。ケガが治ったばかりの私はそのトレーニングには参加することができませんでしたが、そこで東条トレーナー…私たちのチームのトレーナーが併走相手にと連れてきたのはスズカさんでした。
今でも昨日のことのように思い出します。スタミナの向上も兼ねた、砂浜での1600メートル。スズカさんは同じチームにいたタイキシャトルさんとのレースに臨んでいました。
タイキシャトル。その名前を聞いたことのないウマ娘など、トレセン学園にはきっといないだろう。マイルチャンピオンシップ、スプリンターズステークス、安田記念をはじめとした短距離、マイルの重賞を総なめし、その路線では敵なしとされたウマ娘だ。その彼女と、サイレンススズカがタイキの十八番ともいえるマイルに適応する距離でのレース。砂浜という全く異なるシチュエーションではあるが、果たして結果はどうだったのか?
「結果は……どうだったんですか?」
「タイキさんの圧勝でした。」
グラスはそうつぶやくが、そう言った彼女の顔はとても同チームの先輩の勝利を喜ぶようなものでは決してなかった。あるのは、少しの疑念と大きな憤り。そんな表情が綯交ぜとなって彼女の顔に表情を宿しているかのように、サンレイには見えた。
「……どうして嬉しそうではないのか。気になるでしょう?それは偏にスズカさんの練習の様子にありました。つまりスズカさんは明らかに全力を出さずにタイキさんとの併走に臨んでいました。」
「……つまり手を抜いていた、ということですか?」
その言葉に、グラスは静かに首を縦に振った。今までの証人の話からは、スズカは走ることが大好きなウマ娘で、走ることに関わる以上練習であろうと手を抜くような真似をしないものだと思っていた。一体スズカの身に何があったというのだろうか?
「仮にもお互いにその胸を借りて練習に臨んだわけです。その練習を手を抜けば、相手に失礼というもの。ですがそのスズカを見ても、東条トレーナーやタイキ先輩は『スズカとトレーナーにも考えがある』と言って、特に追求することはしなかった。一体どうしてだと東条トレーナーにきけば、以前スズカさんはリギルに所属していたそうじゃないですか」
「……」
「エアグルーヴ先輩や東条トレーナー、タイキ先輩たちは特に気にしていないようでしたが、スズカ先輩が他のトレーナーのもとへと移籍したことは、私には少々思うところがありました」
「……それは?」
「実際に担当してもらい、自身の感覚とのズレを感じたり指導方法に違和感を抱いたりすることもあるかもしれません。それでもデビューを支えてもらったトレーナーから造反して、他のトレーナーのもとへと行くことは、「裏切り」と認識してしまった。今思えばそれは大変恥ずべきことですが、当時の私は未熟と言わざるを得ませんでした。そんな私が、スズカさんと最初で最後の対決する機会がありました。」
「それが、毎日王冠ですか?」
その問いかけに、グラスは静かにうなずいた。
夏の合宿が明けて、ケガも治った私は、既にクラシックでの勝ち星は一旦置いておいて、シニアのレースに勝利を収めるために10月に行われたG2レース、毎日王冠でその復帰戦を行おうと東条トレーナーと予定を決めました。そのレースには同じチームメイトのエル…エルコンドルパサーも出走していました。
エルコンドルパサー。怪鳥として無類の強さを誇り、凱旋門賞でも大スターのモンジューに1着を譲ったものの、2着という輝く成績を誇っていた彼女も毎日王冠に出走していた。トレセン学園を卒業したのち、南米に渡ったと聞いているが……
基本的には毎日王冠では、ケガが治ったばかりの私ではなく、エルがチームリギルの間では本命とはされていましたが、私も負けるつもりは毛頭ありませんでした。「不退転」の覚悟のもと、たとえ病み上がりのレースであろうと、絶対に先頭でゴールしてみせると。エルにも、スズカさんにも決して負けないと、そう思っていました。
正直言って、毎日王冠のレースの緊張感を超えるレースは、生涯で出走したレースの中ではありませんでした。それは偏にいつもとは違うコンディションで、エルを差し置いて2番人気に押し上げられたこともあるかもしれませんが、それが主要な原因では決してありません。つまり、スズカさんと対決した。これに他なりません。
当日のレース展開は、私の得意な脚質に合わせて1番人気だったスズカさんを警戒しつつ、体力を温存するために後方で足をためて、タイミングを見て一気に前方へと駆け出していく。それが私の作戦でした。
G2だというのに、当日はG1に引けをとらないほどの観客が競技場に押し寄せていました。それは偏に、「黄金世代」ともてはやされた私やエルが肩をそろえ、そして春のグランプリ・宝塚記念を含めて重賞を5連勝していたスズカさんが同じレースを走り、雌雄を決するというその光景を一目見たいと多くの人が願ったということもあるのでしょう。
