マフラヴィ将軍との二度目の会談からどのくらい経っただろうか?
目に映るものは取るに足らない風景ばかりだ。仕事に手がつかず、脳内を駆け巡るのは将軍の言葉だけ。
夜更けまで悩んだお陰で、あまり寝つけなかった。
寝癖を直す時間も惜しい。
僕はマルク、ナタリー、ソレルが待つ教室に足早で向かう。
鬱々とした感情に苛まれつつ、扉を開けようとした。
教師である僕が暗い顔なんてしてたら教え子たちに心配させてしまう。
頬をつねって表情筋に力を入れる。
「よしッ!」
勢いよく扉を開けると、机に腰をかけていたマルクが肩をビクッとさせ振り向いた。
すると懐かしい香りが鼻の奥を刺激する。
「うおっ!?」
マルクは驚いた拍子に転げ落ちた。
「イテテ……」
ナタリーが呆れた表情でため息をつく。
「クルーデル先生、おはようございます」
「ああ、おはよう。マルクは相変わらず行儀が悪いな。机の上に座っていいなんて、僕は教えてないぞ」
床に寝転んでいたマルクを抱き起こす。それを見ていたソレルが端の席で本を読みながら鼻で笑った。
「それじゃあ授業を始めよう」
ふと教科書を開こうと思った矢先、ナタリーから発せられた言葉に手が止まる。
「ねぇ、先生?臭う?」
臭うかって?
確かに教室に入ってすぐ、以前嗅いだことのある香りがした。
石灰の匂いと潮風が混ざり合い、淡い記憶を呼び起こす。
そうだ、ミオン神殿か!
「ヘヘッ、ナタリーと一緒にお祈りってやつを捧げたんだ。これでオレもケイケンな信者の仲間入りだぜ」
「もう、調子のいいことばっかり言って!マルクが一回しか来たことないって言うから、あたしが色々教えてあげたんだよ!」
「そうか。他の信者とトラブルにならないよう気をつけるように。マルクに言ってるんだぞ」
ナタリーが不安気に僕の顔を凝視する。
しまった。
つい顔に出てしまったか?
「クルーデル先生の前ではミオンの話は禁句。ですよね?先生?」
ソレルめ、余計な真似を。
教科書を持ち上げた手にぐっと力が入る。
「何の話だ?」
「誤魔化しても無駄ですよ。父から話を聞きました。クルーデル先生の決断で内外を問わず戦争になる可能性があると」
「戦争……?」
「本当なの?」
マルクとナタリーが酷く動揺している。
「ソレルは僕を戦争屋の類の人間とでも思っているのか?」
「いいえ。もしそういう風に解釈していたら、この教室にいる理由はないでしょう。マルクとナタリーがどういう風に捉えたかはわかりかねますが」
「ならこの話は終わりだ」
教室にどんよりとした空気が流れる。このまま授業を始めるしかない。教え子たちには関係のないことなのだから。
………。
関係ない?
本当に関係ないのか?
この授業だっていつかは終わりがくる。
教え子たちが巣立ってしまえば、僕は用済みだ。
当たり前の日常さえ送れなくなったら、子どもたちは何を信じて、何を感じて、何を道標にして生きていくんだ?
僕たち、大人たちが導いていく存在じゃなきゃ、子どもたちが路頭に迷ってしまうんじゃないのか?
過去から学び、今を生き抜く知恵を授け、未来へ託す。
平和と幸福を両立させるのは難しい。けれどそれでも大人たちが職責を果たし、子どもたちに未来への活路を見出させなければならない。
社会という混沌とした大渦に飲まれてしまわぬよう、知恵と勇気を出し合うんだ。皆と共に。
国境、民族、宗教、言語の壁を乗り越えて手を取り合うんだ。
「――先生?すっげぇ怖い顔してるけど、大丈夫なんだよな?」
「あたしたちじゃ力になれないけど先生の苦しそうな顔見てると、あたしも苦しい気持ちになっちゃう」
マルクとナタリーが怪訝な目で僕を見つめる。
どうやら寝不足だけが理由ではないようだ。
「クルーデル先生は民族や宗派の壁を越えてわかり合えると本気でお思いなんですか?」
「思ってるよ。この教室がそれを証明している。マルクとナタリーはメガラ人で
「それならなぜ
「ソレルが僕の立場を心配してくれるなんて珍しい」
「からかわないで下さい」
「独立を認めたからと言って民族、宗派の対立が解消されるわけではない。むしろ対立を深めてしまう可能性だってある。王国内にメガラ人やサレミオンが住んでいるのなら、メガラ人国家に行くためには国境を越えなければいけないということになる。外から来た人間は例え同じ民族、同じ宗教であっても警戒され不信感を抱かれるものだし、必ずしも国家が作られたからといって、メガラ人とサレミオン全てが満足できるような結末になるわけではない」
「それでは武力を用いてでも分離独立は阻止すべきというのが、クルーデル先生の見解なんですね?」
「それは……」
僕の教師としての意見。一個人としての意見。
どちらを選んでも全ての人類が幸せになる答えなんて存在しない。
なら僕の答えは……。
「先生なら戦争なんてしなくすむ解決策が出せるんだぜ。ソレルの方が戦争しか解決する方法がないと思い込んでいるんじゃねぇのか?」
