季節が巡るのは早いもので、春のうららかな空模様も、地獄みたいな湿気の梅雨も、とっくに過ぎ去った今日だった。つい最近だと思っていた入学式も今では昔のことみたいで、トレセン学園の広い敷地で迷子になっている新入生はもうめっきり見なくなっていた。
つんと押せばすぐ移ろってしまいそうな季節の境目。誰かにとってはもう夏なのだろうし、誰かにとってはまだ春なのだろう。俺はというと、一歩下がって夏を遠ざけ、春に身を置いていた。
この曖昧な変わり目を夏と呼ぶには、いくらか袖が長かった。
いつも通りの積み重ねみたいな、そんな今日。打鍵していたキーボードが音を鳴らすだけの空間に割り込んだのは、せわしない足音だった。もうそんな時間かと一息入れて肩を解す。休憩の合図が鳴ったのだから、今日のお仕事は一時中断。最後にキリよく数文字ばかりを打ち込んで、パソコンを閉じることにした。
どんどん近づいてくるその音は、間隔短く刻まれる。小走り気味の軽快さ。校則に見咎められないか怪しい音はギィと扉を開く音に変わって、最後に大きな声の挨拶になった。
「こんにちは、トレーナーさん!」
「はいこんにちはフクキタル。あれ、今日から夏服?」
「そーなんです。身が軽くなって心もまた軽く。この頃の運気の高まりも相まって心機一転頑張りたい所存ですっ!」
元気いっぱいと言うにふさわしい溌溂さを伴って、マチカネフクキタルはやってきた。昨日より軽くなった服を着て、手にエコバッグをぶら下げて。良いことでもあったのか、本日の笑顔は二割増し。何か本人的に嬉しいことでもあったらしかった。
「それは良かったね。あと部屋に入るならノックくらいはちゃんとしよっか」
「まあまあ、私とあなたの仲ですしいいじゃないですか~細かいことは」
へらっと笑ってソファーにボスン。定位置に収まったフクキタルはこちらの注意もなんのその。ちっとも意に介してないみたい。
「フクキタル?」
「ゔっ……スミマセンデシタ。怒らないでください~、次からはちゃんと気をつけますので……なにとぞっ!」
「よろしい」
両手を合わせて拝むようなポーズ。語気を強めて圧をかけるとあっさり降伏した。いつもこうなら楽なんだけど、調子に乗っているときだとそうもいかないのが困りもの。
割と方々でやらかすくせに、単に注意するだけではちっとも反省なんてしないのがマチカネフクキタルというウマ娘。ノックをしなかっただけ、なんて細かいことのようだけど、一度見逃すと手が付けられなくなるので容赦はない。礼儀は大事と存じます。
今回はすんなり自らの行いを反省したようだった。こういうときには内省を促すのが最も効果的。それがここ二年で得た教訓。手を変え品を変え、わりとよくやらかすフクキタルを諫めるのが担当としての仕事の一部で、腕の見せ所となってしまっていた。
「ところでそれ、何か買ったの?」
「これですか?ふふ、なんとですねぇ……じゃじゃーん!夏の代名詞、その名もアイスです!」
話題を変えると、一瞬でテンションを取り戻したフクキタルは前のめりに声を張る。エコバッグから取り出したのは僅かに結露で濡れた箱。その中には嫌う者などいないであろう氷菓子、ソーダアイス。なんとも嬉しい六本入り。
どこかテンションが高いと思ったらそういうこと。ノックを忘れていたのも、手元のアイスに浮かれてしまっていたというのが真相のようだった。
「アイスはちょっと早くない?まだ夏まで時間があると思うけど」
「そんなことないですって。もう夏服なんですから夏だといっても過言じゃありません。とまあ、そんなことを考えていたら美味しそーなこのアイスを見つけてしまってですね。つい買っちゃったというわけです」
「冷凍庫に空きはあるから取っておけると思うよ。……というか、今日食べるつもり?」
「当たり前じゃないですか~。ここで食べないなんてとんでもない!ウマ娘が廃るってもんです」
フクキタルは立ち上がって冷凍庫へと向かう。止まる足音と対照的に、小気味の良い音を鳴らして箱が剥かれた。分離した紙ごみを忘れず捨てて、アイスを冷凍庫に仕舞う。箱から二本だけ抜き出して。
「ありゃ、ちょっと溶けちゃってる?」
フクキタルの手元を見ると個包装には液状化したアイスが僅かに溜まっていた。呟いた当の本人は、まあいっかとあんまり気にしてないみたい。大雑把である。
「トレーナーさんもおひとついかがですか?一足先に夏を感じちゃいましょう!」
「いや、アイスはいいよ。まだそこまで暑くないし、体を冷やしたくはないから」
それに、どうせ食べるなら溶けてないほうが良いし。
一本こちらに差し伸べられたアイスを首を横に振ることで辞退した。
「なんと。せっかくなら一緒に食べたかったんですが……そうですか」
ちょっと残念そうにするフクキタルはすごすごと再度冷凍庫の扉をあけて、アイスを一本箱に仕舞った。その姿に申し訳なさを僅かに一抹だけ感じつつ、雑談しながらでもできる簡単な書類仕事をこなすことにする。
「まあそうなら仕方ないです。では代わりにこのアイス、トレーナーさんの分まで美味しく頂きますので!」
「それはいいけど、お腹壊したりしたら承知しないからね。ちゃんと自制はすること」
