U 04
「―――後続は遅れているか、これは前が残る競馬になりそうです。
先頭はヒッターシーンのまま最終コーナー。 その後ろ3頭並んで誰が抜け出すか。
ヒッターシーン先頭、リードは二馬身、二番手にはマーリンシャトルか、ワースクラック、ラストファイン、その後ろは2馬身離れてプログラムハガー。
内マーリンシャトルが抜け出しそうだ! ヒッターシーン粘る粘る、まだ粘っているがついに捕まった。
ヒッターシーン躱してマーリンシャトルが先頭、ラストファイン、ワースクラックが後ろから追うが距離が足りない!
マーリンシャトルだ! マーリンシャトルがクビ差制して勝利です! 二着はラストファインか、ワースクラックか並んでゴールしています、微妙な差です」
「くそっ……」
レースを終え、砂塵を被ったゴーグルを外して、五良野騎手は顔を手で拭きながら悪態をついた。
ラップが早くなった競馬で、最終コーナーを外付けで回す展開になった事に悔しさを滲ませる。
速いラップで外を回る、それが不利となって直線勝てる競馬を負けてしまったことに、納得がいっていなかったのだ。
ラストファインがスタート後、最初に内々に潜り込もうと動いているのを止めたのが悔やまれる。
馬場状態を見て外を回るべきだと判断したが、結果的には裏目となって騎手が脚を引っ張る形になってしまった。
稲葉厩務員がラストファインの口を取り引き歩くと、五良野は下馬して一言だけ口にした。
「すまなかったな……」
ラストファインの首を叩いて、待機場所まで戻る五良野に、稲葉は少しだけ頭を下げて見送った。
第四話 風塵一路
レースを走り、クールダウンを終えて馬房に戻ってきたラストファインは敗北を振り返っていた。
なぜ上の人間は最短距離を走らない事を選ぶ時があるのだろう、と疑問を抱いたからだ。
レースの無い普段の調教の日に、ラストファインは自分の背に乗ることが多い橋本の意思を読み取ろうと口へと意識を寄せる。
すると他の馬が居る時と比べてその行動は容易である事に気付く。
実際の競馬と調教では、意思の配分に余裕の差があった。
競馬を重ねていき、理解を深めて行く中でラストファインは騎手の意図を読み取ること、そしてそれを実践することを覚え始めていた。
今回、内を回る事を人間が嫌ったのは何故だろう。
砂を浴びるのが嫌だったのか? 確かにあまり気持ちの良いものでは無い。 それとも馬群に入るのを忌避したのか。
他の馬との距離が近いと何かあった時に道中のラップペースが崩れやすくなる。 それはラストファインも学んでいる。
調教の広い馬場を単走で走りながら、マッサージを受けて蹄鉄を履き替えている最中、或いは陽の落ちた暗くなった馬房の中で。
ラストファインは思考を止めなかった。
レースと調教時ではまったくの別物であることをもう分かっている。
身に着けた技術、知った事、競馬に勝つために何をすれば正解なのか。 どう最適解を導けばいいのか。
ラストファインはとにかく言われた通りに沢山の事を考えて実践することを繰り返した。
いくつの事を考えたのか、100も無いかもしれないが、とにかく沢山だ。
分からないを分からないままに競馬を走れば負ける事に、ラストファインはもう気付いていた。
知識を、理解を貪欲に欲す。
勝つために。
「え、五良野ジョッキーが乗れない?」
「当日は川崎競馬で予定があるとのことで。 テキが次走は長い距離を使いたいっていうから日程は変えられないし、どうしたものかと」
「橋本がファインは長い距離の方が良いんじゃないかって言ってたんだよな、それでか」
「多分、距離延長した方が合ってると思うんだよ。 それでテキは何時戻って来るって?」
橋本の声にカレンダーを捲って山田が指を揺らしながら指し示す。
ワイルドケープリの次走がドバイワールドカップに決まり、そのままアメリカから現地へ輸送されることが決まっていた。
林田巌は、一度園田にラストファインの様子を見に戻ってくるとのことだが、残念ながら日程的にはラストファインの次走に間に合いそうも無かった。
