暗いトンネルの中、上司である降谷零と連絡をとりながら風見裕也は辺りを見回した。
(それにしても妙に薄暗い場所だ。)
裕也にはトンネルの中に所々に設置されている電灯が、かえって周りの暗さを強調しているように思えた。
裕也は今、零が潜入している犯罪組織と関係がある過激な宗教団体の調査のため付近に待機していた。彼は帽子を目深に被り、外の様子をじっと伺った。比較的カジュアルなジャージの上下に首にかけたフェイスタオル、肩から掛けたウエストポーチ。側から見ればランニングの途中で少し休憩しているようにしか見えないだろう。
通信機が震えた。裕也は画面を確認するとすぐにトンネルの出口に向かって歩いた。
「こんにちは。」
「どうも、こんにちは。」
トンネルの中で、二人は互いに軽く会釈をした。裕也はすれ違いざまにわざと零の鞄に手を引っ掛けた。
「あぁっ!すみません!」
ひび割れたアスファルトの上に鞄の中身が散乱した。慌てて思わずといった様子で、裕也は屈んで地面に落ちたものを拾い集めた。その中から小さな白いUSBメモリを一つ袖の中に隠して、裕也は他の物をまとめて零に手渡した。
「すみません、ありがとうございます。」
「いえ。ご迷惑をおかけしました。ッ⁉︎」
立ち上がってすぐに、思わず裕也は自分の背後を素早く確認した。何もない。そのはずだった。ぬらりと乾き切らない雨水で濡れたトンネルの壁がただそこにあった。
「あの、何か?」
「いえ……」
怪訝そうな顔で零が言うのに対して、裕也は辛うじてそう返した。裕也は自分の腕に鳥肌が立っているのが分かった。何かとても悍ましいものを感じて、本能が警鐘を鳴らす。
「少し寒かったのかもしれません。」
「そうですか、それはお大事に。」
そのまま軽く会釈をして裕也は零に背を向けた。瞬間、バチッと静電気のような音がした。裕也は音がした方に目を向けた。
「は」
間の抜けた声が裕也の口から漏れた。先程まで何もなかったそこに、人の頭ほどの大きさの蜘蛛がぶら下がっていた。いや、正確には蜘蛛とも言い難い。その脚は確かに八本あったが、それは節足動物の特徴である外骨格、節のあるものではなかった。腐ったように変色した人間の足のように見えるものが八本、胴体にはギョロギョロと四方八方に視線を動かしている目玉が五つついている。まだ裕也の近くにいた零が息を飲んだ。
(降谷さんにも同じものが見えている……?)
裕也は奇妙な生き物から目を逸らさないようにして後ずさった。蜘蛛は振り子のように横に揺れている。始めはゆっくりと、それから段々と勢いをつけて零の方へ飛びかかった。
思わず裕也は零を庇うように前に出た。再び静電気のような音がした。まるで小さな雷が目の前に落ちたような閃光が迸るのが裕也の視界の端に映ると同時に、蜘蛛の脚が素早く飛び退いた。
「無事ですか⁉︎」
零が声を上げた。
「はい!」
裕也は答えた。
(アレは一体……)
蜘蛛の姿はもう見えなかった。
「……ここを出ましょう。一緒に来てください。」
零がそう言って裕也を見ていた。裕也は頷いた。トンネルの中を、周りを警戒しながら二人並んで歩き始めた。トンネルの中は不気味なほど静かだった。二人は暫く無言で歩いて、それから零が立ち止まった。
「……長いな。」
零が呟いた声が響いた。裕也は、はっとして前を見た。歩いた距離を考えると、もう出口に着いてもいい頃だった。しかし、二人の目の前には暗いトンネルの壁が延々と続いていた。裕也は後ろを振り向いた。
「先が見えませんね。後ろも……」
「風見」
「え?」
今回、零と裕也は偶然出会った他人という設定だった。それに倣って敬語を使っていた零がいきなり自分の名前を呼んだので、裕也は面食らった。
「これは非常事態だ。……トンネルから出られたら、また安室に戻るさ。お前もそのつもりでいろ。」
「わかりました。」
裕也は背を伸ばして頷いた。
「先程遭遇した生き物について何か知っていることはあるか?」
「いえ。そもそもあれは生き物なのでしょうか。」
「……確認だが、お前にはあれがどういう風に見えた?」
裕也は首を傾げた。
「蜘蛛のような……人間の足のような形のものを八本付けた化け物です。静電気のようなものに弾かれたようでこちらに触れることはありませんでした。」
「そうか。」
零は考え込んだ様子で俯いた後、ポケットから携帯端末を取り出した。
「圏外か。」
