「お父さん!お母さんっ!」
「聡美……!」
「聡美!!」
車から飛び出していったお母さんが、見知らぬおじいさんとおばあさん……私のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんに抱きとめられるのを見て、私もゆっくりと車から降りた。
冷たい空気が針のように肌を刺す。
それを思いっきり吸い込んで一緒に空を見上げれば、星の少ない夜空が広がっていた。
車を走らせること丸2日。
私たちはほぼ日本を縦断して、埼玉のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんの家までやってきていた。
そのせいで、エンジンを止めて出てきたお父さんの顔はげっそりと疲れている。
原因はそれだけじゃない。
朝から晩までお祖父様の怒りの電話が鳴り響いてる。
ついでお祖母様と叔父様から。
更に数時間前からは親戚の人たちも掛けてきている。
今もお父さんのポケットは薄ぼんやり光っていて、誰かから着信が来てるのは間違いなかった。
びっくりしたのは、お父さんがその全部にはっきり言い返してた事だった。
お祖父様の怒号にも、お祖母様の金切り声にも、叔父様の絶叫にも、お父さんは冷静に受け答えしてブチッと切っていた。
何なら『沖縄に向かってる』だの『もう海外だ』だのとんでもないウソをついて、全員を引っかき回している。
だけど私は、お父さんがそんなことをするたび、いつかお祖父様に連れ戻された時どうなってしまうんだろうって不安でしょうがなかった。
どんどん声は大きくなるし、電話の回数も増えるし、良いことがない。
お父さんの光るポケットをぼーっと見ていたら、私の頭に手が近づいた。
ビクッとして後ずされば、お父さんは慌てて手を引っ込めて、ポケットの中の携帯を取った。
「……大丈夫だよ、明里」
そう言って硬い笑顔でお父さんは着信を切ったけど、私の不安は消えないままだった。
「秋一くん」
なんだか気まずい空気の私たちの元へ、おじいさん……ううん、お祖父ちゃんがお母さんから離れて、私たちに寄ってきた。
お父さんは身体を前に向けて、お祖父ちゃんと見つめあう。
「私たちは、キミにならと思って聡美を任せた。だから急な九州行きにも反対しなかった。
……それがどうしてこうなったのか、説明してもらえるね?」
優しい声だったけど、雑な返答は許さない物言いだった。
お父さんはしっかり目を合わせてそれに頷いた。
「言い訳をするつもりはありません。全てお話します」
一瞬の沈黙。
このお祖父ちゃんも怒るのかな、と思ったけれど、私の予想は外れてお祖父ちゃんはお父さんに近づき、優しく背に腕を回した。
「うん、うん。さあ、うちに入りなさい。疲れただろう」
何をいうでもなく、そうして背を叩き、頷いただけ。
お父さんはそれに応えられないまま、お祖父ちゃんは離れていった。
指し示す方向には、門の前で待つお祖母ちゃんとお母さん。
寒いのか鼻をすするお父さんと一緒に、私は皆の元へ向かった。
こっちのお祖父ちゃんとお祖母ちゃんの家は、前住んでいたところのだいたい3分の1くらいの大きさだった。
暖房の効きの悪い居間に、外と気温の変わらない廊下。
私がギリギリ足を伸ばせるくらいのお風呂。
良くわかんないブランドのシャンプー。
軋む階段を上れば、古びた布団の敷かれた部屋。
しかも客間じゃなくて、昔お母さんとその妹さんが使ってたお部屋。
古びた勉強机やおもちゃが四方八方を囲む。
とりあえず着て、と差し出されたパジャマ用のトレーナーも随分古いものだった。
「このカップ、昔気に入ってたけど……忘れちゃったかい?」
お風呂から出たあと、お祖母ちゃんはそういって、ウサギの絵が描かれたマグカップに温かい麦茶を入れて出してくれた。
『覚えてない?』よりも答えやすい言い方で、私は素直に首を縦に振った。
お祖母ちゃんは寂しそうな顔をするでもなく、「昔のことだもんねぇ」とけらけら笑った。
「ねぇ、お祖母ちゃん」
「ん?」
「明日、何時に起きればいい?何をすればいい?」
イマイチ口に馴染まない呼び方をお茶で誤魔化して、私はそう聞いた。
お祖母ちゃんは一瞬ピタリと止まる。
だけど、すぐ微笑んで私の頭を撫でた。
「そうねぇ、太陽が真上に昇ったあたりで良いんじゃないかねぇ」
余計に不安になって、顔をしかめる。
お祖母ちゃんはそれすら笑って受け流し、「それを飲んだらもう寝ちゃいなさい」と言った。
膝の上の三毛猫が同調するように鳴いて、私は仕方なくお茶を飲み下した。
なぜか付いてきてくれた猫ちゃん(名前はミサトらしい)と一緒に、私は皆より一足早く布団に入った。
布団が変に暖かくてびっくりしたけど、乾燥機をかけて温めておいてくれたらしかった。
「……あなた、それ目当てで来たのね」
ぽかぽかのお布団を頭までかぶって、ミサトの頭を撫でてみる。
よく見えないけど、返事するようにくあっとあくびしたのが分かった。
それが移ったのか、私も思わずあくび。
そういえば、昨日はあんまり眠れなかった。
食欲も無くて、ホテルの朝ごはんもコンビニのおにぎりも夜に寄った初めてのファストフードも全く食べられなかった。
耳をすませば、下の階で何か話してる声が聞こえる。
この先のことを話し合ってるらしいけど、内容までは分からない。
ぼーっと聞き続けてみる。
私を呼んだりしないのかな。
誰か怒ったり、怒鳴ったりしないのかな。
色々予想を立てて聞いてみたけど、思ったようなことは起こらなくて、私はそのうち目を閉じた。
「……っ!」
まるでまばたきするように一瞬、目を閉じただけだった。
それが一瞬のうちに薄明るい視界に変わっていて、私は慌てて身体を起こす。
どうしよう、今何時?お母さんは?
跳ね上がった心音は、足元から昇ってきたふにゃーという機嫌の悪そうな鳴き声になだめられた。
見れば、ミサトが眠そうにお布団から這い出してきた。
「……あ……、ごめん」
気にするなとばかりに耳の裏をかいて、ミサトはそのまま丸くなった。
それを見ていたら私も少しずつ落ち着いてきて、ゆっくり布団をかけ直して横になる。
首を動かせば、5:56を指した時計がドアの真上に見つかった。
頭が覚めてくるに従って、寒さに気づいていく。
ストーブは勝手につけちゃダメだろうから、昨日の夜と同じようにお布団に潜っていく。
息をひそめて耳を立てるけど、鳥の鳴き声以外何も聞こえてこない。
話し合ってた大人たちも寝たってことだ。
なにか方針は決まったのかな。
この先どうするのかとか、私何にも分かんない。
「………………っ、」
分かんない。
何にも分かんない。
何にも分からないまま、ただ真夕ちゃんの願いだけを信じてここまで来てしまった。
頑張って忘れていた喪失感が蘇ってくる。
お父さん達はきっとこの先どうするか決めてしまっただろう。
その結果は絶対に、『お祖父様に謝って戻ろう』なんてものじゃない。
移動中見てきたお父さんとお母さんの顔は、その覚悟がある顔だった。
じゃあ、私は?
