人の気配で目が覚めた。薄く目を開けると、遠くの方にぼんやりと一つの光が浮かんでいるのが見えた。
「……う、あ゛ぁ、ッ、けほ、」
渇いた喉から小さくざらついた唸り声のようなものが漏れた。俺は痛む体に鞭打ってどうにか起き上がろうと力を振り絞った。
「……あそこ、誰かいるね。」
「えっ、あ、枷場さん待って、僕も行く!」
甘く澄んだ少女の声と柔らかい少年の声が建物の中に響いた。足音がこちらの方に向かって来る。
(だめだ、来るな!こっちには化け物が……!)
そう叫びたいのに、声が出ない。俺の足を掴んでいた化け物の手が離されたのが分かった。
「に、げ」
言い終わらないうちに、化け物が彼らに飛びかかったのを感じた。その瞬間、何かが焦げるような音と悍ましい悲鳴が聞こえた。
「大丈夫ですか?」
少女の声が近い。
「ぁ……ああ。」
掠れた声が出た。俺の意識はそこで途絶えた。
*
「少しずつ甚振って楽しむタイプで幸いだったね。まだ生きている人が三人奥にいるみたい。死体は一つだけだよ。」
金平糖を転がしたような優しい声で、結月は冷淡にそう言った。彼女の足元には先ほど襲いかかって来た呪霊の足が転がっている。本体が死んだことで少しずつ塵になっていくそれを見ながら、結月は手元の束からカードを七枚取り出した。
「被害者は見つけ次第、式神に運ばせるよ。そのために折りたたみ担架を持ってきたから。」
「用意周到だなぁ。」
「事前に人間を運ぶ可能性が高いことは分かっていたからね。準備は大事だよ。」
「それでその大荷物……。」
結月の背中には体に見合わないほど大きな背嚢があった。
「んー、この鞄おすすめだよ。沢山ものが入るから。」
そんなことを言っているが、結月の場合、単純に荷物を運ぶだけなら亜空間にでも入れておけば良いため、わざわざ背負っている意味は特にない。強いて理由を挙げるなら気分である。
折りたたみ式担架を組み立てながら、結月は式神に指示をした。
「ダイヤ二枚ハート二枚で担架を支えて、スペード一枚とダイヤ一枚は担架を護衛しておくれ。クラブは治療を頼むよ。」
結月の指示通りに、式神が小さな体躯に見合わない力で怪我人を乗せた担架を持ち上げた。
(担架に四枚……治療は終わり次第次に回せるし、今のうちにクラブをもう二枚出しておこう。死体を運ぶ余裕があればいいが。)
「スペードは使わないんだ。」
「攻撃役を運搬に使うのは効率が悪いのだよ。まぁ盾役と修理役を使うのも微妙だけれどね。一番温存したいのは攻撃役と治療役だねぇ。」
「前から思ってたけど、枷場さんの術式って運用方法がゲームみたいだよね。」
「まぁねー。」
足元に気をつけながら、暗い道を進む。結月の前を金属で出来た虫の翅が生えたアンティークなデザインの小さなランタンが先導するように飛んでいる。ガラスでできたランタンの腹からは脈打つように金色の光が漏れていた。
「それなに?なんか飛んでるけど。」
「ひみつー。」
「えぇ……。」
伊地知が軽く顔を顰めた。
「明かりとして使えるなら何でも良いでしょう?」
「そりゃ確かにそうなんだけどさ。」
ぴくり、と結月が眉を動かした。それを見て伊地知も結月の視線の先に目を向けた。
「……ひどい。」
「そうだね。」
死体が一つ、転がっている。死体に庇われるように倒れていた三人の体を式神に運ばせながら、結月は手を合わせて目を瞑った。
「ほら、早く行こう。」
「……うん。」
壁や床に飛び散った血が黒く酸化しており、鉄臭い臭いが辺りに充満していた。顔色の悪い伊地知を促して、結月は補助監督の元に向かった。
*
「枷場ぁ、この前こっちに運ばれて来てた呪霊の被害者の遺体グロすぎない?枷場と伊地知が担当した任務のやつ。」
任務中に怪我をした呪術師や、呪霊被害者の治療が終わったあと、更衣室で唐突に家入がそう言った。
「そうですよね。他の被害者も多少怪我はしていましたが、彼ほど酷い方は居ませんでしたよ。」
あの死体に庇われていた被害者を乗せたせいで新品の担架が血と泥でぐちゃぐちゃになってしまった。並みの洗剤では汚れが落ちなかったため、ミヤ・クロムとして生きていた頃に聖域教で習った聖法術を使う羽目になったことを覚えている。
