U 05
年を越えてワイルドケープリは9歳。 ラストファインは4歳を迎える。
林田厩舎では新年の挨拶として、二頭と共に祝賀をスタッフ全員で迎えることにした。
厩舎のトップ、林田巌が新しく仕入れた厩舎専用の全員分の帽子を抱えて。
林田駿は、妻の林田美代子を伴ってバイクで自宅から厩舎の前に。
厩舎の二階で済みこんでいる稲葉と山田は事務所でそんな二人を出迎え。
ワイルドケープリの稼いでくれた進上金とボーナスで、念願の一軒家を買ったばかりの橋本が、二人の子供を伴って。
事務所の前で集まった10名に満たない林田厩舎の面々が、前年の躍進と今年の無事を祈って一所に集う。
「じゃ、親父。 頼むぜ」
「おう、新年あけましておめでとうございます。 今年もよろしく頼む!」
「おめでとうございます!」
「よろしく!」
「よろしくお願いいたします!」
高々と掲げられた清酒の入ったグラスを、林田駿以外の全員で天高く掲げる。
駿は違反になってしまうので、酒は遠慮して代わりにBCクラシックのトロフィーを事務所から取ってきて掲げていた。
人間たちは何をやっているんだ。
普段とは違う様相に馬房の外に出されたラストファインは、そわそわと落ち着かなかった。
ワイルドケープリは何時も通り、新年でも変わらない空をぼんやり見上げている。
―――まぁそんな気にすんな、ちび。 ニンゲンは時折、合理的じゃないことで仲間内の結束を深めるもんだ
何時もよりもリンゴが多く豪華になった飼い葉に口を付けながら、ワイルドケープリは教えてくれた。
それまで人参などのおやつを貰ったことはあるが、果物はワイルドケープリのついでにリンゴを食べた事があるくらいだった。
見たことも無い色とりどりのフルーツの入った飼い葉桶に、ややあって口を付ける。
う、うますぎる。
ラストファインの口内に幸福が広がった。
―――大袈裟だな……お前
隣で呆れたように呟くワイルドケープリの声などまったく聞こえず、ラストファインは何時もよりも早く飼い葉を食べ終えて物足りない顔を向けていた。
第五話 辿り着く
ラストファインの主戦騎手が定まらない。
稲葉はその事に少し不安を抱いていた。 事務所の中で園田に所属するジョッキー一覧を眺めながらぼやく。
最初に乗ってくれた綾乃ジョッキーは園田から川崎に転籍して、園田を中心に走るラストファインに乗る事は難しい。
五良野ジョッキーは園田以外の競馬でも名が売れ始め、南関東を始めとした地方重賞に引っ張りだこだ。
ラストファインの所有者である組合馬主は、東山ジョッキーを始めとした経験の薄い騎手を起用することに難色を示している。
そして、コウノトリ賞を勝ってくれた今村騎手は、昨年度一杯で現役生活を終えた。
年末のA1競争、関西うどん飯屋盃をオユワリハンマー、ヒカリマサムネと競って2着で終えたラストファインは、今村騎手から評価されている。
「いいね、ラストファイン」
「え?」
「林田さんとこはワイルドケープリが居てみんなそっちを賢い賢いって言うけどね、この子も凄いアタマが良い。 競馬に関しちゃ、ファインの方が賢いかも」
「そうなんですか、ありがとうございます」
「謙遜や世辞じゃないぜ、覚えておくと良いさ」
騎手の事に関してだけは、稲葉はワイルドケープリが羨ましかった。
厩舎の専属騎手の駿がついて、山田厩務員と共に馬と人が一丸となっているから。
事務所の蛍光灯がチカチカと明滅する。
椅子に腰かけて天井を見上げ、その明滅する光を稲葉をしばしぼんやりと眺めた。
遠巻きにその姿を見ていた橋本が、事務所の外で何処かに電話をかけていた。
『直線向いた根岸ステークス。 先頭はクジェイル。 ピンクの帽子ブリードリーンが不気味に前へ迫ってくるぞ。
その後ろに二頭並んでピライアロンド。 ネイヨングッド。 大外からホワイトシロイコが良い末脚で気持ちよく伸びているぞ。 人気しているクロスリカードは後方でまごついている! クロスリカードは沈んでいる!
クジェイル突き抜けた、突き抜けた。 ブリードリーンを突き放して二馬身広げる!
