川のせせらぎと鳥の声が耳に入り、意識が覚醒する。
環境音を目覚ましに設定してから、気のせいかもしれないが、目覚めが良くなった気がする。
うっすらと目を開ける。目に入るのは、見慣れた自宅の天井と、そこに走る黒い線。
目覚めは良くなったが、起きて最初に目に入る景色には毎度のことながら辟易させられる。眠気を見事に飛ばしてくれるが、だからといってありがたいと思うことは難しかった。
仰向けのまま、ベッドサイドテーブルにある黒縁のメガネに左手を伸ばし、かける。
黒い線が、見えなくなる。
時刻は朝5時。普段より2時間早い起床である。
ゆっくりと体を起こし、右手でカーテンを開ける。寒さの厳しい2月では、日の出はまだのようで、外の景色はほとんど見えない。が、どうやら雨は降っていなさそうだ。
天気と言えば、とスマートフォンに手を伸ばし、新幹線の運行状況を確認する。今日ばかりはしっかり動いてくれないと困るところだが、今のところ通常通りのようだ。
リモコンで照明をつけて立ち上がり、両腕を上げて全身をググッと伸ばす。やはり目覚めは比較的快調だ。
ふと、勉強机の上に置いておいた1枚の紙に目を向ける。
国立雄英高等学校 ヒーロー科
志望者名 風見司綺 満15歳
司綺が
「それじゃ、行ってきます」
少なめの朝食を摂り、学ランに着替え、一通りの準備を整えた司綺は、義父の弁当を準備している義母に声を掛ける。
「あら、もうそんな時間? ちょっと待って」
「ああそんな、ここで大丈夫ですよ」
「まだ時間は余裕あるでしょ? 息子の入試なんだから、ちゃんと見送らせてちょうだい」
わざわざ火を止めて玄関まで見送りに来ようとする義母を止めるも、得意の「私がそうしたいの」が発動してしまったようだ。強く止めるようなことでもないので、苦笑混じりに義母を待つ。
「はいはいお待たせ。もう、お父さんったら司綺の入試の日だっていうのにさっぱり起きてこないんだから」
「まぁまぁ、昨日も帰り遅かったんだし、寝かせておいてあげてください」
階段の上に目を向けながら両腰に手を当てて息を吐く義母を、やはり苦笑混じりになだめる。
「司綺がそういうなら良いけど」
そう言って肩をすくめた義母だが、司綺が靴を履き終わったところで、握り拳を司綺に向けながら微笑んだ。
「それじゃ気をつけて、頑張って来て!」
「ありがとうございます。やるだけやってきます」
司綺も応えるように握り拳を伸ばすと、満足げに頷いた義母に背を向け、家を出た。
時刻は6時過ぎ。ちょうど日の出くらいの時間で、東の空が明るくなり始めている。
ここ数日少し暖かかったからか、道々に雪は残っていない。さすがに入試の日に転ぶのは縁起が悪すぎるので、空を見上げてお天道様に少し感謝してみる。
「さっっむ……」
冷たい風に吹かれて、思わずくぐもった声が出てしまう。今日は昨日までとうってかわって冷え込みが激しい。東京の寒さは大したことないだろうと、防寒をコートだけにしたのは間違いだったかもしれない。駅まで約10分、時間には余裕はあるが、やや早足で歩くことにした。
新幹線の自分の席にたどり着くと、コートを脱いで息を吐きながら座る。
寒い寒いと思って早歩きで来たため体はすっかり温まり、新幹線内の暖房も相まって汗が滲むのがわかった。
うちわなんてものはもちろん持ってきていないので、仕方なく受験票の入ったクリアファイルで自分を扇ぐ。
ヒーローを目指す物が雄英の受験票をうちわ代わりにする。何となく背徳感を覚えてしまう。司綺は自分なりに本気でヒーローを目指しているつもりだが、それとこれとは別で、目の前の涼しさという誘惑には勝てないのだった。
などという自分のよくわからない思考回路に少し口角が上がりそうになるのを自覚したところで、新幹線が出発した。
体の熱も少し収まってきたところで、カバンから無線のイヤホンを取り出し、お気に入りのプレイリストをシャッフル再生する。
