俺らの青春戦略   作:さんかくふらすこ

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お久しぶりです。
おまたせしました。2024年ギリギリ間に合いました。



Side.A 『愛しのブラウン』(前編)

 私のランドセルは茶色だった。

 

 他の子の派手な色とは違った、品のあるブラウンベージュ。

 

 公園のベンチなんか置かれたことはない。

 砂を浴びたことも、踏み台にされることも。

 

 

 誰よりも綺麗な、自慢のランドセルだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「明里、明里、そろそろ起きて」

 

「…………うん」

 

 

 

 朝6時。

 

 私の一日は、そのランドセルに必要な物を詰めていくことから始まる。

 

 国語、算数、社会の教科書とノート。

 漢字と計算のドリル。

 昨日やった宿題を入れたファイル。

 連絡帳に筆箱。

 

 

 眠い目をこすりながら準備をしていれば、遠くから水音と食器のぶつかり合う音が聞こえる。

 

 急いで着替えて、顔を洗って台所に行けば、お母さんが山になった食器を洗っていた。

 

 昨日叔父様がお友達を呼んでパーティしてたから、きっとその後片付け。

 私は黙って、その横に積まれた宅配ピザの箱をゴミ袋に詰めた。

 

 

 

「……おはよう、お母さん。他に捨てるものある?」

 

「まだテーブルの上に色々残ってるから、それお願い」

 

「はーい」

 

 

 

 手元から目を離さずそう言われ、客間まで行く。

 

 扉を開ければ、ゴチャゴチャになった部屋と、お酒とかお菓子とかが混じった変な匂いが出迎える。

 いつものことだ。

 

 

 窓を開けて換気をしながら、私はさっさとゴミを詰めていく。

 

 急がないと朝ごはんの時間に間に合わなくなって、お祖母様に叱られちゃう。

 

 

 

「お母さん。ゴミ集めてきたよ」

 

「あぁ、うん、そこ置いといて。縛らなくていいから……」

 

 

 

 お母さんはようやく洗い物が終わったようで、ぼんやりとタオルで手を拭いていた。

 

 私に気がついて、はっとしたように駆け寄る。

 

 

 

「ごめん。おはよう、明里」

 

「うん、おはよう」

 

 

 

 お母さんは冷えた手で私をギュッと抱きしめた。

 

 毎朝のおはようのハグだ。

 バサバサの髪の毛が頬を刺して、ちょっとくすぐったい。

 

 背を軽く叩く。

 

 

 

「お母さん、早く朝ごはん作ろう」

 

「……。そうね、作らないとね」

 

 

 

 お母さんの深いため息を背中に、私はお味噌汁を作ろうと鍋を取った。

 

 

 この家は毎朝お魚って決まってる。

 一汁三菜は必須。

 

 足りなかったり手を抜いたりしたら食べてくれない。

 

 そうなったら後片付けも大変になっちゃうし、時間が押して朝の練習も短くなっちゃう。

 

 今日一日叱られないかどうかは、この朝にかかっていた。

 

 

 

「ちょっと、聡美さん」

 

 

 

 今日の献立は鮭の塩焼きに、野菜のお味噌汁、お浸しに卵焼き。

 

 後少しで鮭が焼き上がる頃、背後から声がかかった。

 

 お祖母様だ。多分、朝のお散歩の帰り。

 

 

 

「……なんでしょうか」

 

 

 

 お母さんが卵焼きを切っていた手を止めて振り向けば、お祖母様は眉を吊り上げて腕を組んだ。

 

 

 

「お庭の雑草、抜いておきなさいって言ったわよね。お隣の三嶋さんにみっともない所見られちゃったじゃない」

 

「じゃあ、今すぐに」

 

「朝食が終わってからで結構。ついでにお花の植え替えも」

 

「……はい」

 

「にしても、まだ出来てないの?相変わらず手際が悪いのね。

 

貴方はこんな女になっちゃだめよ、明里」

 

「……はぁい」

 

 

 

 あーあ、今日はあとちょっとだったのに。

 やっぱりこうなっちゃった。

 

 お祖母様とお母さんにバレないようため息をついて、私は2人分のお味噌汁を器によそった。

 

 

 

 お祖父様とお父さんの分のご飯と味噌汁を盛ってダイニングへ持っていけば、お祖母様が呼んできたらしい二人がもう座って待っていた。

 

 やっぱり叔父様の分を持ってこなくて正解。

 きっと酔いつぶれて寝てる。

 

 

 

「おはよう、お祖父様、お父さん」

 

「おお、おはよう明里」

 

「……おはよう」

 

 

 

 お祖父様は新聞から目を離して挨拶してくれたけど、お父さんは携帯で何か打ちながらぼそっと言った。

 これもいつものことだ。

 

 

 せっかくできたての朝ごはんを並べても、お父さんは「いただきます」一つ元気に言ってくれない。

 

 いつも眉間にシワを寄せて携帯を離さないし、話しかけても生返事ばっかり。

 だから、あんまりお父さんのことは好きじゃなかった。

 

 

 

「明里は今日ピアノの日だね?」

 

「うん。今日もコンクールの曲の続き」

 

「そうか。次こそ賞が採れるよう頑張るんだよ」

 

「はーい」

 

 

 

 お祖父様の方がまだ好き。

 特に今日は機嫌が良いみたいだし。

 

 私が淹れたお茶を飲んでくれて、お祖父様は笑う。

 

 

 

「将来良い家に嫁ぐためにも、しっかりするように」

 

「はい、お祖父様」

 

 

 

 ふと、携帯がうるさく鳴る。お父さんの携帯だ。

 

 それを聞いて、朝ごはん食べかけのままお父さんは立ち上がる。

 

 

 

「……先に出ます」

 

「おお、そうか」

 

「お父さん、いってらっしゃい」

 

 

 

 私がそう言い切る前に、お父さんは電話相手と話しながらリビングから出ていってしまった。

 

 ドアの閉まる音も気にせず、お祖父様はご飯を口に運ぶ。

 どうやら今日の朝ごはんは合格だったみたいだ。

 

 

 とりあえずそれに一安心して、私はお父さんの残したご飯をお盆に乗せてキッチンへ持っていく。

 

 各部屋からゴミを集めてきたらしいお母さんが、勝手口から出ようとしていた。

 

 お盆の上をちらっと見る。

 

 

 

「……また?」

 

「そういうかんじ」

 

 

 

 イライラのため息をかき消すように、ガシャンとドアが閉まる。

 私はちょっと同調するように、一口も付けられなかった湯呑みをシンクの上で逆さまにした。

 

 

 お祖父様とお父さんの食器を片付け、お祖母様と叔父様の分を取り分けてから、やっと私たちの朝ごはん。

 

 時計は7時15分。温くなったお味噌汁で半分流し込むようにご飯を食べたらすぐ歯磨き。

 

 

 口にミントとご飯が混じった変な感じのまま、私は急いでピアノの部屋……さっき片付けたのとは違う客間に走る。

 

 時計は7時半。

 やった!20分は練習できるから、叱られなくて済みそう。

 

 

 

「えーっと……」

 

 

 

 とりあえず、基礎練から。

 先生に持久力が課題って言われちゃったし。

 

 って言われても、持久走だって下から数えたほうが早いんだから、そりゃあ腕にも無いだろうなぁって思う。

 

 

 一通りメニューをこなしたら、残り5分。

 ちょっと迷ったけど、私はもう一度手を鍵盤へ置いた。

 

 モーツァルトのピアノソナタ第16番第1楽章。

 前のコンクールの曲。

 

 

 去年は秋の予選でダメだった。

 

 弾いていると、あーここ間違えちゃったなぁとか、ここもっと上手く弾けたなぁとか思い出す。

 

 今年は賞取れるかな?

