湘南エリアの賃貸マンションへ引っ越した裕介と美明日は、概ね幸せな結婚生活を送っていた。
だが近頃、彼らは対立している。原因は、生活リズムが合わないことだった。
「ねえ、早川君。あなたはどうして毎日毎日、夜の一時を過ぎないとベッドに入らず、朝は八時過ぎまで寝ているのかしら。それじゃ出勤時間ギリギリじゃない。私はもっとこう、早川君には余裕のある生活を送ってほしいのだけれど」
美明日は夜十一時には必ず寝て朝六時に起きるので、遅くまで起きている裕介とは微妙にすれ違ってしまう。くどくどと説教を始めた彼女へ、今さっき起きたばかりの彼は茶化すように返した。
「ギリギリでいつも生きていたいって歌ったアーティストもいるくらいだし、多少は良くね?」
「いつの時代の話をしているのよ。……あ、ちなみに、余裕のある生活というのは、時間的な意味よ。金銭的な意味じゃないわ。大学の講師とカフェ店員を掛け持ちしている分、場合によっては私の方が収入が多くなることもあると思うから」
「分かってるよ!!」
まあ、裕介だってオメガ珈琲シルバーとしての特別手当を会社から貰っているので、給料は決して悪くないのだけども。
「冗談はさておき、俺が寝るのが遅いのは、眠りが浅いからなんだよな」
「一行で矛盾してるじゃない。眠りが浅いのなら、その分早い時間に寝て睡眠時間を確保すべきよ」
「いや、それだと逆効果なんだよ」
早川裕介は首を振った。洗面台へ移動し、顔を軽く洗ってから続ける。
「俺は眠りが浅いから、早い時間に寝ようとすると、まだ起きているご近所さんの生活音とかで目が覚めちゃうことが多いんだ。だけど夜一時に就寝すれば、起きている人が少ないから、必然的に生活音もあまり聞こえない。おかげで朝までぐっすり眠れるぜ」
彼の出身は、愛知県の中でもだいぶ田舎の方だ。駅やバス停は近くになく、車がなければ絶対に生活できない、典型的な山奥の田舎。進学や就職を機に名古屋の方へ出たのは、都会への憧れが少なからずあったからである。
寝るときには虫や鳥の鳴き声しか聞こえないような環境で幼少期を過ごしたためか、いざ都市部で暮らし始めると、近所の人たちの生活音がやたら気になった。そのせいか、眠りも浅くなったように思う。
都会の電車は、終電の時刻が遅い。終電ギリギリまで飲んで帰ってくる酔っ払いたちの話し声が窓の外から聞こえるのは、日常茶飯事。アパートなど集合住宅に住んでいると、上の階の人の足音なども気になるものである。楽器とかやっている人がいたら最悪だ。
以上、早川裕介の身の上話にしっかりと耳を傾けた上で、来部美明日はきっぱりと言った。
「あなたの生活リズムは少々自己中心的ね」
「え」
「あなたは他人の生活音を聞くのを嫌がっているけれど、他人が自分の生活音を聞くことになってしまう可能性についてはあまり考えていない。それを自己中心的と言っているのよ」
「確かに俺は遅くまで起きてるけど、生活音は出してないつもりだぜ。ほら、先に寝てる美明日が目を覚まさないようにイヤホン付けて、サブスクで動画見るか、ゲームやるくらいしかしてねえじゃん」
「早川君が起きている限り、生活音はゼロにはならないわ。たとえば、ちょっと喉が渇いてキッチンへ水を飲みに行けば、蛇口を捻って水を流す音、足音、ドアの開閉音などが聞こえるでしょう? 他にも、お手洗いに行ったりするときも同様よ」
「……うんうん、なるほどな。美明日の言うことももっともだ」
同棲を始めて分かったことがある。相手と意見が合わないときは、自分から折れた方が大抵は上手くいくのだ。ていうか、論理的で頭の切れる大教授美明日を言い負かすことはほぼ不可能なので、戦略的撤退でもしないとやってられない。
「要は、周りの音が気にならないようにして寝ればいいんだよな。何か良い方法ないかな?」
「そうね。ノイズキャンセリング機能付きのイヤホンを付けて寝るとか?」
「ごめん、耳にイヤホンの感触があると寝づらいからパスで」
同じ理由で、耳栓を付けて寝てもなかなか眠れなかった。
「ノイズキャンセリング音声や、睡眠用BGMを流すのも良いらしいわよ。水のせせらぎみたいな自然の音には、自律神経を落ち着かせてリラックスさせる効果があるの」
「へえ。美明日は何でも知ってるんだな」
「何でもは知らないわよ。知ってることだけ。しばらくは睡眠用に音楽を流すようにしてみようかしら」
眼鏡をくいと指で押し上げ、彼女は少し考える素振りを見せた。
「……ただ、対策を練るのは簡単だけれど周囲の生活音そのものはなくならないから、これからも苦労することはありそうね。もし夜中にバイクが爆音で走り去っていくようなことがあれば、いくらノイズキャンセリング音を流していても打ち消せないだろうし」
「え? あ、ああ。まあな。大したことじゃねえけど」
「それってちょっと可哀想だと思うのよ」
鏡の前で歯を磨いていた裕介を、美明日は不意に後ろから抱き締めた。そして、珍しく甘えた声を出した。
「ねえ。たまには静かなところへ旅行に行って、ぐっすり眠ってみても良いんじゃないかしら」
「よし、行こう」
柔らかいものの感触を覚えつつ、裕介は二つ返事で承諾した。別に程よいサイズの胸に負けたわけではない、と思う。
今回、ご迷惑をおかけした作品
・化物語