気難しい面のあるラストファインだが、ワイルドケープリと違って騎手に注文を付けるタイプではない。
とはいえ、ラストファインは身体が小さい。 馬体重も420~430kgがアベレージだ。
乗り役は慎重に選びたいし、テン乗りは性格面から考えても出来るだけ避けたい。
「一応、五良野騎手が好意で後輩を乗せてはどうかっていう声を掛けて貰ってるんですけど、勝手に判断も出来ないですから」
まだ4年目だが馬との折り合いをつけるのに才能があるとの触れ込みだった。
ラストファインは競馬に真摯に向き合っている。
特にレース前になると普段からは想像も出来ないほど落ち着いて、本番に備えるのだ。
レース中になるとラストファインはかなり自我が強く、騎手としては御するよりも促せるやり方が出来た方が良いとの見解を五良野からは貰っている。
稲葉は当然、ラストファインを担当している為全てのレースを一緒に見て、経験しているが確かに頷ける意見であった。
「なるほど……五良野騎手の伝手なら信用できるな。 連絡先は貰ったか?」
「はい、こっちです」
「場所は姫路だ。 園田じゃないからそこの連絡はしっかり頼む」
稲葉から受け取った連絡先。 名前は東山幸次。 稲葉とそう変わらない、20を過ぎたばかりの年若い騎手であった。
「テキに連絡は入れておく。 許可が下り次第で東山さんに頼む前提で動いていこう」
「オッケー、そうしよう」
「分かりました」
「木枯らしの中、粉塵が舞い上がっています姫路競馬場。 その中で第3R、まもなく発走です」
東山を鞍上に迎えたラストファインは、この乗り手が消極的なコミュニケーションを取っている事に早くに気付いていた。
それは調教の場の時からそうで、基本的にはラストファインの意思が優先されている。
どこか子供の頃に関わった人間と同じ感覚がして、ラストファインはあまり好きにはなれなかった。
この日の姫路は砂が激しく飛び交っている。
季節柄か、とにかく風が強く、成人男性の身体が泳ぐほどの突風が吹き荒れていた。
スタートは珍しく、綺麗に揃って各馬が最初のコーナーへ殺到する。
大外枠に入ったラストファインは自然と隊列後ろの方からの競馬となった。
何時もとは違うスタートのゲートの位置、そして調教中から周囲に気を配っていたラストファインは距離の延長にこの時から既に気付いていた。
前2頭の馬が一頭すっぽりと入れるように内枠を開けている。
騎手の指示を待っていたラストファインだったが、次第に焦れて前に突っかけようと加速しようと思い始めた瞬間だった。
前の二頭の内一頭が内に傾き、その前にいた馬が垂れてきてラストファインの目の前にいた馬の進路が消える。
口の中で意思が動く。
慌ただしい馬群の動きを尻目、外に回ってラストファインは内でもたつく群を抜き去って、コーナーを抜けた頃には中団後方にとりついていた。
もっと前に居た馬の騎手が、仕掛けた罠だったのか。
ラストファインはレースの最中に気付く。
もしも焦って最初に内に潜り込んでいたら、コーナーで馬群に埋もれて体力を削られ、後方まま道中不利の中で脚を進めることになっただろう。
1週目の直線に入りラストファインは左右に首を巡らし、周囲を確認しながら自らのコンディションに意識を向ける。
11頭中前には7頭。 先頭までそう遠い距離ではないが、ペースは落ち着いている。
脚を抜く砂の入りが深い。
大型のクルマがトラックに入るのを見ていた。 きっとあの時に砂を入れ替えたのだろう。
首を沈めて加速する。 この砂の深さと自身の脚を計算すると、後ろからの競馬では間に合わない可能性が高い。
ラストファインは決断すると中団からそのまま前に、ペースを上げて食らいついた。
東山はラストファインの判断を邪魔することはしなかった。
最後の緩やかなカーブに入り前目の馬を射程距離に捉えた時、東山から鞭が飛んだ。
ラストファインの視界にゴールが飛び込んで、周囲の馬達の動きが慌ただしく動く。
一番前で内を走る先頭の馬が、外に外にと遠心力を殺せずに膨らんでいったのが目に見えた。