「え、あ、本当だ……」
外部から助けを呼ぶことはできない。状況は刻一刻と悪くなっていた。このまま先の見えないトンネルの中を闇雲に進むべきか、それとも同じ場所に留まって体力を温存するべきか。
「あれ?」
「どうした、風見。」
「いえ、大したことではないのですが、持ってきたつもりのないものが鞄に入っていて……」
「見せてみろ。」
裕也の手の中にあるそれを見て、零は眉を寄せた。
「羽根?」
「大切なものなので家に置いてきたはずなんですが。」
「……遠野さんが言っていたものか?」
零は思わず顔を顰めた。遠野という男が目の前の自分の部下に絡む原因だというそれを実際に目にしたのは初めてだった。
「はい。」
裕也は頷いて、それから軽く首を振った。
「まぁ、私の気のせいだったのかもしれません。よくあることですし。」
「よくある?」
公安が自分の持ち物の管理をできないなど、零からしてみれば到底許されるものではない。零がジロリと睨んだのを見て裕也は慌てて弁明を始めた。
「いえ、あくまでもこの羽根に限った話なんですが、よく荷物の中や服の中に紛れ込むんですよ。無くしても、すぐに戻ってくると言うか……お守りと言っても、こんな仕事ですから。やむなく捨てた荷物の中に入れたままだったこともあります。そのときも、気づいたら服の袖口からひょっこりと出てきましたし。」
「……それ、ちょっと不気味じゃないか?」
「まぁ、でも妹から貰ったものですから。」
零の目から見たそれは、何の変哲もないただの白い羽根に見えた。零は溜息を吐いてトンネルの先を見た。
「なんにせよ、いち早くここから出る方法を考えなくては。またさっきみたいな化け物に襲われる可能性もある。……そういえば、あの閃光について何か心当たりは無いのか?」
「はい。あのときは無我夢中で……原因は分かりませんがアレが怯んで……運が良かったと思います。」
「そうだな。無策で敵の攻撃を受けるのはあまり褒められた行動じゃない。……もっとも、庇われた僕が言えたことではないけどね。ありがとう風見。助かった。」
「......!はい!」
裕也が顔を輝かせた。ちょうどそのときだった。
ずるずると何かを引きずる音がした。ずるり、ずるり、それと一緒に湿った地面を歩く音。足音は複数。おそらく三人だ。裕也と零は息を呑んだ。音は段々と近づいてくる。トンネルは一本道だ。正体不明の音の主たちから逃げたところで、遅かれ早かれ追い付かれる。無駄に体力を消耗して闇雲に先の見えない道を行く方が危険だと零は判断した。
「……おそらく相手は人間だ。ここから出る方法を知っているかもしれない。」
零は小声でそう言った。
「しかし」
「この状況では他にどうすることもできないだろう。話ができる相手であることを祈ろう。」
「……わかりました。」
渋い顔で裕也が頷いた。顔を上げると、灯の届かない暗がりの中で何かが動くのが見えた。足音の主がそこに居た。
「あ、向こう誰かいるわ。おはようございまーす。」
若い女の声だ。場にそぐわない穏やかな言葉。聞き覚えのあるその声に裕也は目を見開いた。また、ずるりと音がする。
「は?」
トンネルの中の電灯の下に出てきた姿を見て裕也は思わず声を出した。
「あれ、兄さんじゃん。なんでこんなとこにいんの?」
「それはこっちのセリフだ!菜々子!美々子も!」
明かりの下に出てきたのは裕也の予想通りの人物だった。明るい色の髪をお団子にしてまとめて、ベージュのカーディガンを羽織った菜々子と、黒い髪を短く切りそろえ、セーラー服を身にまとった美々子は、服装や髪型は違えど、どこか対になっているように見えた。対照的な印象の装いが逆に二人の繋がりを強調している。
「いや、私らはただの任務ってかバイト。ほんとは見るだけでいいんだけどさー、気づいたら領域内だったから。」
「油断した。」
美々子が俯いたままぽつりと呟いた。菜々子は頷いた。
「まじそれな?とりあえず今脱出経路探してるとこ。護衛いるしそんな焦ってないけど。」
菜々子は軽い調子でそう言うと、後ろを振り返った。
「ラピスー。出てきていいよ。どっちも非術師だし片方は知り合いだった。」
「はい。」
暗がりからぬっと出てきた彼女を見て、裕也は思わず一歩身を引いた。
彼女はクラシカルな雰囲気のワンピースを身に纏い、長い栗色の髪に大きなリボンをつけていた。その服装もさることながら、端正な顔立ち、そしてどこか人工的に澄んだ紫の瞳が、まるでビスクドールのようだと裕也は思った。
