──中央暦1643年8月1日 アニュンリール皇国 北方都市ヴァシア──
真昼の日差しがブドウ畑の緑葉を照りつける。ジメジメとした空気が肌にまとわりつき、じんわりと汗ばむ。身体は先ほどよりも随分と暑い。
(体内の熱を逃しきれていないのかな。この状態って放置していても大丈夫なの?)
そんな疑問が脳裏をよぎる。ただ、ユミルは自分の頭からすぐにかき消し、作業の方に意識を戻す。
(そう、自分のことなんてどうでもいい。早く考えを切りかえて作業に戻ろう。また罰を受けるから。鞭打ちだけはイヤだ……そういえば今は無いんだっけ、まあいいや)
それにしても、今日は予想以上に暑い。いつもの様子とは違い、風はまったく吹いてくれないのだ。昨日までは山と海の両方から来ていたんだけど。
手元の作業に集中しようとするが案外上手くいかない。暑さと湿度のダブルパンチは思いの外ツラく、つい意識が遠のきそうになる。
数分後、男性の声が聞こえた。ブドウ畑中に響きわたる、とても聞きやすいものだ。場所は北側の畑とここの畑の境界線、農道の方から聞こえる。
「おーい、みんなー 今日の作業はもう終わりにしよう。こっちに来て休まないかー?」
人間種の家畜『ユミル』はようやくブドウの房から手を離す。疲労状態のためか、頭が少し重く感じられた。それでも、彼女は頭を声の方に向け、目を細める。
(あれは……ご主人様だ!!)
彼女は嬉しさのあまり口を緩め、全力で手を振る。
有翼人の主人はユミルに気づくと農道の木陰から手を振り返した。その表情は柔らかく、優しげな雰囲気を放っている。
眼差しは慈愛の精神に満ちており、神が自身の創造物を見るように優しい。そして、いつも通りにっこりと微笑む。
(なぜだろう、ご主人様の顔は見るたびに凄く安心する。理由はまったく分からないけど。他の有翼人と違うからかな?)
ユミルは額に流れた汗を手の甲で拭い、再度強く実感する。自分は非常に恵まれている、ご主人様は本当に優しい方だと。
(ご主人様に拾われたからこそ、今幸せに生きていられてるんだ。私の運は今まで思っていたよりも悪くない。そうじゃなければきっと……)
彼女は想像する。脳裏に浮かぶのは、他の有翼人たちの管理下で過ごした日々。わずか数年前の出来事だが、極めて鮮明に覚えている。
彼らは本当に理不尽な存在だった。罰や八つ当たりの回数は多すぎて覚えていない。その内容も多種多様であり、悪意の限界は無いことを思い知らされた。
もっとも、ご主人様は暴力を振るってこないし、罵倒や暴言も浴びせてこない。
人間種の家畜という最底辺の存在に対しても、眉をひそめてこないし、対等な存在のように接してくれる。
このような人柄の者は有翼人には滅多に居ない。ふと、ユミルは自身の過去を思い返す。
(過去に優しくしてくれたのは……養殖場の餌やりのおじさんだけか。大抵の有翼人たちは悪魔の化身だとしか考えられないくらいだし。一通り思い返すだけでも、凄く嫌な気持ちになる)
彼女は主人の傍まで全速力で駆けよった。過去の嫌な記憶を頭の中から振り払うように。他の家畜たちも後に続き、主人の周りに続々と集まる。
「今日もよく頑張ってくれたな。ありがとう、ユミル」
彼は彼女の黒髪を労わるように撫でる。その手付きは優しく、痛すぎもせず弱すぎもせず、ちょうど良い力加減だった。
指先の温もりが一日分の疲労を洗い流し、感謝の言葉を何度もかけてくれているように感じた。
「はい! 明日も明後日も、それ以降もずーっと頑張り続けていきます」
ユミルは自信満々に答えた。
主人は満足そうに頷いた後、彼女の目線までしゃがみ込み竹製の水筒を手渡した。
「ほら、水だよ。ユミルも喉が渇いただろう。冷蔵庫で冷やしておいたから飲みなさい。お代わりの水はたくさんあるからね」
彼女は嬉しそうに笑みを浮かべ、水筒の水を勢いよく飲み始めた。
彼は他の家畜たちにも水筒を手渡し、全員受けとったことを確認すると満足げに微笑んだ。そして、木陰のイスに腰を下ろし、携帯型のラジオのスイッチを入れる。
