俺らの青春戦略   作:さんかくふらすこ

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Side.K 『ファインダー』(前編)

「父さん達な、離婚することにしたんだ」

 

 

 

 急に告げられたその一言に、俺の心は不思議と凪いだままだった。

 

 

 覚悟はしていた。

 

 中学入る前くらいから夫婦仲が段々悪くなってきていたのは感じてたし、寝室はいつの間にか別。

 話してるのも一緒に夕食を食べるのも、全然見なくなった。

 

 子供心に『離婚』という二文字が浮かぶのにそう時間は掛からなかった。

 

 

 でもやっぱり、今まで普遍的だと思っていたものがぐらつくのは中々にショックで、しばらく不安で寝れなかった。

 

 それから決心して、自分なりに夫婦の仲を取り持とうとしてみた。

 父さんから、とか嘘をついて母さんにプレゼントをしたり、その逆をしてみたり。

 質問するときはどっちかだけじゃなくて二人にちゃんと聞いたり。

 

 なんて子供じみた取り持ちをしてみたけど、それも意味がなさそうだとすぐに諦めがついた。

 

 

 父さん母さんのお互いを見る目にはもう何も残っていなかった。

 

 ただ、「人がそこにいる」。

 

 町中を過ぎ去る誰かを眺めるように、俺の両親はお互いを見ていた。

 

 それに気が付いてから、きっとこういう日が来るんだろうなとは思っていた。

 こっちだって、覚悟は出来てた。諦めておいたんだ。

 

 

 

「帰ってきたら話し合いするからな」

 

「ああ、そう……」

 

 

 

 だから今さら告げられたその「覚悟」も、「日曜の練習前にそんなこと言うなよ」としか思えなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 でも、不思議とその日のプレイは上の空で、コーチにも先輩にも友達にも心配された。

 

 

 あー、なんだかんだで俺結構ショックだったんだな。

 

 他人事のように思いながら、片付けの前にシュートを打ってみた。

 フリースローなんて入って当然なのに、ボールはものの見事に外れ、無様に床を転がっていった。

 

 

 

「健人ー!あそんでんなよー」

 

「あ……わりぃ!今行く!」

 

 

 

 友達の真輔に呼ばれて、慌ててボールを仕舞いに行く。

 

 2年に上がって初の大会前だってのに親ってのは身勝手だ。

 これで勝てなかったらどうしてくれるんだろう。

 

 今日はさっさと帰ろうと思った。早く話し合いに片をつけて、この不安を取り除こうと思った。

 

 

 

「何お前、ぼーっとしちゃって」

 

「んー……」

 

 

 

 真輔たちと別れて裏門に行くと、大智は投球フォームの練習をしながら待っていてくれた。

 

 そう言われても、どこまで言って良いのか悩む。

 しばらく馬鹿話をして、人気が無くなったころ、俺はやっと口を開いた。

 

 

 

「俺さ、名字変わるかも」

 

「は?」

 

「離婚すんだって」

 

「あー……ついにか」

 

「そ。ついに」

 

「そりゃー、なんつーか……残念だな」

 

「それな」

 

 

 

 大智がなんとも言えない表情でこっちを見てくる。

 

 そうされても、俺はもう「それな」という感想しかなかった。

 何も言えないでいると、大智が迷いながら口を開く。

 

 

 

「お前、どっちについてくとか決めてんの?」

 

「……どうすっかな。それに良くわかんねぇ。もうシンケンとか決まってるかもしんねーじゃん」

 

「あ、そっか……。恵ちゃんは?」

 

「多分まだ聞いてない。

 

……俺はあいつが一番心配だよ。家帰ったら大泣きしてるかも……」

 

 

 

 父さんと母さんの事を話そうとしても、聞きたくないと首を振るだけだった恵の姿を思い出す。

 その恵が受け止めきれるはずが無かった。

 

 そして万が一受け止めきれても、その先にある選択は俺と違うモノになる気がしていた。

 

 

 

「……恵に何してやればいいんだろう」

 

「相変わらずの保護者ムーブだな、お前!……まぁ、今日ばっかりはそうだよな」

 

 

 

 いつも通り茶化そうとした大智は、俺の顔を見てしゅんとテンションを下げる。

 俺としては、いつも通り『保護者か!』と馬鹿にしてほしかった。

 

 

 普段思った瞬間に口に出す大智にしては珍しく、視線をさ迷わせて言葉を選んでいた。

 

 

 

「離婚ってことは、引っ越しとかすんのか?」

 

「かも。……学校は変えたくねぇなぁ。そろそろ大会だし」

 

「できるんじゃね?多分……親に送ってもらったりしてさ」

 

「父さん朝忙しいからなぁ」

 

 

 

 そう思わず言ってしまって、ゾッとした。胸がギュッと痛む。

 

 

 

「あー、でも!無理だったらおれんちが迎えに行ってやるよ!!母ちゃん暇だし!」

 

 

 

 大智が声を張り上げる。

 5月らしい爽やかな日の光に照らされて、大智はニカッと笑っていた。

 

 

 

「それに引っ越すっつったって近くかもしれねーじゃん!

 

あとあと、こっから話し合ってけば気が変わるかもだぜ?