結果的に、私とエルはスズカさんの足元にも及びませんでした。既にゲートが開かれた…いえ、本当はスズカさんがターフの上に姿を現したその瞬間に私はもうスズカさんには勝つことができない、そう感じてしまいました。レースに臨む彼女はもう「競技者」としてのウマ娘ではありませんでした。まるでこれから死地に赴く武士のような…既に決死の覚悟を持ってレースに臨んでいることがその立ち姿からもうかがい知ることができました。
ゲートが開かれたその瞬間、スズカさんはまるでロケットのように寸分の遅れもなくゲートを飛び出していきました。その背中は等加速的に離れていくというのに、視覚的にはどんどん彼女の背中から目が離せなくなる…そしてどんどん大きくなっているように見えました。
彼女に離されないように、必死に足を繰り出しましたが彼女の背中はおろか、その影に迫ることさえ叶いませんでした。結果は6バ身差の5着。かろうじて入着はしましたが、これは大敗といって過言ではありません。裏切ったと穿った見方をしたあげくにここまで無様な負けを喫したんです。情けない以外の何物でもありません。ですから私は、レースが終わった際にスズカさんに声を掛けたんです。
「スズカさん!」
レースに勝ったというのに、彼女は目のまえのレースの勝利に喜んでいるようなそぶりは全くと言っていいほど見せていませんでした。勝って兜の緒を締めよ、とは言いますが彼女の場合は、次のレースに備えていると言うよりも、心ここにあらず、失礼極まりない表現だと自覚していますが、亡霊のような様子でした。
「……?」
「次のレースでは…必ず勝ちます」
それが敗者の私が言えた、精一杯のセリフで、虚勢でした。スズカはこちらを振り向くと、静かに、かろうじて聞き取れる声でこう言ったんです。
「……楽しみにしているわ」と。
その表情は、今でも忘れられません。決して表情が表に出ることがないように。でも相手に嘘をつくことに心底心痛めるような、そんな表情でした。
「……それはつまり、どういうことですか?」
「……私には真相はわかりません。あとにも先にも、スズカさんとお会いしたのはそれで最後です」
天皇賞での事故…いわゆる「沈黙の日曜日」はトレセン学園にいる全てのウマ娘にとって青天の霹靂でした。話題にはせずとも、みな心の中には彼女が……サイレンススズカさんがいます。結局彼女の死に向き合うことができないまま、彼女たちはトレセン学園を卒業していき、その事実から無意識に目を背けて今日この日まで来てしまいました。
私もその内の一人でしょう。確かに私は毎日王冠のあと、有馬記念を2度勝利し、続いて宝塚記念を制しましたが、その勝利に心が満たされることはありませんでした。何処かで思ってしまうんです。「もしも彼女が出走していたら、こうはならなかっただろう」と。
その言葉には、確かな重みがあった。超えたくても、決して超えることができない壁。もう挑むことすらできない壁。多くの希望を与えた一方で、レースでしのぎを削った者たちに確実な絶望を与えて、彼女は文字通り伝説になってしまった。
「……」
「……とどのつまり、私はスズカさんに嫉妬していたということでしょうね。彼女の走りには、それくらい。人の人生を左右させてしまうほどの力があった。」
「……それは……」
掛ける言葉など、どこにもなかった。いや、あっていいはずがない。彼女の苦悩、そして覚悟に対して、その話を聞いた程度の私が気休めに掛ける言葉など、あっていいはずがない。
ししおどしの音が、あたりにこだまする。底に少し色を残しつつ、すっかり空になった茶碗を再度回し膝の前にコトリと置く。その様子に視線を送ったグラスはそっと顔を上げると、サンレイに静かに声を掛けた。
「……ですからお願いです。どうかスズカさんに何があったのか。どんな想いで彼女は走ったのか。私も知りたいんです。」
彼女はそう言うと、サンレイに向かって深々と頭を下げた。
グラスの邸宅を後にするときには、辺りはすっかり暗くなってしまっていた。あらかじめ門限の延長願いを出していてよかったといったところだろう。帰り際にサンレイはグラスの方へと振り向くと、徐に口を開いた。
「…スズカさんのことをよく知る人物について、何かご存じでしょうか?」
グラスはその問いに顎に手を当てて少し考えるような素振りを見せていたが、やがて覚悟を決めたように顔を上げると、徐に口を開いた。
「一人知っています。今ならきっと、話してくれると思います。誰よりもスズカさんを慕っていた彼女ならきっと」