だが、裕也が目を見張ったのは決して彼女の容姿が美しかったからではない。それだけならば、後ずさる必要はなかった。
「は……」
裕也の口から声が漏れた。
ゆっくりと、ラピスは首を傾げた。彼女のじっとりと濡れた髪からどす黒い液体が滴り落ちた。真っ白な丸襟の、レースがたっぷりとあしらわれたブラウスに、それが染み込んでいた。
ずるりと、湿った何かを引きずる音がした。
「こちらはどう致しましょうか?」
ずるり。ラピスは両手で引きずっていたそれを手放し、足蹴にしてそう言った。菜々子は美々子と顔を見合わせた。
「あー、まぁもう跋除していいんじゃない?てゆーかなんで今まで引きずってたん?」
「多分ラピスは私たちの指示を待ってた。そんな言い方したらだめ。……菜々子、報告はどうする?」
「別にいいでしょ。適当に書いとこ。それ、領域の主じゃないんだよね?」
「はい。領域の主である呪霊は別におります。」
ラピスが頷いた。
「あの、すみません。」
それまで無言で様子を伺っていた零が口を開いた。ラピスはそれに目もくれずに足元の呪霊の頭らしき部分を踏み潰した。
「ままぁ……ぁあああああああ……ぃたすけてたすけてたすけていたいいたいいいいいいあああああ……」
鳴き声。あるいは悲鳴。醜悪な口から音が漏れた。ラピスは無言で屈んで呪霊の手足を毟った。
蜘蛛のように生えた四対の脚が惨たらしく投げ捨てられるのを見て、裕也はそれが先程自分たちを襲った化け物であることに気づいた。
ラピスが全ての手足を捥ぎ、それぞれを丹念に潰すと、呪霊の体は黒ずんだ燃え滓のようになり、そのまま跡形もなく消えてしまった。ラピスが全身に浴びた化け物の体液も、それと同時に黒い塵となって消えていた。
ラピスは立ち上がった。シミひとつないワンピースの裾がふわりと揺れた。周りの者たちが、息を殺して彼女を注視しているのに気づくと、ラピスは不思議そうに目を瞬いてゆっくりと首を傾げた。
「皆様、どうなさいましたか?」
「ラピス。一般人の前なのにやり方がグロすぎ。」
美々子が呆れた顔でそう言った。その隣で菜々子が気まずそうに零を見た。
「あー、すみません。なんでしたっけ?そちらの金髪の」
「安室です。」
「アムロさんね。アムロさん、さっき何か言おうとしてましたよね?連れが遮るような形になっちゃって悪いんだけど……」
「いえ、大丈夫です。僕も思わず黙ってしまったので……僕たち二人とも道に迷っているのですが、もし迷惑でなければ同行させていただけませんか?」
「全然おっけーです。美々子、いいよね?」
「べつに。菜々子が良いなら。」
美々子は零の顔も見ずにそう答えた。
「よかった!結構歩いたんですけど中々出られなくて。」
「あーね。大変だったでしょ。兄さんも。二人はどのくらいここにいるかんじ?」
「あ、ああ……俺は大体二時間くらい……途中でそこの安室さんとぶつかってしまって落とした荷物を拾ってたんだ。」
「へー。」
「それからよく分からない化け物に襲われて……そうですよね?」
零が裕也を見ながらそう言うと、菜々子は目を見開いた。
「え!怪我とか大丈夫ですか?兄さんはともかくアムロさんはやばいじゃん。」
「平気です。」
「おい、ともかくってなんだよ。」
「ごめん。でもほんと、兄さんなら無事だろうから。」
「兄として信頼されてるってことじゃないですか?」
「まぁそんな感じ!」
喋るのはほとんど菜々子と零、それから裕也だった。裕也はラピスに目を向けた。
「ところで菜々子、そちらの、その」
「ラピスのこと?ラピスは姉さんが入学祝いにくれた護衛みたいな……なんかそんな感じの。さっきみたいな呪霊……あー、呪霊っていうのは……どこまで話していいんだっけ。」
「呪術師の義務に関する覚書の8。でも一応現地で巻き込まれた人なら特例で全部説明していいはず。」
「必要な場合についてはこの限りではないみたいな。」
「そう。ちゃんと説明しないと指示に従わずに勝手に死ぬ場合があるから。別に見捨てても特に咎められることはないと思うけど一応。」
菜々子は少し悩んでから頷いた。
「それじゃあ、歩きながら説明するんで二人ともついてきてもらえますか?」
そう言って菜々子が指し示す方向には、先ほどと変わらずただ暗い道が延々と続いていた。
書いてみたら長かったので一旦投稿