オレの父ちゃんと母ちゃんなんかしょっちゅう喧嘩してるけど毎回仲直りしてるし、なんとかなるもんだろ」

 

「……それもそっか」

 

 

 

 中学入って以来の親友の気遣いが染みる。

 なのに俺は、なんとも言えない顔で笑うしかなかった。

 

 もう、どうにも出来ないんだよ大智。

 俺が出来ることは全部したんだ。

 

 それは言えないまま、俺は曖昧に笑った。

 

 

 それに気が付いたのか、大智は話題を明るくしようとしてくれた。

 

 

 

「えっ、つーかさぁ、もし名字変わったらどうなんの?名前と相性悪かったらやばくね?

 

あーほら、『木尾津健人』(きおつけんと)!とかんなったら最悪だろ」

 

「うわ、それ最悪。母さんの名字か……明川だったかな」

 

「えー、『あ』始まりだから出席番号かわんじゃん!お前何もかも1番になっちまうぞ!」

 

「マジじゃん!最悪!!」

 

「先生に抜き打ちされる確率上がるとかやばくね?」

 

「やべーやべー」

 

 

 

 いつも通りの通学路を楽しみながら、これも後幾つかになるかもしれない……と心に影は落ちたままだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 家に着いてドアを開けた瞬間、叫び声が聞こえてきた。

 

 

 

「なんでそんなに冷静でいられるの?なんでそんなこと聞くの!!?」

 

「……ただいま」

 

 

 

 聞こえないだろうな、呟くように言うと、ドタドタと走る音が迫ってくる。

 

 

 

「お兄ちゃん!どうしよう!!お母さん離婚するって、ねぇ!!どっちについていくって!!」

 

「……聞いたよ」

 

 

 

 あ、それは決めさせてもらえるんだ。

 

 そうぼんやり思いながら抱きついてきた妹の顔を見た。

 朝は友達と出かけるって言って嬉しそうに出ていったその顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。

 俺の体育着で拭うように顔を擦り付けてくる。

 

 そのまま一緒にリビングに行くと、表情が冷え切った父さんと母さんが席に着いていた。

 

 

 

「健人、おかえり」

 

「ほら、恵。そんなに泣かないで。席に着いて頂戴」

 

「やだ!そんな話し合いしない!!ねぇえお兄ちゃんも!聞かなくて良いよ!!」

 

 

 

 服の裾を掴み、リビングに入らせないようにしてくる恵に何も言えないまま、

 

 

 

「どこまで話したの」

 

 

 

俺はそう聞いた。

 

 

 

「離婚することに決めて、父さんと母さんどっちについていくか決めろって所まで」

 

 

 

 冷徹な父さんの言葉に、恵は耐えきれなくなったのか走って自分の部屋に行ってしまった。

 乱雑にドアを閉める音がリビングに響き渡る。

 

 

 

「……そう」

 

 

 

 カバンを置いて、席に着く。

 

 4人掛けのダイニングテーブルだ。

 母さんと父さん、俺と恵が隣り合って座る。昔シールを貼って遊んでいた妹の椅子が空虚に俺の隣に鎮座していた。

 

 前を向くと、落ち着き払った両親の顔が並んでいた。

 この席でこの並びを見るのは、真面目に2年ぶりくらいだった。

 

 

 俺の準備が出来たのを察して、母さんが口を開く。

 

 

 

「朝にこの人から聞いたと思うけど、離婚することを決めたわ。

 

あなた達に決めてほしいのは、さっきも言ったけどどっちに付いていくか。

大切なことだから言っておくけど、お金の心配はしないで。

別れても私たちはあなたたちの親だから、どっちがどっちについても養育費を払うわ。

 

大学を卒業するまでのサポートは健人、恵、どっちにもするつもり」

 

「それに、会いたいなら好きに会いに行って構わない。

 

途中で気が変わったんなら戻ってきても行ってもいい。好きに選びなさい」

 

 

 

 男と女の醜い争いはオレ達のいないところで既に済まされていたのか、二人の口からはよどみなくその言葉が出てきた。

 

 

 

「会いに行く行かないとか、どっちか引っ越すつもりな訳?」

 

 

 

 とりあえず一番に聞いておきたかった質問をぶつける。想定済みだったのか、母さんがすっと手を挙げて言った。

 

 

 

「私よ。お母さん、名古屋に帰るの。

 

向こうでの仕事や住む場所が決まるまで、お母さん……名古屋のおばあちゃんの家に住まわせてもらうつもり」

 

「だから、父さんはここの家に残る。どのみちローンも残ってるしな」

 

「ふーん……」

 

 

 

 その返答で、俺の決心の半分はついた。後、聞きたいことはもう一つ。

 

 

 

「じゃあ……別れないって選択は?」

 

 

 

 聞きたくても聞けなかった事を聞いてみる。

 

 両親が顔を見合わせた。一瞬だけ『父さん』と『母さん』を見る目に変わる。

 

 でも、その視線はすぐに消え去って、両方には苦笑が浮かんできた。

 

 

 

「ごめんなさい、健人。それは出来ないの。

 

お父さんとお母さんでそれは何度も話してきたわ。せめて恵が成人するまで待っても良いんじゃ無いかって。でもね、ダメなの」

 

「もう同じ所にいることに耐えきれないんだ。別居としたとしても、お互いに夫婦という形で縛られていることが辛い」

 

「そこだけ同意見でも、意味ないのにね」

 

 

 

 はは、と乾いた笑いが居間に残る。俺は笑えない。

 それを感じ取っていただけに、もうダメなことが分かっていたから。

 

