U 19
帝王賞から数えて7日。
会社でもよく使う事になる料亭へと足を運んだ柊慎吾は、腕時計へと視線を落とし時間を確認すると、そっと襖が開いて目的の人物と会合することとなった。
一人はワイルドケープリの面倒を引き受けてくれている調教師、林田巌だ。
もう一人はその息子であり、ワイルドケープリの鞍上である林田駿である。
両名とも時間を割くのに問題ないということで、なるべく早く会席できる時間と場所を作るのに急いだのだ。
「この度は、この様な場所にお招き頂いてありがとうございます」
「オーナー、ありがとうございます」
「いえ、こちらから持ちかけた話です。 畏まった席でもないので、是非くつろいで下さい」
今回の会合の目的は、ワイルドケープリの今後についての話し合い。 それが一つ。
そして柊慎吾がもっとも知りたいのは、ワイルドケープリに携わってきた者の心中であった。
今日は何もかも、胸襟を開いて全てを話す気概で来ていた。
とはいえ、駿ジョッキーにはこの前個人的に家へと招いた時に殆どその事は話している。
重要なのは巌調教師が見せた絶対なる確信―――いや、妄信と言っても過言では無いほどワイルドケープリに自信を見せた事。
もしかしたら、わざわざ馬主の自分が声を掛けて騎手と調教師の時間を割かせる事ではないのかもしれない。
だが、どうしても気になる。
馬主として20年以上、幸い自身が営む会社の経営も不況にあえぐ世の中ではマシな方であり、これからも続けていくことは出来るかもしれない。
これだけの期間オーナーとしてやっていけている事を鑑みれば、馬を買うことに苦労することの柵もないだろう。
だが果たして、重賞、それもGⅠ級の競馬で勝ち負けが競える馬を、今後手に入れることは出来るだろうか。
出来ないとは言わない。 それでは夢も希望もないからだ。
だが、出来るとも勿論言えない。 この15年間で嫌と言うほど現実を思い知らされているからだ。
そもそも重賞どころかオープン馬の基準を満たせた馬が、今まで購入した中に何頭いたのだ?
地方でさえ重賞に挑戦できる機会がどれほと訪れた事がある?
片手の指で足るほどだ。
そもそもダイオライト記念を制してくれたワイルドケープリが、所有馬としては初の重賞馬。
だからこそ、ワイルドケープリに時間と金を割くのは苦痛じゃない。
ああ、そうだ。
柊慎吾は勝ちたい。
ワイルドケープリが一番にゴール板に飛び込んで、GⅠの栄誉を勝ち取ることを望んている。
出来ればもっともっと、格式が高く歴史に名を残すような爪跡を刻みたい。
そして口取りを行い、写真をとって貰うのだ。
それが叶うのであれば、家宝として3代に渡って玄関に飾らせるよう、家の者に厳命してもいいくらいだ。
だから、こうした会合が勝ちに繋がるかも知れない可能性を僅かにでも上げられるのなら、毎日開いても良い。
挨拶から始まって酒が回り始めた頃、慎吾は頃合いだと見てワイルドケープリの話題を振った。
「それで、巌さん。 帝王賞のレース後に言っていた事の真実。 今日は是非とも詳しくお聞かせ願いたく思います」
「……そうですね。 あの時は興奮していましたので、色々と言葉足らずだったと思います」
巌はその胸中を明かした。
帝王賞直後のワイルドケープリが、レースを走る事だけでなく 『レースに勝つ事』 に初めて意欲を見せたこと。
最後、突き放してゴールしたダークネスブライト。
一見余裕のある勝ちっぷりに見えたが、そのレース内容の激しさから息を入れるのに時間が掛かっていたことから楽に勝てた等とはダークネスブライト陣営は微塵も思っていない事だろう。
ネビュラスター、ダークネスブライトと比べても、ワイルドケープリはレースを走っている。
去年のローテーションでは園田の競馬で何度も連闘することもあった。
ダイオライト記念を制してからは体調の維持を中心に調教メニューを組んでいたが、ワイルドケープリ自身は決して自分の調整を甘くしてこなかったこと。
それはすなわち、自覚の無い疲労を必ず溜め込んでいると言う事だ。
「え、ワイルドケープリが自分で調整を?」
「おかしな事を言っていると思うかもしれませんが、あの馬はレースが近づくのを察するのが抜群に早いのです。
その上で自分でコンディションを最高潮に持っていく事を、ごく自然に行っています。
当然、レース疲れという物はあるものだと思いますが、それでも輸送の後でもケロっとしているのも自分で走る為の管理をしているからなんだと思うのです。
私だって長年競馬に馬を送り出しています。 他の馬では中々、ワイルドケープリのようにはいきません」
「そういや、帝王賞走る前、俺が乗りに行くまで殆ど調教らしい調教がつけれなかったって言ってました」
「ええ、牧野ジョッキーに乗り代わりを頼んだ件、覚えていらっしゃいますよね」
「ああ、牧野君が嫌われてしまって乗る事すら出来ない、と。 しかし、それをワイルドケープリが自分でか……」
続いて巌はワイルドケープリとラストファインの関係についても触れた。
ラストファインは林田厩舎の最後の若駒だ。
巌自身、自分がワイルドケープリに入れ込んでいることは認めているが、決してラストファインを疎かにしている訳ではない。
むしろ、厩舎で預かる頭数が少なくなったことでワイルドケープリとの相乗効果で管理に集中できているくらいだ。
