「──────今、助ける...から」
蛭子を縛る鎖が完全に役目を終えた。
無理矢理引きちぎられた鎖は縛られていた足と共に吹き飛び、新たに生えた足が男の方へと歩み出す。
平等とは程遠い、たった一人の女の為の行為。
しかし関係ない。だって蛭子はもはや神ではない。“動くな”という声を無視した瞬間、蛭子は人間に戻ったのだ。
押し倒した男の屈強な首に回る小さな手。栄養失調気味の骨と皮だけの手が有り得んばかりの力で死へと導いていく。
爪に引っかかった皮膚が耐えきれずに捲れて、男の口から漏れる唾液と涙が混ざり地に水溜まりを作り出す。
どれだけ暴れても、嗚咽を漏らしても、屈強な男はただの細く弱い“人間”に負けるのだ。
尿廃物の香りが鼻をつく頃、蛭子の手の中で何か太い物が折れる音がした。
蛭子は人体には詳しくない。後で勉強をしなくては。いつの日か、蛭子の体を切り開いて書き記された人体についての書物を使って。
男の声が聞こえなくなって、蛭子はやっと意識を覚醒させた。
自分の細い両手が、視界の中で震えている。
殺したのだ男を。助けたのだ、彼女を!
例え蛭子以外にこの洞窟で生命活動を維持する者はいなくとも......
《確認しました。ユニークスキル「奇形児」を獲得──────成功しました。》
無性に込み上げて来た吐き気に、思わず蛭子は口を覆う。先程男を殺した手で。
しかし肉の無い手で受け止められるものはない。
込み上げる胃液が、指の隙間から漏れ腕を伝い、肘から落ちる。落ちた先は男の顔。
煩いくらいに騒いでいた男は静かに抵抗する事もなく自分の吐瀉物を受け入れている。
ずっと、この数百年間、誰かの笑顔と幸せの為に生きてきた。己の身を削ってきた。
その誰かを殺めたのは初めてだった。
次にすり減るのは心であるらしい。
スカスカな頭では処理出来ない感情の渦を、蛭子は放置する事にした。ましてや奥深く、もう二度と取り出せないような奥深くにしまい込んだ。
そうでなくては、蛭子は立って前を向けない。
前を向いてどうするか?
簡単である。蛭子の幸せは人の幸せ。
蛭子はぐちゃぐちゃな感情をしまい込む瞬間に感じ取った。自分が嬉しいと思っているのを。
蛭子は誰かを救う事の喜びを知ったのだ。
この洞窟を出れば、助けるべき人が沢山居る。
それだけで蛭子は足を進められる。
神でなくなった蛭子は自分の為に生きてみる事にした。人を助けたいと願う自分の為に。
体も心もすり減らして。
蛭子は嬉しくなった。こんなにも目から涙が溢れ出ていても、蛭子は口角を上げてしまうほど嬉しかった。
“動くな”、それが最後だと思っていた。
自分が人を笑顔にできる、最後の命令だと。
でも違った。まだ蛭子は人を笑顔に出来る。
だって彼女は蛭子に助けてと望んだ。望みを叶えれば人間は笑顔になるのだ。
つまり、彼女の様な人間を助ける事が蛭子の新たな役目という訳だ。
馬鹿な話だと、口を挟む者はいない。
意味がわからない、支離滅裂だと苦言を呈す者はいない。
「起きて、助けたよ...なのに、なぜ...」
───動き出しはしない?
