組織のルール
姫様の家庭教師と王立中等教育学校の教師を兼務してからというもの、教育者として板についてきたような充実感に満ち足りた毎日を送っている。
母さんとの和解後、嵐の後の静けさと言えばいいのか平穏と安寧の暮らしが数ヶ月ほど続いた。満足と思えばそれまでなのかもしれないが、刺激の少ない日常というのも味気ないものである。
職員室で授業で使った資料を見返し、使い古した牛革のバッグにしまう。
僕にとっての学校生活はマルク、ナタリー、ソレルの三人の教え子たちと共に笑いあったり、時には突き放して機微を観察したり、かと思えばお互いの悩みに耳を傾け励まし合い、思いをぶつけ疑問が降ってきても必ず最後に答えを出す。
引いては返す波のような日々の連続だ。ありふれた日常を振り返るだけで僕の中の卑しい思考が浄化されていく。頭は新たな景色を求め続け、体は明日という陽光に向かって自然と歩を進める。こんな楽しい時間が永遠に続くことを願わずにはいられない。
それが切っても切れない僕たちの『絆』だからだ。
「さて、帰り支度も終えたことだし夕飯の買い出しに行かないと――」
「クルーデル先生、何やら教え子のマルク・リンドブルムの件で親衛隊の方がお見えになっているみたいですよ」
隣に座っているのは『物理』を担当している同僚の女性だ。僕より年上だが物腰が柔らかく対等に接してくれる良き相談相手でもある。
「親衛隊?マルクに何かあったのか?」
「好きな事に没頭して周りが見えなくなっちゃう子ですよね?クルーデル先生、もしかして手を上げちゃいました?」
生徒に暴力を振るうなんて僕の信条に反する。ましてや体罰で生徒を従えようなんて、あるまじき振る舞いだ。生徒を恐怖心で支配してしまえば殻に閉じこもってしまうじゃないか。それでは何の解決にもならない。
「ほらほらクルーデル先生!例の人、そこにいますよ!」
職員室の扉を開けて入ってくる一人の人物。軍服を着たミグレッタは鋭い目つきで僕を探している。
心臓が張り裂けそうだ。悪いことをしたわけでもないのに動機が激しくなる。
「レノ、火急の用件ではないのだが報告せねばならないことがある」
ダメだ……目を合わせられない……。
「どうして目を逸らす?思い当たる節でもあるのか?」
「久しぶりにミグレッタに会ったような気がして、申し訳ない気持ちになる。自分のことしか手が回らないなんて言い訳して、ミグレッタに雑務ばかり押し付けてしまった」
「顔を合わせるの一月ぶりか。レノが気持ちよく職務をこなしているのならそれで十分だ。私の主な仕事は膨大な書類に目を通して、親衛隊の業務に差し支えないように事務手続きを円滑に進める。ただそれだけのことだ。こちらの心配はしなくていい」
「ミグレッタに迷惑をかける不届き者がいるなら僕だって黙ってられないよ。それで報告って?」
「マルク・リンドブルムの校則違反を現認した。学内での持ち込みが禁じられているメガラ国旗を衣服の下に紛れ込ませていたようだ」
マルクめ、一体何を考えてるんだ?いくら勉強が嫌いといっても校則を知らないで済む問題ではない。それにどうしてメガラの国旗なんか持ち歩いているんだ?
「私としても動機を問い詰めたいところだが、学内の関係者ではない人間が首を突っ込めば、懲罰権の乱用だとか生徒の教育権を侵害していると糾弾されかねない」
「だから代わりにマルクを躾ろと?」
「そうだ。幸い学内の関係者はこのことを知らない。レノが適切な解決策を導き隠密に処断できれば他言しない。マルクを呼びつけておいた――入ってくるんだ」
「せんせぇ……」
マルクは頭にメガラ国旗を被りながら今にも泣き出しそうな表情で僕を見ている。
反省してるならまずは国旗を取れ!
