ポケットモンスター虹 ~Raphel Quartet~ 作:裏腹
空気がねじれた。
大地が抉れた。
その瞬間、瞳孔の散大を自覚した。
体に伝わる振動が、止まりかけの脈動を呼び戻して、意識を連れ戻す。
「すまない」
白黒だった世界に、再び色が付いた。
8つの輝きを集め、4つの試練を乗り越えた青年を冷たく突き放す謝罪。
目の前に転がるのは、旅路と苦楽を共にして、同じ夢を見て、走り続けた相棒だった。
「――……は?」
俺は今、何を見たんだ。
彼は今、何をくらったんだ。
白目を剥いたライボルトは、数秒前の事さえ語れない。
思い出せるのは、相対する男の、ただただ凍てついたその眼差しだけ。
人の旅を止める瞳。誰かの歩みを終わらせる目。
「威厳がない」だなんて、対面時に侮らなければ、事は変わったろうか。
そんなことはない。
生物に訪れる死のように。一方的に進み続ける時のように。そしてその中で犯した罪のように。逃れられないものだった。
悪い夢、酷い夢と、儚い夢――――立ち向かう者の意志も、過程も、はじまりすらも無意味と否定する
「……んだよ、そりゃ」
「アドニス、最後のポケモンを」
「オレは今、何を――」
「アドニス!」
審判に促されて送り出すライチュウだが、呆然自失なアドニスには、彼の背中などまるで見えていなくて。
ただ漠然と、口を開いたまま、向こうのチャンピオン“グレイ”を遠くにするだけ。
圧倒的な差に、悪寒と薄ら笑いが止まらない。
全てを無に還す一撃で、わからなくなった。手も足も出す前に、エースが葬られた。
「終わらせよう――“だいもんじ”」
自分は、何のためにここまで来たのか。
何をするためにここに立っているのか。
積み重ねた記憶。刻んできた足跡。思い描いた自分。
――――何もかも、わからなくなった。
「青いな」
「うるせーなぁ、誰が青二才だ!」
「じゃなくて」
その色に過度な反応を示すのは、きっと自身の未熟さを知ってのことなのだろう。
青年は鼻息荒くするアドニスを、おあいにく様、といなして、高い空を指差す。いくら若くても、皆まで言う必要はない。
ジョウトの中でも一際有名な地、エンジュシティの最も高い場所『スズの塔』の頂上にて望む景色は、格別であった。
修行の合間の一休みは、青年二人の言葉を多分に引き出す。
「バードウォッチングかよ……たいした涼し気で、余裕で、呑気だな。そりゃアンタの強さからくるものって考えでいいのかい」
「そうとも言うし、そうでないとも言えるね」
「みみっちいな。結局どっちなんだよ」
「当たらずとも遠からず、って言ったのさ」
最初っからそう言えっての。これは、音として発されない言葉。
「伝わる表現を考えていたら、微妙なニュアンスになってしまったね。ごめん」
「なんで聞こえてんだよ……」
いくら修行で、見えざるものが見えるようになっているとはいえ、心中まで見透かされてはたまらない。
「その……千里眼? とかいうトンデモ能力も、ジムリーダーとしての実力も、タネも仕掛けもない、と」
「それは、その通りだね。理想や夢に近道はない――それを叶える強さも同じ。君だって、ポケスロンを極めるにまで至ったアスリートだ。僕たちにできることは、ひたすらに己を鍛え続けることだけだって、わかってるはずだよ」
「ああ、正論だな。まったくもってわかりやすいぜ。けどな、徹しきれないのも、人間だ」
何度この地に足しげく通ってみても、塔の上で寝そべってみても、胡坐をかいてみても、連日、体が動かなくなるまでバトルをしてみても――。
「見えねえんだよ、結果が」
また、寝そべる。口をへの字に曲げて、ふてくされた子供のように。或いは、床に落ち伸びる雲影のように。