 

 

「まあ、だよね。だと思ってた」

 

「ごめんね」

 

「本当に、すまないな」

 

「……別に」

 

 

 

 俺に謝るときだけは昔の父さんと母さんのままだった。

 鼻の奥がツンと痛んで、思わず下を向く。

 

 

 

「急にとは言わない。でも、なるべく早くどっちについていくか決めてくれないか」

 

「財産分与とかも今後の支援とかも、引っ越し先も決めたいし……恵にもそう行って頂戴」

 

「うん……。でも俺、もう決めたよ……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 自室に戻って寝転がっていると、ドアが少しだけ開いた。

 

 

 

「……入っていいぞ」

 

 

 

 誰だかは分かっていた。

 

 そう言うと、人影はするりと潜り込んできた。

 髪型だけは直したのか、さっきよりはマシな格好で恵はベットに腰掛けた。

 

 身体を起こして隣に座る。お互い話すことを考えて、どうにもならない沈黙があたりを包む。

 

 

 

「なんでこうなっちゃったのかな」

 

 

 

 しばらくの沈黙の後、やっと恵が口を開いた。

 

 

 

「俺だって、わかんないよ」

 

「何で……」

 

 

 

 また泣き出した恵の頭を撫でてやる。恵はオレにしがみついて泣き出した。

 

 

 

「昔は、あんなに……っ」

 

「……そうだな」

 

 

 

 嗚咽を飲み込んで、テーブルの上に置いてある写真を眺める。

 

 小4の時、ミニバスケの試合で初めて勝った時の写真だ。

 

 俺と恵が笑って賞状を持っている。

 そして笑いかけている、ファインダーの向こうにはちゃんと二人がいた。俺はその時の顔を今でも思い出せる。

 

 

 

「お兄ちゃん、」

 

「何?」

 

「お母さんについていくよね?」

 

 

 

 胸が詰まった。何も言えなくなる。

 

 

 

「え、ねぇ、お母さんだよね?そうだよね?」

 

 

 

 沈黙に嫌なものを感じ取ったのか、恵が顔を上げて声を上げる。

 

 

 

「だって、今まで仲良かったのお母さんの方だよ、優しいし、料理だって上手で」

 

 

 

 恵の肩に手を置いて、その目を見て絞り出す。

 さっき両親にはあんなに簡単に言えたのに、恵を前にするとどうにも声が出なかった。

 

 

 

「……俺は、父さんに着いてく。ここに残る」

 

 

 

 つっかえながらそう言った途端、恵の目が大きく見開かれる。

 

 

 

「な、んで」

 

「……俺、ここを離れたくない。友達とも離れたくないし、部活も調子良いし……。行きたい高校も決めてある、し……」

 

 

 

 父さんの方が……。

 そう言いかけたオレの表情をみて、恵は言わんとすることに気が付いたようだった。

 

 

 

「……嘘でしょ」

 

 

 

 悲しみの表情が、困惑と怒りに変わる。

 

 

 

「……お金の為に、父さんに着いてくの…?」

 

「違う、そんなこと言ってない俺は……!」

 

「だって、そうでしょ!お兄ちゃん東雲付属に行きたいって、前から言ってたもん!!」

 

 

 

 ベッドを力強く叩く恵。

 

 

 

「俺だって目指してるものが……!」

 

「そんなもののためにお母さんを捨てるんだ!!自分の夢を優先して!!」

 

「捨ててなんか無い!どっちの下で住むかだけを考えてるだけだ!!」

 

「じゃあどっちだっていいでしょ!?養育費は払うって言ってるんだよ?高校なんだからどこから通ったって……!」

 

「名古屋だよ」

 

「え?」

 

「母さん、離婚したら名古屋に帰るらしい。聞いてなかったの?」

 

「……うそ」

 

「母さんここも嫌いなんだよ。さっき言ってた。着いてくるつもりじゃなかったって」

 

 

 

 恵は聞きたくない、というように頭を振る。でも、恵にも決めてもらわなきゃならない。

 

 

 

「お前は、どうするんだ?」

 

「……お兄ちゃんのバカ。最低……!!」

 

 

 

 恵は顔をぐっと歪めて、俺を叩いて出ていった。去って行く恵をオレは追いかけられなかった。

 

 

 

「っ、クソっ!!!」

 

 

 

 ベッドを殴りつけても、返ってくるのはばふっと歯ごたえのない食感だけ。

 行き場のない感情が発散できなくて、頭を抱える。

 

 

 だって、ずっと夢だったんだ。

 

 昔テレビで東雲付属の試合を見てから。ミニバスでに来たOBの選手に教えてもらってから。

 

 俺もいつかあそこに行ってバスケがしたい。

 ゆくゆくはプロになりたいってずっと考えていた。

 

 だから今まで頑張ってきたのに。

 

 

 家族なんていつでも会える。

 名古屋なんて新幹線に乗れば日帰りで会えるじゃないか。

 

 でも夢を逃したら、俺は一生乗り遅れてしまう。

 

 

 それでも、今。この夢へのチケットは家族を代償にしようとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺と恵は2歳違いの兄妹。

 

 物心ついたときから俺の隣には恵がいたし、恵の隣には俺がいた。

 何をするにも俺の後ろについてきて、ずっと一緒だった。

 

 