解答は一つ、死んだからである。
初めて自ら抱きしめた彼女の体は、蛭子よりも小さかった。触れられると、こちらにまで熱が移ってしまいそうだった体はいつの間にか冷たくなっている。
いつも彼女が頬を撫ででくれるようにその手を頬へと無理矢理持っていっても、血が綺麗だと言ってくれた鱗にへばりつくだけ。
触れるような口付けを落としたって、生き返る訳では無い。
「助けて」とは、「殺して」だ。
彼女は、蛭子に男を殺すように願ったのだ。
しかし彼女は死んだ。
男を殺すだけでは、彼女を助けられなかった。
生命とは存外に呆気ない。
どれだけ生きた事を主張しようと、死体の匂いは男も女も変わらないのだ。
蛭子はその腕に彼女を抱きかかえたまま、動き出した。
右で女をかかえ、左で男を引きずる。
掴んだ男の髪の毛が何本かブチブチと音を立てて抜けても、岩で擦れて腕や足がちぎれても蛭子には興味も無いこと。
地底湖まで辿り着いた頃には祠からここまでの道が血濡れていても、やはり興味など湧きはしない。
沈んでいく男の体も、血で濁った水も同義である。
蛭子は岩を背に座り込む。
大切そうに女を抱え直して、もう一度口付ける。そうすると、しまい込んだばかりの感情が溢れ出して来てしまう。
愛だとか、喜びだとか、幸せだとか...嬉しさだとか、そんな善性的な感情。彼女が植え付けた、未知の感情。
それらが、まるで骨に成り果ててしまう様にバラバラに崩れ落ちていく。
出てこなければいいのに、しまい込んだばかりならそのまま忘れてしまえばいいのに。
人間の心は、善性と密接すぎた。
蛭子の善性は全て彼女だ。
死んでしまったたった一人の女が、蛭子の善性の全て。
血が上って黒ずんで、硬くなる。
花のように散ったかと思えば、穢れが九つの穴から溢れ出す。
溢れてしまえば、外気の醜悪さが皮も肉も破って壊れてしまう。もはや判別不能になって、それがなんだったのか分からなくなってしまう。
破れ壊れれば、血が溢れる。
あちらこちらを斑に染めて、醜悪に飲み込まれていく。漂う悪臭は、かつての姿を忘れさせるには十分だった。
巡るものがなくなって、肉が滑り落ちていく。
蝋燭が解け落ちるように、ゆっくりと目に見えて形がなくなっていく。
残った皮や肉は醜くたるみ、やはりか元の姿を忘れさせる。
散らばる鮮やかさは、過去の栄光か。
五臓六腑に別れを告げたなら、何が残る?
バラバラに散乱した骨は、人とは呼べない。
頭は上に、足は下に。それが人間であろう。
腕に収まらないなら、それはもはや過去の物。
人間が死ぬのが一瞬ならば、善性が死ぬのに約十年。
腕に抱えた彼女の何かがカラリと音を立てて落ちたなら、もう蛭子の善性は何処にもない。
固まって、流れて、乾いて、消えてしまった。
残ったのは醜悪的な骨と、十年前に知った人を憎み怒るような悪性だけ。
蛭子は二桁の年を明かして、久しく立ち上がる。
馬鹿な赤子でも立ち上がり方は忘れていなかった。さすが数百年祠に座り続けてなお、すぐに歩いて人一人殺しただけの事はある。
同じ体制でいたのに、足の痺れひとつない。
その素晴らしい人体に鼻で笑ってやりたい物だ。
身にまとっていたボロボロの白衣で骨を包み、特になんの感慨も無いまま蛭子は外へと歩き出した。
面白いことに“悲しみ”とは善性であるらしい。
だから蛭子は悲しまない。例え唯一の愛の対象者が消えても思うのは虚無だけ。
あぁ...愛も善性であったのだったから、こんなにも馬鹿げた皮肉も無い。
所詮は作業、感情など不必要だ。
一歩歩く度に手に持つ骨がカラリっとなるのは、嘲笑であろうか。
蛭子に対してでは無く彼女に対しての、世界からの嘲笑だ。
数百年前に祠に連れられた時、目隠し等はされなかったからか、迷うこと無く外へ出る事が出来た。徐々に鼻につく森林の香りや音は何処か懐かしく、何か思うべきだと言うのに残念な事だ。
洞窟の先にあった陽の光に蛭子は微かに顔を歪ませ、また歩き出す。
今度は川のせせらぎの音に向かって。
蛭子は存外に川と馴染みがある。
捨てられて、殺されそうになって、生死を共にした清い水の集まりだ。
彼女の残骸をここに捨てる事は蛭子の無意識的な餞であった。
白衣に包んだまま、川へと放り投げればそれは大きな水柱となり広大な海を目指して進み出した。
さて、久しぶりに面白い話をしよう。
腹を抱えて笑ってもいい程の、皮肉な話だ。
女は蛭子と一生を添い遂げたかった。それだけ愛していた。そして愛していれば、愛を返されたいのが道理である。
愛とは善性。つまりは、たった今彼女と共に川に流れた物である。
ほら、彼女は願いを叶えた。
愛した蛭子の衣服にくるまって、愛を一身に受けて死んで行った。
なんと幸せな事だろうか。
だが...蛭子には悪性が残った。
女が憎んだ、あの男の悪性が。女は一生を共にはできたが、蛭子には何も残せなかった。
一人よがりな結婚式でも今頃上げているのだろうか? 報われない女とは、どうも空虚だ。
ほら、どうしようもない馬鹿しかいない。面白い限りだろう?
