独り立ち
王宮教員採用試験が三日後に迫っている。明日までには家を出てプロシアデス王国の首都ハイデリンで試験を受けるまでの準備を整えなければならない。
オーバーグレーツ州メヌエの辺鄙な農村生まれの僕は、思い出の詰まった古びたタンスから衣服を取り出し鞄に詰め込む。衣服やら参考書やらを詰め込まれた鞄は風船のように膨れ上がってしまった。
人里離れた片田舎。このからっきし良いことなしの鬱々とした世界から一歩外へ出れば、二度と同じ地を踏むことはない。僕の心は決まっていた。一つ気がかりなことを除けば……。
扉を叩く音がする。父さんだ。
僕が小さかった頃、父さんは王宮で兵士をしていた。筋骨隆々の優男が僕の大好きなお父さんだ。学校のクラス替えがある度に自慢していたくらいだ。そんな父も過去の人。今やその面影を知る由もない。
ボサボサの頭、ダボダボの服、伸ばしっぱなしの髭、足の爪先についた赤い染み……夢の中で返り血でも浴びたのか?
はぁ、一体自慢の父はどこに行ったのやら。
「レノ?
「あの人に話したって僕の言葉を聞きやしない。僕の気持ちを理解してくれるのは父さんだけで十分だよ」
「でもなぁ、母さんだってレノを想って強く当たってしまってるだけなんだ。出て行く前にも一言だけ話をしてくれないか?」
「母さんって言ったって血が繋がってるわけじゃない。あの人は僕のことが疎ましくてしょうがない。家の中を飛んでいるコバエぐらいにしか思ってないんだ」
「そう言うな。母さんはレノに父さんみたいな立派な兵士にしたがっていただけなんだ」
「知ってる。僕が兵士になって死んでくれれば母さんと二人になれるから」
「馬鹿なことを言うもんじゃない」
「昔父さん言ったよね?『レノの好きなように生きろ』って。あれって結局僕に選択肢を与えたように見せかけて、母さんにけしかけたんでしょ?僕に洗脳紛いの体罰までしてさ。母さんは学者家系だから決められたレールの上を生きていた。だから僕を教師にしたくなかった。父さんみたいな勇敢な兵士にしたくてずっと厳しく当たってきたんだ。僕がどれほど苦しくて悔しい思いをしてきたのかも知らずに!」
僕はもどかしさのあまり無意識に鬱憤をぶちまけてしまった。勢い余って鞄の口に指を挟まれる。爪が欠け血が滲む。痛みのせいか、哀れな自分の無力感に父さんの顔を見れなくなってしまった。
「指を見せろ。それじゃ筆記試験もまともに受けられない」
「いいよ……自分でやるから」
僕は俯いたまま家を出た。
駅に向かうためメヌエの農村を抜けて郊外に入る。人が波のように押し寄せてきた。市場は活気に溢れ人々の声は楽器のように様々な音を聞かせてくれる。
馴染みのあるレストランから漂う香ばしい匂い。これはオーバーグレーツステーキだ。塩と胡椒と唐辛子をたっぷりまぶした熊の手ほどの分厚さが特徴だ。父さんが僕の誕生日に必ず連れていってくれた馴染みのお店だ。
店主は元兵士で父さんの友人でもある。敬礼ポーズで客を出迎えるという変わった慣習がある。客も敬礼ポーズをすると割引してもらえるのだが、当然それを知らなければ一悶着起きることも時々あった。
店主は僕に気づきガラス越しに敬礼している。僕は堂々と敬礼ポーズで返した。
駅につき改札口に向かうと背後から人影が揺らめく。スラッとして人を刺すような鋭い眼光、氷のように透き通った肌。この人こそ僕の育ての親であり冷たくあしらわれ続けた女性。
「母さん、今までありがとう。何の繋がりもない僕を育ててくれて。父さんのことよろしくお願いします」
