俺らの青春戦略   作:さんかくふらすこ

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祝4周年!
いつも読んでくれる貴方、時々訪れてくれる貴方、今日たまたま開いた貴方!
皆様のお影でここまで続けられています。
本当にいつもありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
記念イラスト→https://x.com/3kaku_flask2330/status/2087492499506164062/photo/1


更新の方ですが、リアルの引っ越し作業中のため遅れてしまい申し訳ありません。
(本当に大変でした!)

今回は朝風百合の過去編です。
どうぞよろしくお願いいたします。




side.Y 『ガラスのハードル』(前編)

 別にあたし、何にもない。

 

 嫌なこと、辛いこと、苦しいこと、痛いこと。

 別に何も。

 

 

 何不自由なく育てられた恵まれた子。

 

 自慢の娘。

 出来る妹。

 素敵な友達。

 心優しいクラスメイト。

 信頼できる生徒。

 

 それが朝風百合(あたし)だから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 物音で目が覚めると、お気に入りのうさぎのぬいぐるみがこっちを覗いていた。

 その子を抱いて耳を澄ませてみる。

 

 

 

「大丈夫、いつも通りにね、そう、ゆっくり吸って。そうそう」

 

 

 

 やっぱり音の元はお兄ちゃんの部屋らしかった。

 

 きっといつものように吸入器を吸ってるお兄ちゃんに、声をかけるママの声。病院に行く荷物をまとめて、部屋を歩き回ってる。

 

 

 

「……百合、起きちゃった?」

 

「うん」

 

 

 

 準備が出来たのか、あたしの部屋のドアが空く。

 差し込んでくる廊下の光に目を細めれば、ママがお兄ちゃんを抱えて立っていた。

 

 

 

「ごめんね、ママ行ってくる。パパそろそろ帰ってくるから、寝てて良いからね」

 

「うん。大丈夫、気を付けてね。お兄ちゃんも」

 

 

 

 ママの背で、お兄ちゃんが申し訳なさそうに手を振る。

 うさぎと一緒に手を振り返して、あたしは鍵の閉まる音が聞こえるのを待った。

 

 

 10時を指す時計を背に、あたしは冷たい階段を降りていく。リビングに入って、庭に面した大きな窓の鍵を開ける。

 

 車のエンジン音が遠ざかるのを聞いて、その窓を大きく明け放った。

 

 

 

「イエモーン」

 

 

 

 冬らしいキンとした空気の中、リビングの明かりに照らされて、右耳をピン!と立てたイエモンがこっちを見てる。

 名前を呼んであげると、嬉しそうに尻尾を振って、犬小屋から出てきた。

 

 

 

「遊ぼ!」

 

 

 

 サンダルを履いて庭に出ると、待ってましたとおもちゃを持って寄ってくる。

 名前の由来になったお茶のペットボトルを模した、緑のぬいぐるみだ。

 

 あたしはそれをふりふり振ったり、投げたりしてイエモンと遊んだ。

 イエモンは良い子だから、吠えずにフンフン鼻を言わせながら楽しんでくれる。

 

 

 

「あーもう、ダメだってば。こら、きゅうけーい」

 

 

 

 しばらく遊んで窓際に座ると、イエモンはまだまだ遊び足りないのか足元にじゃれついてくる。

 何回かダメ、って言うと分かってくれて、あたしの足元にお行儀よく伏せた。

 

 

 

「イエモンは温かいねえ」

 

 

 

 冷えた足をサンダルごとイエモンの下に突っ込むとふわふわで温かい。お礼に撫でてあげると、誇らしげにヘッヘッと笑った。

 

 

 

「……お兄ちゃん、大丈夫かねぇ」

 

 

 

 その笑った顔と、半分折れた左耳をくすぐりながら、あたしは話した。

 

 

 

「ママもさ。パパも、まだ帰ってこないし。皆大変だよねぇ」

 

 

 

 誰も居ない家に、小さい声が消えていく。

 

 それを聞いてるイエモンは少しだけしょんぼりして、でもあたしが撫でるのを受け入れて、側に座ったままでいた。

 

 

 イエモンは話せないからそれだけだ。

 けど、暖かい足元としーんとした空気に短い呼吸が消えていくのを聞いてると、あたしの心は明るくなる。

 

 

 

「……だからゆぃが、あたしが頑張らないとだよね!」

 

 

 

 あたしが立ち上がりながら言った言葉に、イエモンもワフ!と声を抑えて答えた。

 元気をくれたお返しにうりうり撫でてあげると、指先を舐めてくれる。

 

 

 ふと、イエモンの毛並みが光に透ける。顔を上げると、お父さんの車が駐車場の前に来ていた。

 

 

 

「やばっ。じゃ、またねイエモン!」

 

 

 

 慌てて立ち上がって窓を閉めちゃったのに、イエモンはまたね!なんて顔で小さくワフッと鳴いてくれた。

 

 明日のご飯をちょっと多めにあげてお礼することにして、手を洗おうと廊下に出たところで丁度玄関が開いた。

 

 

 

「ただいまー。まだ起きてたのか百合」

 

「パパ!お帰り」

 

「またイエモンと遊んでたな~?」

 

「いーじゃん別にぃ」

 

「も~、しょうがないなぁ」

 

 

 

 ため息交じりに笑ったパパは仕事のカバンを置いて、あたしを抱き上げる。

 

 

 

「ほら、一緒に手を洗いに行こう。ベッドにも一緒に行こうな」

 

「パパも?パパも一緒に寝る?」

 

「いやー、パパはお兄ちゃんとママが帰ってくるまで待たなきゃ。大丈夫、百合が寝るまで一緒にいるよ」

 

「……はーい」

 

 

 

 パパと一緒に手を、ついでにイエモンのお腹に突っ込んだ足も洗ってあたしはベッドに入った。

 一緒にいてくれるって言ったパパは、その後電話が掛かってきてすぐ部屋を出て行っちゃった。

 

 廊下の話し声を聞きながら、お湯で温まった手でうさぎのぬいぐるみを抱きしめる。

 

 

 

 時計の音が静かに響く部屋で、あたしは目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──あっは、なんちゃって!

