転生したら死食鬼だった件。   作:パイナップル人間

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★第110話〜114話、同日投稿★


第111話...異形の神様

蛭子はピクリとも動かず、祠に座り続ける。

 

しかし、語り部としては神として座らさせられているだけ蛭子の状況を話してもつまらない。

 

そうだ、蛭子の心の内を語ってみよう。

ちなみに注釈だが、蛭子に真っ当な自我は無い。蛭子の心に微かにあった動きを、上手く現代の言葉に合わせて語るとしよう。

 

 

蛭子が最初に見たのは女男の青い顔。

本能で、これが自分の親であると理解した蛭子は同時に疑問に思った。

何故、そんな顔をするのか?

 

分からないまま、蛭子は親から手を離された。

帰巣本能が働いたのかもしれない。

どうやったのか本人も理解しないまま蛭子はきちんと家に帰った。

しかし見ることの出来た親の顔は変わらない。ずっと青いまま微かに震えている。

何度も何度も蛭子は親元に帰った。

そしてその度に見える表情は右肩へと下がっていった。

 

最後に見たのは、もはや無に近い絶望の顔。

 

 

蛭子はツヅラの中にいる間、親の気配を辿っていた。閉じ込められた事も理解できないまま、親と子は初めて一晩を共にした。

蛭子はそれが無性に嬉しかった。

だって、家族は一つ屋根の下で共に暮らすのだから。

十年という期間、ただ暗闇しかない空間でも苦にはならなかった。

親の話し声が聞こえる、足音も息遣いだって聞こえる。蛭子は寂しくなかった。

ただ少しだけ...寒かった。

親の温もりを感じたかった。それだけ。

 

 

ふと親の気配が消えた。

蛭子は、また捨てられたのだと理解した。

胸に何か大きな穴が空いたような、けれども最初からその胸には何も無かったような...そんな気持ちの悪い感覚があった。

初めて、暗闇の中、自分がどこに居るのか分からなくなった。

それでもツヅラを自ら出なかったのは、親が“出るな”と言ったからである。

子はきちんと、親の言いつけを守り続けた。

 

 

だから、青い空を見た時は焦った。

言いつけを破ってしまったからである。

そして親では無い人々の顔を初めて見た。皆同じように青い顔をしていた。

言いつけを守れなかったからだろうか?

槍で串刺しにされて、腕を切り落とされて。

ぐちゃぐちゃに潰されるのも、目を抉られるのも。熱いのも冷たいのも、暗いのも。

これはきっと罰である。

耐え切る事が出来たらきっと......きっと、何だろうか?

 

毎日の様に与えられ続ける痛み。

しかし、徐々に村の者達に笑顔が見えるようになった。青い顔以外の人の顔を初めて見た。

 

蛭子は嬉しかった。

自分が、誰かを笑顔に出来たのだ。

胸に空いた穴が埋まった様で、何も無かった胸に濁りが溜まったような感覚だった。

 

蛭子が痛みに悶え、たまに漏れる音に村の者達は歓喜した。

あぁ、自分が痛い思いをすれば人々は笑うのだ。それだけで、どんな痛みでも耐えられる気がした。

 

それからずっとずっと、蛭子は耐えた。

死にそうになれば体を戻して、村の者達の笑顔を見て嬉しいと思えた。

この体は人々を幸せにする事が出来るのだと、蛭子は少し自慢したい気分だった。

 

時の流れの中で、村の者達の笑顔の質が変わった事に気づいた。

それと引き換えに村も村の者達も綺麗に煌びやかになっていった。自分の体を利用して。

自分は楽しませるだけが能ではなかった。役に立つ事だって出来る。

 

蛭子はもっともっと嬉しくなった。

痛くて、苦しくて、泣きたくなっても、それでも嬉しかった。

 

でも......寂しかったのかもしれない。

傷をつけてくれる村の者達の足の隙間から、見えた家族は笑っていた。

お互い傷なんてなくて、でもお互い笑顔で。

相手がそこにいるだけで、彼らは笑っていた。

少し、羨ましいと思ってしまった。

 

 

蛭子の元に訪れる人々が途絶えた。

痛くも、苦しくもならない。

何故だか泣きたくもならなくて、嬉しくもなかった。

もう自分では、誰かを笑顔には出来ないのだと理解してしまったから。

 

 

綺麗に整えられた祠へと、手を引かれる。

久々に触れてきた村の者は痛みを与えなかった。ただ、“座っていろ”とそう言った。

きっとこれが最後なのだと理解した。

そこに座り続ける事が、誰かを笑顔に出来る最後の手段なのだと。

言われた通りに従えば、蛭子の手を引いていた村の者は安心したように笑った。

ほら、やっぱり。

 