加速していく景色をぼうっと眺める。
新幹線。滅多に乗らない乗り物だからか、ふと今日が非日常であることが強く感じられる。
日常が一度壊れてから7年。司綺はどうにかこうにか日常を取り戻して、普通の中学生として生きてきた。
あの時、魔法使いである"先生"に出会えていなければ、きっと司綺はツギハギだらけの世界に耐えられず、狂っていただろう。
魔法使いは自分の名前が好きじゃないらしく、他の呼び方をして欲しいと言ってきた。何となく偉そう人だから、"先生"と呼ぶことにした。
先生にはいろいろな話をした。ヒーローだったらしい両親を早くに亡くした話。お義父さんとお義母さんがとても優しい話。
先生が楽しそうな顔をしてくれるのが嬉しくて、僕は次々と話し続けた。
そして僕は、先生にもっと喜んで、褒めて欲しくて、黒い線を使って
先生はそんな僕を本気で叱り、そして抱きしめてくれた。黒い線が見えるようになってから、僕が泣いたのはこの時が初めてだったと思う。
落ち着いてから、先生に僕の目について話した。世界のツギハギなんていう突拍子のないことを話し始めた僕だったが、それでも先生は真剣に聞いてくれた。
子どもの空想だと笑われてもおかしくない話だ。実際、僕も他の人からこんな話をされてもきっと信じられなかったと思う。けれど先生は、僕の話を一通り聞くと真剣な顔をしたまま黒い線について教えてくれた。
「その目はね、直死の魔眼っていうものかもしれない」
先生が言うには、黒い線は大怪我で生死の境を彷徨ったことで、僕の脳が"死"というものを理解できるようになってしまったことによるもので、"個性"とはまったく違うものらしい。
何を言っているのかちゃんとは理解できなかったけれど、花瓶やボールペンを壊した時の"コロした"と言う感覚は残念ながら間違っていなかったということだろう。
黒い線のことを話した次の日、先生は僕に黒縁のメガネを渡して、かけるように言った。
「僕、目は悪くないよ」
「つべこべ言わない。度は入っていないんだから。ほら、早くかけてみなさい」
あごでメガネを指しながら先生がそう言うので、戸惑いながらも僕はそのメガネをかけた。
そこには、僕がかつていた世界が広がっていた。
青空の下、緑の草木に囲まれた草原に、僕と先生が2人きり。ツギハギだの死だのといった訳のわからない何かは初めからなかったかのように消えていた。
「すごいや先生! 黒い線が無くなった! 魔法みたいだ!」
「当然! だって私、魔法使いだもん」
喜びにはしゃぐ僕に、先生は自信たっぷりにVサインを作って笑った。
魔法なんて正直信じていなかったけれど、もしかしたら先生は本当に魔法使いなんだろうか。昔の人にとっては"個性"も魔法みたいなものだと聞いたことがある。なら本物の魔法があったっておかしくないのかもしれない。
笑っていた先生だったが、一度息を吐いて僕と同じ目線になるようしゃがむと、真剣な表情を作った。
「あのね司綺、このメガネはあくまで黒い線を見えなくしているだけで、消しているわけではないの。だから、メガネを外しちゃえばまた見えてしまうと思う」
それは司綺を現実に引き戻す言葉。
思わず「そんなの嫌だ!」と叫びたくなるのを必死にこらえる。先生に文句を言うのはあまりにもお門違いだ。
「そうなの……?」
「ええ、もう司綺の脳は"死"を理解してしまっているから、それを取り除くのはきっと"個性"を無くすことよりずっと難しいと思う」
先生は僕の目をまっすぐと見つめて言う。
「これから先、その目で悩んだり苦しんだりすることも多いと思う」
司綺は黒い線から一生逃れることはできないのだ、と。だが、「でもね」と先生の表情が優しげな笑顔に変わる。
「その目が役に立つ時だって、あるかもしれないわ」