 びっくりした?そんなに大変だったんだ、って!

 

 んなワケないじゃん。こんなん超昔の話だし、病院行くようなことも年に数回しかなかったし。フツーに旅行とか行けたもんね。

 

 ああ、お兄ちゃん?小6の頃には治ったよ。今超元気。高校でもバドやってっし。毎日走り回ってる。

 でもマジバカ下手くそなんだよねー、4年もやってるくせにさ。あたしでも勝てんの。

 

 

 

「ウケるよねー」

 

「やば~」

 

「百合のお兄ちゃん、中学の時もドベじゃなかった?」

 

「あ、覚えてる?あの腕で辞めないのもすごいよね~。なんかさ、『やっと、何かが掴めている気がするんだ……!』とか言っちゃって~」

 

「あっははは!なにそれ~」

 

「めっちゃ中二じゃーん」

 

「っしょ~?」

 

 

 

 何回目かの話を繰り返して、皆で笑い合う。きゃはは、という笑い声を遮ってクラスの入口から声が掛かった。

 

 

 

「朝風ちゃーん!今いい~?」

 

「百合~!お願い助けてー!」

 

「ニナ!えー何、どーしたのさー」

 

「次体育なのにサユがヘアゴムなくしちゃって!百合なら予備持ってるかなって」

 

「マジ?チョーヤバいじゃん!あるある、めっちゃ持ってる!あ、何なら結んであげよっか?」

 

「い、いいの?」

 

「全っ然いい!てかやらせて?サユちゃんめっちゃ髪キレイなんだもん」

 

「ありがとー朝風ちゃん!」

 

「ありがと百合マジ感謝!」

 

「任せときなってー」

 

 

 

 そう言うことなら放っておけない。髪結んでないと授業受けさせてくれないもんねあの先生。

 自分の席にポーチを取りに行くと、途中でクラスの男子に呼び止められた。

 

 

 

「あ、朝風ー。先生がさ、6時間目の後すぐ職員室来てって」

 

「うえ!何それめんど」

 

「何か運ぶの手伝ってって。オレも呼ばれたんだけどー」

 

「えートオヤマくんいるならあたしいらなくない?」

 

「えぇやだやだ、朝風も来てよ」

 

「はいはい冗談だって。6時間目の後ね」

 

「おなしゃーす」

 

 

 

 6時間目……って確か美術じゃん。『すぐ』って、美術室から職員室までどんだけ距離あると思ってんのよ先生。

 

 まぁ、頼まれちゃったのはしょうがない。気持ちを切り替えて、あたしはポーチを手に取った。

 

 

 

 先生の用事は夏休みの宿題とプリント運びだった。トオヤマくんとそれを配る所まで手伝って、帰りの会をしてお終い。

 

 教室の掃除をした後は部活の時間だ。

 

 

 部員全員で軽くウォームアップしたら各自別れて練習。

 あたしの種目はハードル走。軽くアップをしたら学年に分かれて練習。

 

 1年の皆はタイムは取らないで、歩幅とリズムを掴んでもらう。全員初心者だから3か月間ゆっくり最初からやってもらってる。

 

 2年はそれぞれ交互に走ってリズムとフォーム確認。+(プラス)、3年の先輩たちの補助。

 

 

 

「朝風ちゃん、どうだった?」

 

「16秒5です」

 

「……なかなか調子出ないなぁ」

 

「でも、3台目まではさっきの1本より良かったと思います」

 

「あー、わかっちゃう?そう、そこまでは良かったよね~。うーん……OK、分かった。もう一回お願い」

 

「はい!」

 

 

 

 しばらく考えた先輩は、髪を縛り直してもう一回スタート地点に向かっていった。その先にはもう一人男の先輩。

 

 二人とも県大会に向けて最後の追い上げ中。集中して本数を絞った練習にシフトしてる。

 

 

 

「……っし、どう!?」

 

「16秒4……!さすがです!」

 

「っしゃ、OK!ありがと朝風ちゃん!」

 

「ハセ先輩がすごいからですよ」

 

「えへへ、やった。お礼に次のタイム、ウチが見てあげる」

 

「本当ですか?ありがとうございます!」

 

「おーい、次お願いしていー?」

 

「るっさいタカギ!今ウチが朝風ちゃんと話してんの!」

 

「タイム頼んでるだけでしょーが!」

 

「はいはい、やりますから!タカギセンパーイ!どーぞー!」

 

 

 

 あたしはその計測係。

 

 それが終わったら1年生を見てアドバイス。

 中でもマキちゃんて子がまだ慣れてないように見えるから、その子を重点的に。

 

 

 

「マキちゃんは、目線気を付けてみよっか。気が付くと下向いちゃってるから」

 

「……ですよね」

 

「分かるよ、ずっと前見っぱなしって怖いもんね。あたしも最初はダメだったもん。

でも下向いてると身体も下向いちゃって、逆に走りにくくなっちゃう。

全部倒しちゃっても遅くてもいいから、目線を遠くに置いてみよ」

 

「はい」

 

「次の全体走で、先輩たちの目線見てみて。大丈夫、マキちゃんも出来るようになるよ」

 

 

 

 緊張した様子で頷くマキちゃんに笑いかけて、全体走の準備。

 

 男女混合150m4台。3本タイムを計る。走る順番はタイムが良い順。だから、あたしは先輩二人に次いで3番目。

 

 

 

「次、朝風!」

 

「はーい」

 

 

 

 スタートラインに立てば、後ろからは部活仲間と後輩の視線。前にはゴールラインで待つ先輩たちの姿。

 それに立ちふさがるハードルが、夕日で鈍く光っていた。

 

 

 合図が鳴った。

 