「大丈夫ですよ~、一本だけですし。モーマンタイです!多分!」
楽観的なフクキタルに若干の不安を覚えるけれど、無理に止めることはしない。フクキタルもこれでトゥインクルシリーズ三年目の立派なウマ娘。自己管理はできると信じている……信じたい。占いやらに対する執着が異常だった頃とはもう違うのだ。今では大吉を出すまでおみくじアプリを狂ったようにリセマラしたりしないし、自己流の占いで凶相が出たからといって朝から晩まで御守りでつくった鎧を装備したりもしない。ものすごく異常からぎりぎり正常まで落ち着いている。
フクキタルだって成長しているし、もう子供ではないのだから何でもかんでも指図するのは違う。ある程度自分で考えて行動できるようになるまで見守るのが、教育者として目指すべきところのはず。俺には見えていないだけで、フクキタルにだって考えがあって行動しているはずだった。
「んー!美味しいですねぇ!やっぱりアイスは夏が一番です!」
「…………やっぱダメかもなぁ」
一口齧って満面の笑顔。能天気な声で頭に鈍痛。ひょっとしなくてもアイスは取り上げるべきだったのかもしれない。味を楽しむのは大いに結構だけども、体調とか後々のことも少しは考えてほしい。今なんにも考えてないだろ、キミ。
「いいですよねぇ、夏。あっついですけど楽しいことでいっぱいです。海や山に行ったりだとか、夏祭りに赴いたりだとか。あと今年の夏合宿も楽しみですねぇ……いや、あれは地獄でもありますが」
アイスをチロチロ舐めながら、フクキタルは足を控えめにバタつかせて今年の夏に思い馳せる。今年も今年でまた色んなところに連れまわされるのはもうほとんど確定事項みたいなものだった。一昨年と去年を鑑みれば、今年だけ解放してくれる見込みは薄氷より薄い。あの騒がしく慌ただしい、でもやっぱり愉快な季節はもうすぐ近くまでやって来ている。各所を駆け巡って、夏ならではの美味しいものを食べて。食費とガソリン代に圧迫されながら過ごす、あの季節が。
「思えば去年も様々なところに行きました……。覚えていますかトレーナーさん。あの灼熱の日差しに晒されながらも大いにはしゃぎ笑いあって遊んだ、優雅な海辺でのひと時を……!」
「ああ、スズカにタイキ、ドーベルも連れて皆で行ったあれのこと?」
「そうですそうです!皆で遠出して海まで遊びに行ったときのこと!」
テンション高めにフクキタルはうんうんと首を縦に振る。その勢いで耳飾りの達磨がブンブン揺れて、どっかに飛んできそうになっていた。
「いやぁ、正直な話するとさ。開始数分で盛大に溺れかけたキミがインパクト強すぎて、それ以外はあんまり覚えてない」
「あーっ!!それは忘れてくださいと何度も言ったじゃないですか!」
「あ、ごめんそうだった。その話になるとついね、つい」
突発的な金切り声に耳が痛みを訴える。それはうっかり踏んだミニ地雷の代償。でも、忘れろってのも難しい話だと思う。
忘れて欲しいならそもそも自分から話題に上げないでくれない?という本音は仕舞っておいて、去年のフクキタル失敗集でも五本の指に入る出来事を思い出す。ザブン、と蒼く雄大な、波の音を伴って。
「これ、足が吊らなくなるお守りなんです!」
マチカネフクキタルは声高に謳った。海へ向かう道中、その車内での出来事だった。
友達と海に遊びに行くことに気分が上がっていたのか、海に到着しても耳に引っさげたその御守りを見せびらかしていたフクキタル。流石にしつこすぎたのか、ちょっと鬱陶しがられていたのはご愛敬。一方の本人はそんなことなどつゆ知らず、おニューの水着を身に纏って意気揚々。御守りがあるから問題ナッシングでーすっ!なんて調子に乗って、大海原へ駆け出していた。
「おいコラ待てーー!って聞いてないし……。ごめんね、慌ただしくて。フクキタルめちゃくちゃ今日を楽しみにしていたみたいで、テンション普段よりも高いんだ」
「ふふ、まあフクキタルですから。あれでこそって感じもします」
フクキタルですから、の一言で片づけられちゃってるけどそれでいいのかフクキタル。スズカだけじゃなくてドーベルとタイキも首を縦に振ってるけどほんとにいいのかフクキタル。
そんな感じで和気藹々としていたそのとき。
「「「「あ」」」」
たったの数秒、目を離しただけだったのに。
砂浜から数メートル先、青空映す広い海。なんとそこには、とても大きな水しぶき。発生源には叫び声を響かせる哀れなウマ娘の姿が。
そこそこの浅瀬で溺れかけるフクキタルを救助して、無事を確認し、一息ついた後のこと。事の次第を聞いてみた。
「何が、あったのかな?」
「足を……吊りました」
カンカン照りの空の下。重々しくも正直な供述を、ぽつり。
人はこれを案の定ともいう。ぶっちゃけ、聞くまでもなく知っていた――
準備運動をしなかった報いがこれである。南無三。ちょっとは懲りてね、フクキタル。そんな風情だった。
とはいえ。ここで嘘を吐いたり、誤魔化したりしなかったフクキタルは偉かったと思う。
だけど、誰一人として吹き出さなかったその他一同はそれよりもっと偉かった。