ワイルドケープリが走ることに前向きになったのは、デビューを控えているあの小さな馬であることは林田厩舎に居る全員の共通認識である。
馬を見ること。 年齢がそのまま馬を見た年数であると言える巌には気付きがあった。
ワイルドケープリとラストファインは馬房内であろうと調教中であろうと、基本的に同じ行動をする。
ワイルドケープリが特に変わったという様子ではない。
どちらかというとラストファインの方がワイルドケープリを真似している。
ワイルドケープリがラストファインの面倒を見ている事を、普段から巌は不思議に思っていたのだ。
「もしかしたら、ワイルドケープリがラストファインに教えを説いているのかも知れませんね」
「それは、なんというか」
「ははは、真実ならば調教師としては何もすることが無くなってしまいます」
「親父、そんなことあるのかよ」
「そりゃあ唯の妄想かも知れない。 俺にだって確信はない―――だが、ワイルドケープリにとってもラストファインが居る事に良い影響がある事は認めるだろう?」
「そりゃ……まぁ……」
なんせワイルドケープリをやる気にさせたのはラストファイン号のおかげである。
誰も口には出して言わないが、あの小さな若駒が厩舎に来てからの変化を見れば否を言う者は居ない。
今回、ワイルドケープリを放牧させるに当たって林田厩舎のラストファインを帯同させるという話。
柊慎吾はそんなことあるか? と思ってはいたが両名の話を改めて聞き入れば納得はできた。
「オーナー、篠田牧場からはラストファインの滞在の許可も頂いてもらい、本当にありがとうございます」
「いえ、勿論構いませんよ。 俺は次にワイルドケープリが勝てるのであれば、そりゃ際限なくとは言えませんが幾らだって払うつもりはありますし、伝手だって頼りますよ」
「……オーナー、俺からも少し良いでしょうか」
「ああ、この前電話口では少し話してもらったが、スタートの事かな?」
自分の事を色々と考えすぎて、走る馬の事を忘れた。
そのことに気付いたのが1000m走った時点だったことを駿は悔いた。
もしあの出遅れが無ければ、最初からワイルドケープリの事だけを考えていれば、もしかしたら最後は届いたのかもしれない。
帝王賞を制したのはワイルドケープリだったかもしれない。
こうして直接顔を合わせて話せたことから、謝罪をしたい気持ち。 それもあるが、駿にはもっと伝えたい事があった。
こんな場を用意して貰った以上、そして何よりワイルドケープリの事においては全てを話さなければ筋が通らない。
そう、あの最後の直線。
ワイルドケープリが一瞬だけ躊躇ったような、数舜だけの違和感。
あの時は自分も感情が昂っていたし、ワイルドケープリの邪魔だけはしないように騎乗に集中していた為、勘違いだと言われればそうだろうとも思う。
だが、体力が切れたわけでもないのに、走る為に、追い抜く為に沈んでいた首が一瞬持ち上がって、重心のバランスが崩れた様に感じたのだ。
曖昧なことしか言えないが、それでも言い切ると慎吾は難しい顔をして俯き、巌は顎に手をやって唸った。
「……賢い馬だから、怪我する可能性を感じたか?」
「すみません、本当に感覚的な事なので、何も心配のない事かも知れないんですけど」
「いや、ありがとう。 聴けて良かった。 そうか、ダークネスブライトが加速しただけに見えたが、ワイルドケープリも躊躇っていた可能性があったんだね」
「そうでなければ、もしかしたらその事にワイルドケープリは怒ったのか。 だとしたら、次走はダークネスブライトと当てた方が良い可能性もあるな」
巌が放牧に出したのは、これまで相当数のレースを重ねてきたワイルドケープリをゆっくりと休ませて、本当の意味で完調にまで状態を持っていくことが目的だ。
知らずため込んでいる疲労さえ抜ければ、相手がダークネスブライトであろうと、ワイルドケープリの末脚に抜かせない馬など存在しないだろう。
今回でレースに勝つこと、その闘争心を剥きだしにしたのは間違いない。
放牧を挟むことで賢すぎるあの馬が、レース生活を終えたと勘違いしてしまうことが巌は怖かった。
「だから、大博打だな、とオーナーに話しながら思ったことを覚えています。 もしかしたらやる気を失くしてしまうのでは、と」
「それを避ける為にラストファインを帯同させたのでしょう?」
「ええ、勿論。 他にも打てる手は打ちますが……駿、良いんだよな?」
「はい、大丈夫です」
「何の話でしょう?」
「私も一緒に行かせて貰おうと思ってるんです。 父は……手続き等もありますから遅れますが、私はこの後飛行機で篠田牧場に向かうつもりで、ワイルドケープリに乗れる時間があれば欠かさず乗ろうかと」
「ええ? いや君、帝王賞の後で騎乗依頼が来ていたという話を聞いたんだが」
「はい、有難い事でした。 ですが、俺は今、ワイルドケープリ以外の馬に乗るつもりはありません」
それは大丈夫なのか? 寸でのところで慎吾はその言葉を飲み込んだ。
林田駿は結婚もしているし、小さな子供も居ると聴いている。
そんな守るべき者たちがいる働き盛りの男が、覚悟を決めているのだ。
まして自分の所有馬の事で、本気になってくれているのが相対している分、分かってしまう。
馬鹿な男だ、と思ってしまう。
同時に胸の内に熱い感情が灯る。 それは決して酒だけのせいではないだろう。
