ビルのエレベーターを使ってここまで登ってきたらしい安室が涼しい顔でそこに立っていた。
「困ったな。さてはハンカチに何か仕込んだね。」
「いえ、ただの探偵の勘ですよ。」
「へえ、それはすごい。」
『すまない、吾子……』
(『大丈夫、魔王さんのせいではありませんよ。私が油断しただけです。』)
結月はだらりと脱力して屋上に取り付けられた柵に寄りかかった。見上げた空はほんのり薄暗く、ピルの向こうの地平線は紅く染まっていた。結月は安室の方に顔を戻した。
「それで、私にどんな用事があるのかな?軟派な探偵さん。」
別になりふり構わなければここから逃げ出すこともできる。しかし、後々の面倒を考えるとできるだけ話し合いで解決した方がいいだろう。
「ナンパだなんて心外ですね。ただ貴女のことが知りたいだけなのに。」
「ごめんなさい、ちょっと気持ちが悪い、かな?」
結月は鳥肌が立った腕をわざとらしく摩ってみせた。
「ひどいなぁ。」
安室の額と腕に血管の筋が浮き出た。結月はほとんど反射的に出そうになった悲鳴を飲み込んだ。
(うーん、逃げよう。)
結月は怒れる猛獣を前にして考えを改めた。寄りかかっていた柵の上に飛び乗って、そのまま向こう側に飛び降りた。結月は結界を小さく展開して足場として使い、そのままビルの壁に沿うようにに二歩、三歩と下に降りた。地面に降りた結月は丁度そこにあったゴミ捨て場にハンカチを投げ捨てた。そうして、またしばらく走ると、気づけば昔よく通った神社の前にたどり着いていた。
(この辺りなら監視カメラもないし、この時間なら木陰は目につきにくくなるだろう。)
周りに人の気配がないことを確認して、結月は石段の脇にある森の中に入り、手頃な木に登って息を潜めた。
(このまましばらく休憩してから“界渡り”で直接京都に帰ってしまおうか。)
予約した新幹線は無駄になってしまうが仕方がない。この調子では駅にも待ち伏せされていそうだ。蝉の鳴き声が黄昏色の空に響いているのをぼんやりと聴きながら、結月は安室の顔を思い浮かべた。
(それにしても、やけに焦っていたなぁ。)
情報を得るためだとして、あんな強引な行動をとる意味は全くないはずだ。時間をかけて相手に違和感を感じさせないようにゆっくり親しくなったあとで情報を引き抜いて、そのまま自然に疎遠になるのが定石だろう。
(多分五条先輩と一緒にいたところを見られていたのだろうけど……上からの圧力のせいで躍起になって呪術界のことを調べている、とか?だからあまり時間がかけられない……)
結月は苦虫を噛み潰したような顔になった。
(探られて痛い腹は作らないようにしているけれど……
『過ぎたことを考えても仕方がないだろう。吾子や、少し落ち着きなさい。』
(……『はぁい。』)
魔王に嗜められて結月はゆっくりと溜息を吐いた。
(本当に、今更考えても仕方がないよねぇ。……私一人なら、保身など考えなくても良いのだけれど。)
枷場結月になる前、ミヤにも小夜にも身内と呼べる存在は居なかった。それは寂しいことだったけれど、どこか気楽で、身軽だった。自分の行動の結果は全て自分だけに帰ってきた。
(美々子と菜々子は……まぁ五条先輩とラピスもいるし放っておいても問題ない。父さんと母さんには……あー、何も言わなくても良い、かな?呪術云々なんて親戚に聞かれても普通は話さないはず。正直なところ別に知られても良いしね。せいぜい裕也兄さんに叔母夫婦が妙な宗教に入信したと思われるのが関の山……なぁんだ大したことないじゃないか。)
結月は安堵して木の幹に寄りかかった。
(兄さんは……まぁ、自分でなんとかできるだろう。)
結月は投げやりな気持ちでそう結論を出した。
(私はどうせ京都に戻ったら仕事と勉強しかしないものね。)
改めて考えると、仕事以外では家事と睡眠食事入浴、息抜きに漫画か小説を読むくらいしかしていない。結月は元々インドア派なのだ。強いて言えば休日は図書館に入り浸っていたが、それも最近では疲れて寝ていることが多い。
(そういえば、最後に散髪したのは……去年の、夏か?乾かしにくくなってきたからギリギリ後ろで結べるくらいまで切ろうかなぁ。前髪は今のままでも良いけれど。)
目に入らない程度の長さで放置している前髪を一房指で摘んで、結月はぼんやりとそう思った。