隣でスパートをかけている馬が乗り手の指示が飛んだのか、空いた内に飛び込もうとしている。
調教で併走した事がある馬だ。 ラストファインは覚えている。
トップスピードは殆ど変わらない相手で、外に回している余裕などない。
風とコーナーでよれた馬の尻を目掛けて、ラストファインは躊躇いなく脚を踏み出した。
馬体が触れたかと思うほどの距離で先頭の馬を抜き去って、鬣を揺らし必死に脚を回す隣の馬と共に先頭に躍り出る。
開けた視界に風が吹いた。
強い木枯らしが、姫路の砂を舞い上げて。
ダストストームが一際吹き荒れる馬場のど真ん中を突っ切っていく。
負けない。
絶対に逃げない。
欠片の恐れすら見せず、ノイズとなっている砂嵐を視界から完全に消し去り、ラストファインの目にゴール板だけが映し出された。
横の馬が目を細め怯む。
―――競馬をしなくちゃ、競馬には勝てない。
ラストファインの横で一瞬の躊躇い……ほんの数舜、競馬に怯んだ馬との差が出来た。
「オウヤノムテキ、もたついて外に膨れた。 鞍上必死に持ち直したが、その間に空いた内からヒカリマサムネ、ラストファインも突っ込んでくる。
砂嵐舞う姫路の直線残り200,後ろの行き脚が鈍い、後ろからは何も来ないか。
マサムネとラストファインの二頭だ、二頭の争い。 内ヒカリマサムネ、外ラストファインの叩き合いだ。
砂塵の中を突っ切って、どっちが来る。 ヒカリマサムネがやや遅れたか! ラストファインか、ラストファインとヒカリマサムネが同時に今ゴール! どっちでしょうか、僅かにラストファインが態勢有利でしょうか。
いやしかし、凄まじい砂嵐です。 ゴールした後の騎手たちが、腕で顔を守っております。
おっと、結果が確定しました。 ラストファイン1着、7枠11番のラストファインが一着です。 二着はアタマ差、2枠3番ヒカリマサムネです。 3着はロイアイランド―――」
風が砂を吹き飛ばし、ラストファインの馬体を激しく打ち付ける。
他の馬達が顔を背けたり、首を振って馬場から逃げるように戻っていく中で、ラストファインは微動だにせず馬場の真ん中で立っていた。
この激しい砂嵐の影響でスタンドに観客はほとんど居なかった。
仕事で残っている厩務員や競馬場のスタッフを除いて、人の姿も殆ど見えずに閑散としている。
場内アナウンスがたんたんと響く中、ラストファインは東山ジョッキーに促されてようやく脚を回す。
稲葉が砂にまみれながら、白い歯を見せてラストファインを迎え入れた。
初勝利の時に居た馬主たちの姿もまったく無かった。
砂塵舞う姫路競馬場の中で掴んだ2つ目の勝利は、最初の勝利よりも小さな拍手と歓声で称えられた。
7戦目を走り、園田・姫路での競馬でのランクが上がった。
格付けはB2クラスとなり、今後も競争成績によって昇降することになる。
ラストファインは知る由もないが、その昇級に最も喜んだのは担当の稲葉厩務員であった。
物思いに耽る様に、ラストファインの馬房の二階、住まわせて貰っている自室でスマホを弄りながら次の予定表を眺める。
負けるたびに落ち込んで顔を濡らし、その後に暴れて競馬にまっすぐ向かうラストファインを最も近くで見ているから、目に見える形で世間から評価が上がるのは嬉しかった。
3歳なったばかりのこの時期に、2勝をしているのなら大したものだ。
そう、本当に凄い事なんだ。
蹄を切る時には噛みついてきて、不用意に傍に近寄れば足を踏んでくるような暴れ馬だが。
勝った時に勇ましく馬場に立って周囲を睥睨するように、周りを見渡す姿が雄々しく、とても美しい馬だとラストファインの事を思っている。
特に2勝目を挙げた風塵の中で堂々としていた様子が、記憶に新しい。
先ごろの競馬では馬群に取り残されて小さい身体を揉みくちゃにされ、体力を奪われてしまって6着で負けた。
ステップアップした後の競馬ではいつもこうだ。
散々に負けて、誰が見ても分かるくらいに顔を沈ませて閉じこもる。
泣いて、暴れて、そしてまた立ち上がる。
