一学期が今日で終わり、振り返ってみればつつがなく平和な学校生活だった。明日から夏休みが始まる。
マルクとナタリーは家族の元に帰り、姫様やミグレッタは国外に出て優雅に休暇を満喫するようだ。
僕はというとメヌエの実家に帰ろうにも故郷の地を二度と踏まぬつもりで飛び出してきた。だから両親や馴染みのお店の人たちに合わせる顔がない。気恥ずかしいだけなのだが。
学校が夏休みに入る前に教え子たちの第二の故郷とも言える学び舎の掃除をしようと思う。休みが明けたら気持ちよく新しい日々を迎えられるように。青春というものは一陣の風の如く過ぎ去ってしまうだから。
ソレルはマルクとナタリーが一足先に帰宅すると、僕と共に掃除をしてくれた。途中で暇を持て余していたガレスも加わり教室の空気が軽くなったように感じる。埃まで舞い上がってしまいそうだ。
「こんなホコリまみれの教室でよく我慢できるね。君の教え子たちが気の毒に思えてきたよ」
ガレスは机に腰掛け足を組み手で埃を払う動作をする。
コイツは邪魔をしに来たのか?
「ガレス王子の計らいで、前衛的で清涼感のある教室を割り当ててもらえば良いのでは?」
「ソレル、まともに掃除もできない王子を頼りにするな。
「クルーデル先生にとって掃除こそが精神を清めるための清涼剤なんでしょう。先生の思考パターンは指先にこびりつく塵のように薄く軽いので読みやすい」
「嫌なら帰ってもいい。学校生活での相談があるんだったら話は聞く。そうでないのなら手を動かしてくれ」
ガラス窓の汚れが気になる。白く曇った部分を水拭きし、水気を取る特殊なタオルで乾拭きする。
うん、良い感じだ。綺麗になったガラス窓にせせら笑う王子の顔がはっきり映る。
「へぇー、あんなに真っ白だった窓があっという間にピカピカだ。レノには窓拭きの魔術師という二つ名が相応しいかもね」
嬉しいような嬉しくないような、どんな反応をしたらいいのか僕にはわからない。ガレスに褒められて心に響くのは変わり者だけだろう。
「マルクが校則違反で罰を受けたようですが、クルーデル先生は『司法権の限界』を用いて処分を軽くしたとお聞きしました」
「休日に図書館で読んだ本が役に立っただけだよ。裁判所の役割を知ることも教師には重要だと前々から思ってたんだ。マルクに学校を訴えるよう吹聴したんだって?」
「語弊があります。僕は正当な権利をマルクに説いただけです。自己の権利を守る術を知ることこそ、学校生活でしか学べないものだと考えていました」
「ソレルにとって学校とは『自分を守るための手段を会得する』場所なのか?」
「それだけではありませんが、教え子の一つの意見として受け取って下さい。それにクルーデル先生は僕の人生観に少なからず影響を与えてくださりました。今になって思えば初対面とはいえ、尊敬や畏怖の念を抱かずにいた自分を恥ずかしく思います。親衛隊を自分の意のままに動かして、王族に取り入ろうと考えを巡らせていた過去の自分を消し去りたい。先生に会うたびに、そんな風なことばかり脳裏に浮かんできます。信じてもらえなくても構いません」
ソレルの言葉に偽りはない。初めて対面した時に比べて別人のようだ。直近の授業態度からして真摯に臨んでいたことは僕でも推し量れる。
ガレスが鼻歌を奏でる。ソレルの成長を喜んでいるのか、それとも僕に嫉妬しているのか。王子の性格からして両方だろう。この人もまた思春期の子供のように感受性が豊かだからだ。
「話を腰を折るようで悪いんだけど、本の虫くんってばマルク君がレノを訴えた時のために過去の訴訟事案を読み漁っていたよ。なんで知ってるかって顔してるね。それは王立図書館の司書さんから教えてもらったのさ」
ソレルは誇らしげなガレスの顔をギロっと見た。
ガレスのような高貴な人間に聞かれたら司書さんだって断れないだろう。教え子たちを掻き回すだけ掻き回して、なんて性悪な人なんだ。
「さぁ、補習の時間だ!あとはレノが解説してくれるはずさ。大船に乗った気持ちで、いざ知識という名の大海原に出港だぁ!」
「クルーデル先生は過去に囚われない方です。いくらガレス王子といえど、口車に乗せられるような軽薄な先生ではありませんよね?」
この二人は口しか動いていない。掃除をする気がないなら出て行ってもらいたい。しかし、ガレスは僕に新たな刺激を求めている。瞳を煌めかせ餌をせがむ獣のように鼻息を荒らげていたからだ。
「ソレルや他の生徒たちが教師を含む公務員から損害を受けた場合、誰を訴えるつもりだったんだ?」
「……そうですね。損害を与えた人間を断定できたなら、民間や公務員関係なくその人物を訴えるでしょう」
「それでは僕が損害を与えたらレノ・クルーデルを。ガレス王子が損害を与えたらガレス王子を訴えるということだな?」
「そう……なりますね」
「はぁ。ガレスの言葉通り、これは補習どころか追試が必要だな」
「どういう意味ですか?僕が足繁く図書館に通ったのは無駄だったと先生たちは仰るのですか?」
「無駄なんかじゃない。それ以上に教科書通りのケアレスミスをしてくれたんだ、ソレルは」
ソレルはじーっと僕の顔を見つめた。
さて、大きく息を吸い込んで全身に酸素を流し込もう。
「ソレルが読み漁った書物の中に『求償権』という単語はなかったか?」
「『求償権』……?」
「ソレルは民事訴訟の判例集しか読んでなかったみたいだな。『求償権』は主に行政訴訟に関する単語だ」
「行政訴訟は国家や地方自治体から損害を受けた、あるいは公的機関に損害を与えた場合、当事者は私人公人関わらず訴えを起こすことができる。でしたよね?」
「ならその公的機関、つまり教師は王立教育委員会に属する。なら一介の教師が私人である生徒に損害を与えた場合、生徒は教師を訴えることができるか?」
「……!?」
「ソレルの理解力には毎度驚かされる。話が早くて助かるとも言えるけどな」
「公務員または公務に準じる者は身分保障が憲法と法律によって規定されています。当然訴訟当事者に該当する事案であって公務員個人を相手に訴えを起こすことはできても、裁判所は判断を下さないということですね?」
「公務員の事案を民間人同士の訴訟として同等に扱ってしまうと、公務をする側が萎縮して住民サービスの低下を招いたり、命を守る警察官や消防官の職務が制限され救命意欲を削いでしまうかもしれない。そうなったら困ったときに誰も手を差し伸べてくれない社会になってしまう」
ガレスが横槍を入れる。
「話が脱線しちゃうけど個人情報保護が叫ばれる現代で破壊的な自然災害が発生したら、被災者の親族は役所に安否を確認するでしょ?でも個人情報を法律で厳格に規定されたら役所の人も法律に縛られるから開示できなくなるんだよねぇ。法律は被害者を救済するためにあるっていっても法律に生存確認を阻まれるってなんて皮肉なんだ」
「ガレスの言うことはさておき、個人情報保護法に欠陥があるなら議会で改正すればいい。民主主義が正常に機能していれば自治体の職務が円滑に進むように議会が法整備してくれる。では次は本題の『求償権』だ」
「言葉から察するに、おおよそ損害を受けた後に行使される権利のようなものでしょうか?」
「公務員個人を被告人席に立たせられないなら公務員が属する組織を訴えればいい。これが国家賠償責任だ。そして国家や自治体の賠償責任が認められれば賠償責任を果たした後、その賠償を損害与えた公務員個人に請求、もとい求償することができる。これが『求償権』だ」
「『求償権』については勉強になりました。しかし、疑問が残ります。一介の公務員を訴えることはできないとクルーデル先生は仰いました。法律には表と裏があります。なら原則と例外もあるはずですよね?」
「軽微な過失については賠償責任を負わないのが原則。故意または重大な過失については賠償責任を免れない。これが例外だ」
「つまりマルクがナタリーのテストをカンニングしたのにも関わらずクルーデル先生が見落したとしても賠償責任を負わない。ですが、クルーデル先生が意図して僕の両目の潰した場合は賠償責任を免れないというわけですね」
どんな例えだ!
ソレルは先生を不正行為を見逃し目をえぐる物の怪のように見ていたのか?
「クルーデル先生を被告人席に立たせられなくても直属の責任者なら訴えることができる。となれば王立中等教育学校を管轄する王立教育委員会を訴えれば良い、ということですか」
「ただの教師ならソレルの考えは正しい。ところがレノ・クルーデルを訴えるとなれば話は変わる」
「えっ?」
「僕の属する組織は王立教育委員会だけじゃない。在籍する親衛隊も組織に当たる。であれば万が一訴訟を提起するとなれば、姫様の家庭教師の任命権を持つ親衛隊の隊長が被告人席に座ることになる」
「親衛隊隊長……はぅ!?」
ガレスが舌を出し、ウィンクし、サムズアップした。
「そう、ガレス・プロシアデス王子を相手にすることになる。それは王族を敵に回すことと同義だ。その覚悟があるのならソレルの信じる正義を貫けばいい」
ソレルの表情一つ変えず黙々と掃除を続ける。
ガレスが閃いたと言わんばかりに掌をポンと叩く。
「そうか!本の虫くん、妙案を思いついたぞ!僕が本の虫くんの両目を潰そう。そしてレノにその罪を着せれば君の憎き大先生をこの学校から追い出せるぞ!ヌフフ」
「なあソレル、目を潰さなくても視界からゴミを消すことなら可能だよなぁ」
「奇遇ですね。僕もクルーデル先生と同じことを考えていました」
僕はソレルと共謀しガレスを粗大ゴミを捨てるように窓から放り投げた。
悲鳴が外から響くが、僕たちは気にも留めることなく掃除を終えた。
明日からレノ・クルーデルの夏が始まる。
さて、何をして過ごそうか。