先生が僕を慰めてくれようとしているのはわかった。だが、正直そんなふうには考えられなかった。
「モノや……ヒトを壊しちゃう力なんだよ? 」
「そりゃ使い方はとっても難しいと思う。でもね、司綺はヒーローになるんでしょう? だったら、その力はきっと役に立つわ 」
先生は「うーん」と言って少しだけ考えるそぶりを見せた。
「ほら、もし閉じ込められている人がいたら、道具とかなしで壁とか壊して助けられるじゃない!」
こりゃ名案だ、と言わんばかりに先生は人差し指を立てた。
僕は少しの間、呆然として何も言えなかった。とても単純な話。だが、確かにそういう場面なら使えるかもしれない。
「壁をバラバラにしちゃったら、中の人が危ないと思う……」
「そこはあれよ! ……うまくやんなさい!」
先生は少しバツの悪そうな顔をして、誤魔化すように言った。
「……っふ、あはははは!」
「何よー!」
「いやだって……ふふっ」
何だか悩んでる僕が急にバカらしくなって、笑えてきてしまった。先生が面白くなさそうに睨んでくる。
笑いが収まってきたところで、今度は僕が先生をまっすぐ見つめた。
「先生、ありがとう」
先生がきょとんとした顔をする。
「正直、この目は嫌だよ。うまく使うっていうのもあんまりイメージできない」
言いながら、少しだけメガネを上にずらす。先生の言っていた通り、途端に黒い線は再び視界に現れた。やっぱり気分が良いものではなくて、すぐにまたメガネを戻す。
「でもね、僕頑張ってみるよ。いつか、この目があって良かったって言えるようになって、それで、困ってる人を助けてあげたい!」
照れくさくて、「先生みたいに」と言う言葉は頭の中に留めておいた。
しばらくポカンとしていた先生だが、ややあってまた微笑んだ。そして、僕のことを優しく抱き締めてくれた。
「すごいね、司綺は」
「え?」
「とても辛い目にあったのに、それでも自分と向き合って、前を向こうとして……もうすっかり素敵な男の子だ」
そう言って、抱き締めたまま僕を撫でてくれる。
しばらくの間、そうしてくれていた。
腕をほどき、手を僕の両肩に優しく置くと、とびきり優しい笑顔を僕に向けてくれた。
「司綺、そんな素敵な君なら、きっと10年後には立派なヒーローに、そしてもっと素敵な男の子になっているわ」
非日常にあてられて、すっかり思い出に耽ってしまった。
あれから7年。まだこの目を前向きに捉えることはできていないけれど、ヒーローを目指すということに関しては、前向きに頑張れているのではないだろうか。
風見司綺は、先生の言葉に救われた。そのお陰で今の自分があると思っているし、これからの自分の根っこにもずっと先生は残り続けると思う。
先生にはあれ以降会えてはいない。連絡手段なんかももちろんない。今もどこかを旅しているのだろうか。
いつか自分がこの目を前向きに捉え、ヒーローとしてたくさんの人を救えるようになったら、その時は先生に会ってまたお礼を伝えたい。
今日は、そんな自分になる上での分水嶺だ。
もちろん、雄英高校でなくたってヒーローは目指せる。が、どうせなら期待を上回るくらいの人間になって、堂々と先生に会いに行きたい。
自然と、両の拳に力が入っていた。自覚はなかったが、それなりに緊張しているのかもしれない。
一つ大きな深呼吸をして、心と体をほぐし、お気に入りのミュージシャンの曲に耳を傾ける。
できるだけの準備はしてきた。あとは、やれることをやるだけだ。
外の景色が猛スピードで流れてゆく。目を閉じて、目的地に着くのを待った。
雄英高校ヒーロー科。
多くのトップヒーローを輩出してきたヒーロー科の最高峰であり、40名という定員に対して毎年志願者の倍率が300倍程度という、超難関エリート高校である。
その名に恥じぬ雄大な正門をくぐるのは今日で2回目。1回目は先週行われた筆記試験の時である。