だが外からホワイトシロイコが迫る! ホワイトシロイコが迫ってくる! ホワイトシロイコ届くか、念願の中央重賞制覇なるか!
クジェイルとホワイトシロイコ! クジェイル! ホワイトシロイコ! クジェイルか! ホワイトシロイコか! 殆ど同時に駆け抜けたがホワイトシロイコが僅かに前だー!』
「岸間さん、ちょっと良いかな?」
メインレースを観戦してリラックスしていたところに、ラストファインを所有する馬主協会、久慈会長から声を掛けられた。
岸間は頷いて席を立ち、用意された個室へと移動して椅子に座る。
「ラストファインのことだけどさ、交流重賞に出してみないか」
「ああ、ラストファイン。 去年、なんでしたっけ」
「コウノトリ賞だよ。 地方重賞勝っただろう」
「そうそれだ。 よく覚えてますね」
「昔は園田のコウノトリ賞で良く馬券を掴んだものだからね、まぁその話はともかく」
江藤オーナーは、もう既にラストファインが出した結果に満足仕切であった。
ついこの間の定例会で、そろそろ引退を視野に入れたいとの話を向けられたのである。
しかし、久慈の考えは少し違った。
血の保護を目的に購入はしたが、今や協会所有の馬で最も勢いがあるのがラストファインである。
あのダートGⅠ最高峰の舞台といって良いBCクラシックを見事に勝ち取ったワイルドケープリが所属して、園田だけではなく日本競馬の中心の一頭となった馬が居る事で林田厩舎の注目度はべらぼうに高い。
ラストファインが地方重賞を勝ち取ったことも、ネット上では話題に上り、久慈の目に触れる事も多々あった。
世間からの注目が非常に高いのだ。
なにより、シンボリルドルフ・トウカイテイオーの往年の名馬を応援していた層が、ラストファインに情熱を傾け始めている。
その中に久慈も含まれているのは、その心情からいって否定できない。
岸間はその話に同意するように頷いた。
「引退させるのは確かに収まりが悪いかもですね」
「それでだ、協会で顔の利く岸間さんに声掛けしてもらいたいんだよな」
「うーん、ラストファインに関しては殆ど江藤さんに任せきりだったんで、少し申し訳ない気もします」
とはいえ、久慈会長の感情も分かる、と頭を悩ませた。
あの皇帝・シンボリルドルフをリアルタイムで観戦した事がある、久慈会長自身がラストファインに期待を寄せ始めている。
馬主歴も実際に生きた年齢も一回りは違う久慈会長は、岸間にとって大先輩であった。
岸間の本音はどちらかと言うと、意見は江藤オーナーよりだ。
購入した目的をブレさせるのもどうなのか。
しかし、組合馬主としてメリットを考えるとラストファインが勝てば勝つだけ、名誉と展望が開けるのは確かだ。
事実、去年の暮から組合馬主となった所属馬主が4名も増えている。
人の数が馬を買う原動力であるこの形態、どれだけ所属する協会員が居ても満ちるという事はない。
「交流重賞ってなると、直近は……えーっと」
ネットパッドを開き、岸間は纏めてある重賞一覧の項目に視線を這わせた。
ダートGⅢ。 マーチステークス。
今村ジョッキーが引退したから、その辺も話し合いたいと横から口を出される。
久慈会長が岸間の座る椅子の横に立って、画面を覗きながら。
もしもラストファインが中央重賞に勝ったら、とんでもないことになるな、と岸間は汗を掻いた。
「実は、伝手を頼って少しラストファインについて進めている話があるんだ」
「これ以上まだあるんですか? 僕より全然顔が広いじゃないですか、会長」
「はははは、いやたまたま、ね。 ラストファインは私たちが思っている以上に、世間で話題になっているってことだ」
「それで、進めてる話と言うのは?」
「転厩の話があるんだ。 ラストファインの今後や林田さんとことの兼ね合い、他にも色々とあるが、話が出たら前向きに考えてくれるって返事をもらった」
岸間は驚いた。
園田に限らず地方で転厩の話が出るのは珍しい事ではない。
中央からも頻繁に移籍して競争生活を続ける馬の話は、どこに居たって聞く話だ。
しかし、今、林田厩舎ほどの勢いがあるところなんて一体どこに―――と思った所で岸間は気づく。
「まさか、中央への転厩ですか?」
「そう、ほら、デイビショップのところの満司調教師がね。 知ってるだろ?」
「うっそでしょ」
