血溜まりから紫色の蝶形花と、砕かれた指輪を拾い上げる。白い絹に置けば、絹には血が滲んだ。
指輪に使われていた宝石はどれも黒く煤汚れ、当時の美しさはどこかに消え失せていた。
リムル様がラルタ様に指輪を送りたいと言ったのは、随分と昔、イングラシア王国にリムル様が旅立つ事が決まった時だった。
わざわざご自分で石を探し、カイジン達に習ってその手で作り上げた指輪。
まるで縁を強固に結ぶような指輪、もしかしたらラルタ様には少し窮屈だったのかもしれない。心を安れげる窮屈さは、心の形が変わればすぐに不快なものに変わってしまう。
──────もしかしたら、彼等の縁の末路がこんな悲劇だったのは必然だったのかもしれない。
「......己...リムル様を悲しませるなど、私が今からその息の根を止めに──────」
「シオン、落ち着きなさい」
「シュナ様...ですが! ラルタ様っ...あの者はリムル様を裏切りました! 許されることではございません!」
「分かっているでしょうシオン、貴方では彼に勝てない。今無謀に立ち向かえば貴方はきっと死んでしまう。死なない体でも、きっと殺されてしまう」
もしかしたら、リムル様ですら無傷ではいられないかもしれない。そんな要塞に立ち向かうのはきっと今ではない。
──────いいえ、これはきっと言い訳でしかない。まだ私は過去に縋っている。
ラルタ様はお忙しい時間を縫ってよく工房に来てくださっていた。可愛らしい服は着ては下さらなかったけれど、要らないと言いながらも渡された服を受け取って小さく笑っていた彼に縋っている。
縋っているくせに、ファルムス王国が侵攻してきた後、工房には来てくれなくなっていたことに今気づいた。いや町で見ることが無くなっていたのだ。
縋って怯えている。
過去が本当に過去になってしまうことを。
ラルタ様がお優しい方で私達を気にかけてくださる。それが当たり前だった。
慢心、なのかもしれない。当たり前はなくならないと思っていた。何故当たり前が人間に壊された後も、ラルタ様だけは当たり前のままでいたのだろうか。彼の完璧性がそうさせたのか、掴みどころのない人と離れた彼の思考回路がそうさせたのか。
そして当たり前はなくなって取り返しがつかなくなってから気づく。私の愚かさすら、なくなってから気づいたのだ。
私達は魔物で、強い者に下る。
ラルタ様との繋がりは主従関係ではなかった、彼の気遣いと私達からの譲歩。それが何とか主従関係に近い見よう見まねの関係を作っていた。
魔物にはそんな脆い繋がりを抱えることは出来なかったのかもしれない。もしそうなら、私達とラルタ様との繋がりも最初から悲劇の結末しかありはしなかったことになる。
否定できないことがこんなにも悲しい。
「......シュナ様、泣かないでください。私も泣いてしまいそうです」
「ごめんなさいシオン、止められないのです。だって私は彼をお慕いしていました。していた筈なのに、何も分からず知らないのです」
涙目のシオンが私の肩に手を置き、部屋の外へと連れ出す。
少し外の空気を吸いましょう、という案を受け入れて涙に思考の渦を流してしまう。
何一つわかってはいないし、まとまってもいない。ラルタ様の事が理解出来た時、それはまたきっと修正も聞かない最後の時になるのだろうか。
▽
「若い二人に任せすぎたかもしれんなぁ...」
シュナ様とシオンの背中を目で追って、残ったのは血の匂いと自分だけ。
大人の皮を被っていた子供が使っていた執務室は酷く荒れていて揉め事があったことがよく分かる。だが部屋の荒れ具合よりも、リムル様を初めとする重役達の心の具合の方が深刻だ。
ルベリオスの一行が国に滞在している時にこの様な事件が起きるのは政治的にも問題がある。
特にリムル様の心的状況はあまりに痛ましい。
上手く持ち直してくれればとは思うが、彼の支えはたった今無くなったところだ。
依存していた存在が自らその手をすり抜けていったのだ。今、リムル様は消失感と無力感に襲われているのだろう。
お互い依存していたのに、その依存は形が違った。いつか分かり合える日が来ると、見守っていたのだが。
自分も老いぼれたものだ。
年寄りが手助けをするのは最後の最後でいい。けれどそのタイミングを逃して取り返しのつかない事になってしまった。
想像の何倍もラルタ様は行動の早い方だったらしい。
ラルタ様の変化には気づいていた。不自然に距離を取り視線を逸らす姿は、様々な者を見てきた老いぼれからすれば彼が追い込まれているは一目瞭然だった。
見守るなど言わずに最初から手助けをするべきだったか。いや、きっとそんな事をしても若者達は聞き入れないだろう。若者は経験の中でしか変われないのだから。
何時ぞやにゴブタに言ったことがあった。
宿り木があるから小鳥は彷徨うのだと。だが、力を持ちすぎた小鳥は感情のままに自分の翼をへし折り、あまつさえ宿り木すらも折ってしまったらしい。
翼のない鳥は枝から落ちていくだけだ。
さて下の下に新しい枝があるのか。翼のない鳥が落ちていく中で枝に止まることができるのか。
小鳥は宿り木から落ちて、何処へ向かうのか。それとも、向かう場所を探しに旅立ったのだろうか。
翼がなければ上にはもう上がれない。落ちていく中で枝につかまりそこねれば、その枝はもう意味をなさない。
せめて無翼の鳥が、旅立った意味を見つけられることを願うばかりだ。
「......はぁ、リムル様は落ちていく小鳥を迎えに行くのでしょうな。速さの合わない若者達が、ぶつかり合わなければいいが」