砂浜で足をさすりながら俯いて、情けない真実を語る姿はそれだけで涙を誘うくらいの哀愁を漂わせていて。濡れないようにとビニール袋に覆われた、件の御守りがやけに目について離れなかったことをよく覚えている。
「あんなにピンポイントな御守りだったのに、ちっとも効果なかったのね……」
そんな誰にともなく呟かれたサイレンスなスズカの
「もー、気をつけてくださいよ。じゃあ他には、えーっと」
気を取り直して、といった様子でフクキタルは去年の夏に関する他の記憶を呼び覚まそうとする。立ち直りが早いのはフクキタルの長所だけれど、こればっかりはもう止めておいた方が良いと思う。去年の夏休みに関しては控えめに言って良いとこ無しだったよ、キミ。
「あ、そうそう。んーゴホン。……覚えていますかトレーナーさん。艶やかな着物に身を包んだ私と一緒に夏祭りを練り歩き、キャッキャウフフと仲睦まじく花火を見たあの日のことを……!」
声を整え、芝居がかった感じで上目遣い。あざとさマシマシ。真実味薄め。そんな楽しいものじゃなかっただろう、アレ。
艶やかとか自分で言っちゃうんだ……という心の声は再び仕舞っておくとして、これまた去年のフクキタル失敗集の中でも最高峰との呼び声高いひとつを回想する。伴ったのは夏祭りの熱に負けじと響いていた、聞き慣れた蝉の音だった。
「夏祭りかぁ、懐かしい。色々あったよね。ほんと、色々」
「いやぁ、楽しかったですよねぇ」
屈託なく笑うフクキタルはこちらの皮肉に気づいた様子もなく、悪びれた様子もまたない。なんて都合のいい思考をしているんだコイツは。去年の夏祭りといったら、それはもう散々なものだったというのに。一日に起きていいイベント量じゃなかったのだ、あの日は。
怒涛のような一年前の夏祭りは、開幕早々からトップスピード。
フクキタルが寮に財布を忘れた。事はそれが発覚したところから端を発することとなる。
物々交換の時代は既に終わりを迎えた。世はまさに、大貨幣時代!!マネー・イズ・パワー。そんな社会の荒波の中、所持金の無い者に明るい未来は無い。
要約すると、フクキタルはそこかしこに点在する出店巡りに参加するまでもなく脱落したのだった。ぎゃんぎゃん慌てふためいて騒ぐフクキタル。あの日はそれをなんとかして宥めるところから始まった。
「今でも覚えていますよお、美味しかったあのりんご飴!今年もまた食べたいものです。……あ、そうそう。このバッグもあのとき買ったモノなんですよ、覚えてます?」
「そうだね。エコバッグに関してはほとんど覚えてなかったけど、あのりんご飴が美味しかったのは覚えてるよ……お金払ったの、全部俺だけどね」
見やすいようにと、フクキタルはバッグを掲げてこちらに見せる。薄っすら見覚えがあるような……と思ったら、道理で。あのエコバッグにりんご飴。その他にも焼きそば、たこ焼き、ニンジン焼き、エトセトラエトセトラ。夏祭りってお財布のヒモ緩んじゃいますよねぇ、なんておどけて言いながら爆買いしていたフクキタル。そのお財布、誰のものだか分かってますか?
後悔とは得てして先に立たないもの。情けを見せたのがいけなかったのか、手綱を握れなかったのがいけなかったのか、今ではもう分らない。
分かったことがあったとすれば、残念なことにフクキタルの辞書には遠慮という言葉が抜け落ちていたということ。
「夏合宿頑張ったし、今日くらいは財布を出すよ。どうせもう電車代は出してるんだし」
その言葉を口に出して、フクキタルが目を輝かせたところまでは良かった。控えめに、おずおずと、りんご飴をねだってきたのもまだ良かった。悪かったのはそこから図に乗り始めたフクキタルにブレーキを掛けられなかったこと。
恐ろしきはウマ娘、その胃袋は伊達ではない。塵も積もれば山となり、夏祭りが終わる頃には見違えるほどに財布は薄く。帰りの電車代だけギリギリ残っていたのがフクキタルなりの遠慮の形だったのだとしたら、そんな辞書はすぐに破り捨てて欲しい。
「人混みの中をたくさん歩き回って、最後の方はふたりしてクッタクタになりましたよねぇ。今ではいい思い出です」
「うん。俺はこっちの静止も聞かずにどんどん突き進むキミに引きずり回されただけだったけどね」
都合のいい財布(俺)を手に入れて調子に乗ったフクキタルは止まらなかった。出店をしらみつぶしに巡りまくって縦横無尽。その背をひたすら追いかけまくって疲労困憊。ついでに財布の中身は雲散霧消。
下駄を履いて着物に身を包んでいるとは思えない俊敏さで駆け巡るフクキタルと、それを追いかける汗だく成人男性の姿はそこそこ目を引く見世物だったんじゃないか。実際笑われていた気がしないでもなかった。
まあ、百歩譲ってそこはいい。わりといつものことだし。
でも、問題はその後。
「それにキミ、途中で耳飾り落とすし。これでもかってくらいに広くなった行動範囲を全部見て回るのは本当に骨が折れる思いだったよ」
「あぁー、そんなこともありましたっけね」
フクキタルが(俺に大差をつけて)先に出店に着く→何をいくつ買うか(勝手に)決める→俺が(へとへとになりながら)追いつく→財布を出す(半強制)→一旦休憩しようと提案(懇願)する→フクキタルは既に次の出店へと動き出している(は?)
