2006年6月上旬月曜日
「あー、ごめんね、少し良いかな?」
放課後、結月は理子の教室から出てきた女生徒に声をかけた。
「はい、あ、先輩、どうされましたか?」
「天内さんはいるかな?」
結月がそう尋ねると、彼女は教室の中を見渡した。
「……あ、居ました。呼びましょうか?」
「ああ、お願いしても良いかな?ありがとうね。」
「いえいえ、……りこぉー!先輩が呼んでるよー!」
女生徒の声に対して、理子の声が聞こえた。
「わかったー!ちょっと待ってて!」
慌ただしい足音と共に理子が教室の出入り口まで走ってきた。
「ああ、そんなに急がなくても良かったのに。」
「あれ、枷場先輩?」
理子が結月の顔を見てキョトンと目を瞬いた。
「それじゃあ、理子、またねー。」
「あ、ありがとうね。」
「いえいえ。」
結月と理子は廊下に出て話し始めた。
「はい、どうぞ……きちんと直せているかあとで教えて欲しいな。」
結月が手に持っていた小さな紙袋を理子に手渡した。
「……あ、これ。」
「貴方のキーホルダーだよ。思ったよりも早く修理できたから、貴方に渡したかったの。……おまけは先生に見つからないように持って帰ってね?あ、アレルギーはあるかな?」
「え、おまけ……?あ、すごい!」
紙袋の中を覗き込んだ理子が目を輝かせた。
「かわいい!猫ですか?キーホルダーそっくり!」
「ふふ、真似して作ったの。気に入ってくれて良かったよ。悪くならない内に食べてね。」
結月がそう言うと、天内は目を見開いた。
「え、これ先輩が作ったんですか⁉︎」
「そうだよ。」
結月の言葉に天内はポカンと口を開けた。
「すごい!ありがとうございます!え、でも悪いですよ、こんな綺麗なもの……。」
「気にしないで、実はそれ、余り物なの。天内さんが貰ってくれると嬉しいな。」
「え……あ、ありがとうございます!大切に食べます!」
理子がぺこりと結月に頭を下げた。
「それじゃあ、またね、天内さん。」
「はい、先輩、今日はありがとうございました。」
*
『難儀なことだな。』
『どうしたのですか、魔王さん。』
『吾子がわざわざ菓子を付けてやる必要はあったのか?お前がしたいことならすれば良いが。』
魔王は結月にそう言った。
『人付き合いって大切ですよ。』
結月は口を動かさずにそう呟いた。精霊語で話してはいるが、特に返事は求めていないような、独り言に近い言葉だった。
『……そうだな。』
『魔王さん?』
『吾子や、今すぐにとは言わないが、歌を聴かせておくれ。お前の声が聞きたい。』
『え?……どうしたのですか、急に。』
『駄目か?』
『いいえ、構いませんよ、貴方がそう望むなら。』
結月の身体がひんやりとした空気に包まれた。背後から現れた魔王の腕を宥めるように撫でながら、結月は立ち止まった。
『そうですね、魔王さん、今から神社に行きませんか?あそこなら誰もいないでしょうから、存分に歌えますよ。』
『ああ。』
『教室から荷物を取って来ましょう。少しお待ちくださいね。』
『そうだな、わかった。』
ふっ、と結月の周りから冷気が消えた。結月は止めていた足を再び動かし始めた。
『あ、魔王さん。』
階段を登りながら、結月はふと精霊語で呟いた。
『どうした?』
『いつになるかは分かりませんけれど、私、東京の呪術高専に伺おうと思うのです。父さんの兄さん……伯父さんの伝手が使えない以上、直接向かったほうが早いですもの。』
結月の言葉を聞いて、魔王はしばらく沈黙した。
『……そうか。本当に、吾子は呪術師になるのか?』
『ええ。やはり公的な身分があったほうがやりやすいでしょうから。』
『……吾子がそうしたいならば、そうすれば良い。だが、もし、吾子の身に何かあれば……』
『大丈夫ですよ。』
結月は微笑んだ。
『魔王さんが居れば、きっと大丈夫です。』
魔王が結月の中で目を見開いたような気がした。
『……ああ、そうだな。』
