(やってしまった……)
悶々として、恋人の住むタワマンを見上げる男がいた。ヒョウガである。
(俺、今日どんな顔をしてサヤさんに会えば良いんだ??)
話は昨夜に遡る。
ルーカスの残留思念が変身した忍者ライダーとの戦闘で、ヒョウガは腕を負傷していた。深い傷ではなかったが念のため病院で手当てを受けているところに、心配したサヤが駆けつける。
「日常生活に支障が出るほどではないから」と安心させようとしたのだが、「でも放っておけんわあ」と返された。あれよあれよと言う間に、彼女の家で少し休んでいくことになってしまう。
タワマンへ向かう途中、ヒョウガは「休ませてもらうお礼に」と思い、お酒やつまみなどを少し買って行った。
「軽く飲みませんか」
ソファベッドに横になった青年の腕の包帯を、彼女は取り替えている。ヒョウガの言葉に顔を上げ、サヤは遠慮するように笑った。
「ええよ、うちは。もし酔っぱらっちゃったら、ヒョウガくんの看病できへんもん」
そしてまた俯き、一生懸命に包帯を巻く。いつも以上に優しい恋人の姿に、ヒョウガの胸は愛しい気持ちでいっぱいになった。
「分かりました。じゃあ、俺は失礼して……」
一旦上体を起こし、青年は缶ビールを開けた。怪我人なのにぐいっといくのは何か違う気がしたので、まずはちびちびと一口飲む。ビールの独特の香りが広がった。
再び横になったが、サヤの手が止まっているのに気づき、青年は訝しんだ。
「サヤさん?」
見れば彼女は、包帯を巻き終えるか巻き終えないかといったところでぼうっとしてしまったようだった。先刻ヒョウガが口を付けた缶ビールを、とろけた表情で見つめている。
「ヒョウガくんの、飲みかけ……。今うちも飲んだら、間接キスになってまうなあ」
「へっ?」
まるで、ビールの香りだけで酔っぱらってしまったかのようである。ほのかに頬が赤くなっているサヤは、缶に手を伸ばしてぐいっと一気に飲んだ。
これまでにデートしたときにだって、飲みかけのドリンクを相手に渡したことは何度かある。別に今更、間接キスを意識しなくても良さそうなものだが。テンションがバグっているのかもしれない。
「んっ、んっ……」
喉が小さく動き、やがてサヤが缶をテーブルに置く。もはや完全に出来上がっていた。顔は真っ赤だし、少しふらついている。
「あんっ♡ ビール、服に垂れちゃったわあ」
初めて会ったときにも聞いたような艶めかしい声を上げ、彼女はいきなり服を脱ぎ出した。慌ててヒョウガはそっぽを向く。
「な、何してるんですか⁉」
「え~。だってえ、服が濡れたら着替えなあかんやろ? あっ、ついでにシャワーも浴びよか。ヒョウガくんも一緒に入る?」
「入りません! 傷にお湯が当たったら激痛が走るので!!」
まあ、それ以前に、日曜朝に放送できないようなシーンが連続すると、色んな意味でまずいというのもある。ただでさえスタイルが良いサヤのサービスシーンは、刺激が強すぎるのだ。
「そっかあ、残念やわあ」
サヤはとろんとした瞳で頷き、シャツを脱ぎかけの中途半端な姿勢でフリーズした。かと思うと、出し抜けに青年の側へ屈みこみ、頬にキスをした。
「な、何を⁉」
「ヒョウガくんが怪我して可哀想やから、今夜はうちが慰めたる。楽しいこと、いっぱいしよな?」
「え、ちょ」
ちょっとやめて下さいよ、と言おうとしたのだが、さらなるキスで唇を塞がれ、まともに言葉も紡げない。青年自身も徐々に快感の波にのまれ、抗えなくなっていく。
もしかするとサヤさん、酔うとキス魔になるタイプなのだろうか。ぼんやりした意識の中、そんなことを思う。これまでにもキスくらいは経験済みではあるが、普段よりディープでスペクターなキスは大人な味で、未知の感覚だった。