 緊張よりも嬉しさのドキドキを原動力に、一歩踏み出す。

 下は向かず、前だけ見て。自分に合ったリズムで踏み込んで乗り越えたら、素早く着地。それを繰り返してゴールに近づいていく。

 

 

 ──あー、超最高。

 

 不思議と笑みの浮かぶ感情のままに、トラックを駆け抜けていく。

 皆の期待を受けて走るこの瞬間が大好き。

 

 ハードルを越える度、皆の期待にも応えられているような気がするから。

 こうなりたいと願った自分になれたんだって気持ちになるから。

 

 

 

「やったじゃん朝風ちゃん!タイム更新!」

 

 

 

 そう、あたしは朝風百合。

 ハードルを倒しても転んでも何回もチャレンジして、出来るまでずっと頑張ってきた、強い女の子。

 

 それがあたしだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 お兄ちゃんの喘息は、小学校6年生になったあたりで少しずつ症状が治まっていった。

 

 発作が減って、夜病院に行くこともない。先生の許しも出て運動も少しずつ出来るようになっていって、小学校を卒業するころにはすっかり走れるようになった。

 

 春休みにあたしとコンビニまで競走した時「やっとこういうこと出来るようになったんだ」って泣いてたの、今でも覚えてる。

 

 

 けど12年間の反動か、お兄ちゃんは一気に活動的になった。

 「オレはもう一生分じっとした!」を口癖に、お兄ちゃんは一生分のケガを作る勢いで外を駆け回った。

 

 お陰で、違う意味で病院に行くことが増えた。

 

 

 階段のジャンプチャレンジで足を骨折。

 部活中に逆手でスマッシュして手首を捻挫(ねんざ)

 猛スピードの自転車で坂を滑って止まれず壁に激突。

 鉄棒に立って遊んでたら落下して頭を強打、などなど。

 

 

 ママもパパも「元気になったのは良いことだけど……」なんて言いながら、お互い仕事の合間を縫って病院に付き添っていった。

 

 

 お兄ちゃんが好きに動けるようになって嬉しいのは痛いほど分かったし、ママとパパがまだまだお兄ちゃんのこと心配なのも、振り回されて大変なのも分かった。

 

 だから、あたしはもっと頑張るようにした。

 お兄ちゃんが気負わず遊べるように、ママとパパの力になれるように、良い子でいようって。

 

 

 お手伝いもお片付けも勉強も出来る良い子。色んな友達と仲良く出来る子。ママとパパが疲れてたら気を使ってあげられる優しい子。

 

 そんな子になろうと今までより頑張っていれば、ママもパパも褒めてくれた。お兄ちゃんも「お前はさすがだなぁ」とか言っちゃったりしてくれて。友達も先生も「百合はすごい」って。

 

 

 あたしは、そんなあたしが好き。

 

 

 

「イエモーン、ただいまー」

 

 

 

 部活が終わってすっかり日の暮れる頃、あたしは家に辿り着いた。

 塀越しにイエモンを呼ぶと、小屋からバッと飛び出してくる。もう10歳超えてるはずなのに元気な子だ。

 

 

 

「ちょっと待っててねー」

 

 

 

 ワフと返事するのを聞いて家に入る。

 久々に誰もいないリビングでスマホを取ってみれば、やっぱりママから連絡が入ってた。

 

 

 

『お兄ちゃんがまたケガしたって!今度は口の中を切ったみたいです……』

『ママ行ってくるから先に夕飯食べててね』

『冷蔵庫に入ってるよ』

 

 

 

 予感通り、お兄ちゃんまたやらかしたみたい。

 口の中切ったって、何それサイアク。ワンチャンしばらくご飯食えないんじゃないのそれ。

 

 返事を打つとすぐに既読が付いて、『帰りにはアイス買っていくからね』と帰ってきた。やった。

 

 

 

「うんそう、さっき帰ってきたの」

 

『そうか。夕飯一人で食べれるか?全くもう、アイツまたケガしたとかなんとか……』

 

「ん、平気平気!ママが作っといてくれたから。今日はオムレツでーす」

 

『お、百合の好きなやつじゃないか。なら良かった。あ、パパの分はいらないよ』

 

「あそう?……あー分かった、また飲み会でしょ!どーりで今日車置きっぱだと思った!もう、行ってくるのは良いけど、飲みすぎちゃダメだからね?」

 

『うっ……。うん、気を付けるよ』

 

「ほんとマジ、次の健康診断良くないとママにまた怒られちゃうんだから!」

 

『はい……気をつけます……。おっと、じゃあ百合、そろそろ仕事に戻るよ』

 

「はーい。お仕事頑張ってねー」

 

『はーい』

 

 

 

 ご飯をレンチンしてる間、パパとも電話。

 

 あぁ言ってるけどどーせまぁまぁ飲んでくるでしょ。ホント、お酒控えろって言われてるのに懲りないんだから。

 ダメって言われててもやっちゃうあたり、やっぱりお兄ちゃんってパパの息子だなぁって思う。

 

 

 何となく夜のニュースを流したまま、あたしは夕飯を済ませた。

 スマホ触りながらご飯食べてるのはママには内緒。今は夏休みの予定立てるので忙しいんだから。

 

 食べ終わってお皿を洗ったらお楽しみの時間。ランニングウェアに着替えて、リードを持って外に出る。

 

 

 

「イエモン!行こ!」

 

 

 

 言い切る前に、イエモンはあたしの足元に来てお座り。お行儀よく見えて、尻尾はちぎれそうな勢いで振ってる。

 

 

 

「はい、よーいドン!」

 

 

 

 その証拠に、リードを付けてそう言った途端ロケットのように飛び出していった。年を取ってちょっと遅くなったけど、それでもグングン走っていく。

 引っ張られるままに足を動かしていけばあたしも調子が出てきて、段々追いついてくる。

 

 セミの鳴き声を聞きながら、あたし達は並んで湿気った空気を突き進んでいった。

 

