三日目、今日は生憎の雨だ。
何かを予感させそうなどんよりとした空気の中、僕の想像を遥かに超える出来事が教室では起きていた。
「――てめぇ、オレの両親が
怒りに震えるマルクは眼鏡が光る少年の肩を掴んだ。
「だから
「ソレル君。言い過ぎだよ。マルクも落ち着いてちゃんと話し合おうよ」
僕はすぐに事の発端を理解した。途方もなく複雑な問題だ。手順を間違えれば手痛い一撃を食らってしまうだろう。
「君がソレル・ノベルスだな?詮索はしないが、教室は口論をする場じゃない。二人とも早く席に着くように」
「先生、ソレルの奴が宗派が違うってだけで鼻で笑いやがったんだ!これって『差別』だよな?」
「鼻で笑ったくらいで『差別』とは言いがかりもいいところ。
「んだとぉ!?てめぇ、それ以上侮辱したら許さないからな!」
「やめなよ、二人とも。先生が溜め息をついちゃったじゃない」
この国は多くの区分が存在する。
王族、貴族、商人、平民からなる四つの身分。
プロシア、トリスタ、メガラからなる三つの人種
そして
『四つの身分、三つの人種、二つの宗派、一つの国家』はこの国の標語であり、国家を象徴する代名詞として愛国者の常套句として用いられる。
「先生は王宮の家庭教師をしておられると耳にしました。是非、この不勉強男に教授してもらえませんか?『宗教』とは一体どういったものなのかを」
「その前にソレルに確認すべきことがある。何故過去の授業に参加しなかった?」
マルクとナタリーは「そうだ」と言わんばかりにソレルを睨む。
「僕の父は代議士をしております。父は王宮直属の親衛隊と手を組み、議会の根回しをしておりました。クルーデル先生が教師として働けるのも父のお陰でもあるのです。先生もご存じだと思いますが親衛隊は議会の承認、すなわち代議士たちの承認がなければ自由に動くことができない」
「それは脅しか?代議士の承認を利用して一教師を親衛隊だけでなく王立中等教育学校から排除するとでも?」
「そんなまさか。僕はただ先生の実力が知りたいのです。王宮の家庭教師として相応しい実力の持ち主かどうかを」
何なんだこの少年は?
代議士は選挙によって選ばれた立法府における法案提出権を持つ唯一の存在。議会に教師を罷免する法も権利もない。だが、僕が姫様の家庭教師となれば話は別だ。民主主義的手続きが求められる以上、僕に不適格の烙印を押されれば王宮に出入りすることは永久に叶わなくなる。
恐らくソレル・ノベルスは僕が王宮に出入りするだけの才覚があるのかを試したいのだろう。
ならば受けて立つのみ。
「『宗教』は『水』。人間にとって必要不可欠であり、生きとし生けるものたちの生まれ故郷だ」
「一教師にしては暴論ではありませんか?僕の家族は
「人が産まれた時、成人した時、結婚した時、そして死ぬ時に『宗教』は人生の中で一際存在感を放つ。これは『通過儀礼』と呼ばれ、各々が青き星に産まれ落ちた意味を教えてくれているんだ」
「命を授けてくれたことに感謝し、死者を弔うため供養するのは、人間の信仰心からくるものであることは僕でもわかります。ですが、それが何だと言うのですか?クルーデル先生は『宗教』なくして人生は語れないとでも仰るのですか?」
「それは信じるものにしかわからないことだ。人は絶対的なものに魅いられてしまうと、それが正しいものだと盲信しやすい生き物。故に熱しやすく冷めやすい。『水』は熱すれば蒸発する。『宗教』も同じで国家全体に浸透すると一気に加熱する。それは国すらも動かしてしまい、挙げ句に政治体制を変革してしまうことだってあり得る」
「先生はご存じのはずです。プロシアデス王国には『政教分離の原則』があることを」
「もちろん知ってるよ。政治が『宗教』の利益のためにあってはならず、中立を守るため代議士は最大限の注意を払って
「『宗教』が立法府に与すれば国家の在り方そのものを改変されかねない。繊細な問題だと思いますが、先生はどうお考えですか?」
「『国家』が『信仰の自由』を保障している以上、周りが騒いでもしょうがない。さっきも言ったが、人は熱しやすく冷めやすい。『宗教』が『水』として国民に波及し信者たちが熱狂すれば蒸発する。時代が進むと『宗教』の生命線とも言える『教義』について議論が巻き起こってくる。時代にそぐわない『教義』は淘汰されていき信者の関心は薄れていく。そうなると信仰心という熱は冷めていき蒸発した水分は雨となって大地へと還ってしまう。そして渇いた大地に降り注いだ恵みの雫は新たな『教義』の芽を育む」
「それでは『宗教』は一過性に過ぎないということですか?」
「『教義』が芽吹けば、新たな『宗教』が生まれる」
「新たな『宗教』?『水』が新しくなっても中身が変わらなければ淘汰されていくのでは?」
「ソレル・ノベルス、僕は『宗教』は『水』だと言ったが、
「……はぁ?」
「例えば新興宗教『リンゴ』を思い浮かべて考えてみよう。液体の『水』と固体の『リンゴ』では混ざり合うことも反発し合うこともない。もし『リンゴ』の『教義』の中に『水』と混ざり合う部分があれば、その部分を絞り出すことで信者たちの価値観にあった現代的で普遍的な『宗教』を生み出すことができる。つまりこの絞り出す動作を一連の改革運動に例え、歴史家たちは口を揃えて『宗教改革』と呼ぶようになったんだ」
「こんな馬鹿げた話が……」
後退りするソレルを尻目にマルクとナタリーは笑いを堪えている。
「『水』と『リンゴ』が合わされば『リンゴジュース』の出来上がりだぜ!はっはっは!」
「新興宗教『リンゴジュース』の教祖はクルーデル先生ね!」
「えー、ゴホン!別の視点からも考えてみよう。体の中に流れる血液のように我々の体内にも『水』が流れている。一見すると『水』は人々の体内を一定に流れているように見えるが、それは表面的なものに過ぎない。ソレル・ノベルス、君なら君らしい回答を持っているはずだ」
「僕を見くびらないでください。熱心な信者であっても信仰と実生活を分けて暮らしている人は大勢います。ごく少数ですが信仰と実生活を混同し、社会に対して恨みを抱く過激な信者も混じっているでしょうね」
「『水』は放っておけば不純物を取り込み濁ってしまうだろう。『水』と上手く付き合っていたつもりが、逆に取り込まれてしまい狂信的な信者に変貌させてしまうかもしれない。『水』は『沼』となり信者を『底なし沼』へと引きずり込む。しかし、信者自らが『沼』に飲まれていくことに気づことはない。本人が自身の置かれた立場を自認できなければ、死ぬまで『沼』から抜け出すことはできないんだ」
マルクは飛び上がり頭を抱える。
「そんじゃあ『沼』に沈んだ信者は見殺しにしなきゃいけないのか?オレとナタリーは見て見ぬフリなんてできねぇ」
「そんなの当たり前だよ。でも先生なら解決策が思い浮かんでるんだよね?」
僕は間をおいて外を見た。雨が激しさを増す。
「周りが見えなくなった信者に自身が置かれた立場を諭すのは危険だ。それに彼らには『信じることを諦めなかったから今の自分がある』という自負がある。それを否定することは彼ら自身の命綱を断ち切ることになりかねない。頭ごなしに説得などすれば、信者たちは暴徒となり他の宗派を排斥したり、思想の相容れない者たちに罵詈雑言を浴びせるだろう。『沼』に沈んでいく信者に救いの手を差し出せば、我々が足を掬われることになる」
「それじゃあ『宗教』は何のためにあるんだ?」
「先生は弱ってる人を見捨てたりしないよね?」
「残念だが『宗教』にのめり込むことが罪でない以上、誰にも止める権利はない。それに『信仰の自由』というものは神ですら犯すことのできない領域なんだよ」
「僕もクルーデル先生と同意見です。個人の権利が保障されているのなら、我々が何を信じようと外野に口を出される筋合いはありませんから」
意外にもソレルが同調してきた。寒気がしたが素直な一面を垣間見られただけでも良しとしよう。
「もしマルクとナタリーが『沼』に飲まれた人を助けたいと本気で思うのなら、宗派を超えた絆でどんな困難にも立ち向かう二人に課題を与える」
「な、何だよ急に……」
「だ、大丈夫だよ。先生は優しいもの」
「マルクにはマルクの、ナタリーにはナタリーの正義感と価値観がある。そして信者には信者の正義感と価値観がある。いいか?例え信仰心に溢れ慈悲深い人間であっても間違いは犯す。だけど決してマルクとナタリーの正義感と価値観を押しつけてはいけない。考えや意見を押しつけられた相手は尊厳を踏みにじられたと感じるだろう。逆に相手の意見には耳を傾けるんだ。間違った意見なら感情的にならずに自分の意見を相手の心に訴えかけるんだ」
「お、おう」
「もし怒ったらどうするの?」
「思想や考え方が凝り固まった人間は、一度指摘されたぐらいでは間違いを認めないだろう。相手が感情的になって、こちらが冷静さを失っては対話にならない。感情的になった相手とは距離を取り冷却期間を与える。再び相手が間違いをしたら何故間違いなのかを優しくわかりやすく説く。このサイクルを何度でも何度でも繰り返すんだ。根気よく相手の心に届くまで」
「これが課題……?」
「あたしたちにできるかな?やれるかな?」
「『宗教』に対抗できるのは『宗教』だけ。それなら二人の信じる心、正しい心で向き合っていかなければならない。二人の中に流れる清らかな『水』で濁ってしまった『水』を浄化してあげられたら、それこそ二人の中に根づいた新たな『宗教』として世間に認められる日が来るのかもしれない」
「『宗教』に対抗できるのは『宗教』ですか。そんなのクルーデル先生の美辞麗句でしょう?」
「ソレルにもやってもらう。三人が力を合わせれば『沼』に飲まれた人を救い出せる。三人が卒業するまでの課題だ」
ソレルは湿気で曇った眼鏡を拭き始める。
僕は時計を見る。
はぁ……またか。
熱弁を振るっていたら授業の時間がなくなってしまった。