その際に稲葉には傷が耐えないが、痛みを我慢するだけでラストファインが次に勝ってくれるなら安い物だと思った。
勿論、厩務員として一番大事なのはケガをしない事。 そしてその怪我の要因を出来得る限りで取り除く事だ。
最近ではレース前に、自費で特注で頼んだ緩衝材を馬房に張り巡らしたり、怪我の要因になり得る小石などが混ざらないよう、寝藁を全て引っ張り出して完全な清掃を行っていた。
勝てずとも、無事に完走してくれるだけでも、稲葉は目一杯ラストファインを褒め称えた。
当然、レースのあった翌日は暴れまわるのが分かっているので、朝も夜もプライベートの時間を削って林田厩舎に顔を出してはラストファインの傍にいる日の方が多くなった。
どうしてこんなに、自分がこの小さな馬に魅入っているのかは稲葉自身も分からなかった。
初めて一頭の馬を最初から最後まで預かる、という責任感だけではないと思う。
確かに嬉しかった。 馬の事を何も知らないで飛び込んだ世界で、最初は他の厩務員の手伝いをするだけで過ごし、手当が無い代わりに巌先生が特別に給与を出してくれていた。
だから必死になって馬の事を勉強してきた。
それでようやく、認めてくれたわけでは無いが一頭の馬を厩務員として担当させてくれるようになったから。
だから嬉しいのは確かだった。
進上金―――いわゆる、担当馬の勝利で得る収入―――が入るからか? 確かに収入が増える事そのものは嬉しい。
担当した馬が競馬に勝ってくれることで年収に直結するのだから生活の上でも切実なことだと、一人の社会人として稲葉も収入増加は嬉しく思う。
でもそれだけじゃない。
目に見える形だけではなく、ラストファインという馬が好きなのかもしれない。
他の馬達と比べると愛着は一入だし、暴れている時はもっと割り切ってくれないか、と腹を立てることもあるけれど。
思うのは。
勝利以外を求めていない、この誇り高き馬が一つでも多く勝ち星を掴んで幸福になって欲しい。
それだけはきっと、稲葉の本心に違いなかった。
寄りかかった壁から打ち付ける音に、稲葉は落としていた顔を上げた。
時間を確認すると、ラストファインの飼い葉を与える時間だった。
食事の時間を覚えているのか、と感心しながら立ち上がって準備を始める。
師である巌や先輩の山田から教えられた通り、ラストファインの為に考案された食事を混ぜ合わせ、適量を測って桶に入れる。
準備を終えて馬房を覗いてみれば、ラストファインは外に首を出して空に浮かぶ太陽を見上げていた。
「ほら、ファイン。 飯だぞ」
声を掛けたものの、中々こちらに顔を向けてこなかった。
おーい、と桶を叩いたりしたものの、まるで居ないものとして扱われてしまう。
食事を催促したのは向こうなのに……いや、時間に気付かなかった自分も悪いけど、と稲葉は頭を掻いて心の中でぼやく。
息を吐いて、しばらく見守っていたラストファインから自室に戻ろうと思い始めたところで、ようやく顔を向けてきた。
なんとも、この奔放さは身勝手なものでは無いか。
ルドルフやテイオーといった往年の名馬のことは、正直に言って知らない馬で思い入れもないが、きっとこの様に傅く者たちを振り回していたに違いない。
「王様さん、食事の準備ができましたでございますよ」
「ブルル」
鼻息を漏らされ、ラストファインはその場で首を振って肩を落とすように首を下げた。
のそのそと近づいてきて、稲葉を覗き込むように顔を突き出す。
ぶつかりそうになって、うおっとのけ反りラストファインを不思議そうに見つめ返してしまった。
フンスと鼻息を漏らすラストファインに稲葉はゆっくりと顔を触ろうと手を伸ばし、その瞬間にラストファインが肩口をガチリと噛んだ。
「いだぁぁぁ! ちゃうでしょ! ご飯はこっちだよファイン! いだだだだ、痛いって!」
しばらく甘噛み(とは言っても慣れている稲葉にしても涙が出る位痛い)をしてから、ようやく食事を始めたラストファインに稲葉は情けなく声をあげた。
禁句である名前を思い浮かべてしまったのがいけなかったのだろうか。