 今度こそ取れなかったらお祖父様に殺されちゃうかも。

 

 それはやだなぁ、頑張んないとな……。

 

 

 

「明里、そろそろ学校」

 

「ん、はーい」

 

 

 

 なんて弾いてたら、キッチンの片付けまで終わったらしいお母さんが呼びに来た。

 ランドセルも持ってきてくれてる。

 

 

 

「お祖母様、行ってきまーす!」

 

「はい、行ってらっしゃい」

 

 

 

 お祖母様に挨拶したら、お母さんと車で学校まで。

 

 窓越しに外を見れば、カラフルなランドセルたちが縁石を歩いたり、追いかけあったりしながら歩いていく。

 

 それを全部追い抜いて、車は学校へ向かう。

 

 

 

「今日は……5?」

 

「ううん。6時間目でおしまい。もー、5時間目なのは明日。金曜日だよ」

 

「そっか、今日木曜か……てことはピアノね」

 

「うん」

 

「そうよね、さっき弾いてたもんね……」

 

 

 

 お母さんはぼそぼそとそう呟き、赤信号で止まる。

 

 ブレーキを踏み込みながら、お母さんはぐったりとシートにもたれた。

 

 

 

「お母さん、疲れちゃった?」

 

「……ううん、大丈夫。ちょっと眠いだけ。明里は?大丈夫?」

 

「え?うん。全然大丈夫!今日のピアノも頑張ってくるね。お祖父様にも言われたもん」

 

「……そっか」

 

 

 

 信号が青に変わる。後ろにせっつかれて、車はじりじりゆっくりと進みだした。

 

 

 

 

 

 

「じゃあ、また学校終わったらね」

 

「うん。行ってらっしゃい」

 

「行ってきまーす」

 

 

 

 お母さんに手を振って降りれば、すぐ校門。

 絶叫も混じる楽し気な声が耳に届く。

 

 校庭には朝の会ギリギリまで遊ぶつもりの男の子たちがたくさん。

 

 わっ。こっち見てる。

 

 

 

「あーッ、クスノキ!今日も車?」

 

 

 

 去年同じクラスだった伊藤くんだ。

 周りが振り向くほどの大声に頷けば、友達の男の子たちと一緒に盛り上がる。

 

 

 

「ふぅ~!すっげぇ、さすがオジョーだ!」

 

「オジョーだ!」

 

「がはは、すげー!」

 

 

 

 その馬鹿にしてる感じの笑い声が、やっぱり怖くて苦手。

 ブンブン振り回してる縄跳びもヤダ。

 

 騒ぎのせいで高学年の人たちもこっちを見る。

 この突き刺さる目線も、いつものこと。

 

 ……だけど。

 

 

 

「クォラアアァァァッ、お前らああああああ!!!」

 

 

 

 甲高い叫びと共に、女の子が玄関から飛び出してくる。

 ふわふわの髪の毛を振り乱して、まるでお化けみたい。

 

 黄緑色の線……投げられたカチューシャがビューンと目の前を通り過ぎ、伊藤くんの腕を掠めた。

 

 

 

「うわっ出たッ!」

 

真夕(まゆう)だ!」

 

「逃げろ!」

 

「はーっはっはっは!!逃がすかー!!」

 

 

 

 超スーパーヘアゴムガン――ヘアゴムをたくさん親指にひっかけて、引っ張って次々に飛ばす必殺技――を高笑いと一緒に飛ばされて、男の子たちはボールを持って逃げていった。

 

 一通り走りまわって満足したのか、女の子は今度はこっちに走ってくる。

 

 

 

「あっ、か、りぃー!!!!」

 

「まゆう……わわわわっ!?」

 

「おっはよおぉぉぉッ!」

 

 

 

 勢いのまま抱き着かれて倒れそうになったけど、私をぎゅっとして引き戻してくれる。

 

 顔を隠すもふもふの髪をフルフルと振れば、満面の笑みが表れる。

 

 

 

「おはよ、明里!」

 

「うん。おはよう、真夕ちゃん」

 

 

 

 その笑顔を見れば、私の心臓は楽しく弾みだす。

 

 そう、これもいつものこと。

 だけどこれは他の『いつも』と違って、最近できた『いつも』。

 

 

 私は新しい素敵な友達に手を引かれ、校舎へ駆け出していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 広末真夕ちゃんは、とにかく元気いっぱいな私の初めての友達だ。

 

 

 幼稚園の時から、私には友達ができなかった。

 

 どうやって皆と話して良いか分からなかったし、話してみても一つも話題が分からなかった。

 

 それに、習い事があったからすぐに帰らないとで、皆と遊ぶこともなかった。

 

 何より皆のお母さんたちが『楠木さんちのお孫さん』と関わりたくなかったから……らしい。

 

 

 それは小学校に入っても同じで、皆最低限の付き合いか、さっきの伊藤くん見たいな態度ばかりだった。

 

 担任の先生は心配してくれたけど、家庭訪問でお祖父様と会った途端すっかり大人しくなってしまった。

 

 

 だから私はいつも一人。

 

 でも、一人で遊んでればお洋服を汚してお祖母様に叱られることないし、いらない友達を作るなってお祖父様に叱られなくて済む。

 お母さんの今日何してたのって質問にも答えやすいし、良いことばっかりだ。

 

 

 図書室で絵本を読む。

 教室で折り紙。

 周りをのんびりお散歩。

 花壇のお花を観察。

 たまにちょっぴりお昼寝。

 

 ゆっくり進む時計に合わせて、その日その時やりたいことを気分のままに。

 私は私なりに、一人の時間が好きだった。

 

 

 そして去年の冬。真夕ちゃんと会ったその日も、私は一人で学校をお散歩中だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 皆の声を遠くにひんやりする廊下を歩いて、誰もいない薄暗い図工室や家庭科室を覗く。

 

 掲示板をぼんやり眺める。

 手足に寒さが染み込んでいくのがちょっと気持ちいい。

 

 そうしていたら、ふと、上の階からピアノの音が聞こえた。

 

 

 エリーゼのために。

 1年生の時弾いた曲だ。電子ピアノかな。

 

 時折引っかかったり、いらない音が混じるその音色が気になって、私は階段に足をかけた。

 

 

 きっと3階の音楽室だ。誰が弾いてるんだろう。

 

 あれ、でも普段鍵は閉まってるから……もしかして、お化けだったりして!

 

 階段を登ったのとワクワクするのとで上がった心臓の音を片隅に、私は音楽室をこっそり覗いた。

 

 

 

「……」

 

 

 

 中には体育着姿の女の子が四人。

 

 小さい電子ピアノに一人の子が座って弾いてる。

 その子はふわふわの焦げ茶色の髪をカラフルなヘアゴムで沢山結んでて、弾いたり笑ったりする度に楽しげに揺れていた。

 

 上履きの色が赤だから、1、2年のどっちか。

 

 今日私のクラスは体育無かったから、きっと他のクラスの子だ。

 

 

 そうしてピアノの音に聞き入っていたら……

 

 

 

「……?」

 

「わっ」

 

 

 

……目が合った。

 

 演奏してた女の子だ。

 ぱちくりまばたきして、数秒後「あぁーッ!」っと大声を上げた。

 周りの子も、私も、ビクッと飛び上がる。

 

 

 

「ど、どしたのユウちゃん」

 

「だぁれ?」

 

「ねぇ、ねぇ、あなた!あなたさ!」

 

 

 

 友達の声も気にせず、その子は真っ直ぐ私に向かってくる。

 

 逃げ出そうと背を向けた腕が捕まった。

 

 

 

「クスノキアカリちゃんでしょ!!」

 

「えっ」

 

 

 

 どうして私の名前を……?

 

 女の子の顔を見ても、全く分からない。話したことも無い。

 

 余計固まってしまった私に、その子はピッピッと自分の顔を指差した。

 

 

 

「ほらほら〜、知らない?覚えてない?

 

去年のピアノ発表会でさ、あなたの前でさ、最初の音から失敗した子!あたし!!」

 

「……あ」

 

 

 

 そこまで言われて、思い出した。

 

 1年生の時の予選で私の1つ前にメヌエット弾いてた、真っ赤なドレスの子だ。

 

 間違えたのもそうだけど、お辞儀だけするところで『よろしくお願いします!!!』ってすっごい大きい声で挨拶してたから覚えてる。

 

 ……お祖母様が散々に言ってたな。

 

 

 

「あの、赤いドレスの……?」

 

「そうそうそうそう!!やった覚えてるんじゃん!

 

今年あたしトップバッターだったから今年はさ、会わなかったよね!」

 

 

 

 会うもなにも、私あなたのこと知らないし……。

 

 そんなつぶやきすら挟ませず、その子の口は止まらない。

 

 

 

「えぇー、やったぁ嬉しい!ずっとアカリちゃんとお話したかったんだ!おんなじピアノ教室なのにぜんっぜん会わないしさ」

 

「さ、佐倉先生の……?」

 

「そ、そ!ねぇ皆知ってる!?アカリちゃんめちゃくちゃ上手なんだよ!!」

 

「えっ、わっ、えぇ〜……?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ふふふ」

 

「んー?どーしたの?」

 

「ううん。真夕ちゃんとお友達になったの、なんだかとっても昔みたいだなぁって思って」

 

「あ、なんか分かる!もう四月だしさ、3年生だしさ!」

 

「でしょー?」

 

 

 

 電子ピアノの簡素な音を転がせば、隣の真夕ちゃんも同じように笑った。

 

 

 あの後ずるずるピアノの前まで引っ張っていかれて、チャイムが鳴るまでずっと弾くことになったんだっけ。

 皆上手上手って言ってくれて嬉しかったな。

 

 チャイムが鳴る中皆で急いで教室まで走って、二つ隣の2-4に入る前真夕ちゃんは私に叫んでくれた。

 

 

 

『また明日、聴かせてね!』

 

