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勇者が死んだ。王国の命令で魔王を討伐したあと、魔族と呼ばれていた原住民族に殺された。
もう千年も前の話だ。共に魔王を討伐した勇者の仲間たちは皆死んだ。ただ一人、ミヤ・クロムを除いて全て魔族に殺された。
おそらく、魔王と王国の戦いは宗教戦争のようなものだったのだろう。王国の国家宗教であった聖域教が、原住民族の精霊信仰を淘汰しようとして起こった戦争。ミヤ以外の勇者一行は、王国と聖域教に利用されたあと、魔族の手により無残に殺された。
ほとぼりが冷めた頃に、ミヤが調べたところ、王国と聖域教は始めから勇者一行を犠牲にするつもりであったようだ。最初から、わかりやすい加害者として勇者一行を目立たせておくことで、魔族の意識から王国と聖域教を逸らしていたらしい。
今思えば、勇者も勇者一行も聖域教が運営する孤児院で育てられた、簡単に切り捨てられる身分の者ばかりである。ミヤも、魔族の母親から生まれ、とある貴族の落胤として孤児院に預けられていた、死んでも構わない(むしろ死んで欲しい)と周囲から思われている子どもだった。
ミヤはそう言う事情があったため、王国に助けを求めず一人で魔族から逃げたが、他の仲間たちは王国と聖域教に助けを求めた。そして、王国は彼らを裏切り、彼らを魔族に差し出したらしい。
ミヤがそれを知った頃には勇者が死んでから五百年ほどの月日が流れていた。当然、仇敵は全員既に故人であるし、ついでに言うと、元々少数民族であった魔族は絶滅していた。
仇敵の子孫に対して何かをする気にもなれなかったミヤは、ただ呆然とした。そのとき、自分が泣いたのかすらミヤはもう覚えていないが、現存する仲間たちの遺骨を全て集めて懇ろに弔い終わった頃には八百年が過ぎていたと思う。
「ケホッ」
ベット以外はほとんど何もない白い壁の小さな部屋に、乾いた咳の音が響いた。人目を避けるために人里離れた山奥に建てられた家はしんと静まり返っている。
魔王と呼ばれていたとはいえ、原住民族が祀る神としての面もあった精霊を殺すことに加担したためか、ミヤは自害ができない肉体になっていた。
手首を切ってもすぐに傷が塞がり、毒をのんでも苦いばかりで苦しむことも死ぬこともない。入水しても、なぜか水中で呼吸ができたため、死ぬことができなかった。他にもさまざまな方法を試してみたが、どれも失敗に終わった。そういうわけで、ミヤは人間不信を拗らせながら無為徒食におよそ千年も生きていた。
(老いたな……。)
外見は、若い頃と何も変わらない。鏡の中には、若い——幼いといってもいいくらいの童顔が映っている。しかし、自分の体の中がここ最近すっかり弱っているのがミヤにはよくわかった。
「死ぬのか。」
ようやく、死ねるのか。
「ゲホ、コホ、コフッ」
口元を押さえたミヤの手の平に血が付いていた。
(これで、終わりか。)
ミヤは溜息を吐いた。
(疲れたな。)
ミヤはベットに体を横たえて、ゆっくりと静かに目を閉じた。緩やかに体から力が抜けていくのを感じながら、ミヤは安らかに二度目の死を受け入れた。
*
ミヤ・クロムはかつて便利屋として勇者一行の雑務全般をこなしていた女だ。
自分の事を説明しろと言われて最も先に出てくる言葉はやはり〈便利屋〉だろうとミヤ——小夜は思う。
橘小夜という平凡な日本人女性がミヤ・クロムに転生した原因はいわゆるトラ転と呼ばれるものだった。目の前で子供がひかれそうになっていたから咄嗟に庇い、橘小夜として死んだ。
普通ならば、そのまま小夜の魂は死後に浄化されて記憶をなくした状態で転生するはずだった。しかし、とある神の気まぐれにより、小夜は記憶を持ったまま
(さて、長かった
小夜は困惑していた。早く
(ここはどこだ?)