今日だけで何度驚かしてくれれば気が済むのだろうか、と岸間は口を開けたまま久慈を見つめた。
開きっぱなしだったネットパッドの画面から、通知音と共にメールが届く。 岸間が顔を向けて確認すれば江藤オーナーからであった。
何と言うタイミングだ、と思いながらメールの内容を見ると、次走と騎手の変更についての相談だった。
「おお、凄いじゃないか」
久慈の声が響く。
メールにはJRA所属の牧野晴春ジョッキーの名が、記載されていた。
丁度良い、と岸間は江藤に、そのまま返信のメールを送る。
次走をマーチステークスにする提案と、転厩の話だ。
久慈は笑って頷いていた。
これが、ラストファイン所有の組合馬主を紛糾させ、運用について協会が真っ二つに割れる原因となると知らず。
メールが転送された。
ラストファインの次走は、中央重賞、中山で開催されるマーチステークスとなった。
ワイルドケープリの高松宮記念への挑戦は、中京競馬場で開催される。
日程が重なっている為、林田駿と山田は中京へ。 林田巌と稲葉が中山へと向かう。
まだ予定の段階でしかないが、ラストファインの予定も協会の方で地方・中央の重賞レースを中心に決められていた。
事務所でデータの打ち込みをしている橋本に、予定票の整理を行っていた巌のもとに電話が鳴り響く。
「テキ、既走馬の転厩について相談したいと電話が」
「またか、多いな」
「えーっと、どうしますか?」
「どうするもこうするも無い。 ウチはラストファインで最後なんだ。 断っておいてくれ」
手を止めて、巌は息を吐いた。
ワイルドケープリの活躍と比する様に、またラストファインの躍進からこういった電話は頻繁に来るようになった。
特に多いのは今回の様に中央馬が園田に転厩する際、林田厩舎を希望する声が多くなったのである。
ワイルドケープリは最早GⅠ5勝馬。
日本念願のBCクラシックのトロフィーも持ち帰ってくるという偉業も果たし、9歳の今年も走るとあって名が売れ過ぎたのだろう。
今はもう懐かしい、柊 慎吾オーナーと会合した時に決めた、ワイルドケープリが行けるところまで行く、という約束。
まだまだ走る気が萎えないが、引き際は考える時期に差し掛かっただろう。
林田巌は、ワイルドケープリが名馬になることを確信していたが、過分にすぎる活躍に目を眩ませてしまうくらい突き抜けた馬だった。
だからこそ、引退の時期を見誤るわけにはいかない。
逆にラストファインを中央へと転厩させる話も伺ったが、この件に関しても巌はすぐには頷けない。
ワイルドケープリとラストファインは互いに互いを意識している。
経験上、離して良い影響があるとはどうしても思えなかったからだ。
「テキ、江藤オーナーからです」
「あ? ああ、こっちに内線を回してくれ」
帽子をかぶり直して巌が電話を受け取ると、ラストファインのマーチステークスの出走を取り消すと穏やかではない声色で江藤オーナーから告げられた。
用件だけを叩きつけて電話を切るような、少し尋常ではない様子が伺える。
巌は呆気に取られながら、しかしと首をホワイトボードへと向ける。
出走を取り消すことは出来るが、既に追切を終えてラストファインは次走に向けて絞り切ったばかりだ。
今回は馬主の意向に従って、中央重賞に焦点を合わせてきたから余分なレースを使わずにメイチで仕上げている。
稲葉厩務員から状態の好調さは聴いているし、実際に巌の目にも勝負できるくらいの状態に持ってこれていると確信している。
せめて代わりの番組くらいは用意しなければ。
出走登録を出来そうな目ぼしいレースを探そうと、資料を引っ張り出したところで改めて事務所の電話が鳴って、今度は巌自身が受け取ると、相手は久慈オーナーであった。
「え、マーチステークスには出走させる? えっと、どういうことでしょうか。 たった今、江藤オーナーから取り消しの電話を頂きましたが」
その後、岸間や他の組合馬主の者たちからも連絡が来て、混迷することになった。
埒が明かないと、巌は一度しっかり話し合いをしてラストファインの事について会合しようと提案。
マーチステークスまで日が無い為に、出走するにしろ取りやめるにしろ、馬運車で中山競馬場近くの外厩までラストファインを送り、出走の是非を決める席に向かう事になる。