「心にもないことを。まるで二度と故郷の地を踏むことはないと言うような口振りね。準備は万全?試験は五教科十科目。全て完璧に網羅することは極めて難しい。広すぎず深すぎず常に全体を見渡し俯瞰すること。『長考は奈落に通ずる蟻地獄、思い込みは闇に溶ける底無し沼』」
「助言ならいらない。その言葉は嫌と言うほど聞いた。今さら母親ぶられても試験に集中できなくなるだけだから」
「本当に教師になるつもり?今さら兵士になろうなんて考えてないわよね?」
「僕は父さんみたいに正義感や愛国心が強いわけじゃない」
「王宮の教鞭に立つなら正義感はともかく、愛国心がなければ務まらない。生徒だって将来を約束された貴族や豪族ばかり。そんな薄っぺらい意志では簡単に見透かされてしまうわ」
「母さんは僕を見送りに来てくれたんじゃないの?試験を受ける僕を勇気づけるために来てくれたんじゃないの?」
「心配してるの。あなたが大都市で路頭に迷ってしまうんじゃないかって」
「そう願ってるの間違いだろ」
「そうよね……私の言葉なんて空気より軽いもの。あなたの気持ちに訴えかけても返ってくるのは木霊だけ」
「また始まった。僕がいなくなれば父さんと幸せに暮らせる。邪魔者がいない理想の家でのうのうと生きていきなよ」
改札口を抜けると鉄道が来る合図が聞こえた。
「手紙は必ず寄越しなさい!必ずよ!私宛てじゃなくてもいいから!」
「なんだよそれ……」
僕は母さんの顔を見ぬまま鉄道に乗り込んだ。三時間経てば首都ハイデリンに着く。小腹が空いた。作ってきた弁当箱を開ける。母さんの顔を思い浮かべて食べる気が失せた。蓋をそっと閉じ外の景色を眺める。心地よい風を受けると眠気が襲ってきた。夜遅くまで勉強していたツケが回ってきたようだ。こうなったら生理現象に任せるのが得策だ。何事も成せばなる。僕はしばし眠りにつくことにした。
試験当日、僕は試験会場の受付に向かう。昨夜歴史の問題を解いていたから頭が少し重い。なぜかって?歴史が得意ではないからだ。得意ではないといっても他の国語や数学が得意ってわけでもない。
なぜ教師になろうと思ったかって?そりゃ兵士になりたくなかったからだ。兵士になれば命の危険に曝される。命を落とせば英雄として祀られるかもしれないが、死んだ後のことなんて気にしてなんかいられない。それに今しなきゃいけないことは試験を受けることだ。
試験に合格することが大事じゃないのかって?
おそらく試験と言われると大層に聞こえるかもしれないが、王宮教員採用試験はそれほど難易度が高くないと言われている。教員としての教養はもとより必要なのは忍耐力と愛国心だ。貴族や豪族を相手にすれば精神を削られる。そこに平民の生徒たちが混じれば対等に接することが求めれる。教鞭に立つ人間はこの
すなわち王宮教員採用試験の肝は二次試験にある。
そう、面接だ。
「受験番号0062431。レノ・クルーデル、19才か。採用可能年齢になったばかりか。これまた若い。いや、若い」
受付の糸目の男が受験票をまじまじと見ている。あまりいい気分ではない。母さんもこんな気持ちだったのだろうか。
「あの、何か問題でも?」
「うん?あ、いやぁ。若いって素晴らしいなぁと時の流れをしみじみと感じてしまったのだよ。ハハハ、気を悪くしないでくれたまえ。受験を認めよう。さぁ、進みたまえ」
受験票を受け取り鞄にしまおうとすると、
「その指、どうした?」
誰だ?糸目の男じゃない。女性の声だ。試験会場の方を見ると精悍な顔立ちに、雄々しい軍服姿の女性が僕の指を見ている。包帯を巻いていることが印象を悪くしてしまったようだ。
「これは父と喧嘩して鞄に指を挟んでしまって……」
もっと上手い言い訳を考えておけばよかった。女性は物凄く怪しんでる。包帯を外せば通してもらえるか?