あなたは覚悟を持って、ここに来た?
そんなこと無い。私は流されるままだった。
お母さんがそうして欲しそうだったから。
真夕ちゃんがそうしてと言ったから。
お父さんが逃げる方向へハンドルを切ったから。
あなたは本当は、昨日からそうやって人のせいにする言葉しか吐いていない。
『いつかお祖父様が連れ戻しに来た時』?
それを一番望んでいるのはあなたでしょう。
あなたは戻りたくて仕方がない。慣れ親しんだ『いつも』を取り戻したくて仕方ない。
皆の覚悟が無駄でバカな選択だと信じたい。
自分は正しいと、信じたい。
だって、どうすれば良いのか分からないから。
お祖父様とお祖母様の言う事さえ聞いておけば良かった。
叔父様の雑用を二つ返事で受けていれば良かった。
急にそれから解き放たれてしまって、私は何を信じていいのか分からない。
真夕ちゃんが、お父さんとお母さんが用意してくれた未知の場所へ踏み出す勇気なんて、私には無い。
「……真夕ちゃん」
今日は木曜日。
体育の日だったな。
バスケットボール、きっと皆楽しく遊ぶだろうな。
点を次々決めていく真夕ちゃんを応援するの、好きだったな。
それからピアノの日。
佐倉先生、急に来なくなっちゃって怒らないかな。
真夕ちゃん、私がいなくてもコンクールに向けて頑張れるかな。
「……真夕、ちゃん……」
きっともう、いくら呼んでも応えてくれない。
いつもみたいに手を引いてくれない。
色んなお話、聞かせてもらえない。
「私、どうすればいいの……」
いくら聞いても、答えは返ってこない。
「……明里、いい?」
くぐもったお母さんの声に目を開ければ、部屋は随分と明るくなっていた。
慌てて時計を見れば10時半。
「う、うん」
すごい、真夕ちゃんが好きって言ってた、二度寝ってやつだ……。
半分寝ぼけたまま、素直にそう感心していると、ドアが開いてお母さんが入ってきた。
その瞬間を見逃さずスルリと出ていったミサトを目で追ったら、後ろにお父さんもいることに気がついた。
「えっ、うわっ、寒っ!明里、暖房は!?」
「……つけちゃだめかなって……」
「もう、あるんだからつけていいんだよ」
お母さんはそう言って、ストーブのスイッチを押した。
その振る舞いや話し方がなんだか明るくて、私は二人の顔を見る。
続く運転に電話に話し合いに、二人とも目の下のクマがすごい。
だけどなんだか憑き物が落ちたようにスッキリした顔で、顔色より何倍も元気そうに見えた。
「よく寝れた?」
「う、うん……初めて二度寝しちゃった」
「そう?なら良かった!」
お父さんがカーテンを開けるうちにストーブが着いて、暖かい空気が私を布団と同じように包み込む。
その温もりにぽーっとしていると、私を囲むようにお父さんとお母さんは座った。
「……えっと?」
黙って微笑んで、私の顔を見ているだけ。
それがなんだか気まずくて首を傾げれば、お父さんとお母さんは一度目を合わせ、そして私に向き直った。
お父さんが固い笑顔で口を開く。
「……その、あの……、昨日話し合っていたことを伝えようと思って」
少し視線を外して唇をなめてから、私と目を合わせてお父さんは続ける。
「……まずは、明里。ごめんなさい。ごめん。申し訳ありませんでした」
「え」
初めて見る土下座。しかもお父さんの。
私はなんだか焦ってしまって、布団を弾いて身体を起こす。
両方を「まあまあ」とお母さんがなだめて、私たちはもう一度見つめあった。
お父さんの泣き顔なんて一生見ることないと思ってたのに、実際目にするとどうしても心がざわざわして、全然慣れない。
そんなざわめきを抱えたままの私に、お父さんは言葉を選びながら更に続けた。
「二人がひどい扱いを受けていたのに、お父さんは見て見ぬふりをした。
『仕方ない』ってずっと諦めていたんだ。
昔から、あの人たちはああだったから……。
でも、全部があの人たちのせいじゃない。
お父さんが悪かった。
もっと戦うべきだったのに逃げて、二人の9年を奪ってしまった。
本当に、ごめんなさい」
お母さんが少し涙ぐんで、私ごと抱き込んでお父さんの肩を抱いた。
二人の震える体温を感じていれば、なんだか私も泣きたくなってくるような気がする。
でも涙は出てこなくて、心は一歩引いたまま自分の親を見つめていた。
お母さん、多分お父さんのこと許したんだろうな。
なんだかんだ夫婦だもの。
会話が無くても、私には見えない何かがずーっと二人を繋いでた。
それがきっと許すことにも繋がったんだろうな。
じゃあ、私は……?
