体育祭開始
目が覚めたら体育着を着た状態で、世界は更衣室に立っていた。
周りに体ごと視線をめぐらせる。
睡眠と気絶は意識が無くなっているという共通項を持つが、決定的な違いがある。
それは休息があるかないかの違い。
そして今の世界は、入浴時の記憶と今の記憶が連続している。
中途半端な疲労感そのままにその場に立っているのだ。
気絶していた状態からの復帰によって生じたとても嫌な温度を持った汗が背中をなぞっていく。
DIOの視線を思い出す。
血が頭に上る思いだ。だが今の世界に取れる選択はそう多くなかった。
その終わりのない思考の渦に呑まれていく。
涙なのか汗なのか分からないほど水分を帯びていく肌身を心配したのか、世界の唯一の友人である恵子が声をかけてくる。
「うぉ……どうしたの? せか……?」
「あ、え」
「朝から仏頂面で、何考えてるのかわかんなかったから話しかけられなかったんだけど……大丈夫? 体調悪いんじゃないの? 汗すごいよ」
「あ、う、うん。はぁ……ふー……大丈夫だよ」
刹那に思い出すのは、優勝しなければ体を奪って身の回りの人たちを殺すという宣告。
何かを期待しての無理難題だったらしいが世界は体が頑丈なだけの女子。
妙な喪失感と疲労感を残して今は体の奥に引っ込んでいる。
とてもでは無いが、いまの衰弱した状態では体育祭優勝なんて無理だ。
霞む視界で恵子を認めようと世界は周りを見るが、いつの間にかいなくなっている。
どこに行ったのだろうかとクエスチョンマークを頭上にうかべる世界だったがその記号はすぐに消え去ることになった。
「お、おばあちゃん! はやくはやく!」
「急かすんじゃないよ! 全くこの子は……」
更衣室のドアの向こうからやってきたのは、雄英高校の屋台骨であるリカバリーガールといつの間にか消えていた恵子。
世界の形相にただならぬものを感じたのか恵子が連れてきてくれたらしい。
「ちょ、恵子! 大丈夫だよ! 別になんとも……」
「嘘だね?」
「っ……」
その言葉に世界は思わず息を飲むが、目の前の老婆と心に住まう巨悪とを比べてしまう。
暖かい言葉とそれだけで人が殺せてしまうような鋭い殺意。
もしかしたら他言したら問答無用で体が奪われてしまうかもしれない。
世界の胸中に渦巻いたのはその考えだった。
「あ、あはは。寝不足なのかもしれないです」
「……そうかい。じゃあこれ飲んどきな」
とリカバリーガールが寄越したのは市販されている栄養ドリンクだった。
この人は私を本気で心配してくれている。
世界は自分を気にかけてくれているであろう人物を思い出す。
それだけでも世界の内に、勇気が湧いてくる。
世界は栄養ドリンクをすぐに飲み、持ち前の軽さを少しだけだが取り戻した。
「……ぷはっ! ありがとうございます!」
「少しは力になれたみたいだね」
両方の頬を叩き、気合いを入れ直す。
あの気迫、DIOは只者では無いのだろう。
だけど、奴はこの体に囚われている、と世界は考えることにした。
繰り返すが世界は一般人だ。
だがこのヒロアカの物語の中で無個性で生きてきた。
一般人ではあるが周囲とは違うという意識が彼女を成長させた。
主に精神面で。
ただの一般人があのDIOと対面し、正気を保つことなどできるだろうか?
ただの一般人があのDIOに殺されかけ、正気を保つことなどできるのだろうか?