メガラ国旗は青と黒の二色で表される。対角線に分かれたシンプルな構図だ。
青は太古のメガラ人の瞳の色であり、団結や忍耐を表現していると言われている。
黒は太古のメガラ人の肌の色であり、先祖は黒人だったと語り継がれている。今日のメガラ人は白人と黒人の混血が大多数を占める。
「クルーデル先生、オレ何も悪いことしてないのに、そこのお姉さんが国旗を没収するってしつこいんだ。国旗っていっても外から見えなきゃ問題ないよな?」
「そういう問題じゃない。国旗というものを自己の都合のために軽々しく扱うんじゃない。学内イベントや卒業式などの式典でしか掲揚が認められない以上、個人が主義思想のために国旗を用いることは校則に反するんだ」
「先生ならオレの気持ちを理解してくると思ったのに……」
マルクは今にも泣き出しそうだ。ミグレッタは追求の手を緩めない。
「理由を教えてくれないか?校則違反を見逃すことはできないが、情状酌量の余地はあるかもしれないからな」
「オヤジが『メガラ人なら常にメガラ人としての誇りを持て。プロシア人やトリスタ人はメガラ人を見下す奴ばかりだ。舐められたくなかったら奴らの目にお前の誇りを焼きつけろ』ってさ」
僕とミグレッタは唖然とした。マルクの父が過激な民族主義者なのは知っていた。それ以前に致命的な勘違いをしていることをマルクに指摘してやらないといけない。
「な、なんだよ二人して……オヤジを馬鹿にしてるのか?」
「マルクのお父さんがどういった思想の持ち主かを僕たちが詮索する権利はない。重要なのはマルクがメガラ人の誇りを国旗そのものだと思い込んでいる点だ」
「ちゃんとわかるように説明してくれよ!クルーデル先生だってメガラ人なんだから、国旗が一番大事だって思ってるはずだろ?」
「そこがマルクの間違いだ。全てのメガラ人が国旗に愛国心や民族意識を持ち得ているとは限らない。確かに国旗や国歌を敬い尊ぶことは大切なことだ。だけどマルクのお父さんが伝えたかったことはメガラ人としての自覚と忍耐力、そしてどんな逆境をも乗り越える精神力を持てじゃないか?プロシア人とトリスタ人とは嫌でも共存していかなきゃいけない。だからこそメガラ人としての誇りを忘れるなってマルクに言ったんだよ」
マルクはゆっくりと頭に被っていた国旗を取った。ミグレッタは間髪入れず、僕に問い詰める。
「マルクの処分はレノに一任する。国旗の持ち込みは最悪退学処分にも値する重罰。しかし、情状酌量の余地はある。父親の舌足らずな助言がことの発端だからな」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ!退学って本当なのか!?校則違反でナタリーたちと離れ離れになるなんて冗談だよな?なあ先生?」
マルクの慌てふためく姿は糸で操られた人形のようだ。
あまりにも面白いので、ちょっとからかってみよう。
「退学処分ではなく停学処分にすると身内に甘いって他の先生や保護者に非難されるし、僕の肩身が狭くなる。マルクには申し訳ないけど、先生の立場を尊重すれば退学でも文句は言えないはず」
ミグレッタが少し驚いた顔をした。マルクの額から汗がドバドバと流れる。
「そんなの横暴じゃねぇか!?退学じゃなくても奉仕活動とか反省文とか、もっと軽いやつがあるじゃん!お姉さんもそう思うだろ?」
「フフフ、レノが教え子を陥れるとは思えない。何か考えがあるみたいだ」
ミグレッタが笑った。僕の心は踊る。まるで木々が風を受けざわめくように。
「もういい!先生たちがオレを学校から追い出そうってんなら、オレにだって考えがあるぜ!処分は不当だって訴えてやる!そうだ、先生だって裁判所に訴えられたら学校にいられなくなるぞ!」
随分大きく出たな。興奮して頭が回らなくなっているのが手に取るようにわかる。
「それは困った。騒ぎを起こされたら教師免許剥奪だ。それならこれはどうだ?退学処分から三ヶ月の停学処分に変えよう。良かった良かった、マルクはこれからも学業に励める」
「良くねぇよ!三ヶ月も学校に通えなかったらソレルに遅れを取っちまう。そうなったら留年しちまうかもしれねぇじゃねぇか!」