「なら、何も言わない。 徹の牧場でワイルドケープリの事を頼むよ」
「はい……それに、北海道にも競馬場はありますから、乗鞍がまったく無くなるという事はないでしょうから、大丈夫です」
「あ、ああ、そうか。 そうだったな」
「オーナーから、何か聞きたい事は他にありますか?」
「ああ、ある。 それこそ、今日だけでは聞けないくらいだとも。 ですが、まずは次走の相談をさせてください」
柊慎吾は深く知れば知るほど、彼らの熱意に中てられていた。
巌調教師はホースマンとして携わってきた、最後の大仕事として。
駿騎手は今後ジョッキーとして成り立てないかもしれなくなるほど傾倒している。
良いのか、と冷静な部分が慎吾を止めた。
いや良いんだ、と感情が迸る。
そうだ、ワイルドケープリに俺達は惚れ込んぢまったんだ。
勝手に惚れて、勝手に望んで、勝手に欲す。
名馬と呼ばれてきた過去の馬も、人間はこうして馬に無理を強いてきた居たのかもしれない。
慎吾は高級な器に注がれた日本酒を飲み干した。
酒の力に頼ったと言われればそれまでかもしれない。
だが、慎吾はGⅠが欲しい。 出来れば中央の。
この渇望は誰が何と言おうと変わらず、確かに心の内に巣くう渇望だった。
「以前、巌さんは聞きましたよね。 何のタイトルが欲しいのか、と。
私は……私は、天皇賞が欲しいんですよ」
言ってやった、と慎吾は咳払いを一つ挟んで顔を赤くした。
まるで若いころに家内に告白した時の様に身体が熱かった。
ともすれば、言ったことを後悔しそうになるくらいには。
「分かりました、天皇賞を目指しましょう」
だが、何でもない事の様に巌が続いた。
「じゃあオールカマーが前哨戦ですので、そこですね」
駿が出走条件を思い出しながら、落ち着いてそう口に出す。
オールカマーの1着馬には天皇賞(秋)への優先出走権が与えられるのだ。
逆に言えば、地方所属であるワイルドケープリはオールカマーを勝たねば天皇賞(秋)には出走できない。
普通に考えたらありえないローテーションだ。
良いのか? 本当に、と思いながらも慎吾はゆっくりと彼らに同意を示すように大きく頷いた。
ダートしか走っていない馬だ。
そりゃダート馬が芝に挑戦することはそんなに珍しい事ではないだろう。
だが結果を残してきたのは長い競馬の歴史の中でもそう数は居ないのだ。
ましてダートでも結果で言えばダイオライト記念を一回獲っただけの馬である。
「か、勝てますか?」
慎吾は恥ずかしい事に声が震えてしまった。
競馬に絶対など無い。 そんな格言すら吹っ飛んでしまうほど自信は無かった。
「柊オーナー……いや慎吾さん」
名を呼んで、巌は居住まいを正して慎吾へと姿勢を正して向き直った。
「私はもとより、息子の駿も―――そしてワイルドケープリも 『挑戦』 をするのです。
全盛期であれば何物も寄せ付けない馬であったかもしれません。 しかし、ワイルドケープリは失った闘争心に火が点くまでに6年かかりました。
今後ダート路線を歩んでもダークネスブライト、ネビュラスターが居ます。
芝の古馬戦線では昨年クラシック三冠を成し遂げたクアザールや、春のクラシックで実力を示したシャカロックを始め、トリフォッリオ、アライアスクイーンなど無数の強豪が犇めいています。
この6年の月日を経たせいで、ワイルドケープリは挑戦する側に回りました」
その話は筋の通っていない話だ。
ワイルドケープリは強い馬ではあるが、実績はダントツに足りていない。
それほどの馬だったのか、それとも巌調教師の目が曇っているのか。
どうも巌調教師はワイルドケープリを往年の名馬と比して遜色ない一流馬だと発言から垣間見える。
信じていいのか、慎吾には分からなかった。
「分かりません。 だから挑戦をしようと思っています。
ワイルドケープリに必要なのは挑戦と、未知です。 だから何処まで行っても挑戦をしていきます。
勝てば次の挑戦へ、そしてまた勝てば次の挑戦へ。 私や息子を含め、何処までも行きます。
ですので、私たちは柊オーナーに頭を下げ請わねばなりません。 無謀と言ってオーナーが断れば、もちろんそれまでです……」
「―――……」
巌が頭を下げ、駿もまたそれに続く。
一生に一度巡り合えるかどうか、そういう名馬―――かもしれない。
まったく、競馬は何処まで行っても分からない。
ああ、まさしく挑戦と未知だ。 そこは人も馬も変わらないのだな、思ってしまった。
「腹を括れと、いう事ですね。 分かりました」
やるなら徹底的にいこう。
この会合を開いて良かった。 彼らのワイルドケープリにおける熱意を直に感じ取れてよかった。
何より、今この場で柊慎吾という男が腹を括れたのが良かった。
「どこまでも行きましょう。 ワイルドケープリの意欲が消えるまで」
「ありがとうございます、オーナー」
「ありがとうございます」
「資金が必要なら教えてください。 すぐに用意をしましょう。 巌調教師、駿騎手、ワイルドケープリとの挑戦、私も加えさせてください。 どうか、よろしくお願いいたします」
テーブルに上に用意された懐石料理は、すっかり冷めてしまっている。
三人とも頭を下げ、身体を起こさずにしばし。
どこか遠くで催された花火の大きな音が、料亭の一室に響いた。
U 20
―――よぉーし、やるぞやるぞ、俺はやるぞ! うおぉぉぉぉおおぉぉぉ!!!!!