 俺とは違って控えめで大人しい恵はいじめられたりすることも多かった。

 その度俺と友達で止めに入ったり、慰めたりしていた。

 

 恵は俺をいつも頼ってくれた。

 

 父さんと母さんもそれを見て、「二人は仲のいい兄妹だね」といつも笑って頭を撫でてくれた。

 

 

 恵は料理が好きだった。

 小さい頃から母さんに習って、小学校高学年になる頃には一人でキッチンに立って夕飯を作れるようになっていた。

 

 恵と母さんが作った夕飯を家族全員で囲んだのは、いったいもう何年前になるんだろう。

 

 

 あのリビングで夕飯を食べながら、皆オレの夢を笑わないで聞いてくれた。いつだって応援してくれていた。

 

 だから、いつかプロのバスケット選手になって、家族と一緒に写真を撮るんだ。

 この時みたいに。

 

 

 俺と恵が写った写真立てを伏せる。

 

 

 やっぱり俺は夢を追いたい。そうしていればいつか、昔約束した時みたいに家族全員揃えるはずだ。

 

 

 

「健人、母さんと恵が出るぞ」

 

「今行く」

 

 

 

 下に降りていくと、引っ越し業者のトラックを見送ったばかりの二人が立っていた。

 

 恵の顔を見ると、まっさらな目が俺を見つめ返した。

 その視線は母さんが父さんの顔を見るときと同じだった。

 

 隣を見ると、父さんと母さんが最後の挨拶を交わそうとしていた。

 

 

 

「……じゃあ、行くわね」

 

「ああ。元気で」

 

「そっちもね。……健人も、身体に気をつけてね。バスケも頑張って。いつでも連絡してきて良いのよ」

 

「うん。連絡する」

 

 

 

 俺を見るときはちゃんと『母さん』で、それに安堵しながらそう返す。

 父さんも穏やかな声で付け加えた。

 

 

 

「いつでも会いに行って良いからな」

 

「うん。会いに行くよ。お盆とか、冬休みとか」

 

「ええ。おばあちゃんたちにも伝えておくね。ほら、恵も……」

 

「イヤ」

 

 

 

 『お別れを』。そう言われるのを見越して、恵は言い放つ。

 久しぶりに聞いたその声は、恵のものとは思えないくらい冷たかった。

 

 

 

「……恵」

 

「うるさい。早く行こ、お母さん」

 

「……」

 

 

 母さんがたしなめる声も聴かない。3人で顔を見合わせる。

 昔めぐみがワガママを言ったときの、『しょうがないなあ』って顔はもう誰もしていなかった。

 

 母さんはそっと恵の頭を撫でて、こっちに向き直った。

 

 

 

「じゃあ、そうしましょうか」

 

「そうだな」

 

 

 

 少しの間父さんと母さんは見つめあった。

 その視線に『愛情』なんてものは欠片もなくて、あとは何か労わるようなものだけが残っていた。

 

 

 

「……さようなら」

 

「ああ。いままでありがとう。さよなら」

 

「こちらこそ」

 

 

 

 うっすらと仲の良かった頃の声色を滲ませながら、父さんと母さんは別れの挨拶を交わす。

 呆然としている間に、母さんと恵は車に乗り込んでいく。

 

 

 

「恵、またな」

 

 

 

 窓に顔を寄せて声を掛けると、恵は表情の抜け落ちた顔で俺を見た。

 

 

 

「……もう、会わないから」

 

 

 

 恨みを滲ませたその声に、俺はもう何も言えない。

 

 母さんが手を振って、車がゆっくり速度を上げる。

 開け放った窓から最後に見たのは、お気に入りのポニーテールをなびかせる恵の姿だった。

 

 

 

「……ほら、家に入ろう」

 

 

 

 車の影が見えなくなって、父さんが背中を押す。

 一緒に家に入ると、どうにもがらんとした感じが拭えなかった。

 

 父さんは黙って中に進み、リビングに行ってしまった。

 

 

 しばらくすると、昼のバラエティ番組の音が聞こえてきた。

 きっと酒でも飲んでるんだろう。

 

 それが解放されたからなのか、寂しさを慰めるためなのかは、分からなかったけど。

 

 

 俺はまだ呆然としたまま階段を上がった。

 

 足はなぜか恵の部屋へ向く。『めぐみ』と小学校の図工で作ったネームプレートが下がったまま。

 見慣れたその扉を開けると、そこには……何もなかった。

 

 恵の机も、ベッドも、タンスも、カーテンも、本棚も。

 

 俺の妹なんて最初からいなかったように、がらんとした部屋が広がっていた。

 

 

 

「……恵」

 

 

 

 怖くなって呼んでみても、返事なんか返ってこない。

 中に入ってみても何も変わらない。

 

 恵のランドセル、ウサギのぬいぐるみ、お気に入りの服、窓際に置いてあったパワーストーンとアクセサリー、漫画に絵本に図鑑。全部全部ない。

 

 恵はもうここにはいない。

 

 

 

「……はは」

 

 

 

 当然だ。

 

 俺が自分で捨てたんだから。バスケの選手になるっていう夢のために、ここに留まることを選んだ。恵の手を自分から払いのけた。

 

 

 

「……、く……」

 

 

 

 あの日から押さえてきた涙がついにあふれ出した。

 

 恵。母さん。

 