 

 

 散歩ルートは色々あるけど、今日はちょっと長い方。住宅街をぐるっと回っていって、1本大きい道路を歩道橋で超えて、公園で折り返し。

 東屋が2つあるだけでなーんにもない、広いだけの公園。二人で水を飲んでちょっと休憩するのが、このルートの恒例だった。

 

 

 ベンチに座って、イエモンを撫でながら溜まったメッセージを返していく。

 

 お兄ちゃんから『すまん』のLINE。ケガの原因は自転車で縁石を乗り越えようとしたら転んだから、だとか。そんなんだと思った。

 ま、『オレの分のアイスもやるから!』って言ってるから許してやるけど。

 

 

 部活のグループLINEで、部長から明日の鍵当番と夏休みの部活スケジュール提出のリマインド。

 提出されたスケジュールの締めは新部長のあたし。はいはい、了解です。

 

 

 あと陸上部2年女子のグループで、夏休みの計画立て。もちろん遊びの方。

 

 遊びの予定は、あとハードル班とクラスの友達とイツメンの分。全部で4つ。

 ハードル班のはハセ先輩が立ててくれてるから良いとして、他3つはあたしの計画待ちだった。

 

 

 映画とかショッピングとか海とかプールとか、いまいちまとまりのない提案をまとめてちょうどいい落としどころを考える。

 皆の出せるお金とか門限とか、あと朝ダメな子いるから起きる時間も考えて、全部のグループに案を送った。

 

 

 

「……はぁ」

 

 

 既読がまばらに、いくつかOKのスタンプが返ってきたのを見て、やっと一息。

 あたしのため息にこっちを見たイエモンの顔をモフッと掴んで、毛並みをモミモミした。

 

 

 

「イエモーン、ゆぃ疲れちゃったよぅ」

 

 

 

 あたしが抱っこしたがってるのが分かったのか、イエモンは近寄って頭をぐりぐり押し付けてきた。

 ヘッヘッて短い呼吸と湿気った犬の匂いを一緒に抱き締める。

 

 

 

「やだぁもう。皆ゆぃばっかりなんだもん」

 

 

 

 一人になると思わず自分のこと" ゆぃ "って言っちゃう。

 ちっちゃくて大人しくて寂しがり屋で引っ込み思案で、何も出来なかった頃の呼び方。

 

 皆の期待に応えられる強いあたしになっても、どうしても捨てられない。

 あたしの中にゆぃはまだ生きてる。こうして時々出てきて、イヤイヤを言う。

 

 

 

「お兄ちゃんもまたケガするしさぁ。お陰でママいないし、サイアクもう。パパもまた飲み会だし」

 

 

 

 ホントに情けないメンドイ子。

 

 けど、イエモンはそんなゆぃの対応もお手の物。

 尻尾を振って身体をスリスリして、きゅうきゅう言いながらペロペロ舐めれば元気になるって分かってる。

 

 

 

「……ありがと、イエモン」

 

 

 

 精一杯の優しさを受け取って、あたしはお礼に撫で返した。

 

 年を取ってちょっと固くなった毛並みと変わらない体温。

 それが手のひらから伝わって、ゆぃはようやく落ち着いていった。

 

 

 

「帰ろ。そろそろママとお兄ちゃん帰ってくるし。イエモンもご飯食べたいもんね」

 

 

 

 ご飯!と聞いた瞬間嬉しそうにするイエモンをもう一撫でして、あたしは立ち上がった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 自慢の娘。

 出来る妹。

 素敵な友達。

 心優しいクラスメイト。

 信頼できる生徒。

 

 ママとパパのために、お兄ちゃんのために、皆のために。そう頑張ってきたゆぃは、いつの間にかそんな存在になっていた。

 

 

 それはあたしの自慢。あたしの誇り。

 

 頑張ればきっとなんでも乗り越えられる。誰かの役に立てる。あたしを頼ってくれる。

 

 疲れるし毎日大変だけど、あたしは、ゆぃは、そんな朝風百合が好きだった。

 

 

 

「百合は良いよねー。何にもないから」

 

「…………え?」

 

「ねー。悩みとかなさそうだもん」

 

「できないことないもんね」

 

 

 

 部活の終わる時間がかみ合って、久々にイツメンで下校。自転車を押して歩く友達は、白い息と一緒にそう言った。

 

 

 

「そ、……うかなー?あっはは、かもー?」

 

 

 

 皆の空気が『そんなことないよ』とは言わせてくれなくて、誤魔化した言葉が白く消えていく。

 

 

 

「でしょー?家族の仲良いし」

 

「勉強も部活も調子良いもんね。うちそんな頑張れない」

 

「わたしも百合みたいに色々できたらなぁ。あーあ、次の期末どーしよ」

 

「やなこと思い出させないでよぅ」

 

 

 

 家族仲が微妙で帰ったら家事をやらないといけない子が、なかなか部活で結果が出なくて勉強まで手が回らない子が、公立の頭良い高校に行けって親の期待と圧力が重い子が、あたしにそう言う。

 

 さっきまでそんな悩みと苦しさを吐き出していた子たちに言われてしまえば、あたしには " 何もなかった " 。

 

 

 

「……ね、じゃ、また勉強会しようよ、あたしの家で。皆頑張ってるからさ。あたしホント何もないし、手伝うよ。色々教えるから」

 

 

 

 何もないあたしに出来るのはそんなことだけ。皆の表情はようやく明るくなって、「いいね」「やろ!」「てか遊ぼ!」と声が続く。

 

 

 あたしはそれにホッとした。皆が笑顔になってくれて。

 ゆぃはそれに安心した。皆に嫌われなくて済んだって。

 

 

 

 環境に恵まれた子とそうでない子。出来る子と出来ない子。

 

 小学校の間は気にならないか見ないふりをしていたその差は、中学生になってテストの順位として、偏差値として、クラスや部活での立ち位置として、先生からの扱いとして、明確に表れるようになっていった。