そんな彼の邪知暴虐な王もびっくりな暴君ムーブを何度か繰り返したときのこと。フクキタルは急停止した。心に浮かぶのはやっと止まってくれたのかという安堵と、随分好き勝手やってくれたなという堪えきれぬ憤怒。祭りで、走るな。
膝に手、肩で息。満身創痍になりながら、どうしてくれようかと顔を上げると、そこには見事なまでにそのお顔を真っ青に染めたフクキタル。
あ、これまだ一息つけないな。
汗の滴りを感じながら、そう察するのに時間は然程いらなかった。
「まあまあ、いいじゃないですか。結局花火が上がり終わるまでには見つかりましたし。しかしあのときはホントに焦りましたねぇ……トレーナーさんなんて冷や汗ダラダラだったじゃないですか」
カラカラと笑うフクキタルは楽しそうに振り返って、悪気なんて全く感じてないみたいにこっちを揶揄ってくる。残念だけど俺はフクキタルの耳飾りにまったく思い入れはなかったし、ダラダラだったのは冷や汗じゃなくて純粋に運動の代償としての汗だった。
「そう言うフクキタルは半泣きだったね」
「うぐっ……そ、そうでしたっけ?私はちっとも、これっっぽっちも覚えてませんけど」
軽くカウンターを食らわせると、フクキタルはわかりやすくそっぽを向いた。痛いところを突かれたのが見え見えの声を出したあとで取り繕うのはどう考えても無理筋。叩けばほこりなんていくらでも出てくるのに、どうしてそう調子に乗ってしまうのか。未だによく分からない。
結局、落とした耳飾りが見つかったのは夏祭りトリの花火が半分ほど上がってからのことだった。下手すると雑踏の中で粉々になっていてもおかしくないなと危ぶんでいたけれど、なんと耳飾りは無事に見つかることとなる。あの人混みで一度も踏まれなかったのは日頃からの信心の賜物か、否か。狂乱してシラオキ様を崇め自らの幸運を噛み締めるフクキタルに、そもそも耳飾りを落とした時点でお察しじゃない?と言える非情さは流石に無かったのだった。
「なんでだろうなぁ」
小さな声で呟いた。
いくつか思い出した記憶は、ほんと、どれもろくでもない。
でもなんでだろう。忘れられないし、忘れたくなかった。
誰にも気づかれない程度に、頬が緩んだ。
フクキタルは大きく一口パクリと食べた。気づけばアイスはずいぶん小さくなっていて、それが最後の一口になった。フクキタルはくるくると、アイスの棒を器用に回す。表を見て、裏を見て。それを何度も繰り返して。大切なものがそこにあるのか、ぼぅっとそれを眺めていた。心がここに無さそうだから、どこか思い出に浸っているみたい。ツンとしていたはずの表情は、いつの間にか無くなっていた。
「帰り道の夜風、気持ち良かったですね。あの熱気冷めやらぬ空気と、まばらに散りゆく人々。なんとも忘れがたいものです。お祭りの興奮は眠るまで静まらないとでも言えばいいんでしょうか。終わってもなお熱に浮かされているようなあの感覚が、私は大好きなんです」
一言ずつに思い出を乗せるように、ゆっくりと。その声音は大切なものを愛おしむような、どこか優しいものだった。食べ終わったアイスの棒を眺めるフクキタルの横顔が柔らかく微笑んでいるように見えて、自然とつられそうになる。
「……わかるよ。俺も好きだから」
カツン、静まった部屋に鳴り響く音。ゴミ箱に棒が一本投げられた。それと似た秒針の音がやけに大きく耳に届いて、不思議と鼓動に同期する。時間はカチリと鳴るごとにゆるやか。流れは次第に、鈍く遅くなってゆく。
夏祭りとは不思議なもので、寂しさよりも熱を残して終わりゆく。ひとたび高まった体温と興奮は簡単に冷めるものではなく、ゆるりと尾を引いて心に留まる。瞼に焼き付いたいくつもの景色を見返して、大切に仕舞うようにして。屋台だからこその食べ物に、苦手だった金魚すくい、得意だった射的、浴衣を着ている行き交う人に、目が奪われる色鮮やかな打ち上げ花火。歩を進めるごとに思い返される、ついさっきのお祭りの記憶。そんなだから、家への道を辿っていても、終わっていないと思えてしまう。
盛り上がりなんてあるはずもない帰り道。誰とも知れぬ群衆に紛れ、気休めみたいな温い夜風に触れる帰り道。両親に手を引かれて満足だった帰り道。いつもと変わらぬ星と月が、散った花火の代わりみたいに光り輝いていた帰り道。熱に浮かれて、浮かされて。見るものすべてが特別になる帰り道。
なんだかそれって魔法みたい。子供心にそう思ったのを、今でも大切に覚えていた。
夏祭りは終わらない。最後の花火が咲き散っても。床に就いて、目を瞑るそのときまで。きっと誰もが知っていて、誰もが口にしない、素敵な魔力があるはずだから。
なんてやっぱり、子供じみているかもしれないけど。