ちびが猛っていた。
ハッキリ言ってバウンシャに乗っている時に体力を使うのはどう考えても、ただの阿呆なのだが注意しても聞きやがらない。
こいつがこんなにも張り切っているのは、俺を載せるバウンシャが到着したかと思ったら、ちびが出てきたからだ。
そこでちびは俺が居る事に気付き、そして周囲を見回して俺に質問をしてきた。
テイオウショウが開催された、この場所が競馬をするぐるぐるであると理解すると、後は見てのとおりちびは興奮仕切である。
テンションをぶち上げて興奮したちびは、終始落ち着かず、掛かりながらバウンシャに乗り込んで、制御の利かないキカイみたいになっていた。
喧しい事この上ない。
しかしちびもいよいよレースか……と感慨深く思ったが、こいつノウリョクシケンやってないんじゃないか、と気付く。
てことはレースじゃない。
しかし、園田から此処迄は結構な距離があるが、一体……まぁ10割ニンゲン側の都合だろう。
それから2~3回タイヨウが昇って、俺とちびはまた一緒にバウンシャに詰め込まれた。
―――なんで?
ぐるぐるについたと思ったら、また別の場所に運ばれ始めた事にようやく気が付いたらしいちびが、不思議そうに首をひねっていた。
なんで、と言われても知らん。 ただ、今までに無い運ばれ方に俺も違和感を覚えている。
最初はハヤシダキューシャのあるソノダに戻ると思っていたが、この感じだと違うんだろう。
ちびをわざわざ連れてきたってことは俺にも関係がある事だ。 レースは流石にケイバの規則を考えると無いか? 特例というものがあるのかどうか分からんが。
競馬のルールを全部知っている訳じゃないから推測でしかないけれど、ノウリョクシケンは合格しないと走ることが許されなかったはずだ。
確か随分と前に受けた時に、ニンゲンが誰かを相手にそう説明していたことがあったのを、聞き覚えている。
ゆらゆらと揺られながら後ろでちびが騒ぎ始める。
ったく、少しは大人しくできねぇのかコイツは。
もしかしたら次に着くところがレース場なのかも知れねぇな、体力の無駄遣いになるから大人しくしておけよ。
そんな様な事を適当に言ってやると、ようやく俺の意見に納得したのか。
まだフンフンと鼻息は荒い物の、無駄話をせずに前脚をカキカキするくらいになった。
―――俺は勝つ、ああ、俺は勝つぜ、お前みたいに情けなく負けたりしない
いや、何か言っていた、やれやれ………………
やっぱムカついたのでケツの後ろにある柵とベニヤを思い切り蹴っ飛ばして破壊する。
破片かなんかが顔に当たったんだろう。
ちびが情けない声で悲鳴を上げた。
「うわぁ! 急にどうした!」
バウンシャに一緒に乗り込んでいたニンゲンとちびが騒ぎ出す。
うるせーうるせー。
ちびはもう無視することにして、バウンシャに一か所だけ開いてる窓の無い空間に向けて顔を上げる。
ふん、俺はもう考え事に没頭させてもらうぜ。
……
……
…………
「え? 林田ジョッキーが? なんだ、もっと早く教えてくれれば空港に人をやったのに」
『俺も昨日聞いたんだよ。 確か従業員寮のどっか空いたって言ってたよな? そこ貸してあげてくれないか』
「そりゃ構わんよ。 にしても、現役の騎手が生産牧場にか。 昔は時折、そういう話も聞いたけど珍しいね」
『ワイルドケープリに賭けてるんだ。 俺も林田さんの親子も。 金は出すから―――ってか金くらいしか出せないんだが、とにかく頼むぜ』
「分かったよ、慎吾の頼みだ。 大抵の事は聞くさ」
『助かる、それじゃあまた』
「ああ」
電話を切って顔を上げると部屋に設置されている時計が14時30分を越えたところだった。
時間を確認した所に大型車のエンジン音が牧場内に響いてくる。
ブラインダーを上げて外を見れば、馬運車が徐行しながら入ってくるところであった。
馬運車の後ろには大型のバイクをゆっくり牽引して歩いている、旅装客が一人。
そういえば見学に訪れる人が居たかな、と帳面を捲ると3カ月前に事前予約していた方の名前が見つかった。
今日だったか、正直言ってすっぱり忘れていた。
徹は急いで内線電話を掛けて、見学客の対応の指示を飛ばし始めた。
電話を切って、自分も外に出ようか、といった所で耳朶に響くのは馬の大きな嘶き声。
ああ、サイモンが帰ってきたんだなぁ、と思った所で今度は人の声。
「放馬―――――――――!」
篠田徹は、ドアノブまで手を掛けていたが、そっと身を引いた。
おいおい、と思いながら呑み切っていない茶の湯が目に入った。
立ったばかりだが腰を落ち着けたくなってしまった自分の感情に首を振って蓋をする。
「……そういや、サイモンはとんでもない奴だったなぁ…………」
―――うおおおおおおぉぉぉぉ、ここは何なんだ!!!! ぐるぐるは何処だぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!