結月が階段を登り切ったとき、魔王はぽつりとそう言った。
*
「♬♩——……」
どこもかしこも苔むしたような寂れた神社の境内に、柔らかい歌声が優しく響いた。朽ちかけた神社の階段に座り、魔王の腕を撫でながら、結月はそっと目を伏せて歌うことだけを考える。
「♪——……」
ミヤが子どもの頃に母親から聞いた童謡。歌詞を全て覚えているわけではないけれど、旋律だけはしっかりと覚えていた。なんとなく、“夏は来ぬ”に近い雰囲気の穏やかな歌だ。
結月が歌う度に、周囲の空気が澄んでピンと張り詰めていく。風に揺れていたはずの木々は、いつのまにか不自然なほど静まり返っていた。
「……——♫」
結月が歌い終わると、耳に痛いほどの静寂がその場に訪れた。結月は閉じていた瞼をゆっくりと開けた。まるで、中身が空になったような無表情だった。瞳は色の付いた硝子玉のように透明で、何も映していないようだった。
「『そら——』」
精霊語で小さくそう呟きながら、結月が顔を上げた。そうして、ふわふわと力が抜けたような頼りない足取りで歩き始めようとした結月の目の前に、魔王の腕が現れた。
「『……かあさま?』」
『吾子や、そちらは危ない。こちらにおいで。』
「『んー……。』」
結月は眠たそうに目を擦りながら、魔王が導く方に歩いた。
「『ねぇ、かあさま、おそらきれいね。』」
結月はあどけない幼子のような口調でそう言いながら、魔王の腕に甘えるように頭を押し付けた。
『そうだな。』
魔王はそう言って、結月の頭を優しく撫でた。
「『ね、かあさま……。』」
『もう眠いのだろう?早くお眠り、吾子や。お空が暗くなる前に起こすから。』
「『ん……。』」
結月が魔王の言葉に従って心地よい眠気に身を任せようとしたそのとき、神聖な空気を破るように境内の茂みがガサリと無粋な音を立てた。
「よぉ、大層な結界だな。蠅頭一匹居ねえ。」
魔王と結月が音のした方に目を向けると、口元に大きな傷がある屈強な男が茂みのそばに立っていた。
「『あなた、だあれ、いいひと?わるいひと?』」
「相変わらず、何言ってんのか分かんねぇな。……おい、結月、起きろよ。」
男が面倒臭そうな顔をして結月の体に手を伸ばした瞬間、魔王が動いた。
『 吾 子 に 触 れ る な 』
空気が大きく震えた。その言葉と同時に大きく鋭い爪が男に向かって振り下ろされる。男は軽い動きでそれを避けながら、揶揄うように小さく口笛を吹いた。
男が居た茂みの辺りの土は無残に抉られている。深く鋭い爪痕が、まるで魔王の怒りをそのまま表しているようだった。
「物騒な保護者サンもお元気そーだな。……おい、結月、マジで起きろ。コイツとやり合うなんていくら積まれても割に合わねぇ。」
「『……んー?あれ?』……甚爾さん?」
ぼんやりとしていた結月の目の焦点が定まった。硝子玉のようだった瞳に感情が戻っている。
「あれ?……魔王さん、どうして甚爾さんと喧嘩をしているのですか?」
呆けた顔をして結月がそう言うと、魔王は不快そうな様子で答えた。
『此奴は眠っている吾子に触ろうとしたのだ。』
「おいおい、ソイツがなんて言ってんのか知らねぇが、俺はお前を起こそうとしただけだぜ。」
「……えと?わかりました。『魔王さん、悪気はなかったらしいですよ。ほら、やめましょう?』」
結月がそう言ったことで、魔王は不満そうにしながらも攻撃をやめた。
「『ありがとうございます、魔王さん。』」
結月は宥めるように魔王の腕を撫でながら、男——伏黒甚爾に顔を向けた。
「えーと、お久しぶりですね、甚爾さん。」
「おう。しばらくぶりだな。」
「奥さんはお元気ですか?」
「ああ、お陰様で。……なんとなくお前がここにいるような気がしたからな。少し立ち寄って見た。」
甚爾はなんでもないことのようにそう言った。
「なんというか、相変わらず動物みたいな勘ですよねぇ。……ん?ということは、埼玉からここまでいらