Rotting March   作:木下望太郎

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2話  彼と娘と、十年昔

 

 ――十年昔のことだった、雨のよく降る夜だった。

 黒蓮(ヘイリァン)城市(シティ)の常として、路地に溜まる水はどこか黒い。それは工場の煤煙を含んで降る雨のせいか、三百五十余りの違法建築からなる城市(シティ)の排水のせいか。ビルとビルのわずかな隙間、あるいはビル内の廊下としてのみ存在する路地の、薄暗さのせいか。いずれにせよ、その夜スオン家を訪ねる人々の姿は一様に、その水よりも黒かった。

 新妻、エイミアの棺に線香を手向ける喪服の人々。主人、ユンシュは彼ら一人一人へ深々と礼をしていた。広い額と湿気に曇った丸眼鏡を拭くことは多かったが、目元を拭うことはなかった。その態度に人々は、さすがに葬儀屋よ、と道々口にした。

 

 それら人の波が現れる前から、スオン家のドアが見える場所にマーチはいた。それが引いた後も、そこにいた。雨はずっと続いていた。ビルとビルとのわずかな隙間、ワイヤーと配管が使い古された蜘蛛の巣のように絡み合った間を縫って降る雨が、マーチを濡らしていた。

 

 最後の客が帰った後に、再びスオン家のドアが開く。その前だけ、路地の闇が橙色に切り取られる。

 常のように額へしわを寄せたまま、ユンシュはマーチを見た。

「線香ぐらいやれ。お前の女だ」

 

 マーチは顔を背けてつぶやく。

「……あんたの妻だ」

 

 ユンシュは表情を変えず、首を横に振る。

「お前の女だった」

 マーチは顔を歪める。

「……殺したようなものだ」

 雨の音がしばらく響いて、ユンシュはそれから中へ戻った。

 

 マーチは奥歯を噛み締めた。雨粒を含んだ目を閉じて、壁へと額を打ちつける。

 再びユンシュが路地へ出る。入念に毛布でくるんだものを腕に抱いて。

「お前の娘だ」

 赤子。蜂蜜にも似た金色の髪が薄く生えた赤子が、指の先ほどの唇で、小さく寝息を立てていた。

 

「俺の子……なんかじゃない……」

 言いながら。差し出されるまま、腕は赤子を受け取っていた。温かかった。重かった。何より、柔らかだった。

「父親なんぞじゃあ、ない……」

 

 握り潰せそうなほど、その頭は小さかった。指二本でへし折れそうなほど、その腕は細かった。蝋燭(ろうそく)の火のように、目を離せば消えてしまいそうだった。崩れ落ちてしまいそうな気がして何度も抱え直した。そのうちに赤子が鼻をうごめかし、目を開ける。

 呆けたように口を開けて、マーチは赤子を見つめていた。

 赤子は灰色の瞳で、不思議そうにマーチを見上げていた。

 

 ユンシュが丸眼鏡の奥、茶色い目でマーチを見る。

「お前の娘だ、名は――」

 温かな赤子の指がマーチの鼻をつまむ。雨に降られながら、マーチは強く目をつむる。頬を歪め、抱き締めた娘の名を呼んだ――

 

 

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