出席した巌が纏めたところ、代表所有者となっている江藤オーナーは最初に取り決めた事を反故にするやり方は後に尾を引くことも危惧して、決められた通りに種牡馬に転用すべきと主張していた。
対して久慈オーナー側についている意見では、いずれ等と言う前に、既にヘロド系の代表として大成しつつあるラストファインは重賞を狙ってレースに出走すべきと反論していた。
江藤オーナー側と久慈オーナー側とでは意見が真っ向からぶつかってしまっていた。
組合馬主という、一つの団体の中で真っ二つに意見が割れていた。
ワイルドケープリを除いて、今まで見て来た馬の中でも、かなり成績の良いラストファインに対して、巌はまだまだ勝ち負けできるとは思っている。
しかし地方重賞ならばともかく、中央重賞に勝てるかと言われれば安易に断言はできなかった。
成長は著しい。
ワイルドケープリの背を追っていた頃に比べれば、競馬そのものを覚えて身体も心も、最盛期を迎えていると言っても良いだろう。
席を外して、トイレの中で巌は難しい顔をしながら考え込んだ。
ラストファインの今後に直結する会合だ。 基本的に馬主の意向に沿うのがやり方だった。
だが、ラストファインの将来を真に憂うのであれば、走らせてあげるべきだ。
やる気になったワイルドケープリ以上の気概を、ラストファインからは感じるからだ。
馬の気を、人間が削ぐのは避けるべきだ。
馬そのものが死んでしまいかねない。
「……あまり大口をたたくのは、性では無いんだが……腹を括るか」
非常に言葉を選んで、オーナー達を刺激するのを最大限控えながら、巌はハッキリとラストファインは中央重賞でも勝負になるだろうと口にした。
「先輩、もう来てたんですね。 俺の方から迎えに行こうと思っていたのに」
「よう牧野。 まぁ今回はこっちから声を掛けたからな」
先輩ジョッキーである林田駿に、食事に誘われていた。
個人的な親交も目的の一つだが、それ以上にラストファインに跨る事になった経緯故に、この一席を設けられたのだろうと分かっている。
かつて思いっきり拒否をされた馬に余り良い思い出はないのだが、ジョッキーとして先輩であり恩師でもある駿のお願いに牧野は首を縦に振ってしまった。
挨拶もそこそこに、予約をしていた寿司屋の中に入っていく。
ほどほどに酒も進んで、牧野は大きく息を吐き出しながら畳の上に横になった。
「おいおい、呑み過ぎたんじゃないか。 今週もレースだろ、減量辛いぞ」
「良いんすよ、減量は。 そんなの関係なく呑みたくもなります。 先輩は~、去年は一杯GⅠ取ったじゃないですかぁ。 俺は一個も取れないのに!」
「散々、重賞は獲ってるじゃないか。 そもそもお前、GⅠジョッキーだろ」
「何時の話してるんすか! あーっもう、何でGⅠだけは全っ然、取れねぇのかなぁぁ~~~」
牧野晴春はGⅠジョッキーだ。 14年前に安田記念を僅か20歳の時に征して、一躍若手筆頭としてJRAが持ち上げる位に劇的に勝利を収めた。
素質馬が集まって、牧野晴春というジョッキーは天才だ、などと持て囃されて、すぐに次のGⅠも手中に収めると当時は自他共にそう認識していた。
ところが、現実は甘く無かった。
GⅡ・GⅢといった重賞は勝てるものの、本番のGⅠになると勝てなかった。
最初の数年は、あの時の安田記念が出来過ぎただけだった、と余裕もあったが、10年を越えれば焦りもでる。
牧野じゃ無理、下手をする、二流、などという心無い言葉もネットで牧野自身が見てしまっている。
騎手としての成績は決して悪くはない。 むしろリーディングでは30位以内に毎年顔を出しているから、上から数えた方が早いと言える。
だが、GⅠが勝てない。 乗鞍を貰えるチャンスも、10年以上続ける中で素質馬も頂いているのに、GⅠに勝てない。
世間じゃGⅠの牧野は買うなと囁かれている事も知っている。
暫し自身の成績をぼやいていたが、徐に身体を起こし、マグロを食べる林田駿と向かい合う。
「まぁ、俺がGⅠジョッキーになれたのは、全部ワイルドケープリのおかげだから、俺が誇れるものじゃないさ」
「凄い馬っすよね。 なんか運命の名馬! みたいな感じで。 先輩が競馬japanで話してたの、この前見ましたよ」
「ん、ああ、あれか。 いや、何時もは見ている側だったから、何と言うか……何とも言えない気分だったな」