『お父さん』と名のつく男の人を眺める。
正直謝られても、別にどうでもいいのが感想だった。
許すも何も無くて、『そうなんだ』、で終わってしまう。
お父さんが悪いとも思わないし、責める気持ちもない。
ただただ、今の私には何も分からない。
「いいよ、お父さん」
この状況が居心地悪くて、私はとりあえずそう口にする。
「……あの、気にしないで。私、大丈夫だから」
「……明里」
早く話の続きが聞きたかったから言ったのに、お父さんが申し訳無さと感謝の混ざった目で見てきて心がぐっと痛くなる。
お母さんがお父さんの背を撫でながら声を掛ける。
「ね、その気持ちは分かってるから。
次はお互い行動で示そうって、決めたじゃないですか」
「……そう、だね」
「…………これから、どうするの?」
いまいち進まない会話へついに急かしてしまうと、お父さんは鋭く息を吸って、きっと表情を切り替えた。
その表情はやっぱり覚悟のある顔で、それへの驚きと小さな失望が胸に広がる。
「父さんたちと――お祖父様と縁を切る。
もう二度と会わないよう取り決める。二人をまたあの家に戻すことはしない」
小さかった失望がぐんと重さを増して沈み込む。
それを顔に出さないように布団を握りしめて、続く言葉を聞いた。
「お父さんはこれから向こうに戻って、今言ったことを弁護士さんと一緒に伝えてくる。
大丈夫。お母さんや明里がなにかすることは無いよ。
二人が幸せに暮らせるように、お父さんは頑張ってくる」
「……その後は?」
お祖父様の元に戻らないならどうやって暮らしていくのか。
一番聞きたかったことを聞いてみると、お父さんは小さく息を呑んだ。
驚いたからじゃなくて、一度気持ちに区切りをつけるため。
「……明里がよければ……、また、昔みたいに3人で暮らしたい。
また一から3人で……。
ひどいことばかりで、頼りのないお父さんだけど、今度こそ二人を幸せにしてみせる。
だから、そのチャンスをもう一度くれないか」
「…………そっか」
一番に、お母さんと似たようなことを言うんだな、と思った。
私はあいまいに微笑む。
それは諦めに近いものだった。
やっぱり、私の『いつも』はもう二度と戻ってこないんだ。
じゃあ、仕方ないか。
大丈夫。
これから新しい『いつも』にしていけばいいだけ。
お祖父様とお祖母様の言うことを聞いて、お祖父様とお祖母様の言う『いい暮らし』をしていたのが、お父さんとお母さんの言うことを聞いて、お父さんとお母さんの言う『幸せ』をするのに変わるだけ。
真夕ちゃんのいない『いつも』に、慣れるだけ。
「……分かった。分かったよ、お父さん。……頑張ってきてね」
"いつも通り仕方ないこと"を受け入れた私は、そう口角を上げて言った。
お父さんは私が着替えている間に、すっかり戻る準備を整えていた。
お祖父ちゃんと何か難しい話をして、多分お祖父様だろう電話口に強い口調で戻ることを告げていた。
「……じゃあ、行ってきます」
日が上に昇ってぽかぽか暖かい中、お父さんは私たちに向き直った。
玄関に出て見送る私たちの顔を一人ずつ見つめていく。
「お義父さん、お義母さん、何もかもお世話になってしまい、申し訳ありません」
「いやいや、気にしないで」
「そうそう。その代わり、必ず帰ってくるんですよ」
「はい。必ず戻ってお礼をします。
……聡美さん。明里をお願いします」
「……ええ、任せて、秋一さん」
お父さんとお母さんは少し見つめ合った。
お父さんの薬指にはいつの間にか銀色が光っていて、私はそれが眩しくてお母さんの後ろに隠れる。
「……明里」
隠れられるわけもなく、呼ばれて前に出る。
優しいハの字眉が、膝を折って私を出迎えた。
何を言っていいか分からなくて黙っていると、そのハの字はより強くなる。
「……明里は、もしかしたら、帰りたいかもしれないね」
「え…………」
隠しきれていたはずの思いを言い当てられて、くっと息が詰まる。
どうしよう、と焦る気持ちをなだめるように、私はゆっくり頭を撫でられた。
「うん、分かる。昔、お父さんもそう思った。怖くって……。
でも信じて欲しい。
不安な思いも怖い思いもさせないし、絶対に後悔させない。
明里が毎日楽しいって思えるように、頑張ってくるね」
頭を撫でられている間感じた何かの正体が分かる前に、お父さんは立ち上がって行ってしまう。
銀色の指輪と、ハの字眉の何処かで見た笑顔を持って、車に乗っていってしまう。
「必ず帰ります」
私は半信半疑で車が遠ざかるのを見つめていた。
せっかく不安を反抗心と諦めで塗りつぶして自分を納得させたのに、それすら見抜かれてしまって、またどうすればいいか分からなくなった。
そんな恨みすらこもった視線は…………お腹の音でかき消された。
「えっ、わっ……!?」
3人分の吹き出す音が聞こえてきて、顔がぶわっと熱くなる。
「そういえば、最近全然食べてなかったもんね」
「はっは、元気で良いじゃないか」
「……うぅ」
お祖母ちゃんとお祖父ちゃんがご飯の用意をしに引っ込んでいって、私とお母さんはその後を追った。
「……やだもう」
「ふふ、そんなに恥ずかしがらないで。お母さん安心したよ、明里がちゃんとお腹空いて」
「…………」
プイと顔を背ければ、お母さんの笑い声が聞こえる。
今まで1回も聞いた覚えが無いくらい、明るい笑い声だ。
「さ、ご飯食べたら忙しくなるよ!」
お母さんの言葉とは真逆に、それからはとってものんびりゆったりとした毎日だった。
皆でご飯を作って食べた。
手分けしてお家のお掃除をした。
ミサトと遊んでお昼寝をした。
おやつにケーキを食べた。
入浴剤を入れたお風呂に入った。
テレビを見ながらトランプで遊んだ。
暖房の効いたお部屋で寝た。
すっかり日が上に登ってから起きた。
お出かけだってたくさんした。
毎日の買い出しに、ファミレスで遅めのお昼を楽しんだり、喫茶店でプリンを食べたり。
服屋さんでお洋服をたくさん買ってもらったし、ショッピングモールでフラフラとお店を見て回ったりした。
お母さんが『しばらく学校には行けそうにないけど勉強も忘れないで』、なんて問題集を買ったのにはちょっとうえーってなったけど、一緒に猫の写真集とキラキラの鉛筆を買ってくれた。
ミサトに似てたから見てただけ。
真夕ちゃんが持ってたのに似てたから眺めてただけ。
それだけだったのに、お母さんは笑って買ってくれた。
手に入らないと思ってた。いらないと思ってた。
話を聞いているだけで満足だって。
なのに、その『風船』はお母さんとお父さんの言う通り、あまりにも呆気なく、当然の権利のように私に手渡された。
―――嬉しかった。楽しかった。面白かった。美味しかった。
上手く言い表す言葉が見つからない。
口に出したら枯れてしまいそうなほど、色鮮やかな感情。
私は毎日、その波に溺れていた。
だけど私の心は、ふとその全てが怖くなる。
まるで息継ぎするみたいに、すっと不安が呼吸に入り込む。
お父さんは何をしているんだろう。
お祖父様とお祖母様の怒る様子が目に浮かぶ。
嫌味が今にも聞こえてきそうな気がする。
やっぱり夢で、起きたらあの一室で、すぐ起きなければいけない気がする。
波のない、平坦な1日が待っている気がする。
私にとって、息苦しいのは今か前、本当はどっちなんだろう。
そう揉まれているうちに、コンクールの日も、終業式の日も、いつの間にか過ぎ去っていた。
「やばっっお父さん!!ミサトが狙ってる!助けて!」
「え?おっ、わっ、まずいまずい!」
お祖父ちゃんが慌ててミサトを捕まえようとしたけど、やっぱり猫ちゃんの身のこなしは違う。
にゅるんとお祖父ちゃんの腕の中から逃げ出してダッシュ、青色の玉飾りに思い切りパンチした。
ふにゃふにゃの木の枝はその反動で玉飾りを更に遠くまで投げ出して、ミサトは嬉しそうにそれを追った。
「んも〜!ミサト!」
すっかりミサトのおもちゃになっちゃった飾りを見て、お母さんとお祖父ちゃんは怒るふりして笑った。
手に持った玉飾りには、私の薄い笑顔も写っていた。
今日は12月24日、クリスマスイブ。
さっきからお祖母ちゃんがクリスマスソングを口ずさみながらキッチンで料理をしている。
残りの私たちはリビングを片付けて、お腹を鳴らしながらクリスマスツリーを飾りつけていた。
クリスマスツリーを飾るのは初めてだ。
ちっちゃいキラキラのプレゼント箱とか、玉飾りとか、触るとちょっと熱い電飾とか、バランスよく飾り付けるのは思っていたより難しかった。
なんだか位置が気に入らなくて銀色の玉飾りを外した時、チャイムの音が響いた。
「お、美怜じゃないか?」
お祖父ちゃんがミサトを下ろして玄関に向かい、しばらくすると賑やかな声と一緒にリビングの扉が開いた。
「おじゃましまーす!」
クリスマスツリー越しに覗き込めば、お母さんにそっくりな女の人と女の子──美怜叔母さんといとこの永美ちゃんが立っていた。
「お姉ちゃーん!!」
「……うん、久しぶり、美怜」
「もう、もう、もう!バカ!あんなに心配させて!
