①独走!コーヒー色のニューフェイス
鉄の臭いが嫌いだ。鼻の奥をツンと鈍く刺激するような独特の香りが、俺はどうも苦手だった。
日課の筋トレを終え、ダンベルを棚へ戻すと、俺の手のひらには大嫌いな鉄の臭いがこびりついている。だから、トレーニング後はハンドソープで念入りに手を洗う。ごしごしと、手のひらがヒリヒリするくらい丁寧に。
臭いが嫌いなら、筋トレなんかしなきゃいいじゃないか、と思うかもしれない。だが、そいつは無理な話だ。女にモテるためには、トレーニングで筋肉をつけておくことが不可欠である。
軽くシャワーを浴びて部屋に戻ると、俺は机に向かい、パソコンを起動した。プロテインをちびちび飲みながらYouTubeを眺める。といっても、ただのんびりと動画を見てリラックスしているわけではない。この時間さえも、俺にとっては勉強である。
ファッション系の動画をチェックするのが日課だ。流行の最先端を常に知っておけば、デートに着ていく服で迷うことはなくなる。さらに、時間のあるときに恋愛ドラマや少女マンガなども押さえておくと、女性がどういったシチュエーションにときめくのかをある程度把握できる。これも、デートプランを考えるときに多少は役立つ。
「待ってろよ、怜奈。次のデートでは、君を存分に楽しませてやるからな」
俺は――早川裕介はそう独り言ち、再生リストにまとめた動画を順番に視聴していった。
準備は万全。彼女を失望させるような要素は、何一つないはずだった。
「別れましょう」
遊園地デートの帰り道、志穂怜奈(しほれな)は出し抜けに言った。下の名前を二つ繋げたような変わった名前だが、それが俺の彼女の名だ。
「申し訳ないけど、私、裕介と一緒にいても心から楽しいと思えない。このまま付き合っても、上手くいかないんじゃないかと思う」
怜奈の声音はひどく落ち着いていた。おそらく、彼女はこのことについて何度も何度も考えて、既に自分なりの結論を出してしまったのだろう。
「どうしたんだよ、急に」
俺は焦っていた。そういえば、デート中に怜奈が浮かない顔をしているような気はしたけれど、まさかここまで深刻な事態に発展するとは思わなかった。
一体、何が彼女の機嫌を損ねたのだろう。自分で言うのも何だが、俺の肉体は女性受けのいい所謂細マッチョに仕上がっているし、ヘアスタイルもコーディネートもかなりお洒落な部類に入ると思う。デートプランに問題があるとも思えなかった。
すると、怜奈は俺をじっと見た。
「勘違いしないでね。裕介のことが嫌いになったわけじゃない。ただ、少し熱が冷めちゃったっていうか、夢から覚めたみたいっていうか」
「意味がよく分からないな。俺のどこがダメだって言うんだ」
「……はあ」
怜奈が深くため息をつく。
直接的な言い回しをしないことが、彼女なりの思いやりだったのかもしれない。今、怜奈はその微かな憐憫の情さえも捨てようとしている。
「じゃあ言わせてもらうけど、裕介の髪型も服装も、全部某ファッション系ユーチューバーの真似っ子じゃない。デートプランだって、毎週月曜夜に放送されているドラマのワンシーンにそっくりだったわ。ご丁寧に、主人公とヒロインがクレープを食べた店と同じ店にまで私を連れて行って、信じられない。ロケ地巡りかっつーの」
もしこれがマンガなら、「くわっ」という効果音付きで志穂怜奈の台詞が流れていただろう。今まで抑えていた不満がどんどん溢れ出してきて、俺はたじろいだ。
さては怜奈のやつ、俺が毎日見ているユーチューバーの動画を見たな。それが俺のヘアスタイルやコーディネートと同じだったものだから、幻滅したのだろうか。
「そ、そうそう! 怜奈もあのドラマ見てたのか。変なクレープ屋さんで主人公とヒロインが買い物をするシーンは笑っちゃったよな。あの店のオヤジ、歌を歌いながらクレープを作るんだから。『ダイ・ダイ・ダイ・ダダ・ダイエット・クレープ!』とか言ってさ」
「おいコラ裕介、話を逸らすんじゃねえ! 追い込まれると話題を変えようとするのが、てめえの悪い癖だぜ」
「すみませんでした」
「機嫌が悪くなると口が悪くなるのが、怜奈の悪い癖だぜ」と返そうかと思ったが、さらに状況が悪化しそうなのでやめた。……ていうか、俺の彼女ってこんなに怖かったっけ? ヤクザかっつーの。
「おまけに、体の鍛え方も某ボディービルダーが上げてる動画を参考にしてるわよね。前に裕介に抱かれたとき、私思ったもん。あっ、これ、某ボディービルダーをちょっとしょぼくしたような体じゃんって」
生々しい話になってきた。今、俺たちの周りには、俺たち同様に遊園地から出て駅へ向かう人々が溢れている。慌てた俺は、怜奈を遮るように弁明した。