 

 その差の重さは季節が進むごとに──最後の大会と受験がある3年生が近づくほどに──皆に押しかかった。

 

 

 あたしには分かった。重さに耐えきれない苦しさが、逃げ場としてうっすらあたしに向いてるのを。

 

 最初は気にしてなかった。皆も頑張ろって声を掛けた。

 

 あたしは頑張ったからこうなれたんだからって。何回でもあきらめないでチャレンジすれば、自分のハードルを越えられるはずだって。

 

 

 

「……ごめんなさい、朝風先輩。わたし、もう部活辞めたいです」

 

 

 

 けど、誰もがそうじゃないって、あたしは気が付いた。

 

 

 

「わたし、先輩みたいに頑張れません。本当にごめんなさい。」

 

 

 

 グラウンドに吹く風が冷たくなった11月の初め、マキちゃんはわざわざ遅くまで残ってあたしに打ち明けた。

 野球場からの強い光から逃げるように物置の影に立ってるマキちゃんの顔は良く見えなかった。

 

 

 

「……。……疲れちゃった、とか?」

 

 

 

 取り落としかけた鍵を握ってそう聞くと、頷くのが見えた。もう無理です、って消えそうな声も。

 

 どう続けるべきか悩んで黙っていると、じっとあたしに視線が突き刺さる。あたしの次の言葉への感情が乗ったそれ。

 

 不安、期待、イラつきと、そして──。

 

 

 

「っ、じゃあ!」

 

 

 それに気がついて、ゾッと血の気が引いた。

 早く、苦しくなった鼓動を押さえつけるように息を吸って、口を開く。

 

 

 

「じゃあ、じゃあ、しょうがないね。マキちゃんが決めたことなら、その方が良いと思う」

 

 

 

 責めないような、嫌味にならないような言葉を必死に組み立てて、その様子をうかがう。

 

 

 

「部活だもん。無理にやる必要ないよ。気にしないで。いいの。いいんだよ。先生にはもう言った?……まだ?そっか。最初にあたしに教えてくれたんだね。ありがとう。あたしから先生に言おうか?……」

 

 

 

 その視線が消えるまで、朝風百合(優しい先輩)として適切な言葉を考えられる限り探した。

 帰る頃にはマキちゃんは笑顔を見せてくれるようになって、お礼を言って帰っていった。

 

 

 

「ちょっとしんどかったんよね。行けるよ頑張れるよって言われるの。朝風先輩、悪い人じゃないんだけどさ。

でもほら、出来ちゃう人だから。そうそう!いるよねー。しょーがないんだけどさ。でもわたしは」

 

 

 

 辞めてしばらく経った頃、マキちゃんが友達にそう言っているのを聞いた。さっぱりした顔をして、選択が間違ってなかったことを教えていた。

 

 

 

「──ムリだわ」

 

 

 

 頑張れる子と、頑張れない子。そんな子もいるって気が付いた。

 

 だから皆に頑張ろ、って言うのはやめた。

 大丈夫、皆頑張ってるから皆のペースでやればいい。足りない分は、苦しい分は、耐えられない分はあたしが埋める。

 

 

 朝風百合(あたし)は恵まれた側の子。出来る側の子。頑張れる側の子。

 

 ならそれらしく、皆の役に立つの。やれるでしょ。今まで通りハードルを乗り越えるだけ。

 下は向かない。自分に合ったリズムで、何回でもチャレンジして、駆け抜けるだけ。

 

 あたしは大丈夫。

 

 

 

 ──だから、だからお願い。お願いだから、ゆぃを嫌わないで。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 2年の2月、タカギ先輩に告白された。推薦で受かったから付き合ってほしいって。

 

 ゆぃは好きじゃなかったけど、嫌われたくなくてOKした。

 そしたら、タカギ先輩のことが好きだった知らない3年の女子の先輩が悲しんでるのを見た。

 

 怖くなって、付き合って3日もしないうちに別れのLINEを打った。

 

 

 

 3学期の期末テスト、学年で一番になった。ママもパパもお兄ちゃんも先生も褒めてくれて、友達やクラスの皆もすごいねって。

 

 ゆぃ疲れてたのに「教えるよ」なんて言っちゃった。先生に解説役手伝ってって言われたから引き受けた。

 朝風百合(あたし)として、そう求められていたから。

 

 

 

 卒業式準備と新入生歓迎会準備の係になった。クラスの子たちに百合が一番向いてるって推薦されて、先生にお願いされたから。

 

 嫌だったけどやり遂げた。

 

 皆が朝風百合(あたし)にやってほしそうだったから。

 断った時の、上手く行かなかった時の皆の顔を考えるだけで怖かったから。

 

 

 

 3年生になって、総体に向け部長として皆を引っ張って練習。

 

 3年のメンバーそれぞれが自分の結果に集中できるように。

 2年のメンバーが緊張せず自分を伸ばせるように。

 1年は部活に馴染んで楽しくやれるように。

 

 時々イライラをぶつけられたり喧嘩の仲裁をすることになったけど、負けずに頑張った。

 だってそれが部長(あたし)の仕事だから。

 

 

 

 友達から進路の相談を受けた。将来のこととか考えられない、もう嫌になっちゃうって。

 

 十分頑張ってるよって励ましたら、「じゃあ百合と同じとこ行く!」って言われた。そう出来るように勉強教えてよ、とも。

 

 断れなくて返事しちゃった。嫌われたくなかったから。

 

 

 

 向けられる期待に応えるように、やっかみを含んだ視線から逃げるように、あたしはあがいた。

 

 別に皆、あたしのことがホントに嫌いなわけじゃない。

 ただちょっと嫌で辛くて苦しくて、上手く行かない不満や不安を吐き出さなきゃ済まないだけ。

 

 そんなの分かってる。仕方ないししょうがない。

 

 

 