しかし蛭子は結婚式に出席などしない。
彼女の立てた水柱で荒れた水面を見つめながら、これからを考えていた。
先ずはこの見た目をどうにかしなくては行けない。このままの姿で森を出てしまえば、捉えられてまた同じ事の繰り返しになってしまう。
長い付き合いである以上、自分の体への理解はきちんとしている。鱗を剥いでも、目を抉りとっても再生すれば元通り。しかし再生しなければ、血肉が顕となり、それもまた人間社会には溶け込めない。
蛭子にとって、最大の壁であったこの異形な見た目の解決策がなければ先には進めない。
さてどうしたものだろうか......。
蛭子の思考と、川の水面の動きは完全に同じであった。
腹の中心から水面が荒れるように脈をうち形をねじまげ、しかし短い時でそれは元の形へと戻る。まるで何事も無かったかのように。
では、その水面の荒れが、何らかの型に嵌められたものなら? 同じように何事も無かったかのようにその形に定着するだろう。
蛭子の思考は、水面が落ち着くと同時に停止した。水鏡に映る己の姿を見たからである。
腹の奥で感じた、波打つ様な感覚。波が全てを飲み込み変えてしまうような感覚。
漏れ出たのは、愉悦を交えた笑い声だった。
水面に移るのは、鱗も無く虹彩は左右一つずつの“人間”。容姿は多少、あの男に似ているだろうか。
蛭子の力とは、“そこにある物の形を変える事”
どこまでそれを当人が理解しているかは分からないが、もはや本能としてその力を利用したのだろう。
蛭子は、男から奪った服と己の体を川で清める。あまり良く分からないが、拾い上げた武器もキチンと腰についた入れ物に仕舞う。
準備は万端、誰も蛭子を異物とは見なさないだろう。
案の定、森の中で何名かとすれ違ったが、誰も何かを蛭子に言う事は無かった。
「 やぁ旅人さんかい? そっち方面からやって来るってなると女目当てかな」
「......違う」
「あれ、そうなのか。この国には何用で?」
「......知り、助ける、その為に」
「へーなんか難しい事考えてんね。まっそんな事なら入って入って、物事知りたいなら中央の方に書物が並んでる施設があるよ」
「この国は、入国に許可がいるのか?」
「許可って程でも無いけど、まぁオレみたいな国の護衛してる奴に質問くらいはされるよ。今みたいにね」
「そうか」
「戦争中なんでね、不快には思わないでくれよ。まっかれこれ十何年も戦争を続けてるからどーしようもないけど」
「...さようなら」
「はい、さようなら。良い旅を!」
勝利と栄光。最先端な文明。
鼻につく鉄の香りが、正当化された矛盾を感じさせる。
そこは世界の頂点。自然の外壁に守られた奇抜な文化を持つ、武力の押し付けによって上り詰めた国。
そして、由緒正しき神聖国家である。
国民性は穏やかで助け合いを常としている。
しかし同時に残虐性をも内包するのが、この国の民たちである。
この国民は良くも悪くも疑念を持たない。
神聖国家よろしくその国のヒエラルキーは王の上に神がいる。
そう、蛭子である。正確には、蛭子が言った記憶も微塵も無い経典がそれにあたる。
国家に住まう者を絶対的とするその経典は、国民を盲目にさせ耳を塞がせる。
経典に羅列された文字しか信用せず、他者を無意識下に見下し、正当化された武力を用いて我を押し通す。
それがこの国の国民達。
笑顔に溢れた、豊かな国である。
しかし蛭子は思う。
記憶にこびり付く村の者達と国民達の笑顔は同じだが、彼女の笑顔とは違う。
前者は自信に満ち溢れていたし、後者は一瞬を噛み締めるようだった。
どちらがより人間らしいかと言われれば余りに答えずらいが、前者の自信の根源を知れば口からさらりと答えが出る。
───前者は人間を蹂躙する人型に過ぎず、後者が人である。世界は前後に明確な名前の差を設けていないだけだ、と。
「ちょっとアンタ!」
「...なんだ」
「なんだじゃないよ、仏頂面で。そろそろ日が暮れるよ、こんな道の途中で何してんだい。宿までまだまだ距離があるじゃないかい」
「宿?」
「なんだい、その何言ってるんだ?って顔は。その顔したいのはアタシの方だからねぇ。
はぁ、アンタ旅人だろ? しょーがないから泊めてやるよ、ほらおいで、早く」