天気や日常のニュースを静かに聞きながら、机上の新聞を手に取り読みはじめる。
「また、燃料の配給が減るのか。これじゃあ、農具の買い出しを更に減らさないとな……しかし──」
彼は深々と眉をひそめ、時折小さくため息を漏らす。
なにやら、深刻な悩みごとがあるようだ。新聞記事の内容を何度も見返し、そのたびに眉をひそめ随分と思い悩んでいる。
いつもの様子とは違い、余裕や自信が見当たらない。そんな主人の横顔に対して、ユミルの胸が小さく痛む。
(もし出来れば、ご主人様の力になりたいけど……家畜の私たちじゃあ、何もできないよね)
ユミルは無意識のうちに不安げな視線を主人に送っていた。
主人はラジオの音量を少し下げ、彼女の視線に気づいて顔を上げる。そして、新聞を膝の上に置き優しく微笑んだ。
「どうした、ユミル。そんなに心配そうな顔をして」
「い、いえ、なんでもありません」
「そうか、そうか」
彼はユミルだけでなく、周囲に集まった家畜たちを一通り見渡す。その眼差しは慈愛に満ちていた。そして、まるで親が子を褒めるかのように、満足げな顔で口を開く。
「みんな、今日もありがとう。これからもしばらく暑いらしいが、よろしく頼む」
その言葉にユミルたちは一斉に声を張り上げた。
「はい! ご主人様!」
主人が膝の上の新聞に目を落とした、その直後のことだった。
携帯ラジオから流れていた、のんびりとしたニュース解説がブツリと途切れた。一瞬の雑音の後、緊急を告げるけたたましい電子音が鳴り響く。
「現在、臨時ニュースをお伝えしています!」
女性アナウンサーの声はいつもの落ち着きを欠き、緊迫と焦燥に満ちていた。
主人はハッと顔を上げ、ラジオに耳を傾けた。ユミルたちも何事かと沈黙する。ブドウ畑に風の音とアナウンサーの声だけが響いた。
「本日、中央暦1643年8月1日。先ほど世界連合より、皇国に対して正式な宣戦布告が通達されました!」
「なんだと?」
主人の口から小さな、しかし驚きに満ちた声が漏れた。
「世界連合軍はすでに皇国北方の島々を占領。現在、本土への侵攻準備を始めている模様です! 繰り返します、世界連合が皇国に宣戦布告! 北方の島々を占領──」
その瞬間、ユミルの胸に強烈な恐怖が襲いかかった。
「せん、せんせんふこく……」
隣の少女が震える声で呟く。
他の者たちも皆顔面蒼白になり、竦み上がっている。
彼女たちが経験してきたのは、有翼人同士の些細な争いに巻き込まれた際の悲惨な結末だけだ。世界連合という巨大な敵との戦いなど、想像すらできない。
(戦争……このヴァシアが?)
ユミルは震える体を無理やり動かし、ご主人様を見上げた。彼はラジオを握りしめたまま、信じられないという表情で立ち尽くしている。
ふと、ユミルは空に目を向けた。
畑の上空、青空の奥。太陽光を反射し、白く輝く飛行機雲のようなものが、いくつも西の空から流れているのが見えた。まるで昼間の空を流れる流星群のように。
その軌道はあまりにも一直線で不自然に速い。しかも、その先端はこのヴァシア、市街地の方角へと正確に向かっている。
「ご、ご主人様!」
ユミルは胸いっぱいの空気を吸い込み叫んだ。
「空を! 空を見てください! あの光変です!!」
主人はユミルが指差す方向を辿り、空を見上げた。その優しい瞳は一瞬で鋭く凍りつく。
彼は流星群のように見える光の筋を凝視し、次の瞬間、血の気が引いたように顔色を変えた。
「くそっ!!」
主人はラジオを手放し、凄まじい剣幕で叫んだ。
「みんな、すぐに畑の溝に伏せろ! 逃げろ! あれは流星なんかじゃない! 誘導魔光弾だッ!!」
その叫びが平和なブドウ畑に響き渡る。次の瞬間、遠くの空から低く腹に響くような轟音が聞こえ始めた。
終焉の音がヴァシアに到達しようとしていた。
──アニュンリール皇国 戦略防空基地──
ここは戦略防空基地の中枢。皇国全土の防空任務を集約的に担う、極めて重要度が高い場所だ。
首都マギカレギアより東方数十kmの山岳地帯の地下深くにあり、更に周囲を分厚い鉄筋コンクリートで覆っている。