位置関係上、先にバウンシャから降りたちびが立ち止まっていたと思ったら、そんな事を叫びながら一気にバウンシャから怒りの直滑降をした。
そしてこけた。 バウンシャから伸びてる坂で脚を滑らせてずっこけたかと思ったら、丁度ニンゲンを吹き飛ばした形になってそのまま泥だらけになりながら再び叫び、爆走し始めた。
まぁ俺も適当にレース云々と言った手前、少しばかり責任を感じるが、アイツは阿呆だから放っておいた方が面倒が無くて良いだろう。
ホウバーーーと叫んだら周りのニンゲン達は暴走した馬たちを止めに来るからな。
どうせニンゲンが捕まえるだろうし、俺は余計な労力は使わないぜ。
ちびに突然の行為にかまけて呆然と突っ立ってるニンゲンが、俺のクチトリから手を放していた。
幸いとして自由になった俺はぐるりと視界を巡らす。
此処は……俺が生まれたボクジョウだ。
バボウの並びやらホウボクチの配置やら、特に変わらず懐かしい風景を視界に映している。
二度三度、首を巡らすとトミオが居た。
なんだ、トミオの奴、なんか小さくなったな。
バウンシャから降りてほんの少し駆け足で近づいていく。
ちびに向けていた視線をこちらへ向けて、トミオは驚いたような顔をした後に一歩あとずさり
「うおおおっ、サイモン!? まった、止まれ止まれ!」
おっと、思ったよりも近づきすぎてしまった。
ちっとばかしトミオを小突いたが、まぁ大丈夫だろう。
ところで、りんごを持っていないか?
トミオはいつも何か持っていたからな。
「す、すいません富雄さん!」
「おっ前なぁ、口取り離す奴があるか! こらサイモン! 服を噛むな!」
匂いがするぞ、持ってるんだろリンゴ。 おら、早く出すんだよ、あくしろよ。
富雄は柵とワイルドケープリに挟まれ態勢を崩したままべろべろされて、よだれ塗れになった。
【ワイルドケープリ号とラストファイン号、馬運車から降りて篠田牧場をカオスにする】
その日の夜、篠田牧場を訪れた見学者が、たまたま馬運車の到着に居合わせたために撮られた映像が、掲示板サイトにアップロードされた。
草www
かわいい
豪快過ぎるだろww
ラストファイン号ってクワイトファイン産駒なのか
怪我無くて良かったー
ラストファイン、良い走りだなww
馬運車のゲートが開いてから凄まじい加速
転倒から立ち上がるのが爆速で草wwwww
ゲート◎
いや、ゲート難なのでは?
怪我こわいわー
泥は気にしてないみたいですね
吹っ飛ばされた人、心配するべきなんだろうけど、ごめん草だわ
ワイルドケープリって有名? 聞いた事ねーんだけど
今年のダイオライト記念を勝った馬だぞ
ネビュラスターとダークネスブライトと一緒に帝王賞走ってたよ
地味な重賞取ってんなぁ、ダート長距離馬かぁー?
ダート分からん勢
ワイルドケープリ動じてなくて草
大物感あるなww
目の前でずっこけたラストファインを何も気にしてねぇwww
トコトコwwwww
厩務員に突撃www
かわいい
かわいいわ
ラストファイン、クワイトファインの最後の種。 ヘロド系の後継なんだね
あの爆走ぶりを見ると気性荒らそうだな
ワイルドケープリは篠田牧場で生まれたらしいけど、この人が世話してたってね
富雄さんっていうベテランの人らしい
へー、覚えてるのかな
一直線に向かってたし、そうかもね
富雄さん、めっちゃ舐められてて草
可愛すぎる
ワイもお馬さんに舐められたい
ワイルドケープリ富雄さんの事、好きすぎだろwww
ワイルドケープリでけぇな
スレ主、こんなとこに居合わせるなんて幸運だな
スレ主撮るの上手い
あー、本当はアイブッチャーマンの見学に来たんだよね。 篠田牧場の生産馬はブッチャーマンしか知らなかったし。 現役時代でも目立たない馬だったから人気無かったけど、俺が好きだった馬なんだよ
目立たない馬ではなかったと思うが
アイブッチャーマンたまに話題になってたし、無名ってほどじゃ無いやろ
2500のアイブッチャーマンは脳死で買え
成績調べたら××年の有馬で2着馬じゃん
他のGⅠぜんぜん成績振るわないのに有馬だけ突然2着に食い込んでて草
勝ち鞍が見事に2500で揃ってるのおもろいわ
阿寒湖は2600だから……
誤差じゃねぇか
阿寒湖の住人か
今調べたけどアイブッチャーマン死んでるじゃん……
そうなんだよ、見学予定いれた時には生きてたんだけど。 種付け後に急死しちゃったんだ。 だから本当は篠田牧場の見学はスルーしようかと思ったんだけど、この映像撮れただけでも来てよかったかな
ワイルドケープリ応援するしかねぇな
ラストファインの方を応援したいわ
ラストファイン、篠田牧場で生産された訳じゃないのね
ちょっと闇深い背景がありそう
……
……
…………
久方ぶりにホウボクチに離される。 ニンゲンがホウボクと言っていたから、これは予定された行動だという事だ。
俺はぐるりと周囲を見回した。 まだ俺がちびよりも小さかった頃、この辺には大人のウマ達が一人っきりで入れられたりしていた。
今回はちびと一緒に入れられている。 たぶん、このボクジョウのホウボクチの中でも1.2を争うくらいに広い面積を誇っている場所だろう。
昨日入れられたバボウも、ハヤシダキュウシャのバボウより広かったし、タイヨウがしっかり差し込む良い所だった。
