旅行先として選ばれたのは、箱根だった。
二人の住む湘南エリアからであれば、旅館がある箱根湯本までは電車で約一時間。さらに西へ移動して他の観光スポットを巡るにしても、登山電車や登山バスを使えば全然行ける範囲に収まる。
一旦旅館へ荷物を預け、若いカップルはまず大涌谷へ向かった。
「硫黄の臭いがすげえな……」
駅で電車を降りてすぐに漂う、強い香り。少し歩くと、噴気をあちらこちらからもくもく立ち昇らせる山々が見えてきた。霧も多く、この日は遠くまで見渡すのは難しかった。
「風、強いわね」
美明日が顔をしかめた。標高の高い場所だからある程度の寒さや強風は覚悟していたが、予想の三倍くらいは凄まじい。
「黒たまごが名物らしいけれど、ここで食べ歩きをするのは無理そうね。食べているそばから吹き飛ばされちゃいそう」
「とりあえず、お土産だけ買って行こうぜ。食べ歩きはまた今度でいいや」
ロープウェーで桃源台まで移動し、箱根海賊船とやらに乗ることにした。
高低差が大きいからだろう。ロープウェーで下っている途中で、耳が少しキーンとした。
眼下に広がる大自然の中に、たまに道路も見える。が、道がずいぶんくねくねしていて、あそこを車で移動するのは大変そうだ。電車メインの旅にして正解だったかもしれない。
「にしても、何で箱根で海賊船なんだ?」
観光船へ乗り込むとき、裕介は不思議そうだった。
「海賊ってのは海にいるもんだろ。芦ノ湖にいるのは普通に考えて変じゃね? しかも、西洋風の海賊船だし」
「正確には戦艦よ。十八世紀のフランスやイギリスで活躍した、有名な戦艦をモデルにしているわ」
「やっぱり何でも知ってるんだな、美明日は」
「何でもは知らないわよ、知ってることだけ。ていうか早川君、もう少し下調べしてから旅行に来るべきじゃないかしら」
「仕方ねえだろ、俺は俺で忙しかったんだよ。先輩方に『LFOとの戦いで忙しいですが、それはそれとして睡眠障害の疑いがあるから二日だけ休養期間を下さい』って土下座して頼んだりとか」
で、何で箱根で海賊船なんだ、と改めて尋ねると、美明日はすらすらと答えてみせた。
「元々は普通の観光船だったらしいわ。けれど、運営会社の社長さんがアメリカのディズニーランドを視察しに行った結果、今のような海賊船の導入を思いついたんだって」
「発想が斜め上だな」
「最近は新しい遊覧船もできたらしいけどね。こっちは普通の船らしいわよ」
海賊船が唸りを上げて進み始めた。甲板へ出て見渡すと、青い湖面と美しい緑が広がっている。
なお、周りにいるのは外国人観光客ばかりで、日本人はほぼいなかった。ツアーで着ているお年寄りをたまに見かけるくらいだ。それだけ海外からも注目されているのだろう。
「あっ、見て早川君。箱根神社の鳥居よ。SNS映えするって有名なやつ!」
「おお、本当だ……って、小さくね?」
海賊船から水中鳥居が見えるというので楽しみにしていたら、意外と遠くに小さく見えた。
「そうね。この航路からだと小さくしか見えないみたい」
美明日はちょっぴり残念そうだった。だが転んでもただでは起きず、スマホのカメラで一生懸命にズーム撮影していた。
何だかんだで箱根湯本の旅館へ帰って来て、入浴。
裕介たちが泊まったところは、上階に男女別の大浴場があった。露天風呂もあってなかなか充実した仕様で、さすがは温泉街といったところである。
ただ、恋人と別れて一人寂しく風呂に入るのもあれなので、家族や夫婦で入れる貸切風呂も予約しておいた。これは宿泊料とは別料金になるが、せっかく来たのだし、一時間二千円くらいなら安いものだ。
ガラガラッと貸切風呂の戸を開けると、ハート形の浴槽が目に飛び込んできた。
「おい、マジかよ」
思わず声を漏らす裕介。旅館の受付の人、妙なところで気を利かせてくれやがったな。ナイスだぜ。
「二人並んでお湯に浸かるには不便そうな形ね。実用的じゃないわ」
「なあ美明日、ここはもっとこう、ラブロマンス的なムードでいくべきじゃないかと思うんだよな。形が実用的じゃないとか、ロマンも何もないことを言うなよ⁉」
大真面目な顔でコメントした彼女に、裕介はツッコんだ。
「事実を言って何が悪いのよ。ほら早川君、早く入りましょ。一時間なんて一瞬なんだから、楽しまなきゃ損よ」
まあ長い付き合いなんだから当たり前っちゃ当たり前だが、特にこれといった恥じらいもなく、眼鏡を外し、てきぱきと服を脱いでいく。ちなみに、今日の下着にはブルドッグのブサ可愛いイラストがプリントされていた。いやどういう趣味してるんだよ。
そしてタオルを体に巻くと、シャワーでお湯を浴び始めた。
「お前って時々、ノリが良いんだか悪いんだか分かんねえよな……って熱っ⁉」
長い髪を洗うのに時間がかかっている美明日よりも一足先に浴槽へ入ろうとして、彼は悲鳴を上げた。張ってあるお湯が思ったよりも熱い。よく見たら、給湯器は四十二度を指している。
「水を足しましょう」
ごぽごぽと冷たい水を浴槽へ注ぐ彼女の姿は、クールというかビジネスライクというか、良くも悪くもいつも通りだった。こういう特別なときくらいデレまくっても良いのになあ、と裕介としては思う。ネトルの支配から救出したときなんかは、超デレデレしてた気がするのに――と考えた矢先だった。
「私も温泉に浸からせなさいよ」
美明日の体から分離したネトルが、腕組みをして祐介の横に立っていた。