 

蛭子が身を削れば、人は幸せになる。

人が幸せなら、蛭子だって嬉しい。

痛みと苦しみは、もしかしたら蛭子自身に自身を肯定させていたのかもしれない。

 

 

 

 

さてさて、蛭子も今となれば神である。

いつまでたっても代わり映えのしない岩肌を眺めるのも飽き、目をつぶって座り続けること二百年弱。

 

世間は随分と姿を変えていた。

街になった後も、他から多くの者達が流れてきた。その中には、俗に言うスパイなる者も紛れていた。

スパイは技術を盗み、遠方で村を鼓舞しそこで新たに街を作った。そしてその街からまたスパイが技術を持ち出す。

数万とあった村は数千の街になった。

 

街には自我がある。

これは俺のだ、ここは私の場所だ。もう五月蝿いの何の、主張だけはいっちょ前なのだ。

その自我は自尊心が人一倍強い。

いいやこれは私のだ、ここは俺の場所だ。等とほざかれれば分からせてやりたくなる。

 

自我が武器を手に取るのは人間の欲が自制できなくなってからである。

 

数千の街は数十の国になった。

一番最初に国になったのは、言わずもがな、蛭子の居る街であった。

蛭子を元に生み出された技術は、発展を遂げ他を蹂躙する。

国は世界の頂点を気取り、己を正解として他者を踏みにじり続けた。

 

その国の特産品は奴隷商であった。

男には労働を強いて、女には体を開かせた。

経済的にも豊かな国は、魔法にも長けていた。

敗戦を叩きつけた国の魔法士を根こそぎ連れ去り、技術を奪い取ったのだ。

魔法士の体が悲鳴を上げても、血が吹き出しても。自体は巡るもの、他人がどうなろうと渇望は止まらないのだ。

 

 

国のある一角は女の蜜で溢れていた。

森に隣接するように置かれた店には、連れ去った女が喘ぎ男が欲をはき出す。

森に近いのは旅人達に金を落として貰うためでもあるが、不思議な事にその方面だけは魔物が現れなかったからである。

理由は蛭子の存在。蛭子のいる祠の一定区間には嘘のように生物が存在しなかった。

国民はそれを加護と呼んだ。

 

 

 

少女が一人、森を駆けていた。

今日も夜遅くまで体を舐め回され心を殺した少女が、涙を流しながら必死に森を駆ける。

逃げている、と言うと違うかもしれない。

だってもう帰る家は焼かれたし、祖国は存在していない。ただ久しぶりに外に出たくなっただけなのだ。

 

足の裏が擦り切れてしまいそうになりながら、少女は走り続けた。

行く場所なんてなくても、少しでも遠くに。

遠くに、走って、走って

──────洞窟を見つけた。

 

 

何かに引っ張られるように、少女は洞窟の奥へと進む。入り組んでいて、何度も別れ道がある様な立派な洞窟。

もう、外には出られないかもしれない、でもそれでもいいかもしれない。

 

大きな地底湖の横を通り過ぎて、もっと奥へと進む。そこには、やけに開けた場所があった。

その中心に、白装束に身を包んだ蛭子がいた。

祠の台の上に、座り続ける蛭子が。

 

久々に感じた空気の揺れに、蛭子が目を開ける。“黒い目と緑の髪”の珍しい配色の少女と目が合った。

 

 

「──────綺麗」

 

 

ボソッと少女が呟く。

この世間知らずの少女は、馬鹿みたいに蛭子の目を見て綺麗だと言ったのだ。

右に三つ、左に二つ。光の当たり方によって色を変える不気味な目を、綺麗だとそう言ったのだ。

 

 

「......は、じめて......初めて」

「なっ何? 聞こえないよ」

「初めて、言われた」

 

 

蛭子にとって、初めてまともに発した言語である。

 

「あっ、貴方は神様なの?」

「...なぜ、そう、思う......?」

「だって聞いた事があるの。鱗に覆われた不思議な目を持つ神様、それが貴方なの?」

「そう、なのかも...しれない」

「そうなのね......あぁ、そうなのね。神様ってこんなに────綺麗なのね」

 

 