顔を上げると目が合った。はにかむように、フクキタルはちらりと笑う。なんでだか、似たようなことを考えている気がしてならなかった。そこはかとなく嬉しくなって笑い返して、照れ隠しに伸びをひとつ。バキバキと肩が音を立てて、それでも収まらなかったから、ちょっと揶揄うことにした。
「まあ、あの日の帰り道は大きい荷物を背負ってたから満足には味わえなかったけどね」
「ちょっ、流石にお荷物扱いは酷いですって。下駄の鼻緒が切れるなんてありがちなアレが起こるとは思わないじゃないですか」
「無暗矢鱈に動き回らなかったらそんなことにはならなかったと思うけど?」
「まあまあ、大目に見てくださいよー。人におんぶされたのなんて久しぶりで、私としては多分にお得で結果オーライでしたし。たまには楽ちんするのもいいもんですよね…………って、あーーーーっ!!思い出しました!!!」
「うわ、びっくりした」
しんみりとしたノスタルジックな雰囲気を、フクキタルは大声でぶち壊した。突然のそれに肩が跳ねる。声の感じからしてみると、さっきと打って変わっておかんむりのようだった。テンションの切り替え早いね、キミ。
「びっくりした、じゃあないですよ!あのとき私を背負いながら言い放ったアレ!『重いよフクキタル』って
「あぁ……悪かったって。普通の人間には三十キロ越えれば全部重く感じるんだよ」
流して流して、許してよ。今の今まで忘れてたんならいけるいける。つい口を滑らせちゃったんだって。
「だとしてもです、まったくもう。トレーナーさんはもうちょっと乙女心とか学んだほうが良いと思います」
呆れたようにそんな提案をしてくるフクキタル。有益なアドバイスをどうもありがとう。
でも大丈夫、知り合いに乙女とか存在しないから必要ないです。
「あれ?今まで夏の思い出深~い話をしてたつもりだったんですが……悉くダメダメフクキタルの話になってません?」
「ああ、つられて俺も思い出した。夏祭り締めの一番大きい花火が上がった瞬間、物凄いくしゃみもしたんだっけ。周りからの視線が痛かったのなんの」
「まさかの追い打ち?!」
フクキタル、撃沈。敗因は冷静になってしまったことだった。八方塞がり、ここに極まれり。実は他にも色々あったけど、この辺りで止めておくことにした。数えだしたらキリがない。そのくらいにはトラブルの連続で、フクキタル風に言うのなら厄日だった。
でも、一番厄介なのは、それが決して嫌な記憶なんかではないということ。
こんな波乱万丈を指して、楽しかった、と最初に言ってのけたフクキタルと同じで。
筆舌に尽くしがたいくらいに疲れたし、面倒なことがあったのも間違いないけれど。
とびきり楽しかったこともまた、動かしようのない事実なのだった。
「うぅ、このまま汚名を被ったままでは終われません……せめてひとつでも挽回できる思い出を……」
肩を落として項垂れていたフクキタルは、まだ諦めていないようだった。天井の方を見て腕を組む。時折、うぐぐ、やら、ぬうん、と声を漏らして記憶を隅から隅まで漁っていた。
しばらくそんな状態が続いた後、突然フクキタルは立ち上がった。
どうかしたの?と声を掛けると、いえお茶をと思いまして、と返された。行き先は電気ケトルらしく、納得する。道すがら、戸棚からお気に入りのお茶の粉を取り出していた。
トレーナーさんもいります、お茶?と聞かれたので、じゃあお願い、と答えた。それを聞いてフクキタルはケトルに水を多めに入れ、スイッチを押す。ソファには戻らず、その場でお湯が沸くのを待つらしかった。
「とは言っても、去年もみっちりトレーニングがありましたし、他に大した思い出があるわけじゃないんですよねぇ……むむむ」
雪がねば、汚名。そんな意気込みがあるのかないのか、フクキタルは体を揺らして悩みぬく。橙色の綺麗な髪が、振れ幅短く揺れている。
「あ!そうだ忘れてました。あれがあるじゃないですか」
「何かあったっけ?」
「ほら、夏の一番最後に夕陽を見ながらソフトクリームを食べたじゃないですか。覚えてませんか?何かのインタビュー帰りに偶々寄ったんでしたっけ。良いお店でしたね~、あそこ。ソフトクリームは美味しかったし、景色もばっちり!驚くほど綺麗な夕陽でした。なんなら今年も行きませんか?」
「――、ああ。そんなことも、あったっけ」
言葉に詰まったのは、多分、夏を好きでいたかったから。
思い出して、少し動揺した。決して嫌な記憶だったわけではないけれど、率先して思い出したくなる記憶でもまた、なかったから。
無意識にこぶしを握った。夜を怖がる子供みたいに。
客は少なかったけれど、山と空が一望できる良いお店だった。特に不満があったわけでもない。どこか肌寒く感じたけれど、ソフトクリームはとても美味しかった。俺は見ようとしなかったけれど、フクキタルは朱に染まりゆく風景を楽しんでいた。
時間が経っても溶け出さないソフトクリームを眺めるばかりだった時間。窓辺の風鈴の色を覚えていない。