気づいたら、小夜は深く薄暗い水の底にいた。自分の体温とほとんど同じ温度の水の中は、まるで羊水の中にいるような安心感があり、小夜は強い眠気を感じた。頭の中がぼんやりとして思考がまとまらないのがもどかしいと小夜は思った。
銀色の気泡が小夜の口から溢れた。そのまま、小夜は水中で大きく息を吸ったが、やはり苦しくはない。小夜が辺りを見回すと、視界の端に美しい銀髪が見えた。
(魔王……。)
小夜が振り向くと、月の光を集めたような色をした魔王の髪が水中にふわりと広がっているのが見えた。長い髪が浮いてることで、女と言われても納得してしまいそうなほど美しい魔王の顔が露わになっている。魔王の瞼は軽く閉じられており、髪と同じ色をした長い睫毛が目元に微かな影を落としていた。
(……ああ、そういえば、精霊だから無性なのだったか。)
そんなことをぼんやりと考えながら、小夜は魔王に手を伸ばした。
小夜の手が魔王の頬に触れる直前に、魔王の目が開いた。深い水の底のような紺色の瞳が小夜を真っ直ぐ見た。
『ああ、ようやく堕ちてきた。』
魔王がそう言った。——正確には、喉を震わせたと言うのが正しいのかもしれない。人間の言葉とは異なる、『精霊語』とでも称するべき言語を使って魔王が小夜に話しかけた。
小夜は何も言わずに魔王を見つめた。
魔王は小夜の腕を掴んで自分の方に引き寄せた。硬い鱗に覆われ、大きく鋭い爪が生えている魔王の腕を見て、小夜は身を固くした。
(……切り裂かれるのか、それとも食い千切られるのか。……当然だ。魔王は私たちを憎んでいるはずだから。)
小夜はきつく目を瞑ったが、予想していた痛みはなかった。恐る恐る小夜が目を開けると、魔王は片方の腕で小夜の腰を緩く掴んでいた。そして、もう片方の腕で小夜の体を確かめるようにゆっくりと優しく撫で、それから小夜の首筋に自分の顔を埋めて深く息を吸った。
『……魔王?』
ミヤが幼少期に魔族の母に少しだけ習った精霊語を使って、小夜は魔王に話しかけた。魔王は何かに酔っているように、とろりと目を潤ませ頬を上気させて小夜を見た。
『ついに、手に入れた。私の吾子。』
小夜の言葉を無視して魔王がそう言った。
『忌々しい聖域教のせいで、随分と探すのに時間がかかったが、わざわざ
愉快そうにそう言うと、魔王はもう一度深く息を吸った。そして、満足そうに息を吐き出すと、小夜の胸の中央に手を当てた。
『おかげで、殺された振りをしてお前の中に入り、お前の魂と私を完全に同化させることができた。……これで、永遠に一緒だ。お前が何度、人として産まれ人として死のうとも、私も共に産まれ共に輪廻の輪を巡ることになる。……ああ、なんと幸せなことか。』
悪寒がして、小夜は魔王の腕から逃れようと藻搔いた。魔王は小夜が逃げようとしているのに気づくと、腰を掴んでいた腕に力を込めた。そして、もう片方の腕で小夜の肩を掴み、小夜の耳に口を寄せた。
『吾子や、無駄なことはするな。お前は私で、私はお前になった。もう離れることはできぬ。』
小夜は恐怖で固まった。魔王は小夜の耳から口を離すと、小夜の目を見た。
『お前の魂は私と同化したことで、固定された。お前の魂はこれから成長も退行もしない。お前は今のお前としての記憶を持ったまま私と共に転生するのだ。』
『……忘れることができないということですか?』
『ああ、そうだ。』
魔王はそう答えた。小夜は呆然として、魔王を見つめた。
『……なぜ、私なのでしょうか。』
小夜は、特別美しくも醜くもない平凡な容姿の人間だ。魔王がなぜ、地味な自分に執着しているのか分からず、小夜は魔王にそう尋ねた。
『……言っただろう?私の吾子。遠い昔に失くしてしまった私の娘。』
『……娘?』
『お前が覚えていなくても構わない。……千年前、お前をこの世界に戻してくれた友に感謝しなければな。』
『私をこの世界に戻した……?』
『ああ。……お前に異能力を与えた神だ。』
小夜の脳裏に、自分をこの世界に転生させた神が浮かんだ。
『……ただの気まぐれではなかったのですね。』
『そうだ。……“偶然見つけたため、そちらに送る”と言われたときは、一体なんの冗談かと思ったが、お前がこの世界に産まれたのを感じたときは本当に嬉しかった。……それから、すぐにお前が聖域教の施設に移されたせいで、どこにいるのか分からなくなったときには気が狂うかと思った。』
小夜は、魔王が何の話をしているのか分からなかった。しかし、魔王に対して、自分が酷いことをしたような気がして、とても申し訳ない気持ちになった。
『……ごめんなさい。』
小夜がそう言ったのを聞いて、魔王は優しく微笑んで小夜の頭を撫でた。
『構わない。これから、永久にお前が私と共にいるならば。』
魔王は小夜を抱きしめた。小夜は魔王に身を任せてゆっくりと体から力を抜いた。そうしているうちに、段々と自分の意識が消えていくのが小夜には分かった。
(……ああ、これから転生するのか。)
小夜は心細い気持ちになって、魔王の胸にしがみついた。魔王は嬉しそうに小夜の頭を撫でると小夜の額に優しく口付けをした。
『もうお眠り、吾子や。次はお前が産まれるときだ。』
魔王の優しい声を最後に、小夜の意識は完全に途絶えた。