ルーカスは戻ってこなかった。
王宮を訪ね、問いただしたところ「人間界で何者かに襲われたそうだ」とだけ言われた。彼と共に出発した仲間たちも、連絡が途絶えているという。
全滅したのだ。隠密行動を取りやすいようにと、少人数で行かせたのが裏目に出た。レベッカが恐れていた通り、きっとルーカスたちは原住民の手で殺されてしまったのだ。
「どうしてですか!」
悲しみのあまり、レベッカは我を忘れ、貴族たちに掴みかかろうとした。王宮の衛兵が肩を掴んで止めるが、構わずに叫んだ。
「どうして、危険を伴う任務にたった数名で行かせたのですか。もっと万全を期して出発していれば、あの人が命を落とすこともなかったはずです。違いますか?」
「それはお前の主観だろう」
和服を着た貴族は、動じずに言った。
「大人数で行かせて、死者が百名単位で出たらどうする。その方が大問題だ。むしろ、犠牲が最小で済んだことに感謝してほしいくらいだな。……もっとも、お前の夫が大して役に立ったとは思えないが」
「あの人を侮辱するつもりですか」
なおも食ってかかろうとするレベッカを、貴族は「落ち着けよ」となだめる。
「まあ、仮に『大勢の仲間に守られていれば、お前の夫は死なずに済んだかもしれない』としよう。だが、そもそもお前の夫を殺したのは誰だ? 得体の知れない相手を恐れ、排除しようとした、人間界の原住民だろう。俺たちを恨むのは、筋違いじゃないのか?」
「誰だって、素性の知らない人が突然現れたら、驚いたり戸惑ったりします。だからこそ、そうした反応を予想して、万全の態勢を整えて行かせるべきだったんじゃないですか。ろくなサポートもせずに送り出すなんて、職務怠慢もいいところです!」
「……貴様、口が過ぎるぞ!」
次第に、衛兵たちが怒りを露わにし始める。
「平民の分際で貴族に逆らうとは、何たる無礼。今すぐ処罰を――」
「いや、いい」
貴族は彼らを止めた。だが、それは優しさによるものではなかった。
「俺がやる」
冷たい目でレベッカを睨み、貴族は足を蹴り上げた。靴の先が彼女の腹部にめり込む。「おっ」「あっ」と呻き、レベッカは涙を浮かべて痙攣した。
膝を突いた彼女の両腕を、二人の衛兵が掴んで離さない。逃げることもできないレベッカを、貴族の容赦ない暴力が襲った。
「……あの人が言っていました。女に手を挙げる男は最低だって。貴族の方が、こんな蛮族だとは思いもよりませんでした」
「俺だって、貴族の女の腹は蹴らねえよ。取るに足らない平民は別だがな!」
「あうっ。ぐうっ……」
一撃。また一撃。レベッカが痛みに悶える。
「今回の件で俺たちに落ち度はない。ただ、不慮の事故が起きただけだ。その責任をあろうことか貴族に押しつけるとは、身の程知らずもいいところじゃないか? ええ?」
「……もう、やめて下さい。お願いします」
「ああ、やめてやるよ。お前が自分の非を認めて、土下座して謝ったらな!」
無貌が世界を支配する前、原典の力は貴族層によって管理されていた。身分が高い貴族はそのイメージを得る権限を持つが、平民にはほとんど何のイメージも与えられない。したがって、貴族の男がレベッカを痛めつける手段は星の数ほどあっても、レベッカが彼に抗う手段はないに等しかった。
彼女は無力だった。小一時間ほども殴る、蹴るの暴力を振るわれ続け、まるで半殺しにされたような状態でぐったりと横たわっていた。
それでも、驚くほどの気丈さで、レベッカは決して謝罪の言葉を口にしようとしなかった。たとえどんなに痛めつけられようとも、夫の死の原因は間違いなく貴族側にあると信じ、貫いた。
「気は済んだ。とっととつまみ出せ」
ようやく玩具で遊ぶのに飽きたらしく、貴族は大きく伸びをして言った。最後にレベッカを一瞥し、囁く。
「命だけは助けてやる。その代わり、もう二度と俺の前に姿を現すな。恐れ知らずの賤民よ」
神殿のような外観の王宮から放り出されて、レベッカはすぐには動けなかった。体も心も激痛に襲われていたからだ。
貴族は知らなかったし、まだお腹が大きく膨らんでもいなかったが、彼女のお腹にはルーカスとの間に授かった赤ん坊がいた。妊娠して間もなかった。何度も腹部を蹴られたことで、今や赤ん坊の命はほぼ確実に奪われたと言っていいだろう。無事に出産できる可能性はゼロに近い。
「……うっ。ううっ」
あとからあとから涙がこぼれ落ちて、とどまることを知らなかった。レベッカの顔はぐしゃぐしゃに歪んでいた。
「貴族たちの不手際が原因で、ルーカスは命を落とした。それを訴えたら、あの人の間に授かった子供までも今失おうとしている。こんな理不尽なことが、あってたまるものですか」
許せない、とレベッカは思った。涙に濡れた瞳の奥には、怒りの炎が燃えていた。
初めに憎んだのは、自分たちを徹底的に痛めつけた貴族たち。次に憎んだのは、彼らに抗う術を持たなかった自らの無力だった。
「……私には、何もできなかった。あのとき、出発する夫を止められなかった。貴族の横暴に刃向かうことさえできず、ただ痛みに耐えるしかなかった。夫も子も、私は自分が愛していたもの全てを失った」
ゆえに、彼女は力を求めた。もっと強くなりたかった。
「私は、手に入れなければならない。もう誰も、何も失わないで済む、全てを守れる絶対的な力を」
これは、とある超次元生命体の話。
全てを奪われ、全てを捨て、最強の存在になったレベッカの物語だ。
強さを得るということはすなわち、より多くの原典の力をその身に宿すということ。しかし、原典を貴族層が管理している現状では、ただ単にイメージを取り込もうとしてもアクセス権限がなければ失敗する。そして、先日の一件で貴族に目を付けられてしまったレベッカに、正式な手続きを踏んでイメージを付与してもらうという選択肢はなかった。
もっとも、仮にそうしたところで、得られるのは貴族たちが使わなかったいわば「残り物」の原典だ。そんな貧弱な力では、復讐など果たせるはずもない。
必要なのは、貴族の管理体制をすり抜けて原典の力を引き寄せられるだけの虚無。ブラックが光を吸い込むように、原典のイメージもまた、何も無い状態に吸い寄せられる性質を持っていた。
だから、レベッカは全てを捨てた。これまで自分が取っていた姿の持つ情報を、一つ一つ削ぎ落していった。性別も体格も、顔立ちも髪形も、自らの外見的特徴を捨て去り、体に凹凸を持たないのっぺらぼうのような姿になった。
あの人が「綺麗だ」と褒めてくれた髪も捨てた。唇を捨てて、あの人と交わした口づけの感触も忘れた。ルーカスと過ごした思い出は、そのようにして少しずつ色褪せて行った。