目を逸らしていたことを、よく覚えていた。
「んん、歯切れが悪いですね。どうかしました?」
「まあ、ね」
何かに感づいたのか、思っていたより表に出てしまっていたのか。問うてきたフクキタルに曖昧に濁した答えを返す。フクキタルは斜めに首を傾げて、それだけでは納得していないようだった。
いつの間にか沸いていたお湯を、あらかじめ粉末を入れた湯飲みにフクキタルは注いだ。かき混ぜ棒で攪拌してから、湯飲みを二つお盆に乗せてケトルの前を離れる。
「もしかして苦手だったんです?あそこのソフトクリーム。んー、でもその割にはペロッと食べていたよーな……?」
「……そっちじゃなくて、夕陽のこと」
微妙に見当違いをしているフクキタルへ正解を教えることにした。すぐ目の前まで来たフクキタルはどうぞ、と湯気の立ち上るお茶をデスクに置いた。ありがとう、と感謝して、湯飲みを片手で持ち上げた。
「というと?」
目を丸くしたフクキタルは臆面もなく聞き返す。一巡だけ迷ってから、話してしまうことにした。わざわざ誤魔化すようなことでもない。自分から話すようなことでもないけれど。
フクキタルは慎重にお盆を運んでソファに座る。その間に一口飲んだお茶はなかなか熱くて、喉元を過ぎてもひりひりとする感覚があった。
あつ、とひとつ声が漏れて出た。
「まあ、くだらない話なんだけど。夏の終わりに見る夕陽って苦手なんだ。あの夕陽だけは、どこか翳っていて、冷めたように見えるから。なんだか夏の思い出を全部連れ去って、消えていってしまいそうで。終わってしまうことをはっきり見せつけられてるみたいで、悲しくなる」
夏の終わりとは、あっけないものだ。記憶に残る夕陽は頼りげもなく照っていた。風鈴が断末魔のように、けれど空っぽに、チリンチリンと響くような音を伴って。
まだ子供だったいつかの日。母さんと歩いた横断歩道。髪にふわりと触れる風。嘘のように冷めた熱。掠れたようなあの夕陽。まるで夏が死にゆくような、ひどく寂しい季節の終わり。それがあまりに悲しくて、幼い俺はワンワン泣いた。わけもわからず、ずっと、声が枯れてしまうまで。
夏に沈む夕陽が苦手になった。どうすればいいのか分からなかった。夕陽から感じ取ってしまった、あの生暖かさが、あの熱の抜け落ちが。どうしようもない移り変わりを決定づけるみたいで。夏の思い出も何もかも、どこかへ零れて消えていってしまいそうで、怖くて。
いつだって、そんな終わりで終わってしまうものだから。
「だからか夏は、どこか好きになりきれない」
嫌いなはずは、なかったけれど。
「それは……」
フクキタルは言葉の前に一口飲もうとして、湯飲みを傾ける。思いの外お湯の温度が高かったのか、あちっ、と声を漏らして舌を出した。三度ほどふぅふぅと息を吹いてお茶を冷ますようにしてからようやく一口飲んで、言った。
「それは、きっと違います。何にだって終わりは来ますから。それを恐れちゃ駄目なんです。終わることが悲しくて好きになれないんなら、そっちの方が悲しいことだと思います」
それは思い描いていた言葉とは随分離れたものだった。俺はてっきり、そうですか、だとか、へぇ、と言われるだけで、すぐに流されてしまうものだとばかり思っていたものだから。驚いた。
芯を感じるフクキタルの声。虚を突かれて固まった俺を他所に、フクキタルは淡々と淀みなく語る。それが即席のものでなく、長い時間をかけて醸成してきたことを示すかのように。
「終わることを怖がってちゃもったいないです。笑ったり、楽しんだり。それまでにできることはたくさんありますから。できる限りの用意をして、全力でぶつかっていかないと」
「……それは例えば、御守りを集めたりとか運気を高めたりだとかに力を入れて、悪いことが起こらないようにして?」
なんて、間抜けな言葉。 口に出してからもそう思ったけれど、それ以外に持ち合わせた言葉がなかった。
浮かんで来たのがそんな言葉だったのは。太陽の光に照らされる、壁一面に並んだ御守りが目についたからかもしれないし。いつもよりしっかりとしたフクキタルに戸惑って、無意識のうちに普段と同じに引き戻そうとしたからかもしれなかった。
「うーん……前まではそれでいいと思ってたんですけど、この頃はちょっと違っていてですね。もし仮に突然大雨が降ってしまって、何か予定がおじゃんになってしまっても、他にできることはありますので。どんなときももっと楽しく、よりハッピーになれるように。そのためのちょっとした勇気づけと後押しにラッキーグッズを集めているのが最近の私なのです」
まぁ、普通に趣味でもありますが。
言って、また湯飲みを傾けた。
「悪いことが起こったっていいんです。いえ、もちろん起きて欲しくはないんですけど。それでもちゃんと頑張って前を向けば、きっと結果は着いてきます。私だってやるときゃやるんです。……ほんのちょっとの幸運と、トレーナーさんがいればですけど」