 もうこの家にはいないんだ。からっぽの部屋で、俺は声を上げて泣いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そこから俺は今まで以上にバスケにのめり込んだ。

 

 

 試合に出ない日はない。

 先輩の座すら脅かすエースとして南二中のバスケ部を引っ張ってきた。

 

 地域予選も順調に勝ち進み、それに釣られるように俺の周りには更に人が増えていった。

 先生も友達も、皆俺を慕ってくれた。

 

 

 

「……それ、好きなの?」

 

「え?」

 

 

 

 調べ学習中、適当な本を見ていたら声が掛かった。

 

 隣を見ると、頬を染めて笑っている同級生。林藤瞳。

 図書委員の大人しい子だった。俺の手元の、鉱物図鑑を指さしている。

 

 

 

「石。ずっと見てるから」

 

「あー、うん。まぁ……。林藤さん、こういうの詳しい?」

 

「詳しくはないけど……好きだよ。あ、ほら、これとか……」

 

 

 

 一緒にのぞき込んで、これが好き、こっちも綺麗、と林藤さんはつっかえながら楽しそうに話した。

 その姿に、何だか惹かれるものがあった。

 

 

 

「えー!!?お前、あの林藤さんと付き合ったってのか!?」

 

「うん。OK貰った」

 

「う、嘘だろ……。あの林藤さんを……羨ましすぎるぞ健人ォ!」

 

 

 

 大智を筆頭に男子連中に囲まれ、俺は曖昧に微笑んだ。

 その向こう側に、同じように女子たちに囲まれてる林藤さん。

 

 目があったから手を振ると、嬉しそうに微笑んで振り返してくれた。絶叫に包まれるクラスで、俺は声を上げて笑った。

 

 

 林藤さん──瞳は前評判以上に優しい子だった。

 

 いつも体調を気遣ったり、勉強で分からなかった所があれば教えてくれたりした。

 何より、その鈴を転がすような笑い声が好きだった。

 

 勿論、俺は精一杯瞳に尽くした。一緒に色んな所に出かけて、たくさん遊んで、話を聞いた。

 父さんにそれを話すと嬉しそうに笑ってくれたし、母さんにメールをすれば「おめでとう!」と喜びに溢れた長いメールが届いた。

 

 

 皆の応援もあって、夏の大会は順調に県大会まで出場した。

 相手はこれまた優勝常連校、向川中だ。

 

 声援が飛ぶ中必死に健闘したが、しかし惜しくも第2位という結果を迎えた。

 

 

 

「お前が引っ張ってくれれば、来年こそは全国に行ける」

 

 

 

 先輩達のその言葉を胸に、俺は部長としてより部活に打ち込んだ。

 

 東雲付属に受かれるよう瞳に手伝ってもらいながら、勉強も少しずつ手を付け始めた。

 中程を漂っていた俺の成績は少しずつ上昇していき、「これなら推薦もいけますね」と先生にお墨付きを貰った。

 

 

 本当に順調な1年だった。

 

 でも、それでも、恵からは全く連絡は来なかった。

 月1で送っているメッセージには全く返信はない。

 母さんの話では、それなりに上手くやっているらしく友達も出来て楽しそうにしているらしい。

 

 

 

「……」

 

 

 

 二人に会いたい。

 

 母さんからのクリスマスプレゼントの手紙を読んで、その気持ちが強まった。向かいでくつろいでいる父さんに声を掛けてみる。

 

 

 

「お正月、向こうに行ってもいい?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 1月2日。

 新幹線の予約どころか遊ぶ用のお金まで持たされて、俺は名古屋駅に降り立った。

 苦労して脱出したその全貌を眺めていると、背中を叩かれた。

 

 

 

「健人!」

 

 

 

 聞きなれた声に振り返る。

 

 

 

「母さん!」

 

 

 

 そこには、全く変わらない俺の母さんが立っていた。

 落ち着いた髪色のミディアムヘアをバレッタで軽く留め、見慣れたダウンジャケットを羽織って笑っている。

 

 

 

「ほんの少し会わないうちに、すっかり大きくなって!

 

どう、学校は?彼女さんと仲良くしてる?部活は?頑張ってるんでしょ?色々話を聞かせて!

 

……あら、ちょっと、どうしたの!?」

 

 

 

 嬉しそうに捲し立てるその声に、なぜか視界がぼやける。

 

 

 俺の知ってる母さんだ。

 

 家の中で固い顔をして、俺と恵の話を強張った笑顔で聞いている、あの母さんじゃない。

 昔俺の夢をたくさん応援してくれていた、あの時の母さんが帰ってきた。

 

 母さんに人目もはばからず慰められながら、俺は涙を止められなかった。

 

 

 

「もう、ほら、あんまり泣かないの。お母さんやおばあちゃん達に素敵な笑顔を見せて頂戴」

 

「うん……うん……!」

 

 

 

 じいちゃん、ばあちゃんも久々の孫を笑顔で出迎えてくれた。

 

 着くなり「これ食べるか」「これ飲むか」と色んなものを押し付けてくる。

 お腹いっぱいになった俺を置いてばあちゃんと母さんはなんと夕飯の準備をしに行き、俺はちょっと苦しいままじいちゃんと一緒にテレビを見た。

 

 じいちゃんイチオシの相撲番組が終わったところで、一番聞きたかったことを聞いた。

 

 

 

「ねぇ、そういやじいちゃん、恵は?部屋?」

 