次のレースに向けてモリモリ食べ始めたファインを尻目に、稲葉はちょっとだけ出血した肩の治療をしに事務所へと引き上げて行った。
春競馬。
日本全域で猛暑が続き、晴れ日照りとなった為に、早々に夏バテを起こす馬達も多く出た5月の頃だ。
組合馬主の定例会で、江藤オーナーは驚くことになった。
久慈会長と、もともと江藤の考えに近く賛同を真っ先にしてくれた岸間社長がラストファインについて触れたのである。
もっとも、育成牧場や生産牧場に輸送する際や所属厩舎の当てなどを探す際にも協力しあい、少なからず金を掛けているのだから気にすることもあるだろう。
ただ、江藤も時折、自分自身の持ち馬のついでにラストファインに目を向ける事がある程度で、忘れている事の方が多いから余計に意外に思えた。
「いやいや、でもまぁ、どうも成績を見てみると芽があるんじゃないかと」
「そうそう、意外と頑張っていますよね。 この前、自分のラッキーハンター号を見に園田に向かったんだけど、その時にラストファインの方もついでで見てきて」
「ああ、言ってたね岸間さん。 なんか、あまり見てない馬の口取りに呼ばれちゃって居心地が悪かったって」
「そうなんですよ。 いやぁ、もっとちゃんと関わっていれば良かったなぁっと、あの時は思いましたね」
『―――ダメだ! 今日のペガサスは飛べない!』
メインレースとなった競馬中継の画面をぼんやりと見ながら、ここ最近はラストファインの成績は追っていなかったな、と思い出して江藤は持ち歩いているネットパッドを開いた。
勝ちと負けでは、圧倒的に敗北したレースの方が多いが、そんなのは何処の馬も同じような物だ。
大事なのは勝っているレースで、その勝っているレースは昇級競争であることが殆どだった。
お、と江藤は思う。
特に直近の競争に2連勝しており、これで勝ち星は4つ。
負けている競馬でもしっかり掲示板に食らいついており、A3クラスまでもう一歩と言ったところである。
「いやぁ、このクラスまで上がれるなんて、しかも血統がヘロド系ですよ」
「僕の持ち馬より勝ってるなんて、複雑ですねぇ」
「うーん、凄いなぁ。 林田厩舎は、今飛ぶ鳥を落とす勢いに乗ってるかもしれませんなぁ」
「ワイルドケープリですよね、まぁ今日の天皇賞はアレでしたが。 ドバイワールドカップ凄かったですよ。 園田で一番名前が売れてる厩舎じゃないですか?」
「うんうん。 ワイルドケープリのレースは私も見ていて、感動しましたよ」
「はははは、そういう意味でもラストファインをもっと押し出しても良いかも知れませんね、この組合の宣伝になりますし」
思わぬ話に転んで、江藤はラストファインを種牡馬に転用する話を飲み込んだ。
確かに、所属している林田厩舎は今、園田で最も注目を浴びている。
ワイルドケープリという名馬に付随して、ラストファインの名もネットでは時折見かけるようになっても来ていた。
出走資格を満たした地方重賞あたりを一発取れれば、それだけでこの組合馬主の名も、先ほど岸間社長が言ったように大きく名を馳せるだろう。
そうすればもっと大規模な活動に繋がるし、人との交流も増えて行く。
江藤は皮算用をしながら、次走に関して岸間と久慈に相談という体をしながらラストファインの運用に口を挟んだ。
少しでも勝率を上げる為、若手の東山ジョッキーから、地方競馬の騎手の顔としても知られる、ベテランの今村ジョッキーへと依頼することになった。
「橋本ぉ! 周りをうろつく記者共を追い返しとけ!」
巌調教師の怒号が飛んだ。
ドバイワールドカップを見事に勝ち、天皇賞(春)を走り切って、林田厩舎へと戻ってきたワイルドケープリの周辺はいよいよ騒がしくなった。
園田競馬の運営関係者から一般の人間まで。 とにかく今まで何処に居たのかというくらい、人の波が押し寄せていた。
度重なる輸送と激しいレースの影響か。
ワイルドケープリは厩舎の馬房に戻る最中に跛行し、身体を怠そうに横に倒し、時折普通では見られない発汗を示した。