てか旦那は!?一発ぶん殴らせろ!」
「あの、美怜、秋一さんは向こうに戻ったってこの前……それにほら、子供たちの前だから……」
「あっ」
叔母さんは開けた瞬間そうまくし立てたと思えば、お母さんに言われてぷつんと黙る。
その様子をポカーンと見ていた、いとこの子と目が合った。
お祖父ちゃんにいさめられて別室に移動していく自分のお母さんを不思議そうに見つつ、それでも私が気になるらしくてこっちにやってくる。
「……この人が、明里ちゃん?」
「そうだよ永美、いとこの明里お姉ちゃんだ」
お祖父ちゃんとキッチンから出てきたお祖母ちゃんに紹介されて、私は永美ちゃんに挨拶した。
「……明里です。こんばんは」
「こんばんは!やまさきえみ5さいです!ツリーかざってるの?」
「う、うん、そうだよ」
「わぁ!!えみも!えみもやりたい!」
「よし、よし。じゃあ明里お姉ちゃんと一緒に飾ってくれるかな?」
「はーい!」
とっても元気な挨拶と一緒に、永美ちゃんはツリー飾りを手に取った。
お母さんの妹・美怜叔母さんと、その娘さんの永美ちゃんは、今日からお正月までずっと居てくれる予定だ。
元々年末には来てくれる予定だったけど、その旦那さんがお仕事でクリスマスすら一緒に居られなくなってしまったから、怒った叔母さんは予定を早めたらしい。
「ま、無理ってんならこっちは心置きなく帰らせてもらうけどさー、もっと早く言えって感じじゃない?」
永美ちゃんを膝に乗せ、フライドチキンの骨を取ってあげながら叔母さんは言った。
なんだかガラを少し悪くしたお母さんが話しているみたいで、少し面白かった。
きっとお母さんと叔母さんは『かなり似ている姉妹』ってことになるんだろう。
双子というほど似てないし、髪もお母さんよりずっと短くて明るいけど、話したり何かする時の動きがふと似ていることに気が付く。
永美ちゃんも、「お母さんがふえたみたい!」と楽しそうに二人に抱き着いていた。
その永美ちゃんは、これまたとてもとても元気な子だった。
というより、ちょっとわがままなおませさん。
まだまだちっちゃいから仕方ないけど、さっき「ツリーにコレつけたい!」って自分の髪留めを外してつけようとしたり、「コレは上がいい!」って何回も何回も抱っこして上に持ち上げてあげなきゃで結構大変だった。
ミサトのしっぽにイタズラしようともするし。
パーティーが始まってもサラダのパプリカが嫌で不機嫌になったかと思えば、銀紙に包まれたチーズが美味しくて急にニコニコになったりして、自由にころころと表情を変えていた。
誰もそれに怒ったりしなかった。
皆がそれを見て笑って、なだめて、優しかった。
永美ちゃんはそれに色んな表情で答える。
私は、それが羨ましかった。
「ごめんね、明里。永美とたくさん遊んでもらっちゃって」
「あ……ううん、いいんです」
皆でたくさんご飯とケーキを食べた後も永美ちゃんは元気いっぱいで、それからお風呂に入るまで私はずっとお絵描きやおもちゃ遊びに付き合っていた。
かと思えば、叔母さんたちと入れ替わりに私がお風呂を済ませて戻るともうすっかり夢の中だった。
ツリーの下、毛布を掛けられて寝ている永美ちゃんを見ていると、叔母さんも私をじっと見てくるのが分かった。
それがちょっと気まずくて少し遠ざかると、今度は噴き出される。
「……」
「ごめんごめん、大きくなったなって思っただけ」
叔母さんは私が話した距離を詰めて、しっかりと私を見つめた。
叔母さんが来てからまともに話してないから緊張する。
永美ちゃんが起きないよう音量を絞ったテレビに紛れて、叔母さんは小さな声で話しかけてくる。
「わたしのことおね……お母さんから聞いてた?てか知ってる?」
「……いるって言うのは」
お母さんの話だけでおぼろげなイメージしかなかったのは、お祖父ちゃんやお祖母ちゃんと一緒だ。
失礼かもだけど、3人とも本当にいるんだ、って思いがまだ残ってる。
「ま、その程度だよねー。最後に会った時、あんた3歳だったもん」
「ごめんなさい、覚えてなくて」
「べーつに気にしてないって。大変だったのはそっちの方でしょ」
「……別に、そんな」
お母さんの妹って、お祖父ちゃんやお祖母ちゃんよりも距離が遠い。
いまいちどう話していいのか分からなくて、なんだか距離のある他人行儀な話し方しかできない。
逃げるようにクリスマス特番らしいバラエティー番組をぼんやり眺める。
「…………向こうじゃテレビ見れなかったってマジ?」
「……うん。でも、お友達が全部教えてくれたから」
「へー、いい友達じゃん」
「うん……」
真夕ちゃん。
やっぱり思い出すと心が痛い。
コンクール、無事に終えられたかな。今何してるのかな。
どんどん暗くなっていく私を察したのか、叔母さんはため息をついた。
イラつきじゃなくて、ちょっと微笑みの入ったため息だった。
「……こっち来て色々できるようになったけど、楽しい?」
「…………楽しいよ」
「何、今の間」
「それは……」
また一瞬視線がテレビに逃げるけど、すぐ手元に戻す。
叔母さんという少し遠い存在だからこそ話せる気がした。
「……私がこんなことしていいのかなって」
「……」
「怒られちゃう気がするの。
楽しんで良いのかも分からないし、何やっていいのか、全部分かんないし……。
ただ、振り回されてるだけ、って感じなの」
皆が私のことを思ってくれているのは分かる。
私を幸せにしようとしてくれてるって。
でも、幸せって何?