(……もう、どうにでもなれ)
割とマジで訳が分からない状況だったが、ヒョウガは観念した。そして、成り行きに身を任せた。
で、翌日である。
インターホンで恋人の部屋番号を押す手が、震える。一体どう切り出すのが正解なのだろう。「昨日はありがとう」が無難か? それとも、覚えていないふりをして誤魔化すとか? いやいや、それは相手に対して不誠実な気がする。
「決めるぜ、覚悟!」とばかりにボタンをプッシュすると、はたしてサヤはすぐに出た。さすがにもうアルコールは抜けたようで、ケロッとしている。
「あ、あのさ、サヤさん」
『どしたん? とりあえず、部屋で話す?』
言われるがまま、エレベーターで彼女の部屋へ。玄関で靴を脱ぐやいなや、ヒョウガは頭を下げた。
「昨日のこと、すみませんでした。俺、ああいうことはもっとこう、ちゃんとした段取りを踏んですべきだと思ってて。だから、なかなか踏み出せなかったんですけど……酔ったからとはいえあんなことをしてしまって、俺、自分が恥ずかしいです。本当にごめんなさい」
「ええと、ヒョウガくん、一体何の話なん??」
「えっ?」
ハッと顔を上げる。冗談かと思った。けれど彼女はいたって真面目で、首をかしげている。
「ごめんなあ。うち、めちゃめちゃお酒弱くて、ほろよい一杯飲んだだけでも記憶飛んでまうんよ。昨日ヒョウガくんを家に呼んだのは覚えとるけど、その後のことが全然思い出せんわあ」
「マジですか……」
昨夜から今朝にかけ、ヒョウガは正直、心臓が爆発しそうなくらいドキドキしていた。何せ、愛しい人と初めて一線を越えたのだから。
それだけに、当のサヤが何も覚えていないことがショックだ。二人で愛し合った思い出は共有できず、自分だけが記憶しているに過ぎないのである。
「あれ? でも、虚無英雄会を倒したときの祝勝会では確か、サヤさんはウーロンハイを飲んでいたような……。あのときは全然酔ってなかったですよね?」
「ちゃうちゃう。ウーロンハイを頼んだのは、うちの向かいに座っとった美明日ちゃんやで~。うちが飲んどったのは、ただのノンアルのウーロン茶よ」
「ああ、俺の記憶違いでしたか……」
道理で酔わなかったわけだ。
サヤが同年代の男性からあまり言い寄られず、年上の元夫とすんなり結婚できた理由が何となく察せられる。恐ろしく酒に弱い彼女は、滅多なことでは人と一緒に飲めない。酒の席で異性と仲を深めるようなことは、ほとんどなかったのだろう。
「なあ、ヒョウガくん。うちら、昨日どんなことしとったん?」
他意のない、純粋無垢な質問を投げかけられ、青年はしばし「どう答えようか」と迷った。まさかありのままに答えるわけにもいかない。下手な真実なら知らない方が良いし、知らないという罪もあれば知りすぎる罠もあるのだ。
考えているうちにショックは薄れ、自然と穏やかな気持ちになっていく。
(……まあ、いいさ。覚えていないっていうなら、もう一度、今度はお酒をあまり飲んでいないときにやり直せばいい。俺にとっては二回目でも、サヤさんにとってはまだ初めてなんだ)
たとえサヤさんの記憶はなくたって、俺は昨日のことを覚えている。二人で過ごした甘く幸せな時間を、忘れることはない。それで良いじゃないか。
「いえ、別に」
照れくさそうにヒョウガは答えた。ぼかした表現なので、サヤの頭上には疑問符が浮かぶことだろう。けれど、構わない。柔らかく温かな体も、可憐な顔も、時折見せる切なそうな顔も、俺はきっと、ずっと忘れない。
「――ただ、幸せだったんですよ。俺たち」
そう言って、青年は微笑んだ。
※次回の更新は一週間後の予定です。