 

 

 その日から私の好きだった時間は無くなって、もっともっと好きな時間ができた。

 

 真夕ちゃんとピアノ。

 真夕ちゃんと図書館で間違い探し。

 真夕ちゃんとジャングルジムに座ってお話し。

 

 『また明日』って言える嬉しさを、私は毎日噛みしめてる。

 

 

 

「うんうん、にこにこでよろしい!」

 

 

 

 真夕ちゃんがお姉さんぶって頭を撫でる。なんだかくすぐったくて、音色に変な音が混ざる。

 それが面白くって、余計に音が揺れる。

 

 

 

「あ!やっぱりアカリちゃんだ!」

 

「ユウちゃんアカリちゃん、わたしも弾きたい!」

 

 

 

 サチちゃんたちも来て、色んな音が混ざる。

 ミスのない演奏より、この音色がキラキラして聞こえるのはどうしてだろう。

 

 お陰で、今日も楽しい休み時間になりそう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 学校が終われば、すぐにお母さんが迎えに来る。

 外を見れば、もう門の向こう側に車。

 

 真夕ちゃんと一緒に居られるのは、帰りの会が終わってから校門までの短い時間。

 

 せっかく3年生から同じクラスになったのにもったいないけど、こればっかりは仕方ない。

 

 

 

「明里は今日ピアノの日だよね?」

 

「うん、5時から」

 

「またすぐ帰って、行くまでずっとお家で練習なんでしょ?

 

佐倉先生のお家あたし分かるよ、連れてけるよ。

お母さんに言ってみようよ、一緒に帰らせてって」

 

「うーん、でも、練習しないとだもん。叱られちゃうよ」

 

「……そっかぁ」

 

 

 

 真夕ちゃんは最近、いつもこう言ってくれて嬉しい。

 

 でも、きっとそんなことをしたらお祖父様にもお祖母様にも叱られちゃう。

 それに新しい曲がもっと上手く弾けるようになれば、真夕ちゃん達にも聴かせてあげられる。

 

 

 確かに『一緒に帰る』っていうのやってみたいけど、私には練習の方が大事。

 

 それに真夕ちゃんは私以外にもお友達がたくさんいる。

 その子たちと遊んで楽しんでほしいな。

 

 しょんぼりした真夕ちゃんに声を掛ける。

 

 

 

「また明日ね。

 

あ、ほら、今日は楽しみにしてたテレビの日なんでしょ?

明日お話聞かせてよ」

 

「あーっ、そうじゃん!今日お笑いの日じゃん!!

 

話す話す、あたしさ、気に入った漫才完コピしてきちゃうからさ!」

 

 

 

 大きな目を更に丸くして、真夕ちゃんは叫ぶ。

 

 良かった、元気になった。

 

 

 

「じゃあ、また明日ね」

 

「うん、また明日ー!!真夕の漫才をお楽しみにー!」

 

 

 

 ちょっとカッコつけて手を振った真夕ちゃんに応えて、私はお母さんの待つ車に走った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 車に乗ってお家に帰ったら、すぐにピアノの練習。

 15分前になったらピアノ教室へ。

 1時間頑張ったら帰宅。

 

 お祖父様が帰って来る前にお夕飯とお風呂の用意。

 

 お祖父様が帰ってきたらお祖母様と一緒にご飯を出して、それからは宿題とピアノの復習。

 

 終わったらお母さんとご飯。

 

 お母さんが後片付けしてる間に私はお風呂。

 

 

 ここまで来て、ようやくほんのちょっとだけのんびりできる。

 

 湯船に浸かりながら、すりガラスの向こうの夜空を眺めてぐーっと伸びをする。

 

 

 今日は良い日だった。

 

 あんまり叱られないで済んだし、算数の授業で当てられたけど正解だったし、真夕ちゃんともたくさんお話できたし、ピアノも先生に褒められた。

 

 明日も上手くいくと良いな。

 

 学校は5時間だし、真夕ちゃんの漫才?も楽しみだし、習い事は声楽の日だからちょっと気が楽。

 

 あ、でも明後日は茶道の日だ。

 着物めんどくさいなぁ。またお祖母様になってないって叱られちゃいそう。

 

 ……あれ、日曜は何しなきゃなんだっけ……?

 

 

 

「わぶっ」

 

 

 

 口にガバっとお湯が入ってきて飛び上がる。

 

 危ない危ない。寝ちゃうところだった。早く上がってお布団行こう。

 

 

 髪を乾かして皆におやすみを言いに行こうとしたら、ちょうど玄関が開いた。

 

 まだお父さんが帰って来るには遅いから、多分……。

 

 

 

「たでぇーまぁ〜?……あ、おい!あかり!持てこれ!」

 

「おかえりなさい、叔父様」

 

 

 

 やっぱり叔父様だ。

 

 近づいただけでお酒と煙草の匂いがする。持たされたレジ袋にはやっぱりお酒の缶。

 

 

 

「オレの部屋持ってけ」

 

「はーい」

 

「おい、さとみぃ!メシは!」

 

 

 

 叔父様はおぼつかない足取りでキッチンに向かっていく。

 

 お母さんが何か応えてるのを背に、私は叔父様の部屋にレジ袋を置きにいった。

 

 叔父様って気がついたときにはあんな人だったけど、毎日何してるんだろう。

 聞くといつも『オレも忙しいんだよ!!』って言われるから分かんない。

 

 

 自分の部屋に戻ってお布団を二枚敷く。もう一枚はお母さんの分。

 

 電気を消したら急に眠くなってくる。一人お布団の中で丸くなって、何にもない真っ暗をぼーっと眺める。

 

 

 ……この前真夕ちゃんたちと図書室で見た漫画、面白かったな。

 

 お布団の中に何かが住んでて、主人公の女の子はその何かと仲良くなるんだけど、ある日『代わりに学校行って!』って言ったら乗っ取られて、女の子の方がお布団のお化けになっちゃったってやつ。

 

 真夕ちゃん言ってたけど、確かにずーっとお布団の中にいるってちょっぴり素敵かも。

 それに『お布団のお化け』って、なんだか可愛い名前だし。

 

 

 私のお布団にも来ないかな、お化けさん。

 

 そしたら夜も一人じゃなくなって、たくさんお話もできて、もっと楽しいはず。

 お母さんもお父さんもお祖父様たちも、私のお話聞いてくれないもの。

 

 

 お布団の暗さかまぶたの裏の暗さか分からなくなってくる。

 

 本当に何かがいるような気がする。

 きっと半分夢。結局一人だから。

 でも、別に嫌じゃない。

 

 だって、いつものことだから。

 

 

「……明里、そろそろ起きて」

 

 

 

 そして、私の1日はまた始まる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私は最初から、お祖父様たちと一緒に住んでた訳じゃないらしい。

 

 

 こっちに移り住んできたのは、私が3歳の頃。

 関東に住んでたお父さんに同居を持ち掛けて、それにお父さんが乗ったのがきっかけらしい。

 

 向こうにはお母さんの方のお祖父ちゃんとお祖母ちゃん、それに叔母さん(お母さんの妹)がいるみたいだけど、私は何にも覚えてない。

 

 お母さんが時々話してくれる話をパズルみたいに繋ぎ合わせて、ぼんやりしたイメージが頭にあるだけ。

 

 

 お母さんはお祖父ちゃんとお祖母ちゃんの話だけじゃなくて、他にも色んな話をしてくれる。

 

 私が3歳の頃の好き嫌い。

 小さい頃夢がアイドルだって言ってたこと。

 良く皆で行った喫茶店。

 お誕生日とクリスマスにあげたプレゼント。

 ちょっぴり奮発して行った旅行。

 

 私には見えない何かを見ながら、ぽつぽつとそれを話してくれる。

 

 そして、最後私に言う。

 

 

 

『覚えてない?』

 

 

 

 ……本当のこと言うと、お母さんがそうするたび、私はいつも困ってしまう。

 

 だって、何にも覚えてないもん。

 3歳だよ。

 あの時ああしたこうしたって言われても、私は何にも分からないし、思い出せない。

 

 

 

 それから、昔のお父さんの話されても困っちゃう。

 

 昔は良く笑ったとか、コーヒーを淹れるのが好きだったとか言われても想像できない。

 

 私の知ってるお父さんは、無口でどんよりしてて、いつも生返事しか返してくれない人だから。

 

 それ以外は……1回だけ、二人で寝てるとこを覗いてるのを見たことあるくらい。

 私と目が合ったら、ボソボソ謝ってすぐ帰っていった。

 

 正直怖いし気持ち悪かった。どうしてお母さんはあんな人と結婚したんだろうって思う。

 

 

 私の家は皆のとは違う。

 

 この感覚は真夕ちゃんたちとお友達になって、もっと強くなった。

 

 私だって成績が良かったり習い事が上手く行けば褒めてもらえるし、お誕生日にもクリスマスにもプレゼントとケーキもらえるし、旅行だって連れてってもらえる。

 

 ダメな事や失敗をしたら叱られる。

 

 皆と変わらないと思うのに、何かが私と違う気がする。

 

 

 でも、それだけ。

 ただ種類が違うだけなんだろうなって感じ。

 

 

 私にとって皆が話す家のお話は、町で配ってる風船と一緒。

 

 色とりどりふわふわ浮かんでキレイだなとは思うけど、貰おうとは思わない。

 どうせお祖父様かお祖母様に『必要ない』って言われるし、私もそう思う。

 

 私はそれを見てるだけで、聞いてるだけで十分。

 

 

 それに最近は、真夕ちゃんがそんな『風船』をたくさんたくさん聞かせてくれる。

 

 テレビの色んな番組、お笑いに、バラエティ、アイドル、アニメ、ドラマ、それからゲームにマンガにおもちゃ!