少女は蛭子へと近づく。

触れてもいいかと聞く少女に蛭子は頷いた。

そっと包み込むように、鱗に覆われた右手を持ち上げられる。

蛭子には分からなかった。自分にはしたい事をどんな風にしても良いのに、なぜこの少女は問のか。どうして、この少女の手はこんなに暖かくて優しいのか。

痛くないのに、何故だか嬉しい。

目から溢れる、水の名称を蛭子は知らなかった。

 

 

「この鱗も、凄く綺麗ね」

「持っていっても、いい」

「え? もっ持ってかないよ! 何言ってるの。貴方の一部だから綺麗なんだよ」

「............分からない」

「本当だよ。本当に貴方は綺麗なの。ふふっ、神様って怖い存在なのかと思ってた。違うのね、神様だって触れればこんなに温かい」

 

 

少女は楽しそうに蛭子の手を握って、殆ど一方的な会話を楽しんだ。

蛭子は握られた手を握り返すことすらしないのに、少女は満足げだ。

 

 

「おい!何処だ!! 何処にいる!!」

 

声が響く。

少女を探す声だ。まさか、こんな所まで来るとは。自分が一番だと思っているこの国の者たちからしたら、自分の所有物が逃げ出すなど言語道断。もはやそれは執着だった。

少女の飼い主は騎士である。こんな険しい洞窟でもひょいひょいと足を進めてここに辿り着いてしまうだろう。

この神様を隠したい、そう少女は思った。

それも、一種の執着だった。

 

 

「もう、行くね。ありがとう」

「......貴方に、恩返しが、したい......何か」

「恩返し?」

「貴方は...暖かかった」

「なら、また、ここに来ても......いい?」

「貴方がそう......望むなら」

 

 

神様と少女の奇妙な関係が始まった。

必然か、偶然か、運命と呼ぶのも存外に似合うかもしれない。

 

少女が来るのは不定期であった。

蛭子には日の跨ぎも朝も夜も分かりはしないが、それでも一律になる鼓動が時を教えてくれていた。

少女を目の前にすると、鼓動が少しだけ乱れてしまうから、正確に時を測れている訳では無いが。

 

次はいつ来るのか。

百年弱、静寂を嗜んだ湖面に土砂降りの雨が降るように。枯れかけた水面を上昇させ、土をかき混ぜ、荒ぶるように。

ぐちゃぐちゃにされているような気もするのに、次はいつその雨が降るのかを待ち続けてしまう。“次”を楽しみにしてしまう。

 

「神様は文明の神様だって聞いた」

「文明?」

「そうよ、文明を与えてくださった異形の神様。そうやって語り継がれてる。酷いよね、貴方は異形なんかじゃないのに」

 

そうやって少女が不貞腐れる日もある。

 

 

「またこの国は戦争に勝ったんですって」

「戦争?」

「神様は戦争を知らない? あれはただの蹂躙よ。この国の最先端の技術が、他を踏みつけるの。私も、踏みつけられて蹴り飛ばされて、こんなところにきちゃった」

「技術......」

「そういえば、貴方はこの国がまだ村だった頃に技術を与えた神様なのよね」

「............あ、」

「ううん! ごめんなさい、今のなし」

 

そうやって、恨めしそうにこちらを見る日もある。

 

 

「......なぜ、泣いてる?」

「今日は随分と、手酷くて」

「手酷い?」

「............ごめんね、何も言いたくない。貴方には取り繕ってても、綺麗な私だけを知ってて欲しい」

「分かった」

「ごめんなさい」

 

少女が蛭子に涙だと教えた水を、垂れ流す日もある。

 

 

たまに会って、出来る会話はたかが数分がいい所だった。

それでも、少女は帰り際に必ず言うのだ。

「また次も、絶対に来る」

蛭子もその言葉を信じていた。

 

 

「神様は、こんな洞窟の奥に居て退屈じゃない?」

「ない」

「そう? 代わり映えしないじゃない。ここには岩と水音しかない」

「ここには、貴方が...来る」

「えっ、もー! 恥ずかしい事言うんだから!」

 

普段、蜜を売る少女は幾度なく体裁のいい言葉を聞いてきた。

けどこれはダメだ。なんの穢れも含まず、下心も無く、純粋な迄に蛭子が口にする言葉はダメだった。まるで媚薬である。

 

少女は台に乗り上げて、蛭子の口端を左右に伸ばす。表情筋が皆無な蛭子を無理矢理笑わせるように。

 

「神様って、誑しの神様なの?」

「分か...りゃない」

「りゃない...だって、ふふっ、ねぇ神様。神様は私の居場所なんだよ?