「わかるー! 俺も何度か出てますからね。 自分ってこんな態度や仕草してるんか、とか緊張しすぎだろって画面越しに見えて、あれ滅茶苦茶恥ずかしいんすよね」
「本当にな。 もう二度と自分が出演してる所は見たくないな」
「先輩もガッチガチでしたしね。 笑えましたよ」
「くそが、もう二度と出ねぇ」
日本酒を仰いで、駿は息を吐いた。
「……牧野、ファインの話を受けてくれて助かったよ。 うちの最後の一頭だ。 頼むぜ」
「ファイン……なんか、揉めてるって噂聞きましたけど……」
「ああ、オーナー方のほうでバタバタしてたぜ。 でもマーチステークスの出走は、ちゃんと決まったみてぇだ」
「ええ、まあ。 受けたからにはちゃんと乗りますよ……」
同じく酒を呑みほした牧野は、だらしなくテーブルに体重を預けて空になったビンをぼんやりと見つめた。
追切、そしてその前にラストファインの調教に実際に乗ってみた牧野の所感は、それほどの手応えを感じなかった。
いや、ハッキリと言ってしまえばラストファインに期待できる所はまるで無かった。
乗り味という意味では馬体が小さいこと、走法が他の馬と比べてかなり身体を沈ませて走ることから騎乗にはコツが必要だと思った。
実際に走らせると折り合い面でも難しいところがあると、牧野は思う。
なにより馬の我が強い。 乗り手の指示に逆らうというよりも自分の意思を優先する癖が見受けられる。
主流の血統からは外れているせいか、ジリ脚気味の気質。 瞬発力には期待できないので自然と前目の競馬を目指すことになるし、好位置に入れなければ厳しい展開になるだろう。
これまでのレースの映像を渡してもらい、全て牧野は振り返って拝見させてもらったが、脚質を無視して中団に控えることも多い。
作戦というより、どちらかというと騎手が折り合いを欠かないよう、ラストファインの気質に合わせて戦法を選択しているように思えた。
中央の重賞で勝負になるかというと、展開が向けば、という前提でなんとか上位に食い込めるかもしれない、と言った感覚だ。
あくまで牧野自身がこれまで積み上げてきた経験と実見であり、どうなるかは分からないが。
「ああ、馬を信じてやってくれ」
「……何か先輩、競馬japanでもそうだったけどアメリカから戻ってきてから、調教師の先生みたいなこと言い出しますよね」
「そ、そうか? そんなに老けてるつもりはないぞ……」
「いや、なんかこう、雰囲気っていうかさ。 まぁいいや、乾杯しましょ乾杯! すみませーん! 日本酒一つ追加で!」
「何に乾杯するんだよ」
「そりゃ、先輩の高松宮記念と、俺のマーチステークスの先祝いっすよ。 勝ちましょう!」
「ははは、良いな。 乾杯しよう」
言われて駿は苦笑しながら、カップを持ち上げる。
牧野は勢いよくそれに合わせて勝利を願って祝い酒を飲み干した。
パドック、本馬場入場、返し馬と。 地方では見られないほどの大観衆の中でラストファインは落ち着きを見せていた。
牧野はどっしりと構えているラストファインに感心しつつ、待避場からゲートへと向かう。
本来、馬は臆病な生き物で、環境が少しでも変わると飼い葉の食いも悪くなったり、物見が激しくなって新しい馬場で走る時に本調子を発揮できないことがある。
しかし、この馬はただただ走る事に集中できていた。
すんなりとゲートにも入り、じっと開くのを待つ。
手綱を緩め、持ち手を掴んだり、開いたりしながら牧野はふっと息を吐いて自身の集中を高めた。
ゲートが開く。
出来るだけ前に行きたい牧野は、スタートからラストファインを追い出し始めると、調教では見せた事の無い機敏な反応で前へと脚を進めた。
ぞわり、と牧野の背筋が震えた。
調教付けではまったく感じた事の無い、異常とも思えるほどの操縦性。
この馬は。
内へと寄る指示を送って周囲を見渡す。
コーナーに入る際には、牧野も驚くほどの角度でギリギリを切り込んで最短を目指していく。
この馬は。
この馬は、そう多くない数回の騎乗で間違っていると牧野が教えた事を、この短期間で全て吸収している。
乗り変わってきた騎手の多さが、順応性を高めてきたのか。
20戦もの競馬を集中して学んで来た経験が、その小さな馬体に詰め込まれているとでも言うのか。
重賞のレース中であることすら忘れて、調教と追切だけに乗った牧野は、その乗り味の劇的な変化に驚きを隠せなかった。