 

 真夕ちゃんが元気いっぱい話してくれるのを聞いてると、私はとっても楽しくなる。

 

 欲しくはならないけど、面白くて素敵なものがあるって知るのが楽しい。

 なにより、私にそう話してくれる真夕ちゃんが本当に楽しそうで嬉しい。

 

 

 私には本当にそれだけで十分。

 

 朝お母さんにギュッとしてもらえて、お父さんがちゃんと「いただきます」を言ってくれて、真夕ちゃんに面白い話を聞かせてもらえれば、十分すぎるほどに幸せ。

 

 

 

「明里、そこに座れ」

 

 

 

 そう例え……時々お祖父様に厳しく叱られてしまっても。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あーあ、やっちゃったなぁ。

 

 私に飛ぶ鋭い視線を半分他人事みたいに思いながら、私はしっかりとお祖父様の顔を見た。

 

 うーん、5段階中一番上、半年に数回見るレベルの怒り具合だ。

 

 

 

「……ごめんなさい」

 

「謝って済むと思っているのか?お前何をした?言ってみろ」

 

「……今日の展示会で佳作でした」

 

「そうだな。審査員の方からは丁寧にコメントもいただいた」

 

 

 

 夏休みも真ん中。

 今日は華道の展示会だった。

 

 結果は今言ったように佳作。

 先生とのお話もそこそこに帰ってきた。

 

 

 今日はいけると思ったんだけどなぁ。

 『夏祭り』ってテーマも簡単だと思ったのに。

 あ、簡単だと思ったから無難になりすぎたのかも。

 

 

 

「『夏のテーマにも関わらず、鮮やかさや明るさが欠ける』『作品全体の生命感が薄くもったいない結果』……だそうだ」

 

 

 

 批評カードをぐしゃぐしゃ丸めたものが私の肩に当たる。

 

 これは予兆みたいなもので、数秒後、やっぱり怒声が私の耳を打った。

 

 

 

「明里!!お前自分が何をしたか分かってるのか!この家の名に泥を塗ったんだぞ、今日!」

 

「はい」

 

「優秀賞を取ったのはそこいらの中学生だぞ、楠木家が負けたんだ、ただの家の子供に!

 

お前はこの家の名を背負っている自覚が無いのか!」

 

 

 

 ぐるぐるぐるぐる、お祖父様はせわしなく居間を歩きながら怒鳴り散らす。

 

 こういう時は黙って頷いてるに限る。

 私が悪いのは佳作を取った時点で分かってるから、後はお祖父様の気が済むのを待てば良い。

 

 今日の調子と時刻的に1時間くらいかな。

 

 

 

「なんという役立たずだ、私たちへの恩を仇で返すつもりか!誰のお陰でこんな良い生活ができると思ってる!」

 

「……わたしはもっと勉強しろと言ったんですよ、全く」

 

 

 

 あれ、今日はお祖母様もか。

 今日着替えに手間取ったからそのせいかな。

 

 

 お祖母様の一言で余計燃え上がったお祖父様は力任せに本棚を叩く。

 反動で本がいくつか転がり落ちて、その内の一つが私の腕を打った。

 

 

 

「ま、待ってください!」

 

 

 

 うわ、ちょっと待ってよ。

 

 お母さんが私の前に立ち塞がって、私は内心顔をしかめた。

 

 

 

「明里はちゃんと勉強してました!他の習い事も夏休みの宿題もあるのに今日に向けて」

 

「黙れ!!この家のしきたりも知らん嫁が、何を分かったような口を!」

 

 

 

 あーほら、やっぱりこうなった。

 

 更に上がった音量に、私は目を逸らす。

 

 ダメだよお母さん、出てきちゃ。

 こういう時は黙ってれば良いんだから。

 

 

 

「そもそも、元はと言えばお前のせいだ!お前が秋一をたぶらかしたせいでアイツは腰抜けになった!その娘まで台無しにする気か!」

 

「でも、」

 

「口答えするな、嫁の分際で――」

 

「来なさい、明里」

 

「……はい」

 

 

 

 怒りの矛先がお母さんに向いたのを見計らって、お祖母様が私の手を引く。

 

 許されたわけじゃない。

 着物が皺になるから着替えさせられるだけだ。

 

 どのみちしばらくお祖父様は不機嫌になるから、怒鳴り散らすのがお母さんに代わろうが私にとっては同じ。

 何なら『怒鳴る』って目的がハッキリしてるだけお祖父様の方が楽。

 

 ホントは今日みたいな日は、お祖母様の方がめんどくさい。

 

 

 

「どうしてあの程度上手く出来ないの」

 

「……ごめんなさい」

 

「反省なんかしてない癖によく言うわね」

 

 

 

 着物を脱がされて、髪飾りを取られる。

 そして、鏡台の前に座らされて髪を解いてとかされていく。

 

 

 

「わたしがあなたぐらいの頃はあの程度当然でしたよ」

 

「……」

 

「まぁ、あんな人の遺伝子が入ってはね。全く秋一ときたら……」

 

 

 

 ブツ。ブチ。

 

 髪が切れる音が耳元で鳴る。

 

 絡まった私の細い髪はクシに引っ張られて、そして耐え切れず切れていく。

 頭に針で刺されたみたいな痛みが走る。

 

 お祖母様はそんな私の顔を見て、ぼそりと呟く。

 

 

 

「なんて可愛くない子だろうね、お前は」

 

 

 

 鏡の中の私と目が合った。お祖母様が言うのなら、きっとそうなんだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……里さん、明里さん」

 

「……え」

 

 ふっと目を開けると、ピアノの佐倉先生の顔が前にあった。

 肩が先生に支えられてる。

 

 というか、『目を開け』?

 だって私、さっきまでピアノの練習を……。

 

 

 

「ちょっと大丈夫?最近寝れてないの?」

 

「そんなこと……」

 

 

 

 そこまで言って思い出す。

 

 すっごい短い夢を見てた気がする。昨日塾だったから、そのせいだ。

 

 もうずいぶん昔の話。眠気を覚まそうと頭を振れば、すっかりその影は飛んでいく。

 

 それでもイマイチはっきりしない私の顔を見て、佐倉先生ははぁ、とため息を吐いた。

 

 

 

「……今日はちょっとお休みにしましょうか」

 

「えっ、で、でも先生」

 

「良いでしょ。先生も疲れちゃったのー」

 

 

 

 お茶でも飲みましょ、と廊下に出ていった先生の背を見て、私はバクバク慌てる心臓を落ち着かせようと息を吸った。

 

 暖房で温まったふわふわした空気が入ってくるだけで、全然変わらない。

 いっそ外に出て冷えた空気でも吸ってきた方が良いかもしれない。

 

 

 

 去年、小4で出たピアノのコンクールで、私はようやく金賞をもらうことが出来た。

 

 家族皆それはもう喜んでくれて、たくさんたくさん褒めてくれた。

 普段お誕生日にしか行かないレストランに連れて行ってもらえて、新しいお洋服も色々買ってもらえた。

 あの叔父様ですらお祝いをくれてびっくりしちゃった。

 

 全国大会の推薦は貰えなかったけど、私は十分なほど嬉しかった。

 あんなに褒められたのは人生で初めてだったから。

 

 お祖父さまもお祖母さまも、私のことを誇りだと言ってくれた。

 

 

 だから今年も頑張ろうって、絶対にまた賞を取ろうって決めたはずなのに。

 

 

 

「……私、ダメな子だ」

 

「明里いいぃぃ!」

 

 

 

 ため息をつこうとした瞬間、ドアがバーンと開いて、私は変な風に息を吸ってしまった。

 

 

 

「わっ、ご、ごめん明里!」

 

「こら真夕!雑に開けない!」

 

 

 

 むせる背を叩く人を振り向けば、ふわふわの髪を止める黄緑色のカチューシャ。

 夕方別れたばっかりの真夕ちゃんがしょんぼりしていた。

 

 

 

「っ、げほ、ま、真夕ちゃん?」

 

「う~、ごめん明里、びっくりさせようとしただけなの……」

 

「そ、それは大丈夫、だから、何でもう?」

 

 

 

 真夕ちゃんは5年生になってからピアノの練習の日を合わせてくれるようになった。

 火曜と木曜の5時からが私で、6時からが真夕ちゃん。

 

 行き帰りにちょっと顔を合わせられるだけのはずなのに。

 

 そう首をかしげていると、3人分のマグカップを持ってきた佐倉先生が説明してくれた。

 

 

 

「家の鍵忘れたんだって。で、友達が皆帰っちゃって暇になったから一足早く教室にってさっき」

 

「勉強熱心で良いでしょう先生!」

 

「ええ、全く自慢の生徒だわ。楽譜も持ってないし、ぜーんぶ頭に入ってるのね」

 

「はじめ8小節なら弾けるよ!」

 

「そ、そっか……」

 

 

 

 てことは、学校終わって別れてから、ずっとお外で……?