ポケスロン頂点の次に、と始めたポケモンバトルは、大いにアドニスを悩ませて。
何をしても勝てない。何をしても頭打ち。手を変え、技を変え、心を変えたこともあった。それでも求める栄光は、霧の中。
「ほう」見つめた後、隣で腰を下ろすのは、傾聴の合図。
「別に、努力が嫌いだなんて言ってねえ。だが、あんまり先の見えねぇ話も好けねぇんだよ。オレも、こいつらも」
「初心者みたいなことを言うね」
「気が短くてな」
「ああ、確かに短気だね。それでいて、天才だ」
心底、訝った。小馬鹿にされている感覚さえも得たが、彼の性格を考慮し、真面目な発言なのだと納得させる。
「努力の定義の仕方が、ね。いつも報われてきた人のそれだ」
「どういう意味だ?」
「努力の仕方が上手いのか、それとも地力が備わってたのか――定かじゃないけれど、世の中にはどれだけ頑張っても、挫折するしかない人もいる」
「それに比べりゃ、オレは恵まれているとでも言いたげだな」
「逆だよ。小さな一歩の積み重ねの価値がわからないのは、とても勿体無いことさ」
何が言いたい?と聞こえてきそうな表情に、さらに言葉を重ねる。
「夢を絶つ人は、何もたった一度のきっかけで折れる訳じゃない。それよりも前に、何度も、何度も苦境に喘いで、それでも立ち上がって、ちゃんと前へと進んでいる。……何が彼らをそうさせると思う?」
自分で自分の背中を押し続けてきた、自分だけの記憶――そう、紡いだ。
「鍛練の日々は、それを育てていく」
無意味に思える、負けるだけのぶつかり稽古も。息を切らす走り込みも。誰と戦うのかもわからない、技の空打ちも。
アドニスはその穏やかな横顔を前にすると、それらを自然と許すことができた。
倒れそうな時でも、膝を付かなかったのは、どうしてだった?
下を向くしかなかった苦しみの中でも、その魂をもう一度動かしたのは、何だった?
「ジョウトだけじゃない――世界には、色んな場所があって、色んな人がいる。彼らは幾度となく、君の歩みを止めにかかるだろう。そうなった時、たとえ報われなくとも、その積み重ねは、いつでも君を再動させる」
風に揺らぐ紫のマフラーとバンダナを、今でも覚えている。忘れるものか。
ジムリーダーとして、己の迷いを断ち切り、道を示したあの男。霊使いの青年“マツバ”が言う。
「何をしてもダメで、どうしようもなくなった時は、振り返ってごらん」
――そこに、君の足跡があるよ。
「…………!」
大の字に弾ける爆炎を、雷電が相殺した。
瞳を突き刺す閃光で、我に返る。ライチュウが反動で地に着いた。
大丈夫か。そんな心配を胸に見合わせた瞳。
「お前――……!」
杞憂だった。バチバチと眩しく爆ぜる戦意が、水晶体の奥で諦めるなと激しく叫んでいる。
「――ああ、悪い」
俯く。自分が恥ずかしくなったから。
勝手に絶望して、勝手に戦意を喪失して、勝手に終わらせようとして。
追い込まれたことなんて、ここに来るまで数え切れないほどあるのに。負けたことだって、今に始まったことじゃないのに。
最後の一体が、なんだ。体力がゼロに等しいから、どうした。
強者を恐れるな。自分達だって、強者だろう。刻んできた足跡は、始まりからずっと続いているのだから。
身構えるグレイとリザードンへと向き直った男から、先ほどまでの弱さは、消え失せていた。
「危なく、チャンピオン戦で醜態晒すとこだったなぁ」
再動――ライチュウがもう一度浮き上がり、ボード状の尻尾に搭乗、
「“エレキフィールド”」
アドニスの呟きを肯い、フィールドの中心に巨大な雷を招来する。
轟音に続くのは、煌めく雷光。放射状に拡がって、場全体をシャインイエローに染め上げた。