貴方の横で、こうやって他愛もない話をして。その瞬間だけは、私が私でいられる。

貴方と一緒に居られるだけで、私は嬉しくて幸せ」

 

蛭子は少女に口を引っ張られたままでは満足に話せないと、イヤイヤと首を横に振る。

それにまた少女は笑った。

やっと開放された口で、少しだけ蛭子は不満を漏らす。

 

「貴方は何も、持っていかない」

「持って?」

「鱗でも、目でも、臓器でも...貴方は、何かを必要としない」

「だって要らないもの」

「この体以外で、人を幸せには出来ない」

「出来てる! 私はすっごく幸せ。

でも......そうだな、強いて言えば貴方の心が欲しいな」

「心?」

「そう、心......んッ」

「......!」

 

するりと少女の手が頬を撫でる。

また、口を引っ張られるのかと思ったが、そうでは無いらしい。

優しく、触れるように、少女の唇が蛭子の少しカサついた唇に触れる。

何度も角度を変えて、行われるその行為に蛭子は名称を付けられない。

 

「............な、に」

「知らない?」

「知らない、分からない」

「そっか......した事あった?」

「ない」

「ないのか...そっか、じゃあ私が初めてだ」

「笑ってる」

「私が? ふふっ、だって、初めてを貴方から貰っちゃった」

「何もあげてなんて」

「ありがと。また来るね」

 

何故か、顔をもっと赤くして小走りで立ち去る少女。

その背中を見送って、蛭子は目を瞑る。

蛭子には分からない。なぜ彼女が嬉しくて幸せなのか。蛭子自身が居場所であるという少女の真意が分からない。

けれど、まだ他者の感覚が残る唇を撫でると、鼓動がやけに早まってしまう。

心が何時もより、ふわふわしている。

蛭子はこの現象を知っている。蛭子は嬉しいのだ。

 

 

 

 

少女はいつしか、幼さを無くした。

胸が膨らみ腹がくびれ、湿り気のある黒い目は色気を纏った。

それでも、長くなった緑の髪を揺らして、彼女は蛭子の元にやって来た。

 

「ねぇ、神様。私達が出会ってから十年も経ったんだよ」

「......そうか」

「十年も経ったのに、私は貴方がそこから動いたところを見た事がない。何かしたいとか、そういうのも聞いたことが無い」

「......動きたいと、思わない」

「なんで? その、鎖のせい?」

「違う」

「じゃあ...何?」

「ここに居れば、人は笑う。鎖がなくても“動くな”と言われたなら動かない」

「じゃあ、私が“動いって”って言ったら?」

「............それが、貴方の幸せになる」

「うん。一緒に手を繋いで、歩くの」

「............わか、らない」

「そっか。私は、過去の人に負けるのね」

「...?」

 

 

馬鹿な蛭子には分からない事だが、彼女は少しだけ虫の居所が悪かった。

彼女の飼い主は騎士であったが、最近はその男の子供に毎晩の様に股を開き心も体も疲弊していた。

何時になってもベタベタと触り気色の悪い愛を囁く。体内に割いる腐敗した愛が、神様と育んだ穏やかな心を蝕むようだ。

 

もう、逃げ出してしまいたいのに。

これから先の未来に希望なんてなくても、ただ道端で野垂れ死に、虫か獣かに食い殺されても。それでもこの心と神様に向けた人らしすぎる思いを美しいままにしておきたい。

 

けれどこの人はどこまでも神様だった。

どこまでも平等に、ただ受け入れて与えるだけ。この神様を人間に引きずり下ろしたいのに、彼女の腕力では足りない。

どれだけ力を出しても、反対に引く力が過去から現代までの信仰になって敵対してくる。

なら、神様から降りてきてもらおうと頑張ってるのに、ちっともダメで。

 

なら、殺してと頼んだらそうしてくれる?

愛した神様の手で、この心を綺麗に保ったままで──────あぁ、でもやっぱり手を繋いで日の下を二人で歩きたい。

 

 

 

 

「ねぇ、神さ「オレの腕から抜け出して浮気かぁ? いい度胸じゃねぇか、なぁ!?」

 

まるですがるような彼女の声を遮ったのは、荒々しい男の声。

酒に煽られ頬を赤らめた男は、覚束無い足取りでこちらに近づいてくる。

 

「ッなんで、ここに......!」

「ダメじゃないか...ちゃんとオレの元にいないと、それがお前の役目だって何度も言っただろ」

「イヤッ!」

 

あの穏やかな空気は何処に行った?