 

 確かに今日は冬にしては暖かめだったけど、さすが真夕ちゃん。

 学年が上がれば上がるほど元気になってる気がする。

 

 

 そんな真夕ちゃんは、あっつあつのお茶をぐびぐび飲み干して、まるで自分の家みたいに机につっぷす。

 私はまだなんだか申し訳なくて、お茶に手を付けられない。

 

 

 

「はぁ~、あったか!そりゃ明里も寝ちゃうよー」

 

「まぁ、確かにちょっとポカポカ過ぎたかもね」

 

「で、でも先生、ごめんなさい……」

 

「ああいーのいーの、たまにはこういう日も良いでしょう」

 

「そーだよ明里ぃ、あたしなんてしょっちゅうだよ」

 

「あなたはさすがに反省しなさい」

 

「せんせーの家居心地良いから仕方ないじゃん」

 

「……でも」

 

「……ほら、お茶飲んだらすっきりするわよ。次頑張りたいなら飲みなさい」

 

「そうそう、カフェインパワーをくらえー」

 

 

 

 そう促されて、私はようやくマグカップを手に取った。

 

 紅茶のいい匂い。

 ちょびっとすすれば、なぜか目の前の二人が嬉しそうに微笑んだ。

 

 

 

「……なぁに?」

 

「ううん」

 

「なんでも。……あ、そういえばクッキーがあったわね。食べる?」

 

「えっ食べる食べる食べる!超食べる!女子会じゃん?」

 

「い、良いんですか?」

 

「いーの。今日は特別ね」

 

「じゃあ恋バナしよ、恋バナ!またせんせの昔のオトコの話聞きたい!3人目の!」

 

「はっはっは、良いでしょう。その代わりあなたたちもね」

 

「わ、私はないですよ!」

 

「だいじょぶ、その代わりあたしが話すから」

 

 

 

 練習しなきゃいけないのに。

 お家に帰ったら、皆が私に期待して待っていてくれているのに。

 

 このたった30分がずっと続けばいいって思うのは、どうしてなのかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 小学生って、ずっと続くものだと思ってた。

 

 

 毎日お母さんと朝ごはんを用意して、学校に行って、真夕ちゃんと遊んで、帰ったら練習と習い事、夕飯とお風呂。

 

 休日は練習と、お祖母さまのお手伝い。

 

 時々外食や旅行に連れて行ってもらったり、発表会に出たり。

 

 それから、学校の色んなイベントを真夕ちゃんたちと楽しんだり。

 

 ずっとずっとこの繰り返しをして、終わりなんてないものだと思ってた。

 

 

 

 だけど、私たちは成長していく。

 

 あんなに広かった校舎も校庭も狭くなっていく。

 勉強は少しずつ難しくなって、だけど解けるようになっていく。

 私の料理や習い事の腕も上がって、全然叱られないようになる。

 

 それはつまり、6年間の終わりが近づいてきてるってこと。

 

 

 寂しさが無いわけじゃない。

 だけど、私たちはもっともっとその先への憧れが先に来ていた。

 

 

 

「~♪、はるーかかなーたへー、ひとりじゃいけないとーころへー」

 

「ふふ、もう、またそれ?」

 

「だーって気が付いたら歌っちゃうんだもん、しょうがないじゃん」

 

 

 

 秋空を眺めながら、二人でブランコに座っておしゃべり。

 

 日に当てられているとちょっと暑いけど、風が吹くとなんだか寒い。

 そんな運動会終わりの、のんびりした日だった。

 

 

 

「真夕ちゃんはホントに『はるそめ』が好きだね」

 

「いや明里も見れば分かるって!まじでさ、吹雪がさ、カッコよくてさ!」

 

 

 

 最近真夕ちゃんは『春よ染まれ』、略して『はるそめ』ってドラマが大好き。

 ヒロインの遥って子に憧れて、長かった髪をバッサリショートに切ってしまったくらい。

 

 ストーリーは、なんだか怖い高校に入学した二人の男の子が協力して怖い先生や生徒を成敗したり、好きな女の子との恋愛模様が描かれたりって感じらしい。

 

 中でも吹雪って男の子がとってもカッコイイんだとか。

 

 

 なんて言われても、うちはテレビ全然見れないし、時折お祖父さまが見てるニュースのCMでしか見たことない。

 

 どっちが吹雪でどっちが彰人なのかも分からない。

 

 

 

「やっぱり吹雪みたいなイケメンにピンチ助けてもらうって夢だよね~!

 

もう、遥ちゃんはなんで吹雪のこと好きになんないんだろ!あたしもあんな恋したい!てかする!」

 

「あはは」

 

 

 

 私にはまだ恋って分かんないけど、それを話す皆は楽しそうだからきっと素敵なモノなんだろうな。

 

 さすがに佐倉先生みたいな波乱万丈な恋は困っちゃうけど。

 

 

 

「あーあ、早く中学生になって、高校生になりたいなぁ。恋したーい!先輩とお話したいし後輩と遊びたーい!」

 

「ふふ、ねー。私は部活やりたい!」

 

「あ、あたしも!ねぇ部活さ、入るならさ、なにしたい?」

 

「うーん、やっぱり吹奏楽部かなあ」

 

「いいね、あたしも吹奏楽やりたい!あ、でもバスケもいいな、陸上も、水泳も……」

 

「真夕ちゃん、運動得意だもんなぁ。あはは……私はむりかも……」

 

「大丈夫!あたしがいれば大丈夫だって!」

 

「ホントかなぁ?」

 

「ホントホント!二人で最強コンビ作っちゃうんだから!」

 

 

 

 恋も部活も先輩も後輩も、全然分からないけれどどれも素敵な感じがする。

 

 これはきっと私も貰えるもの。

 風船みたいに眺めるだけじゃなくて、ちゃんと手にとって、どんなものか確かめていけるもの。

 

 そして、なにより真夕ちゃんと一緒に触れていけると思うと、私は小学校の終わりなんか全く気にならなかった。

 

 

 

「ね、明里」

 

 

 

 ブランコから飛び降りて、真夕ちゃんは私に手を、小指を向ける。

 

 

 

「中学生になっても、高校生になっても、ずっと一緒にいようね!」

 

「もちろん!」

 

 

 

 私は迷いなく、真夕ちゃんと指を絡ませる。

 

 

 

「ずっと一緒ね!」

 

「約束!」

 

 

 

 ずっと一緒。

 高校生すら飛び越えて、大人になっても、結婚しても、お婆ちゃんになっても。

 

 私たちは、それを疑いもしなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「中学校?もう決めてあるぞ」

 

「……えっ?」

 

 

 

 お夕飯が終わって、お祖父様にお茶を出した。

 

 制服とかカバンとか、いつ買うのかな。

 そう気になってそれとなく口に出した質問に返ってきたのは、全く予想してなかった答えだった。

 

 

 

「隣の市に私立の女子校があるだろう。

 

大丈夫、もう学園長とは話をつけてある。明里が心配することは無い」

 

「……え、あの、え……っし、しりつ?」

 

「はっはっは、楠木家の娘がそこらの公立など行くわけないだろう。学校の方は気にせず私に任せておきなさい。

 

ほら、それより練習はどうした」

 

「あ……、うん、やってくる……」

 

 

 

 そろそろ小学校最後のコンクール地区予選。

 曲はベートーベンのピアノソナタ8番『悲愴』第1楽章。

 

 お祖母様に決められたその曲を、私は1音の間違いもなく弾いていく。

 

 

 私立の中学校に行っても、部活はできる。

 恋はできなくたって、先輩や後輩とお話したり遊んだりできる。

 

 違うのは、真夕ちゃんと一緒じゃないことだけ。

 ようやくちょっぴりずつ仲良くなってこれた、同学年の子がいないだけ。

 