 だけど、その" ちょっと "が、あたしには堪らなく恐ろしかった。

 

 もし本当に嫌われたりしたら、必死に積み上げてきた朝風百合(あたし)が崩れてしまいそうで。

 皆から向けられる目線にそれが混ざっていないか怖くて、気にしないようにするほど気になって怖くなった。 

 

 だから嫌われないように頑張った。

 頑張って嫌われないようにした。

 毎日その繰り返し。

 

 そして、そうして皆の期待を超えれば超えるほど、次の期待とあたしに向けられる暗い視線は大きくなっていった。

 

 

 百合は出来る。

 朝風は大丈夫。

 百合ちゃんならやれる。

 朝風さんは平気。

 朝風ちゃんなら心配いらない。

 百合は強い。

 

 

 

 

「……イエモン、ゆぃ、どうすればいいのかなぁ」

 

 

 

 それから解放されるのはイエモンとの散歩の時だけ。

 

 

 嫌われたくなくてあがけばあがくほど、あたしには何もなくなっていく。

 嫌なこと、辛いこと、苦しいこと、痛いこと。何もない。

 

 だって出来る人だから。

 

 かといって皆の期待を裏切ることもできない。朝風百合(あたし)ってそういうものだから。

 

 

 

「ね、ゆぃもう()。疲れちゃったよぅ」

 

 

 

 そう。結局、あたしは皆にこう言いたいだけ。皆と同じように。

 

 

 あたし皆のために頑張るよ。誰かの役に立てるの好きだもん。

 

 でもゆぃだって嫌なこともあるよ。悲しいことも辛いことも皆と同じようにあるの。

 

 百合はいいよねって壁を作らないで。あたしの嫌を無視しないで。皆の嫌をぶつけないで。嫌いにならないで。

 

 

 けどそんなこと言おうものなら余計ウザくて嫌味っぽくて嫌われそうで、勇気が出なくて、ゆぃはイエモンに零すことしかできなかった。

 

 

 

 イエモンはキュウと鳴いて鼻をこすりつけてくれる。

 こんな話ばっかり聞かされてるのに、イエモンはいつだって優しかった。

 

 お礼に頭を撫でる。柔らかくて湿った感触も優しい目も昔のままだったけど、昔と変わった部分に年を感じた。

 

 

 白が混じり始めた毛並みがちょっとパサついてる。

 目元がくたびれてきて、眠たそうなのも相まっておじいちゃんの顔。

 元々折れてた左耳と違ってピンと立ってたはずの右耳も、ふにゃっとしおれて元気がなさそうだった。

 

 

 

「……あんた、年取ったね」

 

 

 

 返事代わりに指先を舐められて、ゆぃは抱きしめることしか出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あたしの予感通り、イエモンはどんどん元気が無くなっていった。

 

 散歩の時全力ダッシュしなくなったのに始まって、歩く速度が遅くなって、距離もどんどん短くなっていった。

 

 もう長くないだろうってパパが家の中に入れてあげて、そこからはリビングの一角がイエモンの居場所になった。

 エアコンの効いた部屋の中なのに、わざわざジメジメした外を眺めたり強い日差しを浴びに窓際に行って、そこで丸まってよく寝てた。

 

 そして、ひときわ日差しの強くなった7月の中頃。あたしが県大会出場権を持ち帰った日。

 イエモンはそのまま目を覚ますことはなかった。

 

 

 

「……でも、大往生だよ」

 

 

 

 お葬式を済ませた帰りの車の中、飲んでるお茶のペットボトルを眺めながらお兄ちゃんは沈んだ声で言った。

 

 

 

「最初来た時から結構大きかったし。そこから10年も、あんな元気に」

 

「……だなぁ。十分長生きしてくれた。頑張ってくれたな」

 

「そうね……、穏やかに最期を迎えられて、良かった」

 

 

 

 イエモンは元々おばあちゃんのご近所さんの犬。

 その旦那さんが亡くなって息子と一緒に暮らすからって飼えなくなっちゃった。

 

 それをパパが家で引き取るって言い出したのがきっかけ。

 

 子供たちに病気以外の思い出を作ってあげたいってママを説得して、イエモンは我が家にやってきた。

 あたしが5歳の頃の話だ。

 

 

 なぜかお茶の伊右衛門のペットボトルを気に入ってて、名前もそこから。

 遊んであげて、ってペットボトルを模したぬいぐるみも一緒にケージに入ってた。

 

 それで遊んで、あっという間に仲良くなったのを覚えてる。

 一緒に遊んだパパはもちろん、怖がってたお兄ちゃんも、やることが増えるって嫌がってたママも、その日のうちにイエモンのことが好きになった。

 

 

 

「たくさん思い出をくれた、良い子だったなぁ」

 

 

 

 お散歩が嬉しすぎて、小さかったあたしを引きずっちゃったこともあったな。

 お誕生日にジャーキーをあげに来たお兄ちゃんから袋をかすめ取ってほとんど食べちゃったり。

 あとあと、パパの足をリードでぐるぐる巻きにして転ばせちゃったり、ママの新車におしっこ引っかけちゃったり。

 

 

 たまにやんちゃをする子だったけど、その度しょんぼり俯いて小さく鳴いたり謝るように舐めたりする優しい子でもあった。

 

 あと自慢げにフスフス鼻を鳴らしたり、嬉しそうにキュンキュン言ったり、風が気持ち良いのか笑ったり。

 とにかく感情豊かな子だっけ。

 

 

 茶色に黒が混じったふかふかで暖かい毛並みに、生まれつき折れてた左耳。走り回るのが好きだったせいで硬い肉球。いつも楽しそうに振ってた短めの尻尾。

 

 

 そんな思い出も感情も暖かさも全部、灰になってあたしの膝に乗っていた。

 

 

 

「ね百合、だからそんな顔しないで。イエモンも笑ってる百合の方が嬉しいはずよ」

 

 

 