お祖父様だって幸せな暮らしをさせてやっているって言ってた。
幸せって何。
そんな良く分からないものに振り回されて、私もしかしたら、最近この暮らしが嫌いになっている。
皆の思いを踏みにじる、最低なことを叔母さんに言った。
叔母さんは永美ちゃんの頭を撫でながら、少し黙った。
テレビがCMから抜けるころ、叔母さんはやっと口を開いた。
「……永美さー、ちょっとわがままだったでしょ」
「え?」
なんで急に永美ちゃん?
分からなくて聞き返せば、微笑みながら叔母さんは続ける。
「わたしと旦那が甘やかすのが悪いんだけどさー。
あれやだこれやだの次は、あれしたいこれしたい……って、さっきは大変だったでしょ?」
「で、でもそれは……まだ子供だから、しょうがないんじゃない?」
「そ。子供だからしょーがない。
でもそれはあんたも一緒だよ、明里」
子供。
私が子供。
12歳なんだからそりゃ大人から見ればそうなんだろうけど、私は自分が子供と言われたのにびっくりして、息を詰まらせた。
「永美ね、昔のあんたにそっくり。
ちっちゃい頃のあんたってばぴーぴーうるさい泣き虫で、好き嫌いも多くて、皆手を焼いてた。
でも、そんなあんたが皆可愛くてね……。
今でもそう。皆あんたのこと可愛くて好き。
だから、あんたが何しようが何思ってようが、誰も怒ったりなんかしないよ。
ただ、なんか大きく失敗しそうだったら大人が止めて叱ってあげるってだけ。
好きにしてみな。
昔みたいにぴゃーぴゃー騒いで思うままやってもいいし、分かんないままやっててもいいし。
分かんないならいーんじゃない。振り回されてみて。
その内自分でカジ取りしたくなるかもよ?やってみればいーんだよ。
で、カジ取りしたくなったらできる環境を用意してあげんのが、親の役目!
だからお姉ちゃんも、ムカつくけど義兄さんも……今頑張ってるって訳」
「…………」
「ま、もーちょい子供っぽく甘えてみなってコト。
ね、お姉ちゃん!」
叔母さんと同じように振り向けば、お風呂を出たばかりのお母さんが後ろに立っていた。
お風呂上りで赤くなった頬と共に、私たちを見つめて微笑んでいる。
「もう、美怜?セリフ全部取らないでよ」
「いーじゃん、カワイー妹と姪を9年もほっぽった仕返し!」
お母さんは怒ったように腰に手を当てて笑う。
そしてその笑みのまま、お母さんは私を抱きしめた。
「……ま、全部言われちゃったけど、そーいうこと」
「……お母さん」
「明里。……大好きよ」
あったかいハグだった。
毎朝していたのと違って、じっくり時間をかけてぎゅっと抱きしめられて、ゆっくりと頭を撫でられた。
毎朝してくれる理由が分からなかった。
時間の無駄だと思ってた。
だからいつもおざなりにして、すぐに手を放してしまった。
私は腕を回した。
背に手のひらを当てて、隙間なくくっつけるよう抱き寄せた。
そうしたかった。そうしたいと、初めて思えた。
「明里お姉ちゃん!起きて!明里ちゃん!!」
「ぅえっ」
ドアがバーンと開いた瞬間重さがお腹に直撃、変な声が出る。
と同時になんだかキラキラした音が聞こえて、私は眠い目をこすりながら起きた。
目の前には寝ぐせがたくさんついた永美ちゃんと、なんかピンクに光るおもちゃ。
「……なあに、それ」
「えぇ!?明里ちゃん知らない?プリキュアだよ!?」
「あ、ああ、プリキュア……。プリキュアね」
お祖父様にはアニメ見せてもらえなかったから、CMでしか知らない。
そっか、クリスマスってことはプレゼントとサンタさんだ。
永美ちゃん、自慢しに見せに来たんだ。
「良かったね」
「うん!!これであたしもプリキュア!
ね、明里ちゃんは?明里ちゃんはサンタさんになにもらえた?」
「え、えっと……え?」
私サンタさん来たことないし、と思わず口を滑らせそうになって、焦って目を逸らす。
そしたら、何と枕元に大きな包みが置いてあった。
「……えっ」
そういえば昨日、お母さん『明日の朝楽しみにしてね』って言ってたっけ。
まさかこれ?
こんな回りくどいことしなくてもそのまま渡してくれれば……って、それだと永美ちゃんの夢が壊れちゃうか。
「あ、まだあけてないの!いっしょにあけよ!」
「うん……」
なんだろ?
敷布団の横幅と同じくらいの大きさの包みを開ける。
永美ちゃんの方が楽しそうに包みを破っていけば、現れたのは……。
「……ピアノだ」
「えー!?ピアノ!ピアノだ!いいなぁ!