「ああ、恵は……」

 

 

 

 じいちゃんはちょっと悲しそうにして、カレンダーを指さした。

 

 たくさん書き込まれたカレンダーの今日の日付には、『めぐみ お泊り』と書かれていた。

 

 

 

「お友達と冬休みの宿題をしにお泊りだと。お前が来るって言ったのに『約束したから』って聞かなくてなぁ」

 

「……そっか」

 

「健人ー!テーブルの上片付けて!お父さんも!」

 

 

 

 母さんから声が掛かり、話はそこで終わった。

 

 綺麗にしたテーブルの上にはこれまたたくさんの料理が並び、また死ぬほど食べるハメになった。

 

 

 4人で夜遅くまで喋り、気が付けば0時。

 明日帰るんだから、と寝室に押し込められ、俺は若干消化しきれてない気持ち悪さを抱えながらもすぐに寝てしまった。

 

 疲れてるのを気遣ってくれたのか、俺は10時ごろまでたっぷり寝ることが出来た。

 ばあちゃんが温めなおしてくれた雑煮を食べ、じいちゃんの車で駅まで送ってもらった。

 

 母さんはもうスーパーのパートに出かけて行ったらしい。

 

 

 

「お前を見送りに行けんのを寂しがっとったよ」

 

 

 

 俺にはその言葉だけで十分だった。

 

 帰りの新幹線に乗り、どんどん過ぎ去っていく名古屋の街並みを眺めながら、満ち足りた気持ちで背もたれに寄り掛かる。

 

 あそこには、俺の知っている母さんがいる。会ってはいないけど、きっと恵も楽しそうに笑っているに違いない。

 

 そして帰れば、少しずつ昔みたいに明るくなりつつある父さんが待ってる。

 

 

 きっと、これで良かったんだ。

 俺たち家族それぞれが『俺たち』であるために、離婚することになったんだ。

 そして、いつでも会いに行ける。

 

 これ以上望むことなんてあるだろうか?

 

 

 素晴らしい新年の幕開けに胸を膨らませ、俺は眠りに落ちていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 新年からやる気に満ち溢れる俺の熱意に引かれて、南二中バスケ部は一致団結して練習に取り組んだ。

 冬はあっという間に過ぎ去り、気づけば3年生。中学3年間の集大成が迫っていた。

 

 

 

「自信の程はどう?」

 

 

 

 部活が終わるのを待っててくれた瞳が、夕日と一緒になって俺を出迎える。

 

 

 

「うーん、ありすぎて困るくらい?」

 

「あはは、すごい自信。私の応援なんか、いらなそう」

 

「そんなことないって。応援来てくれないの?」

 

 

 

 最近練習ばっかりで構えてなかったからだろうか。

 むくれた瞳の頭を撫でて、顔を覗き込む。

 

 すると瞳は嬉しそうに頬を染め、

 

 

 

「ううん。行くよ」

 

 

 

と言ってくれた。

 

 

 瞳の応援のお蔭か、夏の地区予選は快勝だった。

 ほとんどの相手に大差をつけて順調に勝ち進み、俺たちは当然の様に県大会までやってきた。

 

 

 

『今日は県大会決勝 頑張ってくるね』

 

 

 

 朝一番に母さんと恵にメッセージを送る。

 

 恵にこの1年送ってきたメッセージは全部未読だ。

 でも、思いは届いてるはずだ。だからあんまり気にしてない。

 

 最近母さんは正社員になったとかで忙しいのか、未読が多いけど、そんなの関係ない。

 

 だって今日勝てば、プロの選手になるって夢に一歩近づくはずだ。

 

 

 

「そうすれば……」

 

 

 

 机の上の、伏せられたままの写真立てを見つめた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 準決勝の東中には難なく勝ち越し、いよいよ決勝。対戦相手には、向川中を破ったという円山中が待ち受けていた。

 

 

 観客席には保護者・クラスメイトが押しかけ、会場はとんでもない熱気だった。

 敗退した向川中の制服が並んで俺たちに声援を送る。

 

 さらに見渡せば、父さんを発見。

 ピシッと座ってたくせに、俺が見てるのに気が付いたら、子供のように手を振ってきた。

 

 その横が南二中の制服軍団。

 クラスの皆、大智たち、そして瞳。皆が俺たちに声援を送っていた。

 

 

 

「南第二バスケ部!絶対優勝するぞ!」

 

 

 

 俺の掛け声に合わせ、声援に負けない雄叫びが上がった。試合開始だ。

 

 

 試合はまさに一進一退、激しい攻防が続いた。

 

 相手のセンターが特に手ごわく、俺のゴールは幾度となく止められた。勿論、その分取り返してやった。

 

 じりじりと増えていく点数と共に、試合はついに第4クォーターまで来ていた。

 

 

 どっちも意地で譲らない。取られれば取り返す。7分半は嵐の様に過ぎ去っていった。

 61-60の接戦に持ち込まれ、残り時間30秒。

 

 一応リードしてるが、全く油断できない。

 

 円山中のボールを真輔がどうにか奪い、後輩の仁にパス。ディフェンスを掻い潜りながら優志、愛一郎、そして俺へと繋がる。

 

 

 

「先輩ィっ!!」

 

 

 愛一郎の声を受け、ゴールは目前。

 そして例のセンター。

 

 二人のディフェンスをするりと避け、そのまま踏み込んでシュート!