怒るポイントがズレている。遅れを取り戻す努力をしろ。留年ありきで話をするな。人と比べる前に自分の置かれた立場を理解することから始めてほしいものだ。
ここは教育者として特別に教授してやらないといけないな。
「マルクは『クルーデル先生が三ヶ月の停学処分を科そうとしているのは不当だ』として裁判所に訴えたいんだろう?」
「ああそうだぜ!今更泣いて謝たって許してやるもんか」
「どうだろうな?マルクの意見を裁判所が聞き入れない可能性もある。絶対とは断言できないが――」
「どうしてだよ!?オレはソレルから聞いたんだぜ!子供でも訴訟を起こせるって!ソレルが嘘をついてるって言うのか?」
「いや、ソレルは正しい。訴訟を起こすということは国民の権利でもあるからだ。問題なのは裁判所が取り扱うべき訴訟案件かどうかだ」
「へっ?裁判所ってどんな事件でも解決してくれるんじゃないのか?」
「厳密に言えば全ての案件に対して判断を下すわけではない」
マルクは僕の機微を読み取り沈黙する。
「具体例を挙げて説明する。例えば部活動をしていて試合に負けたらグラウンドを周回させるという『罰則』。例えば会社に遅刻したら給料を減らすという『社内規則』。二つの共通点は組織内部のルールを規定している、ということだ」
「学校なら『校則』だよな?」
「組織が定めたルールに裁判所が必ず介入するとは限らない。それは我々が組織の一員になったと同時に『校則』や『罰則』を承認したと解釈されるからだ」
「でもそれじゃあ、どんな理不尽な規則でも従わなきゃいけないってことか?」
「裁判所は様々な基準を用いて訴訟内容を審査する。学校の場合は『生徒の将来を左右させるもの』を基準にして判断するんだ。生徒を退学させる場合、学内の平穏を乱したり、授業の進行を妨げるような著しく秩序を破壊する不正行為に限り生徒を退学処分にすることができる。すなわち裁判所は学校側を支持する可能性が高いから、生徒の言い分は聞き入れてもらえない」
「停学も生徒の未来を台無しにするとは言えないから、裁判所は判断しないかもってことか」
「しかし、軽微な不正行為や常習性のないカンニングに対して退学処分に付した場合、生徒の将来性を狭めてしまうかもしれない。そういった時は裁判所が初めて訴訟当事者の意見を聞いて正否を判断する」
「それじゃあオレの停学処分は裁判の対象にはならないのか……オヤジに何て言い訳したらいいんだ……」
流石に酷だったか?思春期の少年に校則違反の現実を突きつけるのは心が痛む。
「しょうがない。校則を破ったのは今回が初めてだし、マルクも悪気があったわけではないのは周知の事実。国旗の件は大目に見て停学処分は撤回する。改めてマルク・リンドブルムに『三ヶ月の執行猶予付き停学処分』を下す」
「ってさっきと変わんねぇじゃん!……ん?執行猶予?」
ミグレッタが迷子の子供に声をかけるように優しく説明した。
「執行猶予は与えられた期間内に不正行為や犯罪行為に該当するような言動が見受けられなければ、当該処分を免除することができる。然るに三ヶ月の間、レノの授業を真摯に受ければ普段通りの学校生活を送り続けられるということだ」
「せんせぇ、それって……」
頭に国旗を被って感謝を示そうとするな。まったく反省の色が見えない。
「マルクのことだから一つ忠告しておく。あくまで処分を免除するであって、校則違反が帳消しになるわけじゃない。ナタリーとソレルより置かれた立場が悪いことを自覚するんだぞ。明日からより一層勉学に励むように。それと校内にいる間は国旗は預かるからな」
「えぇー、そりゃないぜ」
僕が呆れた表情しているとミグレッタが夕食をご馳走してくれるという。ナタリーは私用で断られたが、ソレルは来るらしい。
「クルーデル先生、なぜマルクは飄々とした表情で首に国旗を巻いているのですか?」
知るか!本人に聞け!
学校の外に一歩でも出れば校則は適用されない。
魚介パスタを頬張るマルクのニヤけ面に怒りが沸々と湧いてくる。
マルクめ、調子に乗りやがって。三ヶ月肩叩きの刑にでもしておけば良かった。
ああ……ミグレッタの視線が痛い……。