 重さも撫でた感触も温度も何もない。

 すっかり小さくなったイエモンと一緒にいると、ママたちの思い出話も励ましも、同じように空っぽに思えた。

 

 

 

「もー、元気出して百合!百合らしくないよ」

 

「そうそう!こっちまで心配んなっちゃうじゃん!」

 

「今は辛いかもだけど、百合なら大丈夫だって」

 

「次県大会でしょ?元気出してこ!いい結果持ち帰ろうよ。ワンちゃんもそのほうが喜ぶよ」

 

「大丈夫っすよ朝風先輩!いつも通り練習やってきましょう!」

 

 

 

 翌日。友達はクラスメイトは先生は後輩は皆集まってそう言った。

 百合らしくない。百合なら平気。百合なら大丈夫。

 

 何百と浴びせ掛けられるそれに、朝風百合(あたし)は元気を貰ったような笑みを浮かべて返事をした。

 

 

 

「……あっは、ありがと。そうだよねー、こんなんあたしらしくないじゃんね?

うん。平気平気。お陰で元気出た!あたし頑張るよ!」

 

 

 

 だって、そう求められていたから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まっすぐに決められた道。

 順に並ぶハードル。

 注がれる皆の視線。

 あたしの気持ちなんかお構いなしに向けられる声援。

 

 

 

「百合ー!」

 

「百合!頑張れ!」

 

「行けるよ!落ち着いて!」

 

 

 

 皆の期待に応えるためだけに辿り着いた県大会のトラックは、その全部が苦しかった。

 

 早すぎる鼓動で胸が痛い。上手く息が出来ない。手が震えて指先だけ冷たい。誰がどうあたしを見てるのか分からなくて怖い。

 

 

 

「位置について」

 

「用意」

 

 

 

 けど、容赦なくピストルの音は鳴る。

 

 呼吸さえおぼつかなかったあたしのスタートは遅れて、合わない歩数で1台目を走り抜けた。

 修正できなくて2台目を倒す。3台目、4台目で持ち直すけど、もう他の走者は全員あたしより前。

 焦ってまたペースが崩れて、7台目で歩数が狂った。ズレが少しずつ広がって、10台目で足が引っ掛かる。身体のバランスが崩れる。

 

 どうにかゴールラインまで辿り着いた勢いのまま、あたしは思い切り転んだ。

 

 

 

「…………あ」

 

 

 

 周囲の人が駆け寄って起こしてくれる。

 顔を上げられない。擦りむいた膝と打った腕が痛い。けどそれが理由じゃない。

 

 視線、視線、視線。

 

 皆の視線が、期待を裏切った朝風百合(あたし)へ向けられる視線が、怖くて仕方がなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ゆぃ別に、ハードルなんか好きじゃない。

 班分けの時に人が足りなかったから行っただけ。

 

 期待を受けて走るなんて嫌い。

 ミスなんかしたら恥ずかしくて嫌で消えてしまいたくなる。

 

 リーダーなんか嫌。大勢の前で喋るのなんか大嫌い。

 皆私をどんな目で見てるの?皆に褒められるためにはどうすれば良いの?

 そんな考えが頭をいっぱいにして辛いから。

 

 

 

「これで、あたしたち3年生は引退です。皆、本当にごめんね。あたしもっとできたんじゃないかって、今でも思います」

 

 

 

 そんなゆぃを押さえつけて、あたしは話す。

 

 自分のミスを悔いるあたしに向けられる視線は優しく労うもの。

 それは、県大会の後向けられたものと同じだった。

 

 

 

「でも、皆と一緒にここまで来れて良かった。あたしはそれが嬉しいです。

これからは1年と2年、力を合わせて頑張ってください。あ、もし困ったこととかあったら、相談しに来ていいからね?……なーんて、皆なら大丈夫か。

来年皆がどんなチームになっているか楽しみにしてます。

今までありがとうございました。これからも頑張ってね」

 

 

 

 朝風百合(あたし)として求められる言葉を並びたてたものに、拍手が飛ぶ。

 

 

 皆優しかった。

 

 あんなに怖かった暗い視線なんて一つもない。

 お疲れ様、ありがとうと言ってくれた。百合が部長で良かったとも。

 散々な県大会の結果さえ、それでも頑張ったねって褒めてくれた。

 

 あたしが悲しむ暇もないほどに。

 

 

 

『百合、お疲れ様。頑張ったね』

 

「うん、ありがと!あっはは、明日から部活行かないの変な感じ」

 

『うふふ、確かにね。今日さ、ちょっと遅くなっちゃうけど、夕飯食べ行こうか。百合の好きなところで良いよ』

 

「えっマジ?やった!……あれ、お兄ちゃんはどうすんの?」

 

『えぇ柚太?連れてかないわ。あの子は帰っても勉強よ勉強!全く、そろそろ受験だってのに……』

 

「それあたしもだよママ」

 

『だって百合は何にも心配してないもの。1日くらい大丈夫よ。8時……過ぎになっちゃうかなー。そのあたりに帰るから、行きたいところ決めておいて』

 

「はーい!えへへ、どこにしよっかなー」

 

『……良かった』

 

 

 

 帰ってママと電話で話していると、ママはふいにそう言った。

 

 

 

『すっかり元気になったみたいで。いつもの百合に戻ったね。イエモンもきっと喜んでるよ』

 

 

 

 嬉しそうな感情をにじませたそれに、あたしは思わず黙った。刺されたみたいに息が詰まる。

 

 

 

「…………あっは、ね!そうだと嬉しいな!」

 

 

 

 苦しい呼吸を取り繕って、求められている言葉を頑張って吐き出した。

 それを聞いたママは満足したみたいに笑う。

 笑い声を聞いていられなくて、スマホを耳から離した。

 

 

 

「あ、ねーママ?帰ってくるまでさ、ちょっと走ってきていい?」

 

『え?まぁ良いけど……気を付けてね?ふふ、何?お腹空かせに行くの?』

 