 今までと同じ。

 

 真夕ちゃんと中学生活を楽しむっていうのは、やっぱり私には手の届かない夢物語だったってだけの話。

 

 いつものこと。

 仕方のないこと。

 

 

 分かってるはずなのに、私の手は震えて、音が外れていく。

 ムキになって弾けば弾くほどかけ離れていく。

 

 それでも私は弾き続けた。

 

 元の旋律に戻るように。

 自分の心を納得させるように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 同じ中学校に行けなくなってしまったことは、真夕ちゃんには言えなかった。

 

 他の皆が制服を買ったり、通学カバンを買ったりしたのに話を合わせて、私は嘘をつき続けた。

 入学に向けて、見かけだけの勉強と面接の練習を積み重ねていくのと同じく。

 

 

 地区予選はちょっと怪しいところはあったもののしっかりパスして、私はコンクールへ駒を進めた。

 真夕ちゃんと一緒に。

 

 6年やってきて、初めての事だった。

 佐倉先生も喜んでくれた。

 

 初めてコンクールの大舞台に二人で立てることになって、真夕ちゃんは本当に嬉しそうだった。

 私は、その顔を見れなかった。

 

 

 

 コンクールに夢中になっているうちに、私の通学カバンはいつの間にか買ってあった。

 ランドセルと同じ、落ち着いたブラウンベージュ。お祖母様の好きな色。

 

 

 いつものこと。

 仕方のないこと。

 

 そう心の中で呟くほどに、コンクールも小学校の終わりも刻一刻と近づいていった。

 

 

 

「……あら、どうしたの、眠れないの?」

 

 

 

 佐倉先生のお墨付きも貰えて、お祖母様もお祖父様も褒めてくれて、言うことのないコンクール2週間前。

 

 落ち着かなくて布団の上からぼーっとランドセルと新しいカバンを眺めていたら、掃除の終わったお母さんが帰ってきた。

 

 冷えて真っ赤になった指先をこすりながら、私の近くに座り込む。

 

 

 

「……うん」

 

「そっか。コンクール近いものね」

 

「……お母さん」

 

「うん?」

 

「……私、……中学校、皆と同じとこ行ってみたかったな」

 

「…………えっ?」

 

 

 

 お母さんは、びっくりした声というよりは、気の抜けた音を返した。

 

 それを気にしないで、私はボソボソ、なんとなく思いを口に出す。

 

 

 

「無理なの分かってるけど、お友達の真夕ちゃんと、一緒に中学校行ったり部活したりしたら、楽しかったかなって」

 

 

 

 無理なのは分かってる。

 だから口に出した瞬間、抱えてたものがすっかり軽くなった気がして、私はふぅと息を吐いた。

 

 

 あぁ、スッキリした。

 仕方ないもん、しょうがないよね。

 

 きっと他の学校行っても、真夕ちゃんとはピアノ教室で会えるはず。

 私は真夕ちゃんと一緒じゃなくても、まだまだ頑張れる。

 

 明日同じ中学校には行けないって真夕ちゃんに打ち明けよう。そうすれば、私もきっと決心がつくはず。

 

 

 そうして眠ろうと目を閉じかけた時、お母さんが口を開いた。

 

 

 

「……それ、本当?」

 

「え?」

 

 

 

 今度は私が聞き返す番だった。

 さっきのは何だったのかと思うほど、しっかりした声で、お母さんは私に聞いていた。

 

 

 

「本当に、そう思う?」

 

「……思う、けど」

 

 

 

 振り返ったお母さんの顔は、今まで見たことのない顔だった。

 

 俯きがちだった瞳が、強い光を持って私を見ている。

 それがなんだか、怖い。

 

 

 

「でも、私、別に良いよ。お祖父様の言うことだもん。聞くしか無いでしょ」

 

「でも、嫌だって思ったんだよね?もっとああしたかったって、思ったんだよね?」

 

「だから、それは……!」

 

 

 

 こんなお母さん、初めてだ。

 私をしかと見て、はっきりした口調てまくしたてるお母さん。

 

 どうして?なんで急にそんなことを言い出すの?

 だって、そんなのいつものことじゃない。

 

 ああできたら楽しそうなんて、毎回思うでしょ。

 でも出来ない。

 

 私には必要ない。今で十分幸せ。

 そう思ってやってきたじゃない。

 

 それに、それに──

 

 

 

「お母さん、いつも言ってるじゃない!『いつものこと』『しかたない』って!」

 

 

 

 他でもないお母さんが、いつもそう言うじゃない。

 

 

 お母さんは、はっと息を飲んだ。

 ピタリと固まって、言葉に詰まった。

 

 だけど、すぐに頭を振って、私の肩に手を置いた。

 落ち着いた声に戻ったお母さんは、私を見つめて、謝った。

 

 

 

「……ごめんなさい」

 

「え?」

 

「ごめんなさい、そんなこと無いの、明里。

 

仕方なくなんか無いの。

嫌なことは嫌って言っていいの。

もっと楽しそうなことがあれば、それをやってみていいの。

 

もっとあなたは、自由でいいの。

 

本当は『そう』なんだよ、明里。

 

ごめんね。

仕方ないって、いつもお母さんが諦めちゃったから、見ないふりしてきちゃったから……本当は、お母さんがもっと戦わなくちゃいけなかったのに。

 

ごめん……ごめんね……」

 

 

 

 みるみるうちに瞳に涙が溜まっていって、お母さんの頬を伝っていく。

 ぎゅうと抱きしめられても、私は応えられない。

 

 

 だって、訳分かんない。なんで謝るの?

 仕方なくないって何?

 

 自由で良いって言われても、私今まで自由にやれてきたよ。

 そんなに言われても、わかんないよ。

 

 

 

「……お母さん?」

 

「……明里、大丈夫。お母さん、明日お話してみるから」

 

「えっ」

 

 

 ウソでしょ、またお祖父様に反論して、怒らせるの?

 やめてよ、最近やっと全然叱られなくなっていったんだよ。変なことしないでよ。

 

 私に口を挟ませず、お母さんは決心して口を開く。

 

 

 

「大丈夫。お母さん、やってみる」

 

 

 

 その自信の顔と裏腹に、私は不安で満たされていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私の不安はびっくりするほど正確に、そして早く当たった。

 

 次の日の朝、私はいつものお母さんの声じゃなくてお祖父様の怒声で起こされた。

 

 

 

「――だと!?何―――、この私の―――」

 

 

 

 それだけじゃない。

 よく聞こえないけど、同じくらいの声量でお母さんが言い返してるのが聞こえる。

 

 途中でお祖母様の声も混じったのが分かった。

 

 

 私はいつその怒声が私に向かってくるのか、お母さんが昨日私が言ったことをお祖父様に言っちゃってないか不安で、大慌てで朝ごはんの準備に駆けていった。

 

 もし怒られても、朝ごはんがちゃんと作られてたらちょっとは勢いが減るはずだから。

 

 

 

 ご飯が炊ける10分前、

 お母さんは何事もなかったかのように戻ってきた。

 

 髪が引っ張られたみたいにぐしゃぐしゃだったけど、びっくりするぐらいハキハキしていて、あっという間に朝ごはんを完成させて持っていった。

 

 

 

 私の不安と裏腹に、お祖父様は私に怒ったりはしなかった。

 

 お母さんへの愚痴を聞き流しつつお茶を淹れてあげたら、受け取りつつ聞いてきただけだった。

 

 

 

「明里は中学行くの楽しみかい?」

 

 

 

 その『中学』がどっちを指してるかは明確で、私は迷いなく頷いた。

 

 

 

「もちろんだよ、お祖父様」

 

 

 

 私がせっかくお祖父様のご機嫌を取ってるのに、お母さんは諦めてくれなかった。

 

 時間があれば説得。

 お祖母様に何か用事を言いつけられても、『じゃあわたしの話を聞いてくれますか?』なんて突っぱねる。

 

 まるで、お母さんがお母さんじゃなくなっちゃったみたい。

 

 お家の事が気になりすぎて、真夕ちゃんには何にも話せなかった。

 

 

 

 お母さんの説得は三日続いた。

 

 日を増すごとに大きくなっていくお祖父様とお祖母様の声に屈することなく、『明里は嫌がってる』なんて言うこともなく、淡々と公立中学へ行ったほうが為になるということだけを説得し続けた。

 

 ご飯抜きになっても、腕にアザを作っても、ひたすらに。

 

 そして三日目の夜、お母さんは頬に大きなアザを残して帰ってきた。

 

 

 

「お母さん、もう良いよ。

それに私、私立の方行くの嫌なんかじゃないよ。

 

もう良いじゃん。いつも通りに戻ろうよ。お母さんがケガしてくるほうがやだよ」

 

「……っ、」

 

 

 

 膝をついたお母さんの胸元からネックレスがこぼれ落ちる。

 簡素な紐で繋がれたその先には、銀色の指輪が光っていた。

 

 

 

「何にも変わんないよ。

 

それに、ほら、コンクール!私また金賞取るから。3年連続だよ!?