聖法術というのは、主に聖域教信者が使う術で、決まった手順を守れば一定の効果が得られる魔法のようなもののことだ。小規模のものであれば聖杖と呼ばれる杖を手に持った状態で特定の呪文を唱えるだけで使えることが多い。ちなみに聖杖の材料には精霊の体の一部が使われている。結月は知らないことだが、魔族と聖域教の戦争にはこの聖杖が深く関わっている。
「両手足がない上に目玉くり抜かれて歯が全部抜かれてたんだけど。残されたパーツもほとんどミンチで腐りかけだったし。」
溜息をつきながら、家入が世間話のようにそう言っている。呪術高専に入学してからというもの、グロテスクなものに対する感覚がすっかり麻痺してしまっているのを結月は感じた。
「まぁ、交流会前にあった水死体よりはマシでしたよ。」
「そりゃアレと比べたらどんな死体でもマシだよ。」
患者の体液が付着したビニール手袋を捨てて手を洗ったあと、結月はふと気になったことを尋ねた。
「そういえば、ああいう死体を検める意味はあるのでしょうか。死因は分かりきっていますよね?」
「一応残穢の確認をしてるらしいよ。ほら、呪霊に殺されたように見せかけて呪詛師に殺されてた事例もあるし。」
「なるほど、たしかにそうですね。」
家入に指導されるようになってから読んだ資料に、そういった事件が記されたものがあったのを結月は思い出した。
「当然遺族に見せられるような状態じゃないから火葬して渡すことになるね。」
「では、彼もそうなるのでしょうか?」
そうなって欲しいと結月は思った。身内の惨い姿なんて見ない方がいいに決まっている。勇者の死体や遺品を集めたミヤ・クロムはきっと泣いていたのだろう。少なくともこの世界で、優しい両親に恵まれた枷場結月はそう思っているから。
「多分ね。よほどのことがない限りはそうなるはず。」
「なるほど。」
結月は青色の手術着を洗濯機に放り込んだ。
「シャワーを浴びて来ますね。」
「わかった。私もあとで行くから。」
携帯から目を離さずに家入がそう言った。
外はもう随分と暗くなっているだろう。シャワー室に入った結月は自分の両足首に着けられた紺色のミサンガを見た。これは呪術高専に入学する前に作った神器で、霊気が結月の意に反して体外に流出するのを制限する効果がある。周りの呪術師の呪力や高専に張られた結界を無闇に乱さないためのものだ。また、反転術式を使う上で外科手術の真似事をするようになり、指輪を外さざるをえない時間が増えたため術式偽装の効果もこのミサンガに移している。
『吾子や、どうした、湯浴みをするのだろう?』
『そうですよ。』
『疲れているのなら、私が代わろうか?』
『いえ、大丈夫です。』
『そうか。』
本来なら、体の外に流れ出ていたはずの魔王の霊気がゆっくりと体の中を巡った。周りに呪力が漂う中でも息がしやすくなったのをはっきりと感じる。思わぬ副次効果に結月は少し頬を緩めた。
『今更ですが、案外快適ですね。体内に留まった霊気のおかげで呪力が体の中に入るのを防げるからでしょうか。』
『……しかし、吾子に枷をつけているようで気に食わん。』
『仕方がありませんよ、周りの呪術師に怪しまれては困りますもの。』
『まぁ、吾子の好きなようにすれば良い。私にとっては、吾子の幸せがこの世で一番大切なことなのだから。』
魔王の言葉を聞いて、結月は少し口籠った。
『そうでしょうか。』
ずっと、魔王が我慢してばかりのような気がする。
(そういえば、部屋に置き忘れていたな。)
異能力を使って、結月は自室から風呂道具をまとめて入れてある籠を取り寄せた。そして、その中から小さな容器に入ったシャンプーを手に取ると、ふと思いついたように顔を上げた。
「『ねぇ、魔王さん』」
ころり、と喉を鳴らした。広いシャワー室に音叉のような柔らかい音が響く。
『なんだ?』
「『また今度、あの神社に行きましょうよ。』」
『ああ、そうだな。』
霊力がほんの少し強く流れたのが分かる。顔は見えないけれど、魔王が微かに微笑んだような気がした。