なんせ俺はジューショーバだからな。
ブッチャーもそうだったはずだ。 ニンゲン達はジューショーバとなったウマを丁寧に扱い始める気がする。
格式がどうのこうの言ってた事を思えば、まぁそう言う事なのだろう。
ニンゲン達が囲いを閉めて、柵から離れて行くと、ちびは落ち着きなく耳を伏せてウロウロ徘徊し始めた。
ちびにとったら調教を積んでいよいよレースだと思ったら、ホウボクチに離された訳だからな。 機嫌が悪いのも頷ける話だ。
俺の方もあまりいい気分ではない。
トミオにリンゴをせびっている時に、ニンゲン達の話が耳に入ってきたのが原因だ。
ブッチャーは、このボクジョウに居たらしいが、死んでしまったらしい。
結局、あの時の会話が最後になってしまった。
今なら命を揺らすという事について、自分なりの考えや理解したことを一緒に話せたのに。
―――ブッチャー、俺はアンタともう一度会いたかった
鳥が大空で鳴いていた。 その音を聞きながらホウボクチの柵沿いに歩く。
時折、地面から伸びた草を啄みながら。
昔はこのホウボクチを囲う柵が嫌いでしこたま蹴飛ばしていた気がする。
上手く脱走できそうな場所に当たりをつけて、何度も繰り返していた。
今思うと、なんて無意味な事に労力を注いでいたんだろうか。 やっぱ知識というのは大事だ。 そして知った事を理解しなくちゃいけない。
牧歌的な風景が広がって、懐かしさも相まって思わず強張らせていた身体が弛緩する。
俺のぐるぐるは終わったのだろうか。
結局ウマの俺ではぐるぐるを走る、走らないを決めることは出来ないが。
もし終わったのならば何とも中途半端な結果だ。
命を揺らす場所というブッチャーの残した言葉に気付くことが出来ただけでもマシだったのか?
そんな不安は見回りに来たニンゲン達が、声を掛けてくることで意外と早く解消した。
「ワイルドケープリ、よく休んでくれよな」
「応援してるぞ~」
ニンジンを持ってきたニンゲンに近づいてオヤツを貪ってると、そんな声が飛んでくる。
彼らは時間を置いて入れ替わり、様子を見に来てはオヤツを差し出し、時に俺の身体へと手を寄せて似たような声を掛けていく。
別にぐるぐるを走るのが終わったわけではないと知って、俺はなんだか元気が出てきた。
ああ、まだ終わらないなら良かった。 そう思っている事に俺自身が驚いた。
確かに、ブッチャーもどきに負けたままなのは悔しかったが……そんなに情熱を傾けていたとは自覚が無かった。
小さなニンゲンが恐る恐ると言った感じで近づいてきた。
顔を寄せてやると、顔が怖いなどと言い出して大きなニンゲンの影に隠れる。
顔が怖くて悪かったな。
「マー君、ワイルドケープリの顔は勲章よ。 傷痕があるのは、それだけ凄く大変な競馬をしてきたってことなの。 怖がってたら可哀そうよ」
「ワイルドケープリ、怒ってつーんってしちゃったぞ。 ほら、謝らないとね」
「うん、ごめんなさい、ワイルドケープリ」
「にしても、傷痕は目立つっちゃ目立つな。 メンコとかしないんかね」
「あら、顔が見えてる方が様になってて良いじゃない」
ニンゲン達が居なくなると、俺は何時の間にやら近くに来ていたちびへと身体を向けた。
ちびは何故かすねていた。 何愚図ってるんだと言ってやったら、急にちびは別に羨ましくはない、等と言い放って地面の草をモリモリ食べ始めた。
少し気になって話を聞けば、ちびはこうした大きなボクジョウではなく、山間に乱雑に仕切られた、せまっ苦しい囲いがあるだけの場所に一頭でずっと居たという。
母馬くらいは居たはずだろう、と指摘すれば生まれて少し時間が経ったら消えたらしい。
ちびは日がな一日、一人のニンゲンと囲いの中、そしてバボウの中を行ったり来たりしていたようだ。
小さい頃に面倒を見てくれたニンゲンも、やがて居なくなったという。
愛されていて良い事だ、とちびに言われ、俺は何かを言おうとしたが言葉にはできなかった。
母馬と一緒に居た期間がどれほどか分からないが、俺よりもずっと短いのだろうことは察せたからだ。
そうしてホウボクチからバボウに戻ると、良くトミオやシュンが待っていて、首のあたりをゴリゴリと掻いてくれる。
なかなか気持ちが良くて思わずあくびが出たりした。
そして、ちゃんとトミオが離れて行ってからゴロリゴロリとバボウの中で寝っ転がる。
そのまま脚を伸ばして寝ながら、バボウの天井を見上げる。 恵まれている、か。
ニンゲンが世話をするのは俺達にジューショーを獲って欲しいからだ。
シノダボクジョウの奴らも、ハヤシダキュウシャの奴らも、それは変わらないんだろう。
初めて経験するが、ホウボクというのは現役でぐるぐるを走る奴らを休ませる意味があると思う。 恐らくだが、イワオ達は俺を休ませる必要があると判断したんだろう。
こうしてリラックスできる環境を用意して、次のぐるぐるに向けての奮起を促そうとしている、そんな所か。
スターとかいうガキやブッチャーもどきに負けたから、勝てるようにまずは休息を、といったプランなのだろうな。
感情的には余計なお世話だと思いながらも、ニンゲンはあまり無意味な事は行わない。 どんな物事にもある程度の理由や根拠を添えて競馬を行っている。