馬に悪い影響がある、という建前で林田厩舎はその周辺から好奇心からワイルドケープリに関わる人々を完全に締め出し、その内実はワイルドケープリの状態の把握にてんてこ舞いであったのだ。
「テキ、周辺からは締め出しました」
「誰も居ないな。 報道陣は」
「大丈夫です、橋本と俺で確認しました」
「よし」
巌が馬房の中で倒れ込むワイルドケープリに視線を向ける。
中では医者と、駿がワイルドケープリの近くで身体を支えていた。
「後脚の関節が腫れあがってますね。 特に後肢のトモには負担が強く掛かっているのでしょう。 激しいレース内容もそうでしょうが、走法的に負荷がかかる部位です」
「山田、先生から処置の方法を良く聞いておけ。 橋本、事務所に行ってデータ印刷してこい」
「分かりました」
「それで先生、ワイルドケープリの競争能力に影響はありますか?」
「診療所で詳細の検査が必要ですが、経過が良ければ問題ないでしょう。 炎症の度合いで言えば、まだ軽度だと思います」
「運動は大丈夫でしょうか」
「当然ですが、すぐにはできませんよ。 運動の許可が出ても歩様に乱れがあればすぐに中止です。
まずは検査を行うために、明日から診療所の方へ輸送をお願いします。
なんにせよ、3日~1週間は状態を見て完全な安静にすることを勧めます。 飼い葉に混ぜて投薬も行うと思うので専用の物を使ってください」
馬医者の先生に見てもらい、診療所の検査によってワイルドケープリの病状は球関節炎と診断された。
その後の経過診断では幸いなことに回復が早く、順調に復調を示していたが、秋までは休養に当てることが決定。
巌は息子の駿と、ワイルドケープリの作戦の変更をするべきかどうかを真剣に話し合った。
すなわち、得意戦法の末脚を活かした追い込みから、脚の負担を和らげる為に前目での作戦をするべきかどうかだ。
歩く程度の運動に許可が出てから、ワイルドケープリは毎朝1時間、暮れに1時間の散歩を山田厩務員と林田駿によって行われ、ワイルドケープリに関しての話し合いが厩舎の事務所では夜遅くまで続けられていた。
そんな中、まだまだワイルドケープリの人気は引くことが無く、園田近くの厩舎では人が多く集まるようになっていた。
記者や報道陣、そして競馬ファン、中には競馬をまったく知らないが有名なレースを勝ったという馬がいるということで一般の方まで。
時折馬房の外に出してリフレッシュしている姿をワイルドケープリが見せては衆目を集め、人々を喜ばせていた。
―――めんどくせぇな、早く俺のぐるぐるの次走を決めろってんだ
―――あぁそうだ。 あれお前、睨みつけ作戦はあんま使えねぇから気を付けろよ
当の馬はそんなことをラストファインに愚痴を零していた。
ラストファインは一体何をワイルドケープリが言っているのか分からなかった。
それよりもワイルドケープリの身体の方が気になった。
―――バカが神妙な顔してんなよ。 調子が狂うだろ、ちび
ラストファインの目には、そう話をしているワイルドケープリの馬体が何時もよりも小さく見えた。
ワイルドケープリが戻ってきてからというもの、ラストファインに変化が見られた。
そう感じたのは勘違いではないのだろう。
稲葉はラストファインの様子をずっと窺ってきたから、ハッキリと分かったのである。
ワイルドケープリが倒れて治療を受けている間、ラストファインはワイルドケープリのことをずっと見ていた。
運動が再開されてからも、獣医の許可が出て次走がBCクラシックに決定しても、林田厩舎だけではなく園田に集まる多くの競馬関係者が騒ぎ出しても。
ラストファインはワイルドケープリの背中をじっと見つめて、その様子を観察するようになった。
それは競馬に関してもそうだった。
相も変わらずにラストファインは負けては負け、負けながらやっと勝ち星を拾い、そしてまた負ける。
それでも上等だ。 殆どの馬が拾えない勝ちを、ラストファインは必死になって手繰り寄せて拾ってくる。
負けても一つでも着順を上げようと、ひたすらにゴールを目指して脚を掻き込む。