気を取られる中、ラストファインの前三頭が激しく先頭を争う中で、内外に挟まれた馬の行き脚が鈍った。
いち早く気付いたのは牧野ではなく、ラストファインだった。
内に刺さりながら垂れてくる馬を、外に身体を向けて颯爽と交わしていく。
しかも、ラストファインの後ろから捲ろうとペースを上げた後方の馬の進路をふさぎながら。
ラストファインのすぐ真後ろの馬がつんのめって減速する。 その後ろも巻き込まれるように隊列が乱れていた。
違反には絶対にならない、絶妙なタイミングと抜け出し。
前目に集中したいと思っている牧野の意思を完全に汲み取ったような、そんな展開。
騎手の意思を汲みとる速さ、レース全体のコントロール、展開すらも自分で作り上げようとしているのか。
この馬は……この馬は。
この馬はとんでもないぞ。
牧野は鞭を左手から右手に持ち換えて4角に差し掛かる。
理想的な展開で直線を迎えて、鞭を走らせる。
前へと真っすぐに向かう意思は、ぐっと深く深く沈み込んだラストファインの馬体に現れて、むしろ牧野の方が追いつかずにバランスを崩してしまう。
直線、逃げ馬の前3頭をしっかりと捉えるも、後方から差し込んできた馬群の一団に飲み込まれて、ラストファインは5着でマーチステークスを終えた。
ラストファインから下馬した牧野の手は、疲労とは違う、若干の震えを見せていた。
馬主席で江藤オーナーは鼻を鳴らして若干に不服な面持ちで肩を竦めていた。
勝負になると言うから頷いたものの、直線で見せ場なく飲み込まれてしまったからだ。
久慈会長を始めとして、数人の者たちが惜しかったと声を掛け合っている。
だが、これで面目も立ったはずだ。 中央交流重賞にて掲示板に載った。 ああ、素晴らしい。
その成績は手放しで称賛する。 それに江藤は否応もない。
だが、これ以上は望むべくもないだろう。
『今日は下手な競馬を馬ではなく私の方がしてしまいました。 乗り替わったばかりというの有って、ラストファインという馬の事をまだ、分かっていなかった。
ですが、次につながる手応えは確実につかめたと思います。 次走はもっとやれますし、勝ち目があるかなと思います。 またこの馬に乗りたいですね』
中継からラストファインに騎乗した牧野騎手のリップサービスだろうインタビューが流れる。
江藤は冷めた心でそれを眺めていると、岸間から声を掛けられた。
「江藤さん、ラストファインは残念でしたね」
「ええ、まぁ。 私は無事に完走してくれれば、後はもう良いんですけどね」
「まぁ、それはそうです。 私もどちらかというと江藤オーナーの考えに近いので」
岸間は江藤の掲げる血統の保護、という面よりも、組合馬主の取り決めを翻す面において危惧している。
今後のラストファインの動向は、春競馬の間は中央交流重賞を予定している。
夏、そして秋からはまた話し合いということになっているが、いずれにせよ年内一杯で引退する、という取り決めを協会で話し合っており、これはもう決定事項とされていた。
その間に結果が出れば、それはそれで良い。
もっとも、怪我をしなければ、という前提ではある。
本年度一杯でラストファインは引退する。 余程の事が無い限りは、間違いなくそうなる。
「そう甘い世界じゃない。 それは皆さん、分かっていらっしゃると思うんですけどね」
江藤は居住まいを正してネクタイを締め直すと、馬主席から立ち上がって暇した。
2ヶ月後、平安ステークスに鞍上を牧野で迎えたラストファインは、直線入る前に鋭く抜け出して先頭でゴールを駆け抜けた。
人気をしていたネイヨングッド・クロスリカード・クジェイルなどの差し脚を見事に抑えて、1馬身差をつけての勝利であった。
会心の競馬である。
鞍上の牧野はラストファインの主戦を望み、挑んだ重賞で見事な競馬をしてくれた。
中央重賞の勝利。
馬主組合に参加している者は全員、協会を挙げてその日は翌日の朝まで勝利を祝って騒いだ。
なんせこの組合馬主の面々は、自分の持ち馬でさえ中央重賞を征した馬は居ない。
オープン馬まで駆けあがった馬を持つのが一人だけという実態だ。
都内の屋形船を一艘、まるまると借りて騒ぎに騒いで組合所有馬であるラストファインを称賛した。
率先して江藤が手配したことから、どれだけ嬉しかったのかが垣間見える。