周囲の受験者の様子は十人十色だ。やる気に満ち満ちた者。周囲に威圧感を与えながら歩くもの。見るからに緊張している者。平静の中に緊張を隠していそうな者。
1週間前とは明らかに場の空気感は異なっていた。もちろん筆記試験も決して広い門ではないし、緊張感がなかったわけではない。それでも、この実技試験こそが雄英ヒーロー科入学のための最大の関門であると誰もが考えているのだろう。かくいう司綺もその1人であり、場の雰囲気も相まって思わず息を呑む。
その中に、ひときわ緊張でガチガチに固まっている受験者を見つけた。もじゃもじゃの髪が特徴的な学ランの男子。転びかけたところを茶髪の女子受験者の個性で助けられていたが、あまりに緊張しているのかまともに受け答えができていない。
女子受験者が笑顔で去って行くのを見つめる男子受験者。その顔はすっかり赤くなっている。それを見て、思わず少し口角が上がってしまう。あれは、入試だけに緊張していたわけではなさそうだ。
そんな微笑ましい光景を見られたおかげで少しリラックスできている自分に気づく。ちょうどいい緊張感になることができたようだ。
心の中でもじゃもじゃの男性受験者に感謝しながら、司綺は校舎の中へと歩を進めた。
「今日は俺のライブにようこそー!!! エヴィヴァディセイヘイ!!!」
入試とは思えないハイテンションな声が講堂に響き渡る。が、入試相応の空気感に包まれた受験者から歓声が上がることはない。
プレゼント・マイク。サングラスとトサカのように逆立った金髪が特徴的なヒーローである。見た目の派手さ、そしてそれを裏切らないハイなキャラクターにより、世間一般での知名度も高い。歓声こそ上がらないものの、生で目にする人気ヒーローの姿に目を輝かせている受験者もちらほらと目に入った。
受験者の雰囲気を「こいつあシヴィー!!」と一蹴したプレゼント・マイクは、そのままのテンションで実技試験の概要を説明し始めた。
実技試験の内容は、持ち込み自由な10分間の模擬市街地演習である。会場はいくつか用意されているようで、受験者ごとにあらかじめ会場は指定されているようだ。会場には3種の仮想
要は
少し、気に食わない。
思考が暗がりに落ち始めそうになったところで、メガネをかけた青髪の生真面目そうな受験者が挙手と共に質問を発した。
「プリントには4種の
規範となるヒーローの指導を求めているのに何たることだ、と言う内容だった。
まだ説明も終わっていないのだからそこまで攻撃的に質問するところではないのではないか、と言う気はしないでもない。入試の内容に反感を覚えていた自分が言えた話ではないのかもしれないが。
そのままその生真面目な受験者は左後ろを向いて別のある受験者を指差した。
「ついでにそこの縮毛の君! 先程からボソボソと……気が散る! 物見遊山のつもりなら即刻
言われた受験者は口を塞ぎながら謝罪して俯いてしまった。よく見ると、注意されたのは先程司綺のリラックスに貢献してくれたもじゃもじゃ髪の男子受験者であった。
正門で転びそうになったことといい、不運に見舞われやすいタチなのだろうか、と少し同情する。しかし、転びそうになって女子に優しく助けられるというのはむしろハッピーかもしれない。
くだらないことを考えているうちに、心の中の僅かな反感を落ち着けることができた。
「4種目の
プレゼント・マイクが生真面目な受験者の質問に答えていく。ステージギミックのようなものということらしい。
「リスナーにはうまく避けることをお勧めするぜ?」
プレゼント・マイクの説明を聞いて納得したのか、生真面目な受験者は深々と頭を下げ、礼と謝罪を述べた。初めは攻撃的な性格なのかと思ったが、本当にひたすら真面目なだけなのだろう。生徒会とか学級委員とかにいそうなタイプだ。
さて、プレゼント・マイクの最後の一言が少し引っかかる。