 それを、センターはぐっと手を伸ばしてブロック……

 

 

「!?」

「……っ」

 

 

 は、させない!

 俺は後ろに飛びながら、ゴールめがけてシュートを撃った。

 

 フェイダウェイシュート。

 俺のボールはリングに当たり、そして……ゆっくりと落ちていった。

 

 

 

ビーッ!

 

 

 

 その瞬間、試合終了のブザーが鳴った。

 

 

 

「うおおおぉぉあぁぁぁ!!!」

 

 

 

 雄叫びと拍手以外聞こえなくなった。

 

 部員に囲まれて、胴上げをされる。抱き合う。喉が枯れるほど叫びを上げる。

 

 勝った、勝った、勝った!!

 

 すべてが喜びに包まれて、全部がキラキラと光る。

 

 

 観客席に目をやると、応援してくれた皆が落ちんばかりに身を乗り出して立っていた。

 

 

 

「キャー、健人くーん!」

 

「うおぉぉ、げん˝どお˝おぉー!!!」

 

 

 

 瞳たちの女子グループの黄色い声援と、大智たち男子グループの野太い声援が混ざる。

 大智なんか瞳を差し置いて男泣きだ。お前が泣いてどうすんだよ。

 

 父さんは最前列に移動して手を振っていた。年甲斐もなくジャンプしている。

 

 

 

「健人、健人ー!!すごいぞ、よくやった!!!」

 

「……、」

 

 

 

あれ。

 

 

 父さんの涙混じりの叫び声が耳に届く。俺はちゃんと聞こえてるのに、それでも声を張ってる。

 

 

おかしいな。

 

 

 でも俺は、なぜか、その声を聴くほど、身も心も冷えていった。あれほど騒がしかった音が、すんと遠ざかる。

 

 

 

「……あ、れ?」

 

 

 

 恵と母さんがいない。

 父さんはいつかのように喜んでるのに、その隣に二人がいない。

 

 俺はぼうっと、観客席全体を見渡した。勿論いるわけがない。知ってる、そんなの知ってるけど……。

 

 

 

「……」

 

「健人!健人集合!ほら、来いって!!」

 

 

 

 居もしない姿を求め、足に根が生えたように、俺は立ち尽くしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 表彰、記念撮影、雑談、打ち上げ。全てが気づけば終わっていて、俺は父さんの車の助手席で目を覚ました。

 

 

 

「ほら、家についたぞ。疲れてるだろ。シャワー入って早く寝なさい」

 

「あ……うん」

 

「あっはは!頑張ったもんな、そりゃそんなに疲れるさ。荷物は全部持って行ってあげるから、先に入ってなさい」

 

 

 

 暗い玄関には、俺と父さんの靴だけ。

 電気もつけずに、そのまま家を歩く。

 

 二席しか使われてないダイニングテーブル。父さんと俺の私物で埋まったリビング。2本だけの歯ブラシ。

 

 埃がうっすら積もる階段を昇れば、俺の部屋と、父さんの寝室。

 

 そして……物置が二部屋。

 

 

 

「……」

 

 

 

 ネームプレートが下がる部屋は、いつの間にかいらない物がごちゃごちゃと積み重なっていた。

 

 部屋を飛び出し、俺の部屋に戻る。

 机に置きっぱなしのスマホを引っ掴んで、LINEを立ち上げる。

 

 

 

「……あ」

 

 

 

 恵のにも、母さんのにもさえ、返信どころか既読はついていなかった。恵は1年、母さんは3つ前から見てくれてない。

 

 

 

『県大会決まったよ 優勝できるように練習中』

 

『準々決勝勝った! 優勝期待しててね』

 

『今日は県大会決勝 頑張ってくるね』

 

 

 

 震える手で、母さんにメッセージを打つ。

 

 

 

『県大会勝ったよ!ついに全国大会に行けるって 日程は』

 

 

 

 日程はいつだったっけ。ぼーっとしてたせいで思い出せない。

 なんだっけ、いつだっけな……。

 

 思い出そうと見つめる画面に、雫が落ちた。なんだこれ、と思う間もなく、次々と画面を汚す。

 

 

 

「……おかしいな……」

 

 

 

 呟いた声が震えてる。

 何で、どうしてだろう。だって、恵は一度決めたら頑固だから見てないだけ。

 母さんだって、仕事が忙しいから見れてないだけ。それだけ。それだけのはずだ。

 

 

 何で、俺泣いてるんだ。今日勝ったんだぞ。先輩たちも、向川中の雪辱も晴らして、ついに県大会で優勝だ。県で一番。

 

 それに、なんて言ったって、今度はついに全国だ!皆喜んでくれてたじゃないか。

 それなのに、何で、どうして……?