牧野はオーナー達に囲まれてしこたま酒を呑まされ、今後も主戦騎手として宜しく頼むと頭や背中を散々に叩かれてしまった。
江藤オーナーは平安ステークスをラストファインが獲った直後から、組合馬主の中での硬化させていた態度を柔らかくしていた。
とはいえ、我が儘を聞いて貰っている形になった久慈オーナーを始めとした重賞出走を主張した馬主たちは、約束通り、年内一杯での引退をしようと話がまとまり。
武蔵野Sを走り、6着で終えた時にラストファインの引退手続きが進められていた。
その話を聞いた主戦騎手である牧野はGⅠも、もしかしたら、と思うくらいには期待を抱いていたのもあって、林田駿に引退を惜しむ事を電話口で告げた。
その話は管理している林田調教師の耳に入り、江藤の耳にフェブラリーステークスに出走をしてはどうか、という話が回ってきたのである。
中央重賞。 それもGⅠ。
馬主組合の誰もが、GⅠ馬など持っていないし、GⅠ出走条件を満たした馬も持ったことが無い。
ラストファインは組合馬主で共有している馬とはいえ、条件を満たしてGⅠに出走できる。
江藤は舞い上がった。
一も二もなく、江藤はこの話を定例会に持っていき、全員の承認を持ってラストファインの引退は引き延ばされることになった。
ワイルドケープリも同様だ。
オーナーの柊 慎吾にとって、ワイルドケープリとは運命の馬だった。
念願だった芝GⅠも天皇賞(秋)、そして宝塚記念と獲ってくれて、数年前までは考える事すら烏滸がましかった国際GⅠを3勝もしてくれたワイルドケープリ。
天皇賞(春)では球関節炎で倒れ込み、BCクラシックの後には今までに見せたことが無いほど馬体がガレ、体調を崩した。
主戦の林田騎手からは、走法そのものが変わっていることを聞かされた。
調教師の林田巌からは、引退の時期に差し掛かって来ただろう、と話されていた。
馬主の柊慎吾は、有馬記念の結果をもって引退を考えていた所であったのだ。
ところが、ラストファインがフェブラリーステークスを走る事が決まった翌日に巌調教師からワイルドケープリも出してみないかと打診された。
理由はラストファインと一緒に走らせてあげたいという、いまいちピンと来ないものだったが、柊オーナーは頷いた。
持ち馬では無いが、ラストファインとは少なからずワイルドケープリを運用していく中で付き合いのあった身だった。
実際にワイルドケープリの為に金銭面でも負担を請け負ったことのある馬だ。
縁が無ければ難色を示しただろうが、他ならぬワイルドケープリを管理してくれた林田厩舎の最後の我が儘だ。
柊慎吾は快く、フェブラリーステークスへの出走に同意した。
こうして林田厩舎の最後の二頭。 ワイルドケープリとラストファイン。
フェブラリーステークス参戦が決まったのである。
―――………
馬房の中で脚を掻く。
まだか。
まだなのか。
ラストファインは脚を掻く。
平安ステークスという重賞レースを勝ち、ラストファインは今までに無いほどの喝さいと称賛を浴びた。
人が多くいて、馬主という者たちもたくさん増えた。
林田厩舎の人も、その周りにいる人たちも、ワイルドケープリだけではなくラストファインを称えてくれた。
あれでは足りなかった。
平安ステークス以外の競馬は、勝てなかった。
3回も走ったのに、勝てなかった。
競馬が下手だった。
足りないのか。
まだなのか。
時間が無いのに。
稲葉が落ち着かない様子のラストファインの下に駆け寄ってくる。
馬房の中にまで入って、顔を撫でる。
「ファイン、凄いぞ。 GⅠに出れるんだ。 フェブラリーステークスだぞ! さっきテキが組合の方と話をしてて―――」
白い歯を見せてそう言った稲葉の言葉が、ラストファインには分からなかった。
何か嬉しい事があったのだろうと、雰囲気では分かるが。
―――へぇ……
反応したのは隣の馬房―――有馬記念を走って戻ってきたばかりのワイルドケープリだった。
感心したような、納得がいったような、そんな同意を表わす声を一言だけ漏らした。
フェブラリーステークス・東京競馬場・ダ1600。
ワイルドケープリと、ラストファインはそこで走る。
同じ競馬を。
分かったのはそれだけだった。
だが、それだけ判れば十分だった。
ラストファインは全身の血が一瞬で沸騰したかのように身体が熱くなった。
届いたんだ!