ポイントにならない仮想
理解も納得もできる。しかし、どこか違和感が拭い切れない。どこか
「最後にリスナーへ我が校"校訓"をプレゼントしよう」
散らばりかけていた思考は中断され、目の前の試験への緊張感が再び高まる。
「"
「広っ!」
受験者の誰かの感嘆の言葉に司綺は心から同意する。
案内された会場は、ビル街と呼んで差し支えないくらい広大なものだった。敷地内にはいくつものこのような施設があるのだろう。さすがは天下の雄英と言ったところか。
「ハイ、スタートー!」
突然スピーカーからプレゼント・マイクの声が響く。受験者は一様に疑問符と共にスピーカーに目を向ける。
「どうしたあ!? 実戦じゃカウントなんざねえんだよ! 走れ走れぇ!」
続くプレゼント・マイクの言葉に受験者たちがハッとした表情に変わっていく。そういうことか。
「賽は投げられてんぞ!?」
次々と受験者が市街地に向かって走り出す。司綺も同じように走り出す。走り出した順番としてはちょうど真ん中くらいだろうか。
なるほど、これは理にかなっているかもしれない。走りながら司綺は思う。
試験の内容には少し思うところがある司綺だが、この点は合理的だと納得する。
さて、と余計な思考を隅に追いやり、どう動くのが良いか考える。
10分という短い時間、どこにどのくらいいるのかわからない仮想
ならばやはり、上空から観察するのがいいだろう。
走りながら司綺は軽く跳躍すると、
その後も何度も空中で踏み切って跳躍を続け、どんどんと上空へと昇っていく。1回1回の跳躍の高さは普通の人間がその場でジャンプする時の高さを大きく上回っており、ものの数十秒で司綺は市街地を見渡せるような高さまでやって来たのだった。
個性"気体操作"。
周囲の気体に働く力学的な力を制御することができる。
とは言っても大規模な気流を発生させたりといった使い方はできず、操作範囲はごくごく局所的な空間、しかも自分の体が接している部分に留まる。自分から離れた場所の気体も操れないわけではないが、大幅に体力を消費するため、そう言った使い方は基本的にしない。
使い方としては、例えば自分の足裏にあたる空気に体重と釣り合うような上方向の力をかけることで空中に立つ、といったことが基本だ。
足裏にあたる空気に加える力の大きさを連続的に調整すれば、さもトランポリンを使ったかのように空中で高い跳躍をすることも可能であり、先ほど司綺が行ったのはそれである。
説明するのは簡単だが、調整を誤れば高さが出せないだけでなく、下手をすれば膝に多大な負担をかけてしまうリスクもある。
母がほぼ同じ個性をそのように使っていたと義母に教わり、個性に目覚めて以降練習を続けてきたが、安定して意図通りの跳躍ができるようになったのは小学校高学年になってからだった。そこまでの年月を要したのは、今思えば8歳までは言うほど本気で練習していなかったからかもしれないが。
十分な高さまで昇った司綺は、市街地を観察しながら上方向ではなく前方へと跳躍の方向を変える。自分の行きたい方向に"気体操作"による力のベクトルを向けてやれば空中での移動の補助にもなり、普通に前にジャンプするよりも速く移動することが可能だ。
試験開始から手元の時計で約1分。早速あちこちで戦闘が始まっているようだ。
30秒ほどそのまま観察と移動を繰り返したあたりで、北東の一画がおあつらえ向きであることに気付いた。
善は急げ、と言わんばかり司綺はその一画に向けて高度を下げながら向かう。探索に有利な個性を持つ受験者が集まってくる可能性もある。早めに多くの
試験開始から約2分、目指した区画へやってきた司綺は、建物の3階くらいの高度を維持しながら3
ほぼ
実技試験の内容が仮想
3
——ならば、脚を狙おう。奴は鈍重だ。
「今更遅い」
警棒を握った右腕を思い切り左に振るい、
