2016年12月7日
「
まだ10代後半に見える少女の姿をしたそれは無表情でそう言った。フランス人形が着ているようなレースをふんだんに使った洋服の裾がふわりと揺れる。栗色の艶やかな髪と紫色の色硝子のような瞳が、ただでさえ整った顔立ちの彼女をより一層人形のように見せていた。
「お前は何者だ。」
景光は硬い声でそう言った。ライが景光の逃げ込んだ廃ビルに一歩足を踏み入れた瞬間、コンクリート剥き出しの壁の粗末な廃ビルがまるで魔法のように一瞬でその姿を変えたのを、景光とライはその目で見た。ありえない。非科学的で、オカルトじみたその現象とともに現れた無機質な少女は、大理石のような材質の床に立っている。間違っても薄汚いコンクリートの床ではない。景光にとって状況は最悪だった。組織にNOCだとバレて、組織幹部であるライにこんなところまで追い詰められた挙句、ファンタジーとしか言いようのない現象に直面している。意味が分からない。ただ、こんなわけのわからない状況だからこそ、ライの注意が自分から逸れているのが分かった。それが分かったところで、少女とともに現れた豪奢な建物から一人で脱出して逃亡できるわけではないが。
「乱暴にこの城にお連れしてしまったこと、心よりお詫び申し上げます。しかし、一刻を争う事態でございました。どうかご容赦頂きたく存じます。」
少女は景光に向かって深く礼をした。そしてゆっくりと顔を上げると景光の目を見た。
「私のことはラピスとお呼びください。」
銃声が響いた。少女の足元の床に小さな亀裂が入った。拳銃を握ったライが少女を鋭く睨んでいる。
「御託はいい。ここはどこでお前は誰だ。」
「どうなさいましたか、赤井様。……いえ、ここではライ様、もしくは諸星様と呼ぶべきでしたか。」
「……答えろ。どこでその名前を聞いた。」
「
少女に怯えた様子は見られない。
「ここは万魔殿。この世にあってこの世にない場所、主人の秘密基地でございます。……携帯電話などの電子機器の使用はご遠慮ください。無理に使用した場合、機器に不具合が出る場合がございます。あらかじめご了承ください。」
録音した音声をそのまま再生しているかのように、少女は滔々とそう言った。
「私はこの場所の管理を任されている主人の忠実な僕、特殊な人工知能が搭載された、ただの機械人形でございます。……さて」
ラピスはライの方に目を向けた。
「FBI捜査官の赤井秀一様、お引き取り願います。」
「……なぜだ。」
ライの鋭い眼光を受けているにも関わらず、ラピスは最初に口を開いたときから一切変わらない平坦な口調で話し始めた。
「主人からの命令は警視庁公安部所属の諸伏景光様の身の安全の確保と警察庁内部までの護送でございます。」
ラピスが口を閉じると同時に、ライの足元の床が崩壊した。まるで、壊れた液晶に映った映像のような独特の消え方だった。ガラスが割れるような音とともに、床の破片が細かい粒子になって崩れる。先程銃弾で出来た亀裂とは比べ物にならないほど深い、まるでその空間そのものが引き裂かれているかのような印象を受ける割れ目の先の暗闇に、ライがなすすべなく吸い込まれていくのを景光は呆然と眺めていた。
「それでは参りましょう。ついてきてください。」
ラピスが歩き始めた。景光が立ち上がらないのを見て、ラピスは立ち止まった。
「どうなさいましたか?」
天井は高く、大きなシャンデリアが煌々と輝いている。冷たい床にはチリ一つ落ちていない。白い壁には大きな窓が一つあった。窓の外は海だった。いや、海のように見えるだけの別物なのかもしれない。深海魚のように珍妙で、けれども美しい生き物が優雅に泳いでいる。
「この絵が気になりますか?」
「……絵?窓じゃないのか、これは。」
「主人が作ったものでございます。窓のない建物は息が詰まるのだとおっしゃって、このような絵をお飾りになりました。」
「動いているぞ。それに、ほらこんなに、奥行きだって。」
「そうでございますね。」
ラピスの表情は動かない。その顔は景光がどうしてそんな当たり前のことをわざわざ言うのか不思議に思っているようにも見えた。
「なぁ、ライはどこに行ったんだ?」
「赤井秀一……失礼、諸星大は元居た場所にお帰ししました。」
「ライがFBIってのは本当か?」
「主人はそう仰いました。」
じっとりと嫌な汗が背中を流れた。ラピスは景光をただ黙って見つめていた。
「君は人じゃない、のか。人工知能、機械人形ってことは電気とか電波とかを使っているのかな。」
「ええ、そんなところです。」
「……そうは見えないな。まるで人間みたいだ。」
「樹脂から作られた、人間の皮膚のように見えるカバーを使用しております。」
傍目には人間そのものである彼女は、景光にそう説明した。
「そのマスターってやつのこと、聞いても良いか?」
「主人についてお答えすることは許可されておりません。」
「そっか……あー、ラピス、さん?」
「はい。」
「オレの身の安全の確保ってことはさ、守ってくれるってことでいいのかな。」
「主人からの命令は警視庁公安部所属の諸伏景光様の身の安全の確保と警視庁内部までの護送でございます。」
「どうやってオレを警視庁まで連れて行くつもりだ?」
組織の連中だって馬鹿じゃない。逃げたNOCの古巣が警視庁であることは分かっているのだ。警視庁、警察庁、それから付近の交番の周囲は見張られていると見て間違いない。
「質問の意図がよく分かりませんが、扉を繋げば一瞬でございますよ。」
そう言って、ラピスは顔を上げた。
「扉?」
ラピスが顔を向けた先を見ると、そこには扉があった。
「はぁ……もう何が出てきても驚かないつもりだったんだがな。」
「そうですか?」
扉は宙に浮いている。銅色の金属で出来たそれには繊細な装飾が施されており、装飾の中の歯車が何層にも重なって噛み合い、動いているのが見てとれた。
ラピスが扉に触れた。月のような鈍い光を発しながら、歯車は一層激しく動いた。そうしてしばらくすると、歯車はピタリと動きを止めた。重たい音と共に扉が開かれる。
「は?」
扉の向こうにあったのは、美しい城には似合わない簡素なトイレだった。呆気に取られた景光の首根っこをラピスが掴んで扉の向こうに放り投げた。
「え?」
べしゃ、と床に落とされた景光が慌てて振り返ったときには、扉やラピスの姿は跡形もなく消えていた。
「なんだったんだ、今の。」
恐る恐る景光がトイレから出ると、そこは紛れもなく警視庁の廊下だった。狐につままれたような気持ちで上司の部屋まで行くと、上司は泣きながら景光を歓迎した。「どうやってここまで帰ってきた?」という上司の問いに景光は頬を引き攣らせながら「無我夢中であまり覚えていない」と答えた。そんなの景光の方が知りたいくらいだ。
上司の計らいで“諸伏景光”という男は行方不明ということになり、代わりに“翠川唯”という男が新しく公安に所属することになった。
ラピスについて、景光は誰にも話していない。幼馴染であるゼロはこんな話を信じてくれるような性格ではないし、かといって同じ気持ちを共有できるであろうライには容易に接触できる立場ではないため、景光はずっとモヤモヤした気持ちを抱えていた。
景光の気持ちの整理が付かずとも月日というものは平等に過ぎていく。
2017年の12月24日、新宿、京都にて大規模なテロが発生した。
トイレには監視カメラがないからね。