ぱち、ぱち、と会場を迸る電気が、エレキフィールドという力場を明確に知らしめる。
「……わーってるよ。行けるとこまで、だろ」
二人で見据えるのは、王座。体は動く。声も出る。視界だって開けて、空気も澄んでいる。
倒れるには、あまりに早すぎる。潰えた仲間の願いを乗せた背中に、自分の勇気を、ひとかけら。
規模も勢いも桁違いな、恐らくラフエル最大級の“だいもんじ”が、またライチュウの輪郭を歪ませにかかる。
「さあ、奔り抜けようぜ――マイバディ!!」
「!?」
消えた。
グレイがライチュウの残像を見たのは、リザードンが呻いてからの事であった。
「速い!」
片翼を焦がす雷撃。“エアスラッシュ”、振り向きざま。
文字通りに空を切る。
ビュンという風切りと、バチンという炸裂音が、彼への道しるべのはずなのに、捉えられるのはいつでも光芒だけ。
右を見て、左を向いて、上を睨んで、下を覗いて。翻弄されるリザードンを、
「この速度、捕まえられない……!」
「当たり前だろ。オレ達は
強烈な炎は、的が見えざるが故にかすりもしない。
一撃当たれば終わりなのに。そんな観衆の言葉も置き去りに、だいもんじの連打をすり抜けた。
特性『サーフテール』を持つライチュウにとって、エレキフィールドは単なる『でんき技を強化する舞台』ではない。
「早く! 速く! 疾く! 捷く! 迅く! まばたきも許さず全部置き去りにするッ!!」
力場から放出される微弱な電気エネルギーさえも推力に変換し、すばやさを倍化させる。そこから生まれる機動力は、もはや瞬間移動に等しい――。
急制動と急加速、ジグザク軌道と流線機動。まるで我儘な龍のように、雷電は空の波乗りで縦横無尽に暴れて回る。
「“10まんボルト”!」リザードンが、すれ違いざまの反撃を浴びた。もう一つの翼も焼かれると、たちまち甘くなる空中での姿勢。
アドニスとライチュウは、その僅かな瞬間を見逃さなかった。
「浚えよッ!」
ひときわ強い閃光。ボード状の尻尾で突撃し、勢いのままリザードンを上空まで連れ去る。
そうして黄色い流星が重力に逆らうのを辞める時、地表の電気は唸りを上げて、蠢き始めて。
天高くで円を描いたのを合図に、今度は真っ逆さま。隕石よろしくリザードンを一気に地上へと運び込んだ。
アドニスは瞳を大きくしたグレイへ、ようやくツラが変わった、と不敵に笑う。
「まだこっからだろ。見下ろしてんじゃねェぞ、チャンピオンさんよ……!」
「(なんだ、何をするつもりだ)」
「何もなしじゃ倒れられねェんだよ……こちとら
「――まさか!」
翼を焦がした竜が落ちてくる。麻痺に蝕まれた巨体が落ちてくる。
それを迎え入れるのは、地上の一点に集中したフィールドの電気エネルギー。
「最強だろうが、チャンプだろうが、関係ねェ! 今まで通り、やってきたことをやるだけ! ただ、駆け抜けるだけ!!」
座標はばっちり。天へと伸びて、槍となれば準備は完了。
「リザードン!」抵抗を――今となっては発話の外だ。
「その
“ライジングボルト”。それは、黒龍を焼き討った
エレキフィールドのエネルギーを限界まで集めて放つ、でんきタイプ最大級の技。
天上へと抗うように大地から昇る、反逆の
「リザードン、戦闘不能!」
リザードンと入れ替わりで出したプテラを、すぐさまメガシンカさせるのは、他ならない本気の証明だろう。グレイは相対する者の目を、しかと見つめる。
呼吸を荒らげ、今にも倒れそうになりながら、それでも立ち続ける青年の、爛々と雷が輝く鋭い瞳を。
「……アドニス、だったね。覚えておこう」
「へん、足りねぇな……、二度と忘れられねぇ名前にしてやるよ」
進み続けた果てに待つ最後の一歩は、そこにあるか――――。