気づけば、空はすっかり暗くなっていた。
*
昼休憩中、ポケットの中のスマートフォンが震えた。
「……んー。」
液晶を見た結月は五条からのメールを見て首を傾げた。
(……とりあえず“調べてみます。近日中に結果を送ります。”っと。)
メールに返信してから昼食を食べて、また仕事に戻った。最後に定時に帰れたのはいつだろう。残業代は出るので、まだマシな方だろうか。
(一応自衛くらいはできるけどさぁ、この時間に女一人ってどうなのかねぇ。)
結月は心の中でぼやきながら街灯に集る蛾を見上げた。
(……健康で文化的で暇な生活がしたいものだ。)
そうは言っても人間働かねば食えぬのだから仕方がない。結月はメールを確認して小さく溜息をついた。
(内通者、か。おそらく私も疑われているとは思うけれど。なら、このメールは牽制みたいなものか?……あーこういう政治とか政略の面で頭が良い人とのやりとりって疲れるな。なんで私給料出ないことにこんな労力費やしてるのかね。)
五条からのメールの文面は“交流会に特級呪霊が複数乱入。内通者いるでしょ。教えて。”である。簡潔にも程がある文章を眺めて結月はさっきよりも大きな溜息を吐いた。
(まぁ、もはや何も考えないのが一番楽な生き方なのかもしれない。素直に調べて結果を教えれば良いんだ。)
慣れた手つきで扉を開けて、借家の中に入る。鍵を持ったまま、ドアノブの金具を捻った。一度捻って軽く引いて、しっかりと閉まっていることを確認してから靴を脱いだ。
手を洗って荷物を下ろした。1LDKの寝るためだけの部屋。最後に料理をしたのはいつだろうか。冷蔵庫の中にはゼリーとアイス、カロリーメイト、経口補水液、ペットボトルのフルーツティー、ミルクティー……碌なものが入っていなかった。とりあえず、空腹を紛らわせるためにアイスとカロリーメイトを頬張った。
(まぁ明日か明後日に昼食でサラダ食べればセーフ。)
医者のくせしてそんなことを考えながら部屋着に着替えた。
亜空間の中から八卦鏡のようなものを引っ張り出して、机の上に乗せた。つ、と人差し指だけで角に触れ、そのままその一点で霊力を糸のように細く長く流し込む。だんだんと中央の石に熱と光が籠って、それがぱちんと弾けた。四方八方に散った光の粒一つ一つが花びらのような羽を持った虫の形をしている。
「『調べて欲しいことがあるの。』」
光の中で、一際大きなものが結月の額に触れた。
「『うん、ありがとう。』」
ころころ、と低級妖精特有の土でできた鈴のような鳴き声が部屋に響いて、そのままふっと光は窓から出て行った。
(まぁ、明日の夜には全部調べ終わっているだろうし、もう寝よう。)
シャワーを浴びて、寝巻きに降格した首元が擦り切れたTシャツと中学校の体操服を着てベットに入った。ベットの脇に置いてある充電器にスマートフォンとタブレットを挿した。あとは寝るだけだ。眠くはなかったが、今眠らなければ明日が辛い。結月はとりあえず目を瞑って息をすることだけを考えた。
*
セットしたアラームの音が耳に響いた。結月は顔を顰めて、それを止めると布団を押し上げた。
「……あー……」
元々夜型なのを無理矢理朝型の生活に矯正しているのもあって、結月の寝起きはすこぶる悪かった。
「……ねむ」
もぞもぞともう一度布団に潜り込もうとして、ぴたりと身体が止まった。
「……ん、」
糸に吊られた操り人形のような動きで布団から体を出した。そのまま寝巻きを脱がされて、魔王が選んだ服——結月の趣味ではないがTPOには合っている——を着せられた。
「『かあさま……』」
『気にせず眠っていなさい。』
「『……ん』」
温い水で顔を洗われて、髪をブラシで優しく梳られた。
『とりあえず水菓子を開けたから、口を開いて。』
「……ぁ」
『良い子だ。』
口の中にひんやりと甘いものが匙と一緒に入ってくる。
『最後の一口だよ。』
ほとんど反射的に口にの中のものを嚥下して、ぱちりと目を開けた。
「『すみません起きました。』」
『構わないよ。早く支度をして家を出なさい。』
「『はい。』」
鞄の中身を確認して枕元のスマートフォンを空いているスペースに突っ込んだ。
「『行ってきます。』」
『ああ。』
結月は扉の鍵を閉めた。