前々世 :橘小夜 一般人(多分大学生)
前世 :ミヤ・クロム 便利屋
今世 :枷場結月
となります。
2 2006年5月上旬 枷場結月の日常1
産声を上げて最初に小夜が感じたのは穢れだった。そして、すぐに魔王が小夜の周囲の不浄な空気を浄化したことも感じた。
(魔王……。)
『吾子や、お眠り。私がいるから大丈夫だ。』
小夜が落ち着いて眠ったのを確認すると、魔王は辺りを見渡した。
『……それにしても、何だ、これは……呪い?……どうでもいいが、吾子の体に毒だ。早く祓ってしまおう。』
小夜が産まれた病院全体を一気に浄化すると、魔王は小夜の元に戻り、小夜と、小夜を抱える母親を見つめた。母親に触れないように小夜の額に触れて、体を銀色の粒子のような状態にしたあと小夜の魂の中に戻った魔王は、深く溜息を吐いた。
『大変な世界に来てしまったな。』
ここまで空気が汚れている世界も珍しいと魔王はぼんやり思った。まるで、戦時中のように人間の負の感情が凝り固まって辺りに漂っている。どんよりと澱んだ空気に辟易して顔を歪めた魔王は、ふと、あることに気がついた。
『……精霊が、いない?』
大抵、どこにでもいるような下級精霊ですら見当たらないのは一体どう言うことだろうかと魔王は不思議に思った。もしかしたら、穢れた空気に耐えられずに消滅したのかもしれない。
『まぁ、吾子さえ無事ならそれで良い。』
そうひとりでに呟いてから、小夜の護衛用に自分の眷属である中級精霊を神域から呼び出すと、魔王は小夜の魂の中で小夜と共に眠った。
*
ふわり、と銀色に鈍く光る半透明の
(√2 × 5 + 3√2 × 4は……。)
小夜——
「起立、礼」
今日の日直の女子が号令をかけた。ガラガラと音を立てながら椅子を動かして生徒が立ち上がる。
「ありがとうございました。」
生徒たちが揃って礼をした。
休み時間が始まる。生徒たちは次の時間の準備を始めた。自分の席から離れて友人の席に向かう生徒がちらほら居る中、教師が生徒たちに声をかけた。
「次の時間までに教科書の13ページの練習3をしておくこと。」
教師が教室から出ると、一人の女生徒が結月の席に近づいてきた。彼女の左肩には、醜悪な百足のような
「ね、
「なぁに?」
声をかけられた結月はそう答えた。
「ここ、練習1が分からなかったの。教えてくれない?」
「……いいよー。」
出来るだけ、穏やかに優しく見えるように結月はそう言った。
「ありがと!助かるー!」
女生徒に出来るだけ分かりやすく説明をしてから次の時間の準備を始めた結月は、そっと溜息を吐いた。
(……この世界に産まれてから、もう十四年か。)
2006年5月。現在、
*
「ただいま、母さん。」
首にかけていた鍵を使って玄関の扉を開けた結月が、台所に居た母——枷場
「……ん、あら、お帰りなさい。そういえば、兄さんからお菓子を頂いたから、あとで取りに来てね。」
「はーい。」
結月はそう言って、手を洗い自分の部屋に鞄を置いたあと制服のまま台所に向かった。
「もう、制服くらい着替えなさいよ。」
母が結月に注意した。
「えー、面倒くさい。……あとで着替えるよぅ。」
結月がそう言うと、母は呆れたように溜息を吐いた。それから、母は何かを思い出したような顔をして結月に向かって口を開いた。
「あ、そうそう、兄さんからの誕生日プレゼントも預かっているの。二月は忙しくて会えなかったからってさ。」
「え、あ、そんなのいいのに。……あとで伯父さんにお礼のメールをしたいから携帯を貸して欲しいな。」
結月がそう言うと、母が紙袋からお菓子を取り出しながら言った。
「そうね……結月も、そろそろ携帯を買ったほうがいいかしら?」
「ええ……贅沢じゃないかなぁ?」
「でも、もう来年は高校生でしょう?」
「……そうだねぇ。」
母に渡されたお菓子を食べながら、結月は曖昧に笑いながら答えた。
「一年なんてあっという間よ!今から買って慣れておいたほうがいいわ!」
「うん、わかった。今度の休みに買いに行こうね。」
「ええ、父さんとも一緒に考えましょう。」
母が優しく微笑んだ。
*
階段を登って、自室に入ってすぐに、結子は深呼吸をした。
(外の空気が、汚い……。)
小夜がミヤ・クロムとして生きていた世界では考えられないほど、この世界の空気は澱んでいる。特に、学校などの人間が多い場所ではそれが顕著だ。そのため、学校で過ごす時間は結月にとってとても苦痛で疲れるものだった。どうやら、小夜が枷場結月として産まれてから常に感じているこの世界の空気の汚れの原因は人間の負の感情らしい。