それがカネであれ、ニンゲン同士の交流であれ、ウマとの関わり合いに意味を持たせている。
それに、俺を応援している、というニンゲンの感情は本物だろう。 雰囲気や仕草、声でその位の事はウマであっても俺には分かる。
それなら今は存分に怠惰を満喫するべきなのだろう。
ふん……応援されるほどニンゲンに尽くしてきたつもりは欠片もないぜ。
俺は立ち上がって柵から顔をだし、ちびのバボウを覗き見た。
ちびも同じようにバボウの外へ顔を出していて、俺と目があった。 泣いてたり拗ねてるかと思ったが、流石に時間が経って今の状況を受け入れているようだ。
声を掛けようとする前に、ちびの方から話しかけられる。
レースの事を聞きたいようだった。 俺にとっては余り気持ちの良い話では無かったが、話してやることにした。
だいたいの事を話し終えると、バボウの奥にちびは引っ込んでいった。 一言だけ添えて。
―――ブッチャーは居なくなったのか
暫し、ちびが引っ込んだバボウを見続けてから俺もそうみたいだな、とだけ返して中に戻る。
俺もバボウから空を見上げる。
薄い雲が広がって、星の瞬きも見えなかった。 つまらない景色が広がっていた。
ちびのバボウから声が聞こえた。
ブッチャーは知らない。 でも俺は知っている。
何を言っているんだ、と思いつつも耳を傾ける。
俺はその背中を追っている。
早くレースで走って、俺は勝ちたい。
他のウマには負けたくない―――アンタにも。
ちびはそう言った。
もしかして、俺を励ましてるつもりなのだろうか?
不器用な奴め。
レースにも出れず、調教すら止められてホウボクチに来たことには文句しかでないのだろう。 同じような立場に置かれたら俺も怒っていた自信がある。
あの頃はちびと一緒で、一刻も早くぐるぐるで走りたかった。
感情は理解できるから、俺は次の日からイワオの代わりに走るコツを教えてやることにした。
ちびは俺と話をすることが出来るウマだが、物覚えが悪いから、何度も繰り返し教えないと身につかない。
普段は俺も自分の調整に忙しいから、面倒をみるのもオザナリになりがちだが、今はちょうど暇つぶしにもなるし、俺にとっても身体を鈍らせすぎないようにするには都合が良いだろう。
俺の背中を追っていると言うのならば、ブッチャーを追っているのと同じだ。
もしかしたら俺達は別の背中を追いかけてるようで、同じ道を歩んでいるのかも知れないな。
この日はちびに親近感を抱いた夜だった。
ホウボクに出されてから、だいたい一、二週間くらい立った。
ちびと一緒にホウボクチを走り回ってレースで必要な事を教えていると、見慣れないニンゲン達が4~5人まとまって近寄ってきている事に気付いて、脚を止めて俺達を眺めていた。
鼻息を荒げて呼吸を整えているちびを尻目に、俺はニンゲンの近くに行くと、俺の名前を呼んだ後にちびの話をしていた。
内容に聞き耳を立てて聞いていると、このニンゲン達はちびに会いに来たようである。
俺は不自然にならない程度に、息を整えているちびの方へ戻ってその事を伝えてやると、ちびは怪訝な顔をニンゲン達へと向け続けて近づく素振りを見せなかった。
警戒しているというか、どうして自分を見に来たのか分かっていない様子である。 頭まで上下に振って俺に何とかしろと、前脚を掻いてアピールまでしてくる。
まぁ普通に考えると、あいつ等はウマヌシとか言うような奴らだと俺は思う。 少なくとも、ぐるぐるを走って競馬をするにはニンゲン達との関わりは不可避だ。
この前、俺のウマヌシであるヒイラギも少しだけ俺の事を見に来たし、そんな感じだろう。
せっかく来たんだから近くに行ってやれよ、と促すと、何故か俺を威嚇してくるちび。
お前そういうとこだぞ、多少は愛想くらい振り向かんとニンゲンに捨てられるかも知れんぞ。 それに―――お前にもちゃんと居るんだぜ、応援してくれるニンゲンがよ。
あの見に来たウマヌシどもだけじゃない、篠田牧場の連中もお前によく構ってるしな。
第一、お前はぐるぐるで勝つんだろう?
いつかレースで勝ったら応援してくれるニンゲンは頼まれなくたって増えるんだ。 俺達ウマに勝手にカネや夢を背負わせて無限に湧き出てくるんだぜ。
納得したのかしていないのか。
よく分からない表情を向けてきた後にニンゲンへと身体を向け、ちびは気が向かないような足取りでニンゲン達に向かって行った。
するとニンゲン達は笑い、顔を歪ませちびを構い倒していた。
しばし見守っていると、スマホって奴を向けられ始めて、ちびは少し距離を離し、一丁前にポージングをビシっと決めている。
しばらく写真や動画を撮らせてやった後、オマケのつもりだろうか、ホウボクチをちびは豪快に走り始めた。
まぁ、良かったんじゃねぇかな。 ファンサービスの練習ってやつだっけか。 俺はやった事ねぇけど。
ニンゲン達もルドルフみたいだなんだと興奮していたから、満足したことだろう。
少しはちびも俺と一緒にホウボクされた意味も出来たんじゃねぇかな。
戻ってきたちびをからかってやると、ちびは俺にケツを向けて後ろ脚で蹴飛ばそうとしてきた。
おいコラ、お前、そんなに怒ることねぇだろうが。 やめろって、おい、やめ―――この野郎、いい加減にしやがれ、くそちびがっ!
遠くからシュンとトミオが慌てて建物から出てくる。
囲いをぶっ壊したり、ちびがすっ転んだりしたが俺は謝らん。
ちびのせいだ、ちびの。
俺はホウボクチの真ん中で太陽を見上げて、素知らぬふりを突き通してやった。
嵐が来た。 ホウボクチに出れないほどの大雨と風だ。
練習の邪魔だと、ちびは大空に向かってブチギレていた。 実際喧しいくらいに風雨が激しい天候は俺も好きではないから気持ちはわかる。
寝藁を掻いて集積してから、そこに顔を突っ込ませる。
それから一気に顔を上げて寝藁を巻き上げる。
特に意味のある行動ではない。 ただ入り込んできた雨でべたついてると気分があまり良くないので定期的に空気を入れているだけである。
ニンゲンだったら便利な道具で乾かせるのかも知れないが、俺たちウマには出来ないからな。
ボロを出した後だとちょいと躊躇する行動なので今のうちにやっておいたのだ。
たまにボロの事をあまり気にしないウマも居るが、あいつらボロが汚物だということを知らないんじゃないだろうか。
それとも知ってて気にしないのか? だとしたらある意味、その豪胆さに感服するが。
そろそろこの牧場に来てから結構な日が立つ。
これまでハヤシダキューシャで過ごしていた俺はホウボクに出されていなかったから当たり前だが、こんなにぐるぐるを走るまでの間隔が長いのは初めての事だ。
ニンゲン達がウマをホウボクさせる意味はもう判っているが、いい加減に飽きてきたぜ。
ガシガシと前脚を掻いていると、見慣れたニンゲンがトミオに連れられてやってくる。
イワオだ。 ホウボクに出されてからもシュンは俺の顔を良く見に来ていたし、なんならぐるぐるを回らずに俺の周りをうろついているんじゃないかと思うほど最近は近くに居た。
そういや、シュンの様子も変化があった。 距離感が近づいたとでも言うんだろうか。 チョウキョウするわけでもないのに、俺やちびの世話を焼くようになった。
トミオに色々話を聞いていたみたいだから、もしかしたらシュンは騎手を辞めてここで生活していくようになるんだろうか? そしたらちっとばかし、困るぜ。
イワオとシュンが遠くで話し込んでいる。 俺は自然と前脚を搔いて近づいてくるように要求した。
どうせ次の俺のレースについて話しているんだろう。 少しくらい俺にも情報を寄越せ。
「どうした、ワイルドケープリ。 雨でストレスでも溜まってるのか?」
「良かった、萎えちゃいないな」
「放牧地でもファインと一緒に走り回ってる。 普通もっと落ち着くはずなのに」
「自分で次のレースに備えて調整しているんだよ。 ワイルドケープリが競争生活が終わったと勘違いするのだけが怖かったが、賭けには勝ったな」
「俺も親父も、ワイルドケープリもこれからだろ。 まずはオールカマーを獲って、その後天皇賞だ」
「―――他の馬の乗鞍を捨てて一頭の馬にこだわる馬鹿が言う事は違うな、もう勝ったつもりでいやがる」
「親父だってそのつもりだろ」
俺は少しばかり呆れてシュンとイワオを見た。
別にお前らの為に走るわけじゃねぇぞ、と。 結果的にお前らが喜ぶことになるのは分からないではないが。
まぁいいさ。 次はオールカマーってのを走るのか。 聞いた事のないレースだ。
「初めての芝だ。 普通に考えたら期待する方が間違ってるんだ」
「じゃあ何で親父はダートを勧めなかったのさ」
「何処でも獲れるって言っちまったからなぁ……」
「ハハハ、なんだそりゃ。 それならオーナーには勝つところ見せないとな」
「ああ、オーナーのおかげで芝調教場を借りれる事になった。 一週間後、そこで適性を見るぞ」
「いよいよか、そろそろ俺も篠田さんに挨拶してお暇の準備を始めないと」
シュンは体幹トレーニングを中心に篠田牧場で自身を鍛え上げていた。
帯広競馬場という所で何度かケイバもしてきたようである。
俺はシバコースという条件でレースを行うらしい。 これもまた聞いた事のないコースだ。
「柊オーナーには無茶ばかり言ってしまって心苦しいな」
「今更だぜ親父。 俺はワイルドケープリの実力を100%引き出すことだけしか、もう考えない」
「……そうだな。 やれる事は全部やるぞ、駿」
「ああ」
目の前の二人のニンゲンが気合を居れている様子を見て、ちびが顔を出した。
彼らの雰囲気に中てられたのか、それとも自分の調教が始まりそうな様相を感じ取ったのか。
ちびが気合を入れて首を振っていた。
自覚は無かったが、俺もまた暇を持て余していた身体が震えて引き締まった。
シバ 2200 オールカマー
聞いた事もないコースにレース。
そんな未知をワイルドケープリは歓迎していた。
知らない、という事には興味を覚え興奮する。 こればかりは自我が芽生えた時から変わらない。
余暇を楽しみながらちびに教え、静かな日々は終わりを告げる。
そしてまた――俺はぐるぐるを走る。
―――ああ、ようやくか。 長かったぜ
一週間後、巌が口にした通り、ワイルドケープリとラストファインは関東はずれの厩舎に移送され、そこで芝での調教を積むことになった。