ね、ひいてみようよ!」
「うん……」
出てきた電子ピアノは真夕ちゃんと弾いてた音楽室の物にそっくりだった。
簡素だけどスタンドもペダルもついてる。
組み立ては後でお祖父ちゃんに手伝ってもらうとして、本体にコードを繋ぎ、コンセントを刺してみる。
永美ちゃんがドの位置をぽんと押せば、抑揚のないドの音がお部屋に響いた。
「すごーい!ね、ね、わたしカエルのうたひけるんだよー」
指を間違えないように、ゆっくりゆっくりしたカエルの歌が流れる。
だけど、私はそれに返事できなかった。
包みの中に封筒が入っていたのに気が付いたからだ。
飾りっ気のない茶封筒の差出人は楠木秋一。お父さんから。
封を破って振ってみれば、便箋が1枚、メモが1枚、キラキラ可愛いピンクの封筒が――真夕ちゃんからのお手紙が1つ。
『明里へ
お元気ですか。
お母さんやお祖父ちゃん、お祖母ちゃんと楽しく過ごしていれば嬉しいです。
お父さんの方は、お祖父様たちとの話し合いを進めています。もう少しかかりそうですが、絶対に帰ります。
待っていてください。
クリスマスプレゼントですが、もう見てくれましたか。
お母さんたちと話し合って決めたんだけど、気に入ってくれると嬉しいです。
それから、もう一つクリスマスプレゼントです。
ピアノ教室の佐倉先生に会いました。
そこで言付けとお友達の手紙を預かったので、一緒に送ります。
寒いので体調に気を付けてください。
楠木秋一』
まず初めに手に取った、お父さんのお手紙にはそう書かれていた。
ということは、このメモは佐倉先生のだ。
拾って見てみれば、先生らしい細く流れるような文字が短くメモに居た。
『こっちのことは気にしないで結構 幸せにね』
そして最後。
大きな水色のクリアシールを丁寧にはがせば、キャラクターが躍る便箋が2枚現れた。
震える手で広げていけば、エメラルドグリーンのラメペンで文字が綴られていた。
『明里へ
お元気ですか。
こういう手紙を書くのは始めてなので、お母さんといっしょにこの手紙を書いています。
最初は前書きっていうのを書くみたいなので、それを書きます。
あたしの方は、コンクールで立派に発表することができました。賞はもらえなかったけど、いい演そうが出来たと思います。
それから、あんなところで賞をとれる明里はやっぱりすごいなって思いました。
明里がいなくなってから、こっちはなんだかうるさくなっちゃいました。
大人の色んなのがあるからしょうがないんだそうです。
ってお母さんが言ってます。これは書かなくていいみたいです。
大人たちは置いておいて、小学校はちょっと静かになっちゃいました。
サチちゃんたちも、伊藤のバカも、なんだかしょんぼりしてます。
でもあたしはさみしくなんかありません。
それは明里がいなくなってうれしいんじゃなくて、明里が自由になれたと思うとうれしいからです。
本題に入ります。
私は明里に1個謝らないといけないことがあります。
この前明里を説得したときのです。
なんか言い方がダメだったっていうか、言葉が変だったから、謝りたいです。
あの時あたしは明里が不幸みたいな言い方をしちゃいました。
ごめんなさい。そんなことないよね。
明里は嫌だなんて言ってなかったし、何より、あんなにあたしと一緒に居て幸せじゃなかったわけないよね。
明里は不幸なんかじゃないよ。
だけど、それでも、あの家から出ていった明里の方がもっともっと幸せになれると思ってて、だからあたしはうれしいんです。
もう色んなことして遊べてる?
マックとかミスドとか行けた?
はるそめはどう?
そろそろ最終回だから、それだけでも見てほしいな!
多分明里のことだから、なんか色々ムズく考えちゃって素直に楽しめてないんじゃないかなって心配してます。
ってわけで、そんな明里のためにちょームズイ宿題を出そうと思います。
それは、あたしよりおしゃべりになることです。
明里とはたくさんおしゃべりしたけど、ほとんどあたしが話してばっかりだったから、今度は明里の番です。
今まであたしがしゃべってきたお話と同じくらい、もっともっとおしゃべりできるようになってください。
色んな事を自由にやって、遊んで、色んな思い出を作ってください。
そうじゃないと、あたしよりおしゃべりになんかなれないからね。
そうしてずっとずっと楽しい思い出を作って、しゃべり切れないくらいになったら、その時は絶対に会おうね。
ずっと一緒にいるって約束は破っちゃったけど、今度こそ約束!
またね明里。
ずーっとずーっと大好きだよ!!!!!
あなたの親友★真夕より
PS、お知らせは以下の住所に!』
「…………、」
「、明里ちゃん?」
PSの下には真夕ちゃんの祖父母の家だろう住所が書かれていた。
そのエメラルドグリーンの文字をなぞれば――真夕ちゃん一番のお気に入りのラメペンで書かれたそれを追えば――じんわり視界がにじんでいくのを耐えることはできなかった。
「わー、どうしちゃったの!そんなにプレゼントうれしかった?よかったねー!!」
「うん。…………うん……!」
きらきら星が止まるのに頷いて、私は3つの暖かさを抱きしめた。
今目の前にはいないけれど、背中を押されているのが分かる。
うん。私も大好きだよ、真夕ちゃん。
約束するよ。
私やってみる。頑張ってみる。
あなたに負けないおしゃべりになって、あなたに会う。
約束だよ。
初めての賑やかなクリスマス。
大掃除。
大晦日。
お正月。
思い出を作ろうって決めたら、時間はゆっくり進んでいくのに早く感じるようになった。
毎日楽しかった。
皆でご飯を作るのも、遊ぶのも、お掃除をするのも楽しかった。
特に料理する機会が多かったから私は大活躍だった。
包丁の扱いはお母さんどころかお祖母ちゃんにも負けない。
野菜やお肉の下処理だって大得意だ。
お料理の出来よりも、皆が褒めてくれたことの方が嬉しかった。
貰えた電子ピアノは毎日永美ちゃんと一緒に弾いた。
たった数週間弾かなかっただけでかなり下手になってしまったけど、皆上手って言ってくれた。
やっぱりそう言ってもらえると嬉しい。
やっぱり私、ピアノが好きかも。
お正月が過ぎて、永美ちゃんたちが帰る頃には、私はふいに不安に襲われることは少なくなっていった。
色んな感情の波が楽しいと思える。
とにかく今は、頑張って甘えてみよう。この波に揉まれてみよう。
車に乗って去っていく叔母さんと永美ちゃんに手を振りながら、私はそう思った。
初めて自分でお年玉を使って色んなものを買った。
まだ中学はどこへ行くか決まってなかったけど、中学に向けて初めてシャーペンを買って、ペンケースを新しくした。
可愛い表紙のノートも買って、それからお菓子を買って皆で食べた。
特にちょっぴり高めのチョコレートがびっくりするくらい美味しかった。
お父さんにもあげたくて、何個か取っておくことにした。