最後だけ気持ち小声になって、照れたように右頬を掻いた。ゴホンと咳払い。居住まいを正した後に、ちょっと話が逸れちゃいましたね、とフクキタルは前置いた。
「私はできることは全部やっちゃって、それで最後に、ありがとー!って。そう言えるようにしたいんです」
「それは、何に対して?」
「全部にです。一緒に遊んでくれたお友達とか、記憶に残った風景とか、夏の思い出の全てに」
あぁ、とひとり納得した。なるほど。そんなこと、だったのか。
一陣の風が窓から入り込んできて、立ち上っていた湯気が揺らいだ。髪とか、書類とか、もしかすると心も揺らして吹き抜ける。どこを見ていたわけでもなかった俺達は、揃って窓のほうを向く。
ひこうき雲が漂う空。ツバメが一匹、飛んでいる。
「いつかくる終わりばっかり見ていても仕方ありません。それを見るのは、終わるそのときだけでいいんです、 きっと。終わりって……お別れって、そういうものです」
フクキタルが教え諭すように紡いだいくつかの言葉は、全部知っているはずのものだった。短いのか長いのかも分からない俺の人生で、確かに学んだはずのもの。それは、例えば。長い物語を読み終えたときだったり、住み慣れた家を離れるときだったり。お葬式でだったり、卒業式でだったり。そんなお別れに触れた、いくつもの経験で。
お別れに似合う言葉は、『悲しいよ』でも、『辛いよ』でもなかった。いつだって『ありがとう』という感謝だけが、最後に優しい結びとなってくれる。わだかまる様々な想いをそのままに、覆い包んで、結んでくれる。
悔しいな。知っているはずだったのに、気づけなかった。
あの夕陽には、ありがとうの、ただそれだけでよかったのだ。
「なーんて、ちょっとカッコつけすぎちゃいましたかね」
フクキタルは今度こそはっきりと、恥ずかしそうにたははと笑う。困り顔にも似たその表情が、いつもより少し赤かった。
フクキタルの言葉には、なんで俺のつまらない感傷なんかに引き出されたのか分からないくらいの、明確な重みとカタチがあった。それはきっと、生きる過程で織り重ねた固有のもの。
いつかどこかのお別れで、キミが識ったことなのだろう。
「……たまには、いいんじゃないかな」
青臭くたって、粗削りだって、学び得たものをカタチにして。それを大事に仕舞っているだけじゃいられない。誰かと話して、伝えて、歩み寄る。それでこその
だから、たまにはいいのさ。ずっとじゃ疲れちゃうけれど、こういう話も、たまには。
「ところで、なんですが」
いつの間にか、フクキタルはこちらを見据えていた。面持ちは真剣と緊張が混ざったみたい。下から覗き込むような視線だった。数秒音もなく、また動きもなかったので、どうかしたのと声を掛ける直前。
「それでもやっぱり、夏は好きになれませんか?」
不安そうに、フクキタルはそんなことを言った。どこか怖がるみたいに、らしくなく、控えめに。
瞬間、湧き出るように笑いそうになって、危なかった。
なんだ。どうしてらしくなく深い話をしてくれたのかと思えば、そういうこと。
夏が好きになりきれないって言葉のために、そんなことのために、わざわざ話してくれたのか。
くだらないことなのに真剣で。小さなことなのに大げさで。バカみたいなことをバカにせず、受け止めて。そんな心遣いが嬉しかった。
「じゃあ、夏が好きってことで」
そのままは恥ずかしかったから、言葉はちょっとズルく曖昧に。でも、本心そのもので。
夏が好きになりきれない理由なんて、もう欠片も残っていなかった。
「……はい!そっちのが、何倍も良いと思います!」
それを聞くとフクキタルはパァと顔を明るくして、目をキラキラと光らせて。自分のことみたいに嬉しそうに、笑った。
綻んだその顔は輝くように朗らか。やっぱりフクキタルには、それが一番似合っている。
「うへへ~。なんだかそこはかとなく良いことをした気分になってきました。どうです?トレーナーさんも良いことされちゃった気分になってるんじゃないですか?もしそうであるならばっ!ご褒美とかくれちゃっても、かまわないんですよお~~」
やはりというかなんというか、驚くほどの速さでフクキタルは調子に乗っていた。予想はしてたけど色々台無しだった。らしいといえば、らしいけれど。
「ううん、全然。それよりそろそろ練習の時間だからさっさと用意してきてね」
「冷た!もうちょっと優しくしてくれてもいいんじゃないですかね……可愛い教え子なんですから」
「優しくしたらすぐ図に乗るだろ、キミ」
「……否定できません!」
でもまあ、今度の夏祭りでも奢るくらいはしようかなとは考えた。言うまでもなく、手綱は固く握りしめて。