その繰り返しの中で稲葉が生傷を負う機会はめっきり少なくなった。
負けても、顔を濡らす事はあれど、暴れることが無くなった。
せっかく稲葉が自費で用意した馬房に合わせた特注の緩衝材も、使う事が無くなった。
「ファイン……またワイルドケープリを見てるのか?」
夏競馬の終わりに惜しくも2着で終わった翌日。
園田の運営サイトからは着実に高順位を確保し、ポイントの到達したA1クラスへの昇格組にラストファインの名が載せられている。
自分の馬房の中からワイルドケープリの背中を見つめるラストファインは、稲葉の声に顔を向けた。
ふすふすと鼻から息を吐き、しばらく稲葉の手に頭を付けた後に、またクールダウンを行っている乗り運動最中のワイルドケープリの背中を追う。
夏を越えた9月。
園田に近づいてきた台風の影響に、調教を行うかどうかの判断が曖昧だった。
馬場が使えるかどうかは分からないが、調教が出来る可能性は十分にあり、予定の入っている行動のまま行われることが夜半ばに決定された。
稲葉は雨合羽を羽織って、ラストファインの馬房で準備を始める。
調教をサボる事をしないラストファインは、どれだけ天候が悪かろうと素直に馬具の装着を済ませる。
むしろ自分からせびるくらいの勢いだが、近頃はとにかく大人しかった。
3歳の秋になって、精神が成長したのだろうか。
それとも隣の馬房にいた、ワイルドケープリがいよいよBCクラシックに挑戦するとなって、アメリカへと輸送の為に移動したからだろうか。
ラストファインが装具を済ませて稲葉に連れられて外に出ると、台風の威勢と風雨はいっそう激しくなり、厩舎の建物を揺らして掲げられた看板が風に煽られて音を立てる。
踏みしめた脚からは水が跳ね上がり、ラストファインの馬体に角度の付いた雨粒が叩きつけられた。
転がっていく誰かが捨てたポリ袋のゴミが道路を横切っていって、建物に貼られた何かのポスターが剥がれ千切れて飛んでいく。
ラストファインは稲葉と共に何時も走っている調教場へと脚を運ぶ。
一歩踏みしめて、まっすぐに。
一歩踏みしめて、嵐の中を淡々と歩む。
ワイルドケープリが天皇賞(春)から戻ってきて、目の前で倒れ込んだ時のこと。
ラストファインには衝撃となって記憶に刻まれた。
追っていた背中がそのまま消えて行くのではないかと思うほど、小さく収縮を繰り返し、息を吐くたびに身体を震わせていた。
あの、ワイルドケープリが無様を晒すなど。
ラストファインは大雨の中をゆっくりと歩く。
かつて稲葉がそうしてくれたように。 筋肉とバランスに意識を割きながら。
「こりゃ駄目じゃねぇか? すげぇ風と雨だ」
「いやぁ、でも中止の連絡は貰ってないから。 あ、こっちは連絡来たみたいだ」
「お、こっちもだ。 良かったなぁ、厩舎に帰るぞ」
「林田さんとこはまだやるのか?」
園田競馬を走る全ての馬達が拒絶や難色を示す天候の中、殆どの厩舎で中止の判断が下される。
陽も登っていない分厚い雲の下で。
暗い闇の中。
ラストファインは泥だらけの砂の中を走る。
風を切って泥をかぶり。
たった一頭と一人。 ラストファインと稲葉は馬場の真ん中で風雨の中を駆けた。
ハミを通して意思が宿る。
ガッチリと噛んでラストファインは身体を躍動させた。
今よりも、今よりももっと。
強くなるために。
速くなるために。
いつかどこかで、ワイルドケープリが夜、掛けてくれた声を思い出す。
まだ頑張れよ。
まだ踏み堪えろ。
背中を追っているんだ。
幻なんかを追うなんて絶対にしたくはない。
何時までも足踏みしていたら、もう届かなくなる。
脚を踏み出せ。
脚を踏み出すんだ。
言っただろう。
ワイルドケープリを追い越すんだ。
ワイルドケープリに競馬で勝つんだ。
光のある場所を知っている。
まだ。 まだ。
進め、進め。 誰よりも真っ先に駆け抜けて。
台風の目すらも切り裂いて、その先にある光を俺は手に入れるんだ。
時間がないんだぞ。
時間が足りなくなる前に。
孤独も悲しみも、暗い夜も、もう十分だ。
追いついて、追い越してやるんだ!