お父さん、実は甘いのが大好きらしい。
そう言って、懐かしそうにお母さんは笑った。
「~、ふん、ふ~……♪」
お母さんは今日、その顔でキッチンに立っている。
今日は煮込みハンバーグの日。
──お父さんが帰ってくる日だ。
お祖父様と縁を切るのには丸一か月かかった。
なにがどう大変だったのかは教えてくれなかったけど、きっと想像の何倍も大変だったに違いない。
実際『帰る』と伝えてくれた電話のお父さんの声はすごい疲れていた。
だけど棘のとれた優しい声にもなっていて、私は嬉しかった。
お祖父様、お祖母様、ついでに叔父様ともう二度と会わないと考えると、なんだか変な感じがした。
私の人生の大半を占めていた人たちってことには変わらない。
寂しいとも思う。
きっとこれからもそう思うんだろうけど、すぐには折り合いを付けられないだろうけど、それでいいと思った。
だって、今が楽しいから。
そんな日々を繰り返していれば、いつか乗り越えられるはず。
「……ふふふ」
そんな私の横で、お母さんは嬉しそうに玉ねぎを刻んでいる。
その姿を見て、私はふと前から疑問だったことを聞いてみた。
「そういえば、お母さんはどうしてお父さんを好きになったの?」
「んー?そうねぇ」
離れ離れになっても、無視をされ続けても好きでいられるほどの出会いって、どんなだったんだろう。
憧れもあって聞いてみれば、思ってもみなかった答えが返ってきた。
「情けなかったからかな」
「…………はぁ?」
同じくニンジンを刻んでいた手を止めて、私は聞き返した。
お母さんは手を止めずクスクス笑いながら続ける。
「お母さん、高校に上がってバイトを始めてね。喫茶店の。
で、同じタイミングで入ってきたのがその時大学生なったばっかりのお父さん。
大学生ってすごいんだろうなーって思ってたし、実際お仕事の覚えも早かったから、頼りにしてた。
で、ある日夜にちょーっと厄介なお客さんが来てね。
まあその……お母さんどんくさいから、そこが気に障っちゃったのかな。絡まれちゃって」
そこでピンときて、私は人差し指を立てた。
「それで助けてくれたのがお父さんなんだね!」
「ぶふっ」
お母さんは噴き出して包丁を置いた。
ツボってしまったのか、クスクス笑いながらしゃがみ込んでいく。
ぽかんとしていると、お母さんは必死に呼吸を整えて立ち上がってきた。
「……っ、……ち、違うの」
「……違う?」
「あの人、威勢よく出てきたのに、ッ、普通に言い負かされて、何にも言い返せなくて、ずーっとふえぇーっ、てなってた、っ」
「ええ……」
ほ、本当に情けなかった……。まあ、あのお父さんならそっちの方が納得だけど。
「でもね、…………あの人どかなかった」
「!」
「……絶対にわたしの前からどかなかった。怒鳴られて詰められても、わたしを置いて逃げようとしなかった」
まだ肩を揺らしながら、お母さんは料理に戻る。
「…………だから?」
「そ、だから」
なんか、余計わかんなくなっちゃった。
二人で野菜を刻んで話し続ける。
「なにそれー」
「ふふ、まあそうだよね。
美怜にも友達にも『ないわー』って言われたなぁ、昔。
でもしょうがないじゃない。そんなところが好きになっちゃったんだもん」
「……そういうもの?」
「そういうもの。
……だから、お母さん嬉しかった。
この前……この前も、そうしてくれて。
嬉しかったの。あの頃の秋一さんが帰ってきてくれた気がして」
この前が何を指しているかは私にもわかった。
そこまで言われたら、あの後ろ姿を思い出せば、ようやく少しだけお母さんの気持ちが分かった気がした。
恋はまだ分からないけど、私もそんな出会いが出来たらいいなと思えるくらいには。
「……じゃあ、今日本当にお父さんが帰ってくるんだね」
「……そういうこと。さ、ご飯の用意がんばろ!」
「うん!」
二人でご飯を作る。お父さんの好物を作る。
その作業に向き合っていれば、日が暮れるのは一瞬だった。
車の止まる音が聞こえる。
人が降りて近づいてくる。
チャイムが鳴る。
扉を開ければ、お祖父ちゃんがいた。
お祖母ちゃんがいた。
そして、お父さんがいた。
「…………ただいま」
「秋一さん!!」
お母さんが駆け出してお父さんに抱き着くのを、そしてお父さんがそれを受け止めるのを、私は見つめていた。
そのメガネの奥の笑みが……ハの字眉の笑みが誰に似ているのかやっと分かった。
そっか。私に似てるんだ。
この人は、私のお父さんなんだ。
「……お父さん!」
「……明里」
なら、今なら、許されるよね?
「私も、ぎゅっとしてくれる?」
「…………ああ。ああ!もちろん!」
私はその温かさに、しっかりと手を伸ばした。
そこからはずっとずっと家族3人一緒。
お引越し先を決めて、中学校も決めて、二人の職場も決めた。
たくさん皆で遊んで、食べて、寝た。
お祖父ちゃんとお祖母ちゃん、ミサトに見送られてお引越しをした。
遠くに山の見える、少し行けばスーパーとドラッグストアのあるマンション。
3人お揃いのカギ。
買ったばかりの家具。
初めての自分の部屋。
新しい全部にワクワクしていた。
「きゃあああ?!」
「っ!?」
「っど、どうしたの聡美さん!」
「な、なん、何か紙が!」
掃除中、急に叫び声を上げたお母さんの方を見れば、押し入れの天窓から出てきたらしい赤い紙に囲まれていた。
お父さんと慌てて駆けよれば、紙には赤いクレヨンで『アケテ』『タスケテ』なんてびっしりだった。
「うわあああ、何これっ?」
「っ、……くくく」
「……しゅう、お父さん?」
「……あっはっはっはっは!違う、違う、っははは!」
急に噴き出して笑いだしたお父さんが、散らばったうちの一枚を差し出している。
斜めに走り書きされた青い文字で、『ドッキリ大成功!!!(ごめんなさい)』と書かれていた。
「……っ、?」
「え……?」
「ドッキリ、だって!っははは!もー!」
「……ぷふっ」
「はは……」
もう、バカみたい。なにそれ。最悪。
せっかくの門出ってやつなのに。
狭くなった部屋に、前よりも何倍も何倍も大きな笑い声が響く。
お母さんもお父さんも顔をくしゃくしゃにして笑っている。
やっぱり、最悪は撤回だ。
誰だか分かんないけど、最高の門出をありがとうと心の中で呟いた。
最悪も最高も、家族で分け合っていく。
嬉しいのも楽しいのも、辛くてつまんないのも、全部一緒。
9年間できなかった分を一気に味わうように、私たちは色んな初めてを味わった。
それは時折お祖父様が書けてくる電話ごときじゃ、崩せるものじゃなかった。
ショックではあったけど、それすら3人で分け合えた。
私はそんなお父さんとお母さんに支えられて、真夕ちゃんとの約束を果たそうとした。
色んな思い出を作ろうと頑張った。
おしゃべりになろうと頑張った。
色んな所で遊んだ。
二人で行きたかった中学校に行った。