そしたらきっと、お祖父様のご機嫌も直るって!」

 

 

 

 お母さんは、その指輪をじっと見つめている。

 

 

 

「もう良いじゃない、お母さん。私、ここで十分幸せだよ」

 

「…………ねぇ、明里」

 

 

 

 指輪をぎゅっと握りしめて、お母さんは立ち上がる。

 そのまま紐を引っ張って、ブチッと引きちぎる。

 

 

 

「……お母さんと、この家から出ようって言ったら、どうする?」

 

「………………えっ?」

 

「家出しようって言ったら、どう?」

 

 

 

 ニヤリ、と何処かヤケな笑顔を見せながら、お母さんは引きちぎった紐ごと指輪をテーブルに投げ置く。

 

 

 

「な、なんで」

 

「明里」

 

 

 

 膝を折って、私と目を合わせてくる。

 さっきの笑顔は消えて、真剣な顔つきだ。

 

 私は気圧されて、視線から逃げられない。

 お母さんは一息ついて、そして口を開いた。

 

 

 

「明里、聞いてくれる?

 

幸せってね、1種類じゃないの。人には色んな種類の幸せがあって、中には手の届かないものもある。

 

だけどね、それは全部じゃない。

あなたには自分が欲しい幸せに手を伸ばす権利がある。

もし届かなかったとしても、今度はまた別の幸せを探せばいい。

 

なのにお母さん、いつも『仕方ない』って、『いつものこと』って自分に……あなたに、言い聞かせちゃった。

 

明里、ごめんなさい。

あなたが今まで諦めちゃった、いらないって思っていたものはね、想像よりもずっと簡単に手に入るものなの。

 

お母さんは何をしても、あなたにそれをあげなきゃいけなかったのに。

 

だから明里、お願い。

お母さんにチャンスをちょうだい。

 

今まであなたの幸せを無視して、逃げてきたお母さんに、もう1回!

あなたを幸せにするチャンスを、くれる……?」

 

 

 

 幸せ。

 

 皆の話す幸せ。

 

 風船みたいにふわふわ軽くて、私には要らなくて、もらえることもなくて、見ているだけで良かった幸せ。

 

 それが本当は、私にも手に入るものだって。

 

 

 お母さんが何を言いたいかは分かった。

 

 この家はお祖父様を中心に動いてる。

 何をするにもお祖父様の意見次第。

 

 名家楠木家に恥じない人物であることが、この家の第一条件。

 

 だからここでは、皆のような幸せは手に入らない。だから逃げてしまおう。

 

 

 だけど、すぐに首を縦には振れなかった。

 

 お母さんにチャンスをあげたくないんじゃない。

 お祖父様が何をするか分からないから。

 また叱られてしまうのが怖いから。

 

 なにより、……真夕ちゃんと離れてしまうのが、嫌だから。

 

 

 

「……行くなら、ずっとずっと遠くでしょう?」

 

「……そうね」

 

「……お友達と、離れ離れになるってことでしょ」

 

「……そう、なるわね」

 

「…………私」

 

 

 

 考えと不安がぐちゃぐちゃに絡まって言葉が出てこない。分からない。

 

 黙ったままの私を見て、お母さんは私の頭を撫でた。

 

 

 

「……ごめん、急だったわよね。無理に決めないで大丈夫。

 

お母さん、明里の思う通りにするよ」

 

「……うん。…………とりあえず、ちょっと、考えさせて」

 

「もちろん」

 

 

 

 お母さんはそう言って、アザの引かない顔で優しく笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 次の日。

 

 真夕ちゃんは私の何かを感じとったのか、いつもより大人しかった。

時折言葉を待ってくれるように、じっと私の顔を見つめたりしてくれた。

 

 だけど私は結局言い出せなくて、そのままずるずると下校の時間まで来てしまった。

 

 

 皆がどんどんクラスの外に出ていってしまう。

 私はついに足も動かせなくなって、一人ポツンと立ち尽くしてしまった。

 

 

 

「もう、明里?どうしちゃったのさぁ」

 

 

 

 真夕ちゃんが目の前にやってきて、私の頬をムニムニと触る。

 

 そのちょっぴり雑な触り方に、私はようやく緊張がほどけて、言う勇気が出た。

 

 

 

「……真夕ちゃん、あのね、私……」

 

 

 

 そうして私は、真夕ちゃんに全部を話した。

 

 同じ中学には行けないこと。

 お母さんが説得しようとしたけどだめだったこと。

 それの許されない家なこと。

 

 だから、お母さんに家を逃げ出すことを提案されたこと。

 今それに乗るか悩んでること。

 

 そして、どっちを選んだとしても、真夕ちゃんと一緒には居られなくなってしまうこと。

 

 

 

「うーん、そっかぁ……」

 

 

 

 二人で歩きながら話して、気がつけば裏庭の花壇を眺めていた。

 

 

 真夕ちゃんはちょっと声のトーンを落として、腕を組んで悩んでいる。

 

 私が昨日すぐ返事をしないで真夕ちゃんに相談したのは、少し期待をしていたからだった。

 でも、その期待はあっという間に裏切られる。

 

 

 

「あたしは……逃げたほうが良いって思うな」

 

 

 

 驚いて顔を上げれば、真夕ちゃんは悩みを貼り付けたようにくしゃくしゃの顔で、私を見ていた。

 

 

 

「……真夕ちゃん、何で」

 

「うん、そうだよね。分かるよ。やだよね。あたしも明里と離れるのやだ。

 

う〜……だけど、だけどさぁ……!」

 

 

 

 真夕ちゃんはうめいて、髪を振り乱して、言葉にならない声を漏らす。

 

 私はイマイチはっきりしないその反応に、不安もショックも通り越してイライラしてきた。

 

 

 

「……何、どういうことなの」

 

「その、ね?だからさ……、悲しいけど、さ……」

 

「なんでなの!」

 

「……っ、だって……」

 

 

 

 思わず怒鳴ってしまった途端、真夕ちゃんの瞳から涙がこぼれ落ちて、私は一転ぎょっとする。

 

 慌てて駆け寄り謝れば、真夕ちゃんは私の手に雫をポタポタ落とす。

 

 

 

「明里にも、『はるそめ』見てほしい……!

 

他にも、色んなドラマ見たり、漫画読んでほしいしっ……。

 

色んな曲聞いたり、可愛い鉛筆買ってもらったり、好きなご飯作ってもらったりとか、……っ!

 

そんな楽しいこと、明里にもたくさんしてほしいんだもん!」

 

「で、でも、私真夕ちゃんの話聞いてるだけで……」

 

「そんなことないよ!」

 

 

 

 手を涙ごと包みこまれて、額を突き合わされる。

 

 涙がとめどなくあふれる目と目を合わせて、真夕ちゃんはつっかえながら続けた。

 

 

 

「この前授業で習ったじゃん、明里。百聞は一見にしかずって。

 

あたしのお話楽しんでくれるのはうれしいよ。

 

でもね、あたしやっぱり明里にもやってみて欲しい。

 

聞くよりもやるのって、ずっとずっと楽しいからさ?ホントだよ?」

 

「……でも」

 

「そうだね、約束したもんね。せっかくコンクールも、一緒にでれるのにね。

 

あたしもずーっと明里と一緒にいたい。でも、『それでも』だよ、明里。

 

あたしじゃ明里に色んなことさせてあげられない。だから、お母さんと一緒に、あの家から逃げて」

 

「……そんな、そんなの……」

 

 

 

 私も釣られて鼻がツンと痛む。真夕ちゃんの顔がぼやけていく。

 

 

 

「お願い。あたしを信じて。きっと後悔させないから。

 

約束を破るあたしのこと、恨んでもいいから……。

 

あたしとお別れしよ、明里」

 

 

 

 私はこんなに言われても、真夕ちゃんの言う『楽しいこと』が真夕ちゃんと別れるほど魅力的には思えなかった。

 

 だけど、真夕ちゃんが──他でもない、私の親友が──そこまで言うのなら、信じてみようと思った。

 

 

 

「……分かっ、た」

 

 

 

 鼻をすすって、真夕ちゃんの手を離す。

 後押しをされるように、そっと距離を離される。

 

 

 

「私、ここ出ていく。お母さんに言ってみる。

 

……真夕ちゃんのこと、信じてみる」

 

「……うん。……よし、よし!そう!それでこそ明里だよ!」

 

 

 

 目元をゴシゴシ擦って、真夕ちゃんはいつもの笑顔でにかっと笑った。

 

 

 

「じゃ、また明日ね!明里!」

 

「……うん」

 

 

 