 

 

 何で、何で、なんで—──。

 

 何で俺、頑張ってたんだっけ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 続く全国大会は予選の時点でボロ負けした。

 大敗も大敗を喫し、夢の舞台へ足を踏み入れた実感もないまま終わった。

 

 そしてあの熱はどこへやら、俺はあっという間に部活を引退した。

 

 

 

「県大会優勝できただけですごいよ!」

 

 

 

 父さんも大智も瞳も皆、そう言った。

 

 久々のデートで全く喋らない俺を気遣って、瞳はまたそう言う。

 優しい月光と街頭が、寂しいベンチに座っている俺たちを照らす。体育館のあのギラついたライトとは似ても似つかない。

 

 

 

「健人くん頑張ったもん。私、とっても感動したよ」

 

 

 

 その丸い肩に頭を乗せても、優しく頭を撫でられても、俺の熱は戻ってこない。

 俺の大切な人たちは帰ってこない。

 

 

 

「それに、次は勉強もしなきゃだよ。推薦だからって油断できないって先生も」

 

「瞳、」

 

 

 

 そのうるさい口に噛みつくようなキスをしても、全く気持ちは晴れなかった。

 

 

 どんなに熱意が無くなろうと県大会優勝という肩書きは大きく、夢の東雲付属への推薦切符はあっけなく手に入った。

 後は瞳の言う通り内申点や成績に気を付けないとだけど、その気は全く起きなかった。

 

 

 あんなに待ち望んだ母さんからの返信は夏休みが明けてから来た。

 

 気づかなくてごめんなさい、忙しかったの、おめでとう、でも全国予選はダメだったのね、だけど高校でも頑張れるわ、等々。

 

 待たせた分を埋めるような長いメッセージだったけど、半分も内容は入ってこなかった。

 

 

 なんだか全部がどうでもよくなった俺は、瞳と遊んだ。

 図書委員の仕事を手伝い、暗くなったら一緒に帰って、途中の公園で話した。

 

 話すといっても、俺はほとんど相槌だけだった。

 瞳が何を話しても生返事、後は彼女の頭を撫でて隣にいるだけだった。

 

 ハグやキスをせがまれてもしなかった。したくなかったからだ。

 

 瞳は俺の近くにいるだけで良かった。俺を気遣って、俺を褒めて、頼ってくれるだけで俺は不思議と全部が落ち着いた。

 

 それ以外は邪魔だった。

 

 

 

「ねぇ、健人くんは、本当に私のこと好き?」

 

「え?」

 

 

 

 そんな生活が続いて1か月。

 すっかり暗くなったいつもの公園で、瞳は本を閉じて言った。振り向くと、話すきっかけになった鉱物図鑑が膝の上に乗っている。

 

 

 

「ね、健人くん。あなたって、本当にこの本好き?」

 

「……嫌いじゃないよ。それは妹が……」

 

「それよ!!」

 

 

 

 ふいに瞳は叫んだ。

 かん高い声に、思わず飛び上がる。

 

 その顔を見やると、瞳は薄暗がりでもわかるほど顔を歪めて、涙を流していた。

 

 

 

「前からずっとそう。妹、妹、妹……!健人くんって恵ちゃんの事しか話さない!

 

私の事は本当に好き?違うよね?

 

これも、これも、これも!」

 

 

 

 瞳は俺の手を弾き、図鑑をベンチに叩きつけて、自分の頭に手を伸ばした。

 頭頂部で髪をまとめていたゴムをぐっと引っ張ると、瞳の髪がばさりと落ちた。

 

 

 

「全部、恵ちゃんにしてほしかったことでしょ!」

 

 

 

 恵……?

 捲し立てる瞳を見ながら、俺は妹の顔を思い出した。

 なんで、ここで恵が出てくるんだろう。

 

 何も言わない俺の頬を包んで、今度は優しい声で瞳はささやく。

 

 

 

「……ごめん、ごめんね健人くん。私、健人くんのこと好き。1年の時からずっと好きだった。

今でも好き。大好き。大変なことがあったら助けてあげたい。

 

でも、ごめんね。私は恵ちゃんにはなれないの」

 

 

 

 別れよっか。それに曖昧に頷いたのは覚えている。

 

 

 瞳は最後、塩辛いキスを残していった。

 瞳の最後の思いがこもったものだったのに、俺は何かが違う気がして口元を拭った。

 

 そう無意識にした俺の腕を見て、瞳が言っていたことがようやく分かった。

 

 

 

「……ははは」

 

 

 

 瞳、君の言う通りだ。

 俺は、恵が恋しい。だから君に恵を求めた。

 恵が俺の側で笑ってた頃が恋しい。

 

 あの頃に戻りたい。それだけでいい、それだけで……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 プロのバスケットボール選手になれば、また皆が一緒になれると思っていた。

 でも、その第一歩の県大会優勝の時には、家族みんなは戻ってこなかった。

 所詮こんなものただの子供の夢で、そんな力なんてないのかもしれない。

 

 

 あっけなく届いた合格通知を眺め、俺はベッドに倒れこむ。

 4月になれば、俺は晴れて東雲付属生になる。

 

 東雲附属のバスケットボールは強い。

 部活特化のⅣクラスに入るような強化部活じゃないが、それでも全国の常連だ。選手だって何人も出ている。

 

 

 もうこれしかない。もうここまで来たら戻れない。

 俺の夢と家族の約束に縋って頑張るしかない。

 

 そうすれば、いつかきっと、きっと、家族はもう一度一つになれるはずだ。

 

 

 なぁ、恵。

 

 俺の夢には、俺たちの夢には、それくらいの力はあるよな?

 

 だって、お前と母さんを捨てて掴んだものなんだから。

 

 

 

 

 

 









ポニーテールとシュシュが印象的な髪型として出てきますが、これは彼らの子供時代にそういう曲名の歌が流行ったからです。
そういうのに疎い楠木さんは、今でもその髪型に憧れがありました。
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