間に合ったんだ!
皮膚が泡立ち、足元が勝手に震えて止められなかった。
やっと、やっとここまでこれた。
光を掴む事が出来る場所まで、やっと。
ワイルドケープリから告げられたのは、その背中に届いた事を意味する言葉だった。
顔が熱くなって濡れて行く。
―――何を泣いてんだ、ちび
泣いてなどいない。
なんで何時も泣いてなんかいないのに、そんな事を言うんだろうか。
きっと揶揄っているのだ。
ラストファインは怒りを込めて耳を伏せ、ワイルドケープリへと顔を向ける。
首を曲げて、ワイルドケープリは鬣を揺らしていた。
馬房から出している首を振って。
ようやく届いたその背中に、ラストファインは追いついたのだと、やっと追い越せるのだと言ってやった。
―――おいおい、まさか、もう俺にぐるぐるで勝った気でいるのかよ
傷痕の残る顔をワイルドケープリは真っすぐに前だけを見つめてそう言った。
ラストファインを一瞥すらしていなかった。
がつり、と地面をたたく音を響かせる。 ラストファインは前脚を掻いた。
心底嫌いだったのに、ワイルドケープリは寄り添ってくれた。
競馬を勝つために必要な事を教えてくれた。
そしてきっと、導いてきてくれた。
今はもう疑いようもない。 だからこそだ。
だからこそ感謝はしない。
ラストファインは脚を見つめる。
馬房から差し込む陽に照らされた、自分の脚を。
もし感謝をするとするならば、この自らの脚で贈るだけである。
ワイルドケープリに競馬で勝つのだ。
負けない。
絶対に逃げない。
誰よりも、この大きな背中を追ってきたのはラストファインだ。
必ず勝つ。
必ず、勝って『光』を手に入れる。
ガン、と。
地面をたたく音が耳朶に響く。
ラストファインの顔がワイルドケープリに向く。
ワイルドケープリが前脚を掻いていた。
笑って。
あざけるような笑いではなく、心底から楽しそうに。
傷痕の残る顔を前に向けたまま。
―――ああ、楽しみだな
フェブラリーステークスが、来る。
GⅠ / フェブラリーステークス
東京競馬場 ダ1600m 晴れ/良 全12頭 16:00 発走
1枠1番 ネビュラスター 田辺 勝治 (厩舎・雉子島 健)
2枠2番 ネイヨングッド 小泉 修 (厩舎・大迫 久司)
3枠3番 クロスリカード 風間 早翔 (厩舎・新藤 一治)
4枠4番 アウターオブタウン 伊織 八 (厩舎・間藤 応)
5枠5番 クジェイル 綾乃 由香 (厩舎・光島 晃)
5枠6番 イエスオブワールド 佐藤 尋 (厩舎・鎌田 洋二)
6枠7番 ワイルドケープリ 林田 駿 (厩舎・林田 巌)
6枠8番 ラストファイン 牧野 晴春 (厩舎・林田 巌)
7枠9番 ミリオンジョーク オーメン (厩舎・波多野 修)
7枠10番 イングランスルー 藤真 敦 (厩舎・佐藤 裕司)
8枠11番 ホワイトシロイコ 五良野 芳樹 (厩舎・吉岡 真治)
8枠12番 エンディビオン 久保田 利通 (厩舎・佐野 庄司)