「頼んでいない」
「屁理屈言ってんじゃないよ!」
どうやら随分と長考をしていたらしい。
野生動物では無いのだから、思考と行動を切り離した頭の使い方は今後控えるべきだ。
でないと、今みたいに勢いの強い厄介事に捕まってしまう。
いい、いらない、やだ、ほっといて
蛭子なりに振り絞った拒否の言葉は、黙ってなさいの一言で片付けられた。
いつの世も母親的存在は強いのである。
はんば引きずられてやって来たのは、それはもう立派な家だった。
村だった頃の家から、こうも成長するとは人類の脳の発展は蛭子の想像を超えている。
よく見れば、自分を引きずってきた女もとても美しい装飾品で身を着飾っている。
押し込まれながら、入った家の装飾品もまた豪華の一言に尽きる。
煌びやかな装飾品と、日が暮れだしたのにも関わらず明るいままの室内。
蛭子は目がチカチカして、別世界に来てしまったのかと見当違いな事まで考え出していた。俗に言う思考放棄とも言う。
「バカ息子ー! 出てきなさい!」
「誰がバカ息子だ、クソババア!」
「今クソってアタシに向かって言ったのはこの口かい!?」
「はっ、口以外のどこで言葉が話せると思ってんだよ」
「アンタってガキは言わせておけ───」
「うるさい」
「あ? なんだヒョロいの。人様の親子喧嘩に口挟むなよ」
「無理矢理連れてこられて、言い合いを見せられた。何故?」
「んだと、言わせておけば!」
「おけば、なんだ?」
「ウグッそれは...」
「はいはい! 騒がしいねぇアンタらは。そろそろ父さん帰ってくるんだから静かにしてなさいよ」
「父親がいるのか」
「逆になんでお前はいないと思ったんだよ」
「アンタやっぱ変わってるね、名前は? なんて言うんだい」
「......名前は、ない」
「はぁ? 何言ってんだ名前が無いって」
「無いものは無い」
「そーかい。ほらバカ息子、アンタこの旅人の面倒見てやりな」
「はぁ!?」
「アンタも、どうせ行き場もなくフラフラしてたんだろ? 歓迎するよ」
「意味がわからない。なぜ、歓迎される」
「そーだ! クソババアとうとう頭打ったんだろ!?」
「打ってないよ! 良いかい? 助け合いってのは大事なんだ。アンタは助けられてればいいんだよ。弱いもんを守るのが強いのの義務ってね。ほら入った入った、いつまでも入口で立ち話しない!」
「呼んだのはそっちじゃねーか。おい、ヒョロいの! さっさと来い」
ヒョロいのとはなんだ、自分の事か?
まぁ蛭子には名前などなければ、蛭子自身、嘲笑の念で何度もふざけた渾名を連呼されてる事などどうでも良し。
分かれば何でもいいだろう。
この一家、周辺よりも豪華な家や身なりを見るにこの国でも上位に位置する者たちだと推測できる。
蛭子に演算能力等はないが、仮にも人を世代に跨ぎ眺め神にまでなった存在だ。人間に対する判断能力は飛び抜けていた。感情という一点を除き。
父親は鍛冶屋、母親は機織りをしているのだと息子は蛭子に教えた。
父親は無口だが人望があつく、母親は小煩いが重度のお人好し、だとも。
ではその間から生まれた子供は何をしている?
そうとえば、王家付きの近衛をしているそうだ。
王家とは、唯一神の声を聞くことの出来る家系であり、現王は特に神からの寵愛を受けていると言う。王家は神の願いを代弁する役割を担い、数十年と続く戦争も神の望みだそうだ。
なんともまぁ胡散臭い。
というか、蛭子がこの国の神とされている以上
嘘なのだが。というかを二度使うなら、蛭子はもはや神でもないのだが。
「大体、理解した」
「そーかよ、まぁ当分はよろしくやろーぜ」
「当分?」
「母さんに目付けられたんだ。あー、とりあえずはそのヒョロい体がいい感じに肥えるまでは家の一員だな」
「食べるのか?」
「食べねーよ...」
「困る」
「食べられるのが? そりゃそうだろうな」
「違う。用がある」
「用って?」
「知る事」
「......あー?」
「文化を知らなくてはいけない。中央の方に書物の並ぶ施設があると聞いた」
「あー! あそこね。あそこにある本なら大体家にあるぞ」
「何故?」
「だって、父さんも母さんも国お抱えの人間だし」
「そうか」
「それで足りそ?」
「あぁ」