鈍い音が鳴り響く。一撃で行動不能にすることはできないだろう。反撃を警戒して、司綺らすぐ後ろに跳び退いた。
しかし、
「なんだ、思ったより脆いじゃないか」
歪んだ脚ではその巨体を支えきれないのか、自らの左足を潰しながら倒れてゆく。これは行動不能にできたと判断して良いだろう。3
やや拍子抜けであるが、少し考えて納得する。自分を含め、受験者は必ずしも攻撃的な個性を持っているわけではない。あまり耐久力を上げてしまうと戦闘系の個性が明らかに有利になってしまうため、
そうこうしているうちに騒ぎを聞きつけたのだろう1
が、見切れないほどでは全くない。
やはり、脆い。脳天を凹ませた
この調子で受験者が集まってくる前に
試験開始から約5分が経過した。初めは受験者がほとんどいなかったこの区画にも、既にそれなりの受験者が集まってきてしまい、"狩り"の効率はだいぶ落ちてきてしまっている。
司綺の現在の
場所を移動するか、この場に留まるかを悩んでいたところで、その場に立ち尽くす1人の受験者が目に入った。
紫色の立った髪と目の濃い隈が特徴的な男子。
何をするでもなく、周囲の受験者が
焦ったり迷ったりしているようには見えない。諦めてしまったのだろうか。
他人の心配をしている時間はない。酷なようだが受験なのだからそういうこともあるだろう、と気を取り直そうとしたその時。
立ち尽くしている受験者へと背後から1
「後ろ!」
司綺の叫び声にハッとしたその受験者が後ろを振り向く。が、突然の事態に頭が真っ白になってしまったのか、ただ呆然と
「くっ!」
紫髪の受験者を挟んで
1
——あまりやりたくない、と言っている場合じゃないな
「伏せろ!」
司綺は軽く跳躍すると、身体の背面部分の気体に前方やや上方向へ力を加え始める。初めは穏やかに、だがそこから加速度的に力を強くする。
それに合わせて司綺の身体も一気に加速される。ジェットコースターが最高点から一気に下降する時のような浮遊感。
瞬く間に
勢いそのままに、警棒で
全身が痛むが、立てないほどではない。が、右手を地面について立ち上がろうとした瞬間、肩に鈍い痛みが走った。
どうやら
「おい、大丈夫か!?」
いつの間に駆け寄って来ていた紫髪の受験者が右腕を差し出してくれていた。
「ありがとう。右手がちょっとダメみたいだ。左でお願いできると助かる」
答えながら左腕を伸ばす。
紫髪の受験者は表情を歪ませながら右手を引っ込め、左手で司綺の手をとり立ち上がらせてくれた。
「悪い……俺のせいで腕が……」
「気にしなくていいよ。勝手にやったことだし、左手と足があればまだやりようはある」
泣きそうな顔で謝る紫髪の受験者に、なるべく明るい声でそう返す。
はっきり言って強がりだった。右腕もそうだが、全身あちこちがそれなりに痛む。
少しの間の無言。居心地の悪い時間が続く。
「本当にごめん。やっぱり俺みたいな個性の奴が受験するべきじゃなかった」
そろそろ適当にこの場を離れようかと思っていた司綺に、想像以上に後ろ向きな言葉がかけられる。見れば、紫髪の受験者は変わらず今にも泣きそうな顔をしている。
「気にしなくていいって。それに、どんな個性か知らないけど、受験資格は誰にだってあるだろ?」
入試要項には個性による受験資格の有無なんか書いていなかったはずだ。個性による有利不利はあるだろうが、受けるべきではないなんて、誰にも言う権利はないはずだ。
——資格がない奴なんていうのはもっと他にいるはずだ
しかし、司綺の言葉を聞いても紫髪の受験者の顔は晴れない。
「俺の個性はさ、他人を操るって個性なんだ。まるで
そう言って自嘲するような笑みを浮かべた。
それで、合点がいった。
この受験者は、自分の能力を疎んでいるのだ。ヒーローには相応しくない個性だと感じてしまっているのだ。