2000mに及ぶ泥濘を駆け抜けてラストファインは稲葉の手綱に引かれて脚を止めた。
稲葉の携帯に調教の中止の連絡が、今頃になって入ってくる。
「ファイン、帰ろう。 終わりだ」
突風が泥をはね上げて。
馬も人も居ない園田競馬場を風が揺らす。
その黒と灰色の景色に満たされた世界をラストファインは見渡した。
何も無い景色を目に焼き付けて、風と雨の中をじっと立って。
もう敗北に首を下げる事は止める。
羨望に顔をそむける事も。
踏み出す脚に恐れを抱くな。
見ていろ。
どんなに遠くても、必ずこの脚で掴んで見せる。
「異常なラップで引っ張っているのはクリムゾンカラーズだ! クリムゾンカラーズが先頭、殆ど変わらず追走するヒートコマンダーと競り合ったまま直線に入っていく!
その後ろから来たぞ! 来たぞ! 来たぞワイルドケープリ! ワイルドケープリ届くか! 後一馬身!
ヒートコマンダー差し返す、これがアメリカ三冠馬! クリムゾンカラーズ先頭だがヒートコマンダーも負けていない!
ワイルドケープリ伸びてきた! 一完歩! 一完歩伸ばして並ぶ! 三頭並んだBCクラシック、日米の意地が激しくぶつかり合う、叩き合いだ!
頑張れワイルドケープリ! クリムゾンカラーズか!? アタマが出たか!? ワイルドケープリ食らいつく!
三頭並んだままだ! これはどっちだ!? 三頭ままだ! 並んだままゴール板を通過したぁ!
最強古馬のクリムゾンカラーズか! アメリカ三冠馬ヒートコマンダーか! それとも、日本の園田から産まれた世界のワイルドケープリか!!」
「中央から転厩してから初めての園田競馬、フィールドラインが捲って上がってきた! 上がってきたが4角回って先頭入れ替わったか!
ラストファインだ! コーナー抜け出して内ラチギリギリを素晴らしいイン突き! ベテランの鞍上今村、乗り代わりもなんのその、作戦がバッチリ決まったのか!
一気に差を広げて直線先頭に立ったのはラストファイン! 二馬身、三馬身と差を広げる! 後続は間に合うか!
少しよれたか!ラストファイン! 最後方から凄まじい脚で中央馬のフィールドラインが突っ込んでくる。
ラストファイン粘るか! 粘れるか! 二番手ランディングスルー必死に追いすがる! フィールドラインの末脚が鋭く迫ってあと一馬身前を追う! 残り100を切った!
ランディングスルーも外から伸びる。 フィールドライン突っ込むがっ! 外二頭が必死に追っているがラストファインには届かなぁぁい!
ラストファインだ! ラストファインだ! 粘り切ったぞ、血統の証明~~~! ラストファイン一着!
園田競馬に復活した、3歳重賞コウノトリ賞を見事に制したのは血の復古を告げにきたラストファインです! 地方重賞を初制覇です!」
見事にBCクラシックを勝ち切って、林田厩舎に戻ってきたワイルドケープリは心身を枯らしていた。
全身の疲労が判るように身体を鈍く動かし、ラストファインから見れば歩様すら乱れていた。
ガレきった馬体で、気怠そうに馬房の中で過ごしている。
そんなワイルドケープリは連日多くの人間に囲まれて、称えられている。
酷くやつれているのに、周囲の人間は明るく輝いているワイルドケープリを褒め讃え、周囲を照らしていた。
ラストファインはそんなワイルドケープリを一切視界に入れずに、まるで無視をするように見ることをしなかった。
稲葉に連れられて、園田の砂の上に立つ。
ただただ次走に備えて、自らの身体を作っていく。
次のレースに勝つために、思考を巡らす。
競馬で勝たねばならないから。
競馬が出来る時間が限られているから。
負けない。
絶対に逃げない。
追い越さねばならない太陽に、この脚が届くまで。
―――さぁ、次の俺の勝利はどこだ。
調教の場で一頭、風塵を浴びてラストファインは馬場をひたすらに駆け抜けて行った。