もっとも、地表部のレーダー網はむき出しの状態ではある。ただ、皇国全土とのデータリンク網は地下深くに配置されており、有事の際には基地以外のレーダーも使用可能だ。
巨大なモニターは壁一面を埋め尽くし、皇国全土の地図が映し出されている。これには自国の防空戦力とレーダー網の配置と状況が映し出されており、リアルタイムでの指揮連絡を可能にする。
そして、今のモニターは多数の光点に覆われていた。敵の所属であることを示す、真っ赤な光点という異物の存在に。
警報の通知音がけたたましく鳴り響き、複数のオペレーターの報告が飛び交っている。
基地の最高司令官『ガリオン』は顔から一切の血の気を失っていた。焦燥感は極限まで高まり、呼吸のペースは荒々しい。
「世界連合の宣戦布告からわずか数時間。たったそれだけでこのザマか」
彼は考えこんでいた。ひとまず、冷静な判断力を取り戻すため、頭の中からノイズを無くそうとしている。しかし、あまり上手くいかず、ただただ時間が過ぎていくのみ。
周囲の部下たちは更に慌ただしくなり、戦況の悪化も予想以上に早い。それらの情報がどうしても目に入り、不安や迷いを思い浮かべしまう。
彼は負のループ状態に陥ってしまったのだ。
「報告します! 弾道型や巡航型の違いはあれど、数百発規模の誘導魔光弾が皇国全土に飛来。既に同規模の第5波目を確認しています。主要な軍施設、通信網、インフラ、港湾機能が次々と破壊されており──」
オペレーターの1人が声を震えさせながら続ける。
ガリオンは拳を握りしめ、冷や汗が背中を伝うのを感じた。
(恐ろしいな、ただただ恐ろしい。いったいどうやってこんな精密攻撃を……しかも物量の方も伴っている。何とか防空戦力が頑張っているようだが、このままでは)
自分や軍上層部の想定は甘かった。そうとしか言いようがない。どういう訳か、世界連合の攻撃は正確に目標を破壊出来ており、無駄弾は極端に少ない。あれだけの規模にも関わらず、わずか24発しか外していない。
(おかしい、あまりにもおかしい。まるで皇国内にスパイを潜ませているかのようだ。まさか、最初から知って──)
真隣の通信士が青ざめた顔で立ち上がった。
「し、司令官閣下! 極秘回線より緊急報告です!」
「なんだ、早く言え」
ガリオンはテーブルを叩いた。
「コア魔法の発射サイロが攻撃を受けました! サイロカバーに直撃。被害の差はありますが、すべて貫通されており、内部構造に被害を受けています。また、戦略原子力潜水艦も本体や港湾施設に攻撃を受け、すべて無力化されました」
その報告が基地の中枢を絶対零度の空気で満たした。ガリオンはあまりの衝撃に言葉を失う。
皇国が対外的な抑止力として極秘に維持してきた、核戦力のすべてが開戦初日で完全無力化されてしまった。それはつまり、世界連合諸国への有効な反撃手段が失われたことを意味する。
皇国は世界連合軍から制海権を奪い、わざわざ敵地本土に上陸しなければロクなダメージすら与えられないのだ。
彼はモニターの光点を睨みつけた。まだ、世界連合軍の航空戦力は皇国上空に現れておらず、小さな機影1つさえ見当たらない。
「くそったれ!」
ガリオンは絞り出すような声で呟き、立ち上がった。
「まだ奴らは航空戦力はおろか、地上部隊すら投入していないんだぞ!」
多数の誘導魔光弾による先制攻撃。たったそれだけで皇国の心臓は止まりかけていた。
「こんなに差があるとは……世界連合は我々が数十年かけて築いた戦略兵器をたった一回の攻撃で塵にした。これは戦争ではない。ただの虐殺だ」
ガリオンのつぶやきは鳴り響く警報にかき消された。しかし、その声は基地にいる誰もが共有する、敗北の予感そのものだった。
【用語解説】
『コア魔法』
魔法文明の核兵器。地球の核兵器と同じく、核分裂反応型と核融合反応型が存在する。
原作・本作のラヴァーナル帝国は大きな爆弾としか認識しておらず、平気でポンポンと使用する。市街地や民間人の有無は関係ないようだ。
『誘導魔光弾』
魔法文明のミサイル。多種多様な種類が存在するらしく、丸型の物から弾道ミサイルのそっくりさんまで幅広い。