 また明日。いつか、言えなくなる日が来るんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 家を出る決心をお母さんに伝えれば、後はびっくりするほど素早く計画が決まっていった。

 

 

 決行は来週火曜日、ピアノの日。

 バレないうちに車でなるべく遠くまで行って、お母さんの方のお祖母さんを頼って更に逃げる。

 

 家に帰って練習して、いつも通りピアノの授業に行くように見せかけて、そのまま町を出る。

 

 

 火曜日はお祖父様もお祖母様も会食に行く日だ。

 

 叔父様はいつも通り遊んで帰ってくるだろうし、きっと飲んで来るから車で追われることはない。

 あの叔父様に、飲酒運転を控える意識があればだけど。

 

 お父さんはどうせお仕事だから置いていく。

 

 

 

「……あの人には悪いけど、お義父さんたちに言うかもしれないから」

 

 

 

 お母さんは薬指を撫で、覚悟を決めて言った。

 

 

 私は、その日のことをあんまり考えないようにしていた。

 

 バレないようにっていうのと、不安を思い出さないようにするため。

 真夕ちゃんのこと信じるって決めたから。

 

 もう今さら、引き返せない。

 

 

 そして当日。

 

 10℃を下回る寒さに震えながら、いつも通り起きた。

 

 いつも通り朝ごはんを作って、お祖父様とお父さんへ。

 お母さんも一発やられて大人しくなったと思っているのか、お祖母様もいつも通り言いつけを下す。

 

 最後のいつも通りは、滞りなく進んでいった。

 

 

 

「……そんなに多くのものは、持っていけないから」

 

「大丈夫。もう選んである」

 

「よし。……友達には……」

 

「……分かってる。言わないよ」

 

 

 

 最後の登校。

 車の中、お母さんと小さな声で話し合う。

 

 どんなに家族がいない時を見計らっても、夜にはバレてしまう。

 そうなったら、お祖父様がどんな手を使っても探し出そうとするのは想像できる。

 

 万が一も考えて、今日この町を去るのは誰にも言わないことに決めていた。

 

 

 

「大丈夫だよ、お母さん」

 

 

 

 どちらかといえば自分に向けて、私は言う。

 

 今日は真夕ちゃんに会いたくない。もし一目でも顔を見たら、絶対に決心が揺らいじゃう……。

 

 

 だけど。

 

 そう頑張って深呼吸して、必死の思いでクラスに来たのに、真夕ちゃんはいなかった。

 

 風邪を引いたって先生が言ってた。偶然なんかじゃない。

 それがどういう意味なのかは、十分なほど伝わった。

 

 

 真夕ちゃんのいない教室。

 真夕ちゃんのいない授業。

 真夕ちゃんのいない休み時間。

 真夕ちゃんのいない帰りの廊下。

 

 

 私はその日、事あるごとに息を止めた。悲鳴と泣き言が出ていかないように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 計画はびっくりするほど完璧に進んだ。

 

 家に帰れば叔父様はいない。

 

 お祖母様は仕事終わりのお祖父様と合流するために、練習の中ほどで出ていった。

 

 そしてお祖父様とお父さんはお仕事。

 

 

 ポーズだけのピアノを練習していれば、あっという間にピアノ教室へ行く時間。

 持っていくのはピアノの手提げだけ。

 

 たくさんの賞状もトロフィーも、ランドセルも全部置いて、私はお母さんと一緒に玄関をくぐった。

 

 

 振り返って見てみれば、大きいだけの古い家に見えた。

 

 

 

「……いよいよね」

 

「……うん」

 

「なにがだ?」

 

「「ッ!?」」

 

 

 

 背後から聞こえた声に息を飲む。

 

 二人飛び上がって振り返れば、煙草の煙を漂わせた男の人が……叔父様が立っていた。

 

 

 

「冬二さん……」

 

「おい聡美、金。無くなったからよこせ」

 

「……っ、」

 

 

 

 お母さんが財布の入ったカバンを押さえる。叔父様にお金をせびられるのはいつものことだけど、今日のこれはガソリン代だ。

 

 渡す訳には行かない。

 だけど、渡さなければそれで怪しまれるし……。

 

 

 

「あ?おら早く渡せよ。ツキがなくなっちまうだろうがいいとこだったのによ」

 

「え、えぇ、今すぐに……」

 

 

 

 お母さんと目が合う。今日は諦めて、次のチャンスを伺うしか……。

 

 そう思った瞬間だった。

 

 

 

「お金なら僕があげるよ、冬二」

 

 

 

 ふらり、と叔父様の後ろから人影が現れる。

 

 ヒョロっとした長身に、バサバサの髪、メガネ。

 朝別れたままのお父さんが立っていた。

 

 

 

「うおお!?んだよ兄貴、急に!」

 

「ただの忘れ物。で、いくらだ?3万で足りるか」

 

「はぁ?おいおいおいおい、っはは!マジかよ!!えぇ?良いね良いね、さすが兄貴。そうこなくちゃ」

 

 

 

 怪訝な視線はどこへやら、お父さんが差し出したお札をもぎ取り、叔父様は機嫌よく笑う。

 お父さんはそれをチラと見て、早く行けとばかりに手を振った。

 

 そして、私たちが乗ろうとしていた車のドアに手をかける。

 

 

 

「今日は僕も父さんたちも遅い。鍵は持ってるな?存分に遊んでくるといい」

 

「フゥー、言うねぇ!やっと兄貴らしいことしてくれるじゃねぇか!」

 

「あ、あの、秋一さん、なんで車に」

 

「あぁ、タクシーで来たから。明里のピアノだろう?送っていく。その後僕を事務所に頼む」

 

「……っ、」

 

 

 

 そう言いながらお父さんは車に乗り込む。

 3万を手に入れた叔父様はご機嫌に私たちに手を振った。

 

 

 

「んじゃあ行ってくるぁ!

 

おい聡美〜、帰ったら食うから夕飯作っとけよー」

 

「……はい」

 

 

 

 叔父様が自分の車に乗って去って行くのを見届け、私たちはお父さんの待つ車へ乗った。

 

 

 横顔だけは叔父様そっくりな顔は、遠い目をしてエンジンをかける。

 重苦しい空気が車内を包む。叔父様からは逃げられたけど、やっぱり今日はダメみたいだ。

 

 

 車が走り出す。

 いつも通りのピアノ教室への道だ。

 

 家が遠ざかって、大通りを行って、2つ交差点を過ぎたら、その次を────

 

 

 

「……」

 

「……え」

 

 

 

 左に行くはずの道を、お父さんは迷わず右へ曲がった。こっちはピアノ教室とも、事務所とも違う。

 

 北へ向かう道。

 県外へ向かう方角だった。

 

 

 思わず身を乗り出して外を覗いた私に、お父さんは口を開いた。

 

 

 

「……逃げるならこっちの道だ。下手に小道を行くより、広い道路を行ったほうが怪しまれない」

 

「…………え?」

 

「ウソ。……ウソよ。ウソでしょう」

 

 

 

 助手席のお母さんが顔を覆ってお父さんを見つめる。

 それでも車はためらわず進んでいく。

 

 でも、ハンドルを握るお父さんの手が、肩が、ふるふると震えるのが分かった。

 

 

 

「すまない。……すまない、自分でも、なんで、急に……」

 

「な、なに、を、今さら……」

 

「分かってる。今さらなのも、謝っても許されないのも、分かってる。

 

だけど……だけど多分、僕もずっと、こうしたかったんだ……」

 

 

 

 歯を食いしばって、ボロボロと涙をこぼすお父さんの顔がバックミラー越しに見えた。

 それに釣られて、お母さんも泣き出した。

 

 

 初めてのお父さんの泣き顔を、私は呆然と見つめていた。

 

 あんまりにも非現実的な光景で、夢でも見ているみたいだった。

 

 窓の外を見れば、町は次々に移り変わって、私の知らない町になっていく。

 これもまるで、現実じゃないみたい。

 

 

 ……嘘。

 

 本当は紛れもない現実だって分かってる。

 現状が壁のように迫ってきて、私に現実を押し付ける。

 

 お母さんが望んだ通り、お父さんが泣くほど喜ぶように、真夕ちゃんが私に願ったように、私はお祖父様から逃げ出した。

 

 逃げ出した。

 逃げてしまった。

 

 

 頬に水が伝う。

 どうやら私も泣き出したみたいだった。

 

 だけどその涙は逃げ出せた達成感からでも、解放感からでもなかった。

 

 

 私は怖かった。お祖父様に怒られてしまいそうで。

 

 私は寂しかった。『また明日』がもう言えないことが。

 

 

 

 

 私の『いつも』がもう二度と戻らないことが、分かってしまったから。







子供は知らないことがたくさんで、だからこそ子供なりに色々考えていて、その結果悲惨で残酷な考え方をする、というのがコンセプトです。


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