司綺には、その気持ちが嫌と言うほどわかる。自分が健全な世界の枠組みから外れているのだと言う実感を、身をもって知っているから。
だが、この受験者は1つ思い違いしている。
「すごい個性じゃないか!」
紫髪の受験者の髪が見開かれる。
「もし
君の持つ個性は決して忌むべきものなどではない。
指1本で全てを死に至らしめることのできる司綺の目の方が、断然社会にとって異物であり異端であろう。
——資格などと言われたら、俺の方がよほどない
とっくに人間として壊れた何かが、必死にヒーローなんていうものを目指して人間のふりをしようとしているのだから。
司綺の言葉がよほど予想外だったのか、紫髪の受験者は目を見開いたまま何も言葉を返さない。
「そういう意味ではイケてないのはこの入試の方だ。こんな内容じゃ君の個性を活かすのは確かに難しいよね。そもそも気に入らないのはギミックとかいう……」
その時だった。
市街地の中心部の方から轟音が聞こえてきた。
とっさにそちらを見やる司綺と紫髪の受験者。
そこでは、小さなビルほどはあろうかというほど巨大なロボットが地面から現れ、周りのビルたちを破壊しながら移動を開始していた。
プレゼント・マイクの説明にあった0
周囲の受験者は軒並み我先にと逃げ出していた。プレゼント・マイクのセリフを思い出す。
『リスナーにはうまく避けることをお勧めするぜ?』
なるほど、
——気に入らない。
試験前の説明時に感じた違和感の正体に気づく。
仮にもヒーロー志望者をふるいにかける試験ならば、評価すべきはあるべきヒーローの姿に根ざした行動なのではないだろうか。
応援を呼びに行くとか、そう言う選択肢も現実的にはあるだろう。だが、そういった手段がないこの場において、ヒーローに逃げるという選択はあり得ないのではないか。
俺は、ヒーローにならなければならないのだ。
司綺は周囲の受験者とは反対方向、すなわち巨大
先ほど転がった時に打ったり擦り剥いたりしたのだろう。足がそれなりに痛む。長時間走り続けるのは厳しそうだ。
「おい、あいつをどうにかしようっていうのか!?」
司綺の行動に慌てた紫髪の受験者が驚きと戸惑いを隠さずに声をかけてくる。
「なんとかしなくちゃいけないだろ!」
振り返らず半ば怒鳴るように返事をする。
「無茶だ! 手立てがあるのか!?」
尚も止めるような声がかかるが、司綺は無視して走り続ける。手立てがないからといって諦めるヒーローなどいないはずだ。
走り出したはいいが、どうやって対処したものか。
右肩の痛みがひどく、先ほどまでのように警棒で殴ることはもう不可能だろう。左腕では恐らく威力が足りない。蹴るという選択肢もあるが、痛む足では例え"気体操作"で勢いを上げてやったとしても、あの巨体を止めるほどの威力を出すことはできないだろう。
こちらに注意を向けさせて、なるべく動きを止めてやることで被害を広げないようにするのが現実的だろうか。
そんなことを考えながら
その瞬間、
気づかれた。
ただ目標も無しに暴れ回っていた
巨大なだけあって、動き自体は鈍重だ。ただ、周囲には崩れたビルの破片やらが散らばっていて、司綺も地上では自由に動けそうもない。
また空中へと跳躍を始める。踏切の際に足にそれなりの痛みが走るが、地上を駆け続けるよりは幾分かマシだろう。
ある程度まで近づいたところで、
やはり予備動作は遅い。司綺は
『ブッコロス!』
そして、
「下手くそめ」
危なげもなくその拳をかわした司綺は、そのまま
「こっちだ、間抜けめ!」
挑発に効果があるとは思えないが、もし音で目標を感知するような機能がついていれば、近くで声を出している限り司綺以外の他人へと狙いを移すことはないかもしれない。
司綺の方へと方向転換をする
試験終了まで残り2分を切った。あと2分くらいならこの鈍重な
と、同時に感じる違和感。
——何を安心しているんだ、俺は!