何もかもを押し入って、暗澹が迫り来る。

先程まで自分を思う存分に抱いた男が、今自分達だけの神聖な空間に侵入している。

その事実だけで、彼女の脳を錯乱させるには十分だった。

 

あぁ、とうとう...見つかってしまった。

 

暗澹は女らしい細い首を掴み、地へと押し倒す。ちょうど蛭子を見上げる事の出来る位置。

ちょうど蛭子がこちらを見下ろすことのできる位置。

光の加減で色の変わる目は、真下から覗けば真っ黒に見えるなんて知りたくなかった。

 

 

 

「嫌っ、お願い...私が悪かったから...!」

「そうだよな? あぁそうだ。お前は神なんぞのガラクタにうつつを抜かした愚か者だ。

なんだ? そんなに必死になって逃げてよぉ!

そんなにこの座るしか脳の無い神が好きか?

あぁ、......いい事を思いついた」

「な、に、......イヤ」

「悪い女には罰を。神に許しをだろ?

喘げよ。神の目の前でさぁ!!」

 

 

蛭子には、今の状況を理解する脳がない。

あるのかも知れないが、使い方などつゆ知らず。

 

剣を握るであろう男のゴツゴツとした手が撫でる、淑やかでシミ一つない女の太もも。

淫靡の滲む汗と、増悪に汚れた涙。それらの液体が混ざり合い白く濁れば鼻を着くような匂いがした。

交差する吐息は両者別の高鳴りを見せ、方や欲を方や殺意をその息に込めていた。

 

乱れた衣服、体液に溶けた化粧。

その余りにも汚い光景が、彼女が綺麗だと言った鱗に反射する。

 

蛭子は今の状況を理解した。

これは“主従関係”を植え付ける行為であると。

 

 

「神様ッ、助けて!!」

 

悲痛な声が卑猥な水音に濡れた鼓膜を揺らす。

頭にぼやけて届くその声を音としてなら認識出来た。しかし、「助けて」のやり方を蛭子は知らない。

だって勝手に取っていってくれなくては、この体を使ってくれなくては蛭子は何も出来ない。

自分から、どうにかする方法なんて一つも知らない。

そうだろう? 彼女との十年近い交流も、全ては彼女が「また来てもいいか?」「絶対に来る」そう言ったから続いたに過ぎないんだから。

 

 

けれど......この気持ち悪さは何だろうか。

何かが、体の奥深くで何かが暴れようとしている。蛭子の情けない脳みそは限界だった。

“動くな”という人間の願いと、体の中で“動け”と騒ぐ何かがぶつかり合っている。

ここを動けば、きっともう自分は誰かを笑顔に出来る存在ではなくなってしまう。

でもここを動けば彼女を笑顔に出来る。

 

 

男と女の皮膚の当たる音は、まるで蛭子の何かを壊すようだった。

それは鎖か呪縛か、はたまた蛭子が勝手に生み出した存在意義か固定概念か。

 

しかし同時に、その音は彼女の心の壊れる音でもあった。

皮膚が一つなれば心に皹が入り、太ももに水滴が伝えば心に閉じ込めた大切な物が流れていく。

 

蛭子は彼女から見れば、やはり何処までも神様であった。

慈悲深く冷酷な矛盾を孕む、されど平等な存在。神は絶対的であれど、部外者だ。

 

神に向ける愛など、所詮一方通行であった。

 

あぁあぁ...神様どうか、どうか

──────願う事なんて何も無い。

 

 

「神様......神様......ッ、んッ...はぁ、神...様」

「あぁ゛!?」

「............神様、神様」

「チッ、壊れたのかよ」

「────神様」

「あ゛ー、うるせぇな! 神様、神様ってよォ! お前は俺だけ見てればいいって何度言えばわかるんだ、あぁ?」

 

 

壊れた人形のように、神様とだけ呟き続ける彼女に男は激昂した。

男が見せる執着は、女が他者に目を向ける事を良しとしないらしい。自分だけに愛を向けてくれなくては、我慢ならない。

 

するりと腰から抜き取られた剣は愚かな蛭子を反射させ、激昂に突き動かされその鉛を振るう。

彼女の心境は容易に想像出来れど、やはり蛭子には理解及ばず。ただただ、宙に舞う女の頭と目を合わせた。

 

剣で切られた衝動で肩より上にバッサリと切り落とされた緑髪と、光すらも吸い込んでしまいそうな漆黒の瞳。

 

 

──────やっと、蛭子は理解した。

「助けて」とは、「殺して」だと言うことを。

彼女は、蛭子に男を殺すように願ったのだ。

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