『……魔王さん。』
結月の言葉に反応して、結月の背後から、まるで細氷が混ざっているようにキラキラして見える銀色の霧が溢れ出た。それと同時に、鍾乳洞の中のような心地よい冷気が結月を包んだ。
『吾子や、どうした?』
銀色の霧の中から魔王の腕だけが出てきて結月の肩を優しく掴んだ。ちなみに、何故腕だけの状態なのかというと、魔王の体が大きくて部屋に入りきらないからだ。わざと不完全な状態の体を霊力で構築しているため、本来の肉体分の霊力が銀色の霧となって周囲を漂っている。
『……疲れました。』
結月は魔王の腕に寄りかかって体から力を抜いた。
『やはり、穢れを常に浄化したほうが良いのではないか?』
『……いいえ、それはやめてください。私は大丈夫ですから。』
『しかし……。』
『まぁ、家の中は浄化されていますから、それで充分ですよ。いつもありがとうございます。……それに、呪術師という者たちに見つかると面倒でしょう。』
『殺せば良かろう。人間の一人や二人、大したことではない。』
魔王の言葉に結月は軽く眉を寄せた。
『……できれば、それは避けたいですね。』
『そうか。』
魔王が片腕で結月の体を持ち上げて、もう片方の腕に乗せた。
『吾子や、今日は何を読む?』
『……一番上の段の右から三番目の本を読みたいです。』
『そうか……あれだな。取ってやろう。』
魔王はそう言うと、長い爪で器用に一冊の本を棚から取り出して結月に手渡した。
『ありがとうございます。』
『吾子が嬉しいなら、私も嬉しい。』
結月は微笑んで魔王の腕を撫でた。
「……貴方の望み通りに、私は貴方と共にいますよ。それが、私なりの貴方に対する償いですから。」
人間の言葉で小さくそう言うと、結月は魔王の腕に座ったまま本を開いた。
*
「結月ー!ご飯よー!降りて来なさーい。」
一階から母が結月を呼ぶ声が聞こえてきた。
「はーい!」
結月は母にそう答えたあと、本を閉じた。
『もういいのか?』
『ええ、母が呼んでいますから。』
結月がそう言うと、魔王が不機嫌になった気配がした。
『……母親。』
『今世の母親ですよ。』
結月が魔王に言った。
『……それに、貴方は私で私は貴方でしょう?』
言外に、母親よりも魔王のほうが自分と強い繋がりを持っていると結月は魔王に伝えた。
『……お前が私から離れないならばそれで良い。』
『そうですね。ずっと一緒ですよ、私と貴方は。』
魔王が落ち着いたのを確認すると、結月は部屋の明かりを消して部屋を出た。
*
「いただきます。」
結月は手を合わせて、箸を手に取った。母と結月の二人で食卓を囲む。父はまだ帰って来ていなかった。今日の献立は鯖の味噌煮とほうれん草のマヨネーズあえだ。
「今日、学校はどうだった?」
母が結月に言った。
「んー、普通だよ。数学の問題についてお友だちとお話ししたの。」
「そう……仲の良い子はいるの?」
「いるよ。」
結月は言葉に少し嘘を混ぜた。本当は空気の穢れのせいで、周りの子どもと仲良くする余裕がない。クラスメイトとは、いつも当たり障りのないことを話して終わることがほとんどだ。
「よかったわ。お母さん、もし結月が学校で虐められていたらと思うと心配で……。」
「大丈夫だよ、母さん。」
「そう?」
「もう、母さんは心配性だねぇ。」
結月は苦笑した。郭公の雛のような状態の結月を愛してくれている両親に対して、結月は罪悪感のようなものをいつも感じている。だから、少しでも『普通の子ども』であることができるように結月は努力していた。
「早く食べないと、ご飯が冷めてしまうよ。」
結月がそう言った。
「そうね、早く食べましょう。……お父さん、今日はいつ頃に帰って来るのかしらねぇ。」
「んー、そうだねぇ。」
結月は曖昧に答えた。いつも、父は八時半から九時頃に帰宅するため、今日もそうだろう。
「テレビでもつけようかしら。」
「んー、リモコンはどこにあったかなぁ?」
テレビの前のソファ周辺を探して、リモコンを見つけると、結月は母にそれを手渡した。
「ありがとう、結月。」
母がテレビをつけた。くだらないバラエティー番組が画面に映った。
「この芸人さん、私苦手だわ。」
母がほうれん草を箸で摘みながらぽつりとそう言った。