「で、でもさ。俺はただ、怜奈に喜んでほしくて、一生懸命に勉強しただけなんだよ。楽しいデートにしたかっただけなんだ。本当だ!」
「悪いわね。私はそれじゃ楽しめないの」
フン、とそっぽを向く怜奈。それが決裂の合図だった。
「裕介、あなたにはオリジナリティーがない。他の誰かの真似しかできない人と一緒にいても、つまらないのよ。さよなら」
ひらひら手を振り、怜奈は足早に歩き去った。畜生、何て速さだ。とてもヒールを履いているとは思えない。
あとに残された俺は、とぼとぼと帰路につくしかなかった。悔しいが、怜奈の指摘は当たっている。俺は所詮、誰かの二番煎じしかできない男だったのだ。
思えば、これまでの人生も上手くいかないことだらけだった。それもすべて、俺にオリジナリティーがないからだったのだろうか。他人の真似しかできないからダメなのだろうか。
「……クソッ」
視界がぼやけた。シャツの袖で涙を乱暴に拭い、俺はあてもなく歩いた。
志穂怜奈に振られた日から、ちょうど一週間後。俺は社長に呼び出されていた。
大学院へ進学するも、研究に行き詰まって中退。就活に失敗した結果、流されるように地元名古屋のコーヒー店で働くことになった。給料は決して高くはなかったが、どうにかファッションに費やす金を捻出し、必死に自分磨きをして志穂怜奈をゲットした。一週間前、その彼女にも別れを告げられた。それが俺の、何をやっても中途半端な経歴である。
オメガコーヒー本店の事務所へ呼び出されると、恰幅のいい中年男性が待ち構えていた。
「よく来てくれた、早川裕介くん。社長の久保だ。君に、ぜひとも任せたい仕事がある」
「俺にですか?」
「そうだ。まあ、掛けたまえ」
「はあ」
言われるがまま、社長の向かい側の丸椅子に座る。一体、何が始まるというのだろう。
「今日から君には、これを使って戦ってもらう」
机の上に置かれていたアタッシュケースの蓋を、社長が開けた。中には銀色の携帯電話のようなものが入っている。
「何ですか、これは」
「VSチューナーのプロトタイプだ。君も聞いたことくらいはあるだろう。世間を騒がせている二大ヒーロー、百合レンジャーとBLレンジャーが使用する変身アイテムの名前を」
銃型のアイテムの試作型がなぜ携帯電話型なのか気になったけれど、他に気になることが多すぎたので、その質問は後回しだ。
「どうして社長がそんなものを持っているんです?」
「コネだよ、コネ。細かいことは気にするな」
これにはわけがあるんだ、と社長は続けた。
「先日、我が社の――オメガコーヒー本店の駐車場で騒ぎがあったことは、君も知っている通りだ。超次元生命体と名乗る輩が名古屋に現れ、百合・BLレンジャーがこれを迎撃した」
「はあ」
俺はその日、有給休暇を取得していたので、戦闘の現場を直接見たわけではない。あとからニュースで知った。
「この事件が示すのは、今まで都心ばかりが戦場になってきたが、名古屋も戦場にならないとは限らないということだ。超次元生命体の行動パターンは、高次元生命体と大きく異なる可能性もある。自衛の必要性を感じた私は、BL警察の友人のつてでVSチューナーのプロトタイプを取り寄せ、名古屋の平和を守るニューヒーローを誕生させることにしたのだよ」
「……なるほど、社長のお考えは理解できました。けど、どうして俺なんです?」
「それはだね」
なぜか社長は、言いづらそうに口ごもった。
「単刀直入に言おう、早川くん。今、オメガコーヒー本店は人手が余っている。要するにその、何だ、君には一時的に別の仕事を担当してもらおうというわけだ」
「……わ、分かりました」
つまるところ、俺はこの会社にとってさほど重要な人材ではなかったらしい。だから、社長の気まぐれでヒーローをやることになったわけだ。
あーあ。俺の人生、どうしてこうなったんだろう。
「引き受けてくれるかな? 早川くん」
期待に目を輝かせた社長の頼みを、断れるはずもなかった。
「あ、そうそう。ちなみに、この変身アイテムにはボイスロック機能があってね。他の人間が変身できないように、変身者の音声パターンを認識するんだ」
「……ええと、つまり?」
「早川くんの音声パターンは既に登録済み。したがって、これを使って変身できるのは早川くんのみということになるね。もし君がこの仕事を断れば、プロトタイプは誰も使用できず、無用の長物になってしまう」
「拒否権はないんですね⁉」
半ばやけくそになりつつ、俺はアタッシュケースを社長から受け取った。
「分かりました、やりますよ。やればいいんでしょう、やれば!」
経緯はどうあれ、早川裕介がヒーローへの一歩を踏み出した瞬間だった。
今回、ご迷惑をおかけした作品
・メガレンジャー