吹奏楽部に入った。
そこで声を掛けてくれたこと友達になった。
だけど。
『……私はいいよ』
お母さんとお父さんから離れてしまった途端、そう聞こえた。
そう、私の口から出て行ってしまった。
それは小さな私。どこにも行きたくない、平坦な一日が良い私。
その私は中学校入ってすぐ、吹奏楽部に入ってから──
『かわいそう』と言われてから──現れるようになった。
『……私はかわいそうなの?』
友達と何かをしようと思えば、誘いに乗ろうとすれば、もう一歩踏み出そうと思えば、小さな私は表れてそう言った。
私はその子を必死になだめる。そうして納得させて、どうにかこうにか一歩進んでは、一歩下がる。
お母さんとお父さんがいればそんなことはないのに、いなくなった途端そうなってしまう。
ふとした時に、視界の端に茶色のランドセルが映る。
『それとも、かわいそうじゃないの?』
私はその子の問いに答えることはできなかった。
誰にも言われたことはない。
あの家を出てから、お母さん、お父さん、真夕ちゃん、お祖父ちゃん、お祖母ちゃん、叔母さん、永美ちゃんにも言われたことはなかった。
それなのに、私は答えられない。
『かわいそう』という言葉が胸に深く深く突き刺さってしまったのが、自分でもわかっていたから。
せっかく中学校でも友達が出来たのに。
せっかく色んな事が出来るはずなのに。
茶色のランドセルは私の背にのしかかる。あと一歩が、外だと踏み出せない。
あと一歩足りないまま、3年間は過ぎていった。
「……頑張らなきゃ」
高校受験はダメだった。その子のせいだと言い訳したい自分を叱りつける。
頑張れ。
次からは中学校の友達はいない。
私立校はお金がかかる。お母さんお父さんにも負担がかかる。
そこで今までの3年間みたいに自分から思い出を作れなきゃ、二人に顔向けできないし、真夕ちゃんとの約束をも破ってしまう。
頑張らなきゃ。
小さな私に見せつけるように、私はメガネを外して、髪を切った。
……髪はとんでもなく切りすぎてしまったけど。
それでも制服を着て、学校に行った。小さな私を捨てたかった。
だけどその子はついてきて、私の声を小さくさせた。顔をうつむかせた。
登校したての朝も、自己紹介の時も、お昼休みになっても、ずーっと。
……茶色のランドセルが覗き込む。
『やっぱり、かわいそうなんじゃないの?』
バァン!
「っ?!」
大きな音がして、騒がしかったクラスが一瞬静かになった。
音の方を見れば、前の席の男の子が机に手をついて青い顔をしている。
何か弁明したそうだったけれど、戻ってくる騒がしさにその子がずるずると椅子に座っていった。
周りの怪訝な雰囲気に押されて、その子は俯いてお弁当を鞄から取り出す。
別にイライラしてた訳じゃないんだろう。大方バランスを崩して手をついたら大きい音が出ただけ。
私はその子を知っていた。
去年中学で同じクラスだった人だった。
……この人なら、声をかけられるかも。
去年は彼のことを少し苦手とまで思ってたのに、私は立ち上がった。
小さな私が縋りつくのを振り払って、私は自分のお弁当を取り出した。
高校生活1日目、気合を入れて初めて一人で作ったお弁当。
「頑張れ、頑張れ……」
エメラルドグリーンの文字を思い出して、私は一歩ずつ足を前に運ぶ。机と椅子を乗り越えて、先へ。
「あの……っ……、お弁当、一緒に食べませんか……」
それが、約束の一歩だった。
「明里、明里、そろそろ起きて」
「…………うー」
「……あーかーり」
「……えー…………?」
「明里!もうすぐ7時!」
「えっ、ウソぉ!?」
思わず布団をはねのければ、ドアの向こうでお母さんがクスクス笑っているのが見えた。
「うーそ。まだ6時40分」
「もう、お母さん!」
「アラームずーっと鳴ってるのに起きないのが悪いの!今日始業式でしょー」
「…………もー」
じゃああと5分くらいいいじゃない。
といっても起きちゃったものは仕方ないから、眼鏡をかけて布団から出る。
顔を洗いに洗面所に行けば、お父さんが眠そうな顔で髪をとかしていた。
「おはよ、お父さん」
「おはよう、明里……。今日から学校だね」
「っていっても、今日は本当に始業式だけだよ。
あ、終わったら皆で練習と勉強しに行くから。帰るのはいつもと同じくらいかな」
「うん、分かった。
……あ、今日はお父さんが夕飯作るけど、何かリクエストはあるかい?」
「んー……。あ、まだあっついから冷やし中華が良いな」
「おっ、良いなぁ!分かった。楽しみにしていてね」
私と話している間にお父さんは目が覚めていき、嬉しそうに先に洗面所を出た。
「明里、パン何塗る?」
「今日はマーマレードかなー」
「はーい」
朝のニュースを聞き流しながら皆で朝ごはんを食べていると、今日からまた学校が始まるんだなぁってかんじ。
今日は良いけど、明後日は夏休み明けテストだ。ヤダなぁ。
それをお父さんとお母さんに愚痴れば、仕方ないよ、というように笑われた。
とにかく今日は勉強しなきゃ。
……って思うけど、どうせ皆でやるからあんまり進まないんだろうな。
それも楽しいからいいけど。
「じゃ、行ってきまーす!」
「「行ってらっしゃーい」」
朝ごはんを済ませ、手早くお弁当を詰めて玄関をくぐれば、二人分の声に送られる。
私はそれを後ろに、跳ねるように階段を駆け下りていった。
マンションの影から抜けると、刺すような朝日と暑さが降り注ぐ。
今日も最高気温38度ってさっきやってたけど、納得の日差しだ。
近くの小学校の子たちは今日も元気。
カラフルなランドセルを揺らして、道に大きく広がってかけていく。
赤、黒、青、白、水色、ピンク、黄緑。
高校生の歩幅で、私は最後に茶色いランドセルを追い抜かした。
――私のランドセルも
他の子の派手な色とは違った、品のあるブラウンベージュ。
公園のベンチなんか置かれたことはない。
砂を浴びたことも、踏み台にされることも。
誰よりも綺麗な自慢のランドセル。
誰よりももの知らずで、あの人たちの言いなりで、あの人たちの自慢でしかなかったランドセル。
それしか頑張ることを知らなかった、他の幸せを知らなかった、愚かな小さな私。
「……かわいそうなんかじゃないよ」
私は、ようやく小さな私にそう答えてあげることが出来た。
そうだよね。
あなたはあなたで幸せだった。恵まれていた。
あなたはすごかった。とっても頑張った。
あなたは絶対にかわいそうなんかじゃない。
でも、だからこそ、私はあなたを置いていく。
愛しい愛しいあなたを置いて、もっともっと幸せな方向へ歩みを進める。
家族の思いやりに応えるために。
親友との約束を果たすために。
私が私であるために。
不安でしょ。分かるよ。その不安は誰よりも分かる。
でも大丈夫。心配いらない。
だって―――
「おはよ、――――!」
会えるよ。もっと素敵な、