「不正を疑ってるわけではない。そんな指で試験を受けられるのかと聞いている」
「あ、あぁ……爪が欠けたぐらいだからペンを持つぐらいならどうにかなる」
「そうか。ならば健闘を祈る」
女性は綺麗な髪を靡かせながら試験会場へと入っていった。僕も足早に席に向かう。
試験は定刻通りに始まった。受験者はまちまち。空席が目立つ。自分と同じくらいの年齢の受験者は二、三人程度か。
難易度の高さは競争率に反比例すると思っていたけど、あまりの人気のなさになんというか寂しいような悲しいような。でも前向きに捉えれば競争率が低ければ合格する確率は高い!我ながら恥ずかしい思考だ。
気づけば時間は光のように過ぎ去っていく。全教科を一日でこなすのだから、疲労も想像に難くない。頭に重石を乗せたような感覚、思考も途切れ途切れになる、目蓋も電気の明かりを受け付けなくなってきた。外から夕陽が射し込む。
会場内に鐘の音が響く。終了の合図だ。やっと終わった。
試験が終わり受付にいた糸目の男が部下らしき男と何やら揉めている。
「なにぃ!?それは本当なのか!?」
「まことにございます。ミグレッタ・ディクレアート王宮親衛隊副隊長からの伝言にございます。早急に対策を講じるため王宮親衛隊を召集せよとのことです」
「なにゆえ後任の姫様の家庭教師を推挙するためとはいえ、我々身分議会の一代議士が呼び掛けねばならんのだ!」
「親衛隊の召集権は全代議士の署名がなくてはなりません。書類は全て揃えてあります。ささっ、こちらへ」
「まったく、たった
糸目の男はふてくされながら馬車でどこかへ向かっていった。僕は王宮内で何かが起きたことは理解できた。ただそれだけだ。
二次試験は一ヶ月後。合否は二週間後にわかるから対策はゆっくりできる。
今は早く風呂に入って、ソーセージでもつまみながらハイデリンの観光計画を立てたい。古風な建築物や絵画を眺めるのもよし、公園で好きな本でも読みながらうたた寝するのも悪くない。あっ、手紙を書かないと母さんに怒られる。すっかり忘れていた。
試験のためだけに借りた仮住まいに向かうため帰路につく。試験の手応えは正直よく覚えていない。自信がないわけじゃない。いや、自信があるってわけでもない。ふわふわした感覚だ。自分でもよくわからないまま終わってしまった。父さんと母さんになんて伝えよう。合否が出てからでいいか。
何気なく包帯を巻いた指を見ていると、ガシャガシャと音が聞こえてくる。
何だ?馬車か?
振り向いた瞬間、馬車が鼻先を掠めた。
「うわぁぁぁ!?」
バランスを崩し尻餅をついた。不運なことに馬が撥ね飛ばした泥で服に染みがついてしまった。まさに泣きっ面蜂。馬車はそのまま走り去るかと思いきや、速度を落とし止まった。馬車から人が降りてくる。
「未来ある青年、怪我はないか?」
明るい口調で悪びれる様子もなく心配しているフリをしている男。出で立ちからして庶民でもなければ豪商でもない。
「あっ、指に怪我をしているじゃないか。ホント申し訳ない。今から大事な会議があって急いでいたんだ。別に轢き逃げしようとか、轢いたのは人だとは思わなかったとか、そんなみみっちぃ言い訳をするつもりもなかったんだ」
なんだこの人……。
「指に包帯を巻いてるんだから、馬車のせいじゃないってわかってるんですよね?」
「いやぁ、君がもし当たり屋だったらそんな風に脅されちゃうのかなぁって頭を過ったのさ」
「あなたの話に付き合ってられません。僕はもう帰るんで――」
「待ってくれ。服を汚してしまった責任は取りたい」
「お金はいいです。それより急いでるんですよね?僕のことは気にしないでください」
「あぁ……あぁ……」
男の様子がおかしい。気分を害したか?素直にお金だけでも受け取った方が良かったか?
「き……」
「き?」
「決めたぞぉぉぉッ!!!」
「な……」
「君!ついてきたまえッ!」
「はぁ!?いや、だからお金はいらないって!」
「もう決めたんだ!君にしか頼めない仕事なんだ!さぁ、馬車に乗れぇ!」
「えぇぇぇ!?」
謎の男は僕を馬車に引きずりこんだ。
「名前はッ!」
「レノ・クルーデル……」
「ボクはガレス・プロシアデスだ!お見知りおきを!」
「ガレス・プロシアデス……プロシアデス?えっ、プロシアデス!?」
「そう何度も連呼されると逆に失礼にあたるぞ。気をつけたまえ」
「この馬車ってどこに向かってるんだ?」
「ヌフフ、知りたいか?知りたいか?教えなーい!」
「なんだコイツ……」
レノ・クルーデル(男/19才)
小さくして母親フランソワを病気で失っており、父親のクレス・クルーデルと再婚相手のヨハンナに育てられた。
クレスは元王宮兵士で現在は農夫。
ヨハンナは元王宮教員