時計を見ると、もう予定の時刻まであまり余裕がなかった。諸々の準備にかかる時間を考えると、ここらで雑談はお開きにすべきだろう。フクキタルは湯飲みに残ったお茶をぐいっと一気に飲み干した。
「ほら、もう本当に時間だからジャージに着替えてきなさい。アイス食べたし今日はちょっとだけキツめにするよ」
「ゔぇっ!それは聞いてませんよぉ!」
「そりゃ言ってないからね」
フクキタルは不満の残る顔をしながらスクイズボトルやタオルなんかを手際よく用意して、ドアの前に立った。遠く、外からはちらほらと掛け声らしきものが聞こえてきた。走り込みだろうか。元気な声だ。
「ん、トレーナーさん練習場行かないんですか?今日は見てくれる日のはずでしたけど」
「残った仕事片づけてから行く。先に行ってて」
「なるほど。りょーかいです」
椅子に座ったまま、ドアノブに手を掛けるフクキタルを見送る。それだけでよかったんだけど、何かひとつ言い残していた気がして、後ろ姿に声をかけた。
「なあ、フクキタル」
「ほんにゃ、なんです?」
ドアを開きかけていたフクキタルは威勢を削がれたように振り返る。さて、なんと言おう。実のところ明確に喋りたいことがあったわけでもない。ただちょっと、柄にもなく夏が待ち遠しくなってしまっただけ。言葉にするとなると、これまたなんとも難しい。
今年も、楽しい夏になるといいね
言おうとして、すんでのところで思いとどまる。それじゃあどこか投げやりだ。受動的なのは俺達に似合わない。むしろ、真逆。
「今年も、楽しい夏にしてやろう」
どうせなら、このくらい挑戦的な方が良い。
「もちろんです!ずっとずっと、忘れられないくらい。楽しい夏にしてみせますとも!」
返事はそんな頼もしい言葉で。またひとつ、夏が待ち遠しくなる。
最後まで元気いっぱいに、溌溂と。フクキタルは今日もそうしてトレーナー室を去っていった。閉じたドアを見て、どこか寂しさを感じるのにはもう慣れた。うるさいのがいなくなると物足りなくなってしまうのは、天邪鬼な人の性。どうにもままならないものだ。
途端に静まり返った部屋でペンを置いた。ぶっちゃけると、抱えていた仕事は粗方終わっている。大して急を要するものも残っていないし、この部屋に留まる理由はあまりない。つまるところ、ここからの時間はサボりということになる。
空に浮かぶ太陽は、もうてっぺんを過ぎたはず。だけども十分眩しくて。窓から差し込む陽光で、部屋はほんのり暖かい。手持ち無沙汰な時間とは何にも代えがたい怠惰な宝。微睡みそうになりながら、背もたれに体を預けてる。
ああ、そうだ。おもむろに気が向いて、立ち上がる。ちょうどいいものがあるんだった。
「さてと、じゃあちょっと見習ってみますか」
冷凍庫から取り出したのは嫌う者などいないであろう氷菓子、ソーダアイス。少し減って残り四本。冷凍庫の扉を閉めて、窓の傍で袋を開ける。フクキタル風に言うのなら夏の先取り。パクリと一口かぶりつく。やっぱりまだ少し早い。涼しいというよりは、涼し過ぎるくらいだったけど。
「うん、美味しい」
アイスはもちろん、ちゃんと美味しい。
フクキタルの真似をしてみただけだったけれど、なかなかどうしていい気分。本格的な夏の前に食べるアイスというのも良いものだった。僅かばかりの優越感と、咎めるような肌寒さ。これも夏の楽しみ方と言えなくもないのかもしれない。
だったら、アイスに躊躇なくパクついていたのはフクキタルなりの夏の楽しみ方ということにしておいてやろう。それは、あながち間違いでもないのだろうし。
窓の外には二色鮮やかな広い空。白い雲は自由に漂い、背景には綺麗な空色。奥には当然のように太陽がある。たったこれだけで夏を連想するのは、流石に贔屓が過ぎるかも。
つんと押せばすぐ移ろってしまいそうな季節の境目。誰かにとってはまだ春なのだろうけど、誰かにとってはもう夏なのだとしたら。
なら、こちらからも迎えに行こう。ただ待っているだけじゃ耐えられない。暑くもないのに袖を捲って、短くして。来る夏に備えよう。そうして夏に近づこう。気を抜くとすぐに終わってしまうあの夏を、ちょっとでも長く楽しむために。
夏の終わりはもう怖くない。だって、夏が好きだから。ありがとうで埋め尽くすことくらい、わけないさ。
ふと、どこかから音が聞こえた。ずっと昔から聞いてきて、ついこの前も聞いたような。そんな馴染みの深い音。懐かしくて、待ち遠しい。たくさん記憶が詰まった音。
その音は幻聴か否か。どちらにせよ、迎え入れる準備はできている。 シャクっともう一つ音が鳴って、口の中に夏の味が広がる。目を瞑り、舌に意識を割きながら、静かに耳を澄ませてる。
ミーンミンミン チリンチリン ザブン
ミーンミンミン チリンチリン ザブン
また、終わる夏が始まる。今年はきっと、終わりの夕陽も好きになる。