試験終了まで耐えればいいなんてこと、ありえない。
演習であることを前提とした内容にイラついておきながら、結局自分も試験であることに甘えているじゃないか。
実際の現場ではあと2分耐えたからって状況は変わらない。むしろ司綺の残り体力を考えれば、ジリ貧になっていくだけだ。
時間を稼いで応援が来るのを待つ。そう言った戦略ももちろんあり得るだろう。
が、今回、周囲の受験者たちは味方ではない。現場にいるヒーローは自分1人だと考えて臨むべきだ。
つまり、誰かが応援を呼んでくれている、という勝手な楽観に基づいて行動するべきではない。
先ほどの紫髪の受験者に応援を呼んでくるよう頼んでから来るべきだった。更に言えば、試験が始まった時点から周囲の受験者たち、つまりヒーローたちに協力を呼びかけてことにあたっていれば、対処のしようもあったはずなのだ。
試験に一丁前に不満を抱きながら、結局は自分も
自分の浅はかさに自然と唇を噛む。
時間を稼ぐ、という選択肢は司綺にはもう残されていない。この
殴る蹴るはもうあてにならない。司綺にはもう、この
その時、頭に囁きのような何かが流れる。
——コロせばイイ
ダメだ。あれは使ってはいけない力だ。今の自分にはまだあれを助けるために使うという覚悟がない。
——目の前にコロすべき奴がいる。躊躇う必要はナイ
今は多くの人間に見られている。あの力は気軽に他人の目に触れさせていいものじゃない。
——正直相手としては下の下。全く魅力的じゃナイ。足の一本でもコロしてしまえば醜く崩れ落ちるに違いナイ
それなら、いいか——
メガネを外す。
途端に広がるツギハギだらけの世界。
不思議と今は気分の悪さも感じない。
敵を見やる。奴も至る所に"死"を抱えている。
奴の周りを回るように移動しながら、少しずつ高度を落とす。
左手をポケットに突っ込んで、警棒とは別にもう1つ持ち込んでいた武器を取り出す。
父の形見だという、ナイフ。
奴程度なら左手でも十分ヤれるだろう。
懲りずに拳を振り下ろしてくる愚かな巨体。
が、今はその方が都合がいい。難なく跳躍でかわすと、一気に奴の足元へと距離を詰める。振るわれた奴の拳は地面に直撃し、大量の土煙を撒き散らし、司綺の身体を周囲の目から隠してくれる。
そして、司綺は奴の右側の
身体がその動きを識っているとでも言わんばかりの、まるで呼吸をするかのような自然な動き。
なんて呆気ない。
奴の右足は"死の線"に沿って4分割される。
当然、そんな足では奴の巨体は支え切れるはずもない。見るも無惨に倒れ崩れてゆく。
その様を顧みることもなく、司綺はその側を離れる。
「終了〜!!!!」
プレゼント・マイクの試験終了を告げる声。沈黙した
先ほどまで無意識のうちに結局試験を試験として捉えていた自分に猛烈に腹を立てていたが、いざ試験が終了してしまうとやはり気が抜けてしまった。
緊張も相まって頭に血が昇っていたのだろう。逃げなかったという自分の選択に後悔はまったくないが、先ほどまでの戦いがあくまで試験である、ということも今となっては自然に受け入れられた。
何とは無しに周囲の様子を見渡す。ほとんどの受験者は巨大
途端、気分が少し悪くなる。
慌てて外していたメガネをかけ直す。戦闘中はなぜか平気だったが、やはり"死の線"を見続けるのは負担になってしまうらしい。
それにしても、と考えている。
なぜ先ほどの自分は、ああもごく自然に相手を"殺す"ために動けていたのだろう。殺すことへの忌避感というものが相当に薄れていたような気がする。
なにか、自分の持つ本能とか衝動とか、そういったものに心と体を預けていたような、そんな感覚。
そこまで考えて、自嘲の笑みと共に思考を中断した。
「さすがに物騒すぎるよな」
恐らくアドレナリンが大量に出ていただけだろう。
そう結論づけてため息をついたところで、思い出したかのように全身を痛みと疲労感が襲った。
「あぁ、疲れたー」
アナウンスがあるまで横になっていても文句は言われないだろう。
司綺はその場に腰を下ろすと、そのまま仰向けに寝転んだ。
こうして、風見司綺の雄英高校ヒーロー科への入学試験は終了した。