DIOが宿るまでは一般人だったのだろうが、異常なまでに鋭い殺意を受け世界はまた、成長していた。
(……DIO。貴方にこの体を渡すわけにはいかない。私を、無個性の私を気遣ってくれる人がいるこの世界を、貴方に支配させるわけにはいかない)
DIOが纏う独特の雰囲気。世界は確信していた。
あの男は世界を支配し得る最悪の
世界は恐怖していた。
世界は、知っていた。
この体育祭はDIOの戯れの上に成り立つ悲劇であることを。
仮に、仮にだ。
世界が優勝したところで世界が生かされることも、ないのだろう。
母親、親友、先生たち。
狭い社会で世界を気にかけてくれる、関係を繋げてくれた人達のことを世界は想起する。
DIOは個性かどうかは置いておくとして、前提として世界の体に宿っている存在でありそれ以上でもそれ以下でもない。
わざわざ、体育祭を用いた世界の処刑の流れを考えているということは
DIOは世界の体から離れられないと考えていい。
(…DIO。貴方に私の体はあげない。私ごと、この体にいるあなたを)
(殺す)
純粋な少女は今ここに、ヒーローの物語には不相応なほどに悲壮な覚悟を持ったのだった。
◇◇◇
雄英体育祭。
ただの高校体育祭の規模に当てはまらないそれは、例年とは趣が違い生徒の純粋に楽しんでやろうという表情とは対照的に先生、いや雄英のヒーローたちの雰囲気はこわばっている。
「セメントス」
「イレイザーヘッド。どうかしましたか?」
「例の生徒の件、どうなった」
体育祭の準備を進行形で行っている教師陣、その片隅で話している二人組の片割れである相澤消太、又の名をイレイザーヘッドが同僚のセメントスに対して若干濁しながらも質問した。
その質問にセメントスはまぶたを少しだけ下ろして返答する。
「イレイザーヘッド。これを見てください」
そう言ってセメントスが懐から出したのは、出すに出しきれない、いや出せない公的書類の一枚であった。
「個性届け……こいつは」
「ええ、妙でしょう」
金曜日の放課後の騒動は当然であるが共有されている。
個性確認をおこなっている最中、個性が暴走しその場にいたセメントスが両腕を負傷したことになっているそれは言わずもがな世界のためのカバーストーリーで、実際に起きた事件の異常性は相澤も知るところであったため差し出された書類に記載されたものは目を見張るものであった。
『無個性です。金髪にしているだけですので気にしないでください』
「彼女は確かに個性を持っています。突然の事態に困惑はしていたとは思いますが、彼女がこのような見えすいた嘘をつく生徒には見えない」
「……お前とオールマイトは別人のようなその生徒を見たんだったな」
「ええ、あの雰囲気、気を抜けば引き込まれそうな気迫。僕の相手してきたどの敵よりも存在感が大きかった」
(無意識に敵を比較対象に出すほどの邪悪……個性発現に伴った二重人格か……それがどこからくるものかはわからないが重要なのはそこじゃない)
「おそらくこの書類を書いたのは、彼女の個性……いやDIO。この嘘は警告だ。この体育祭、さらに警戒を強めた方がいいかもしれません」
少しだけだが関わったからか、少女を疑う行動に若干の罪悪感を抱いているセメントスを前に相澤は話を進める。
「彼方、だったかそいつは今どこに」
「……家には帰っていたようですが、登校しているのかまでは」
提出された書類を見た時、セメントスは慌てて世界を追ったのだがもうすでに学校におらず話すことは叶わなかった。
提出が確認されたのは夕方だったこともあり彼方家に連絡を入れた時には夜も更けておりすでに就寝していた。
その時追及すべきだったのだろうが、以後今日までコンタクトを取ることができなかった。
もし何かDIOが仕込んでいたとしても後の祭りであり備えるしかないという事実がセメントスに重くのしかかる。
頭を振って思考を切り替える。
相澤は先の一件にて負った重傷の大怪我を引きずって体育祭に来た。
平常の彼ならば『見ていてほしい』とも言えたのだろうが、今の彼はどう見ても個性を使える体ではない。
「セメントス?」
「……いえ、イレイザーヘッド、彼女のことは任せてください。僕がなんとかします」
その言葉が喉から出た時、セメントスの頭に彼方世界の不安げな表情が浮かぶ。
彼女は未来の明るい若者で、雄英の生徒で、そして自分の個性で身を滅ぼしかねない可能性を孕んでしまった。
セメントスはプロヒーローである。
それと同時に、雄英の教師でもある。
自分はヒーロー科の人間であるが、そんなものは関係ないと、セメントスは自分の心に線を引いた。
「……わかった。気張れよ」
「はい。イレイザーヘッドも無理をしないように」
「それはマイクに言え。俺を引っ張り出したのはあいつだ」