「せいかーい!イエモンの散歩ルート行くだけだから。気を付けるね。じゃ」

 

 

 

 電話を切って、ランニングウェアに着替えて玄関へ出た。庭を見ても空の犬小屋があるだけ。駆け寄ってくる嬉しそうな呼吸音が聞こえない。

 

 そのまま散歩ルートをなぞるように歩き出す。横を行く、チャッチャッとコンクリートを爪がひっかく音が聞こえない。

 

 誰の視線も期待もなく、一人で歩く。落ちていく涙と、鼻をすする音に気が付いてくれる子はいない。

 

 

 

「……っ、……」

 

 

 

 ──どうして。

 

 どうしてたった一言、悲しいと言わせてくれないの。

 

 

 

 あたしたくさん頑張ったのに。あたし皆のためにやってきたのに。皆の望むまま、朝風百合(あたし)をやってきたのに。

 

 あたしだって嫌。

 あたしだって辛い。

 あたしだって苦しい。

 あたしだって痛い。

 あたしだって悲しい。

 あたしだって悔しい。

 

 皆のために頑張っていたら、いつの間にかそう言う権利が無くなってしまった。

 それを零させてくれた唯一の相手も、もう居ない。

 

 

 分かってる。

 別に皆悪くない。ただ勝手に皆の視線を重圧に感じて、勝手に自分の首を絞めてるだけ。

 

 でも今更気にしないで生きるなんて出来ない。だってずっとそうやって生きてきたんだもん。

 

 

 皆の顔や雰囲気を伺って、正解の行動をする。

 ちょっとした言葉の端や視線から求めてるものを推測して、その通り口から出す。

 期待を感じ取って、それを乗り越えて見せる。

 

 だってそうすれば、皆ゆぃのこと見てくれる。

 

 

 ──そう、皆のためだなんて嘘。全部全部自分のため。

 

 あたしは、ゆぃのことを見て欲しかった。

 ただ、褒めて欲しかっただけなのに。

 

 

 

 

 

 

 

 住宅街を回って歩道橋へ。夏休みも相まってか、いつもより多く車が走っていた。

 

 道路へ白い線を描いている、眩いヘッドライトの光に吸い込まれるように下を覗き込む。

 素早く抜けていく色と光に視線が向く。

 

 その風を切る音に、一瞬最低な考えが浮かぶ。

 手すりに置いた指先がピクリと動く。震える白い腕を他人事のように眺めて、それに背を向けた。

 

 だって見せつけのようにそんなことしても、ゆぃがどんなに苦しかったなんて誰も分かってはくれない。

 

 

 

 歩道橋の階段を降りて公園へ向かう。

 

 広いだけの公園は薄暗い。茂った木のせいで鬱蒼としていた。今の気分にピッタリな真っ暗な中を、特に宛もなく進む。

 

 

 どうしたら、皆あたしの悲しみを肯定してくれるか。

 

 その方法は誰もが思いつくほど簡単で、あたしがゆぃが一番やりたくないものだった。

 今まで積み上げてきたあたしを、自分の手で崩すに等しかったから。

 

 

 そして何より、疲れたから。

 

 もう疲れたの。

 朝風百合(あたし)を壊して、新しい朝風百合を作るのも、ゆぃのまま生きるのも出来ない。

 あたしはもうあたし以外の生き方知らない。これ以外で皆の視線に耐える方法なんか分からない。

 

 

 ……そうじゃん。ゆぃ、何を悲しんでたんだろ。

 

 別に、もうどうでもいいじゃない。これからもいつも通りあたしでいれば。

 誰にも分かってもらえなくてもいいじゃない。分かってもらって何だって言うの、何も変わらないでしょ?

 

 だってゆぃの悲しみなんて、ずっと無視されてきたんだから。

 

 

 そうだ。そうしよう。

 またあたしに戻ってしまおう。

 皆の望み通り、いつも通りに。

 

 

 

「……不幸で満足かよ」

「っ……?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 道を引き返そうとしたあたしの背に、男の子の声が突き刺さった。

 振り向けば、木々の向こうのベンチの横。街灯の明かりから隠れるようにうずくまった金髪の男の子がいた。

 

 見つめていると、ポッと男の子の手元が明るくなった。

 似合わない金髪と、何か──タバコをくわえた顔が、ライターの光に照らされた。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 その顔を、恨みと悲しみにじむ表情を見た途端、不思議と足が動き出した。

 距離が近づけば近づくほど、胸が高鳴っていく。 

 

 

 ──あなたも。

 あなたもそうなんでしょ。

 

 

 たった一言聞いただけなのに、確信があった。

 

 この子はゆぃと一緒だ。

 自分の感情を周囲に潰されてしまった子。それから逃げてきてこんな所まで来てしまった子。苦しさを言葉に出来なくて諦めようとしてる子。

 

 

 そうでしょ、そうなんでしょ?絶対そうだ!ゆぃ、あなたのこと分かるよ!

 

 

 気が付けば男の子は目の前。頼りないライターの光が何より輝いて見える。

 その救いを手にしたくて、すっと息を吸って口を開いた。

 

 

 ね、諦めないで。

 ゆぃ、あなたのこと分かってあげられる。

 どんな誰よりもあなたに寄り添ってあげられる。

 

 だから、きっとあなたもそうしてくれるよね?

 あなたもゆぃに寄り添ってくれるよね?

 

 お願い、お願い、お願い!あなたなら、あなたならきっと、ゆぃのこと分かって──

 

 

 

「あっは。それ、吸っちゃうわけ?」

 

「っ」

 

「さすがにそれはアウト……じゃない?」

 

 

 

 ──あたし(・・・)はそう、その子に声を掛けた。






シンデレラは顔が良いから上手く行っただけの話、なんて穿った見方に一度は嵌ることあると思いますが、何の努力もなく『末永く幸せに暮らしました』が出来たわけないよね。
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