「どの人のこと?」
結月がそう言うと、母は結月に答えた。
「この……そう、今映った右の人よ。」
「どうして苦手なの?」
「だって、なんだか暴力的だもの。」
テレビの画面の中には相方の頭を叩くお笑い芸人が映っていた。
「んー、まぁ、そう言う役だからねぇ。……それに、多分見た目よりも痛くないと思うよ。」
「そうよね、でも、観ていて辛いわ。」
「チャンネルを変えようか?」
「そうね、変えましょう。」
母がテレビのチャンネルを変えた。母は基本的に暴力や野蛮なことを好まない。たとえば、『戦争』と言う言葉を聞いただけでも、母は顔色が少し悪くなるのだ。
「ごちそうさまでした。」
結月が手を合わせた。
「もういいの?おかわりはまだお鍋の中にあるわよ?」
「うん、もうお腹いっぱいだから大丈夫だよ。」
使い終わった食器を台所で洗って食洗機の中に入れたあと、結月は階段を登って自室に入った。部屋の明かりをつけたあと、結月は学校用の鞄から課題を取り出した。
(国語、理科、英語はまだ大丈夫だが、数学の公式をいくつか忘れているな……。歴史と地理も曖昧だ。)
シャープペンシルで文字を書きながら、結月はそんなことを考えた。紙とペンの音だけの静かな時間がしばらく続いた。
『……どうしたのですか?』
結月の背後に銀色の霧と魔王の腕が現れた。
『……いつまでかかる?』
『もうすぐ終わりますよ。』
結月が宥めるように魔王の腕を撫でると魔王は結月の体を椅子ごと優しい力で掴んだ。
『先程読んでいた本を取ってくる。』
『ありがとうございます。』
結月はすぐに教科書を閉じて、明日の準備を始めた。ちなみに、明日提出の課題は全て終わっているため、結月が今していたのは全て学校の授業の予習だ。急いでしなければならないことではない。魔王もそれがわかっているため、早く終わらせるように結月を急かしたのだ。
しばらく、魔王の腕の中で本を読んでいると、扉をノックする音がした。
「結月、携帯を渡しに来たの。入ってもいいかしら?」
「どうぞ。」
魔王は結月以外の人間には見えないため、特に問題はない。ガチャリ、と扉を開けて、母が部屋に入って来た。
「なんだか寒いわね?エアコンを使っていたの?」
「いや、使っていないよ。」
「そう……寒かったら上着を着なさいよ。」
「はーい。」
「はい、携帯。終わったら返しに来てね。あ、お風呂沸かしておいてくれる?」
「うん、分かった。沸かすね。」
母が部屋から出たことを確認すると、結月は魔王の腕を優しく撫でた。
『大丈夫ですよ。貴方が一番です。』
そう言って、結月は魔王の腕に優しく口付けた。それから、伯父の誕生日プレゼントの包装を剥がし始めた。
「可愛らしいデザインですね。」
薄い菫色のボールペンだった。所々細かい金色の装飾が施されており、とても上品な印象だ。
「“お誕生日祝いありがとうございます。とても可愛らしいボールペンですね。大切に使わせていただきます。”……これで良いかな。」
頭の中でメールの内容をある程度考えたあと、結月は母の携帯電話を開いた。
「か……あった。風見裕一郎。」
連絡先の中から伯父の名前を見つけると、メールの文章を打ち込んで送信した。
「早くフリック入力にならないかなぁ。」
橘小夜として生きていた頃は、携帯電話を使い始めたときからスマートフォンが当たり前だった。そのため、枷場結月として産まれるまで、小夜はフリック入力しかしたことがなかった。幸いパソコンのキーボードは全く変わらないため、問題なく使えるのだが、携帯電話で文字を打つのにはいつまで経っても慣れる気がしない。
「まず、スマホがないからなぁ。」
結月は溜息を吐いた。
「今度、伯父さんの家に遊びに行こうかなぁ。裕也兄さんにも会いたいし。」
携帯電話をパタンと閉じながら結月はそう言った。“裕也兄さん”と言うのは、母方の従兄弟である風見裕也のことだ。家が近いため結月にとっては従兄弟というよりもむしろ幼馴染のような関係の人物だ。
ふと結月が部屋を見回すと、いつのまにか、魔王は結月の魂の中に戻っていた。部屋にはただ冷たい空気が魔王の名残として残っている。
『お風呂にしましょう、魔王さん。』
『ああ。』
魔王の声が結月の胸の中心から聞こえた。結月は携帯電話と着替えを手に取って階段をゆっくりと降りた。
ちなみに、主人公は風見裕也の父親の妹と枷場美々子と枷場菜々子の父親の弟の間にできた子どもです。