「君に偏見の眼差しで見られるのは心外だ。そもそもエルミオンの立場から考えて、メガラ人やサレミオンの主張は元々相容れないのは重々理解していたはずなのに、争いの火種を撒き散らして事を荒立てているのは果たしてどちらなのか?ナタリーはそれでもマルクを擁護するのか?」
「あ、あたし?」
「てめぇ、ナタリーに変なこと吹き込んだら許さねぇからな!」
ナタリーはマルクとソレルの間で板挟みになってしまった。僕に助け舟を求めている。目に涙を溜めていたからだ。
「ナタリー、言いたくなかったら言わなくてもいい。誰かを傷つけると思ったら悩んでもいい。でも人のためになると思うのなら、自分の意見を自身の口で、時間ならたっぷりあるから自分のペースで話してほしい」
「あたしは……戦争とか政治とか難しいことはよく分からないけど、先生はメガラ人なのに自分たちの国を作ることに反対なのかなって考えちゃう。でも先生が本当に言いたかったのはメガラ人やサレミオンとプロシア人、トリスタ人やエルミオンが共に手を取り合う方法を見つけたいってことだよね?あたしも先生と同じだよ。傷つけあったりしてまで国を作るよりも今みたいにお互いに尊重し合って、苦手な人がいたら距離を置いて、困っている人がいたら手を差し伸べてあげれば、みんなが平和で幸せになれるのかなって……ごめんなさい。綺麗事ばっかり言って」
ナタリーの雄弁な演説はどんよりとした教室を一変させた。
僕はこんなにも愛おしくて、命よりも代え難い教え子たちに恵まれていたのか。
目頭が熱くなってきた。腹の底から声を出して泣きたい。でも喉が詰まって酸素を上手く取り込めない。
「先生、どうしたの?」
「泣いてんのか?」
「ナタリーの私見は一般論であり模範的解答ですが、感極まるほどのものとは到底思えません」
どうとでも罵ってくれ。僕は教え子の一意見で感情を揺さぶられてしまう程度の人間だ。
しかし、しかしだ。なんて素晴らしい答えなんだ。
自分の価値観を押しつけるわけでもなければ、答えを曖昧にしたり論点をすり替えたわけでもない。
真正面から現実を受け止め、己の胸の中で噛み砕き反芻する。
大の大人が敬遠しがちで高度な政治的問題。
つまり自身の口から語れる若者は非常に少ないと、我が国では悲観されてしまう現状がある。
子供たちの成長には驚かせられてばかりだ。
末恐ろしく感じてしまう。
「先生。泣いてるとこ悪いんだけど、ウチの親父の話してもいい?」
マルク、水を差すな。感傷に浸っているんだ。
ナタリーに救われた僕の気持ちを台無しにするのはよしてくれ。
「ウチの親父、ミオナウルのリーダーの悪口を言ってたんだ。『アイツはメガラ人の代表者みてぇなツラしてやがるが、オレは国の命令だけに従ってた野郎は信用できねぇ。国を建てたところで住む場所を焼き払われて、死体の山だけ残されでもしたらたまったもんじゃないからな』だってさ。まっ、オレも実は同じこと考えてたんだけどな。あっ!先生とソレルが嘘つくなって顔してる。嘘じゃねぇからな!」
マルクの発言が嘘かどうかはさておき、教え子たちの意見は貴重だ。脳裏に焼きつけておかないと。
あとはソレルだが……。
「僕は正直、メガラ人同士が流血騒ぎを起こそうが、我が国に実力行使しようが興味はありません。利害関係がありませんので――」
まだ何か言いたそうだ。読んでいた本を閉じ、じっと眺めている。
「ただ目先の利益に囚われてしまえば、将来不都合な現実として跳ね返ってくる。それは商売も政治も一緒です。一時の自由よりも、恒久平和の希求。それこそが権力者が最優先で取り組むべき役割ですよね。愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ。経験が戦争にすり替わってしまえば本末転倒です。人類が愚者に成り下がってしまいますから」
はは……なんかムカツク。
でも三人の考えに差異はあるもののベクトルは同じのようだ。
僕は今、多幸感で満たされている
この一年間、教壇に立っていた時間は無駄ではなかった。
「ありがとう、ナタリー」
「えっ……あたしなんかでも先生の役に立てたのかな?」
「ありがとう、マルク」
「やめてくれよ、俺たち卒業するみてぇじゃん。先生は死ぬまで俺たちの先生なんだ。頼りにしてるぜ、クルーデル先生」
「ありがとう、ソレル」
「一年あまりクルーデル先生の授業を受けてきましたが、知的好奇心をまるっきりそそられませんでした。これからは刺激的で満足感を得られるクルーデル・メソッドでご教授願います。でないと授業中はビジネス書を持ち込みますので悪しからず」
さてやっと授業を始められる。教科書は僕の手汗と涙でぐちゃぐちゃだ。文字が滲んで読めない。
しょうがない。今日は自習にするか。
三人に各自で自習するように伝えると、僕は三人に背を向け黒板に内に秘めた想いを書き殴った。
ひたすら白色のチョークを押し当てる。一本、二本、三本。
書いては消して、消しては書いての繰り返し。
気づけば日が暮れていた。
三人の姿はもうない。
また明日、ありふれた日常を送れるように僕は決断を下さなければならない。
教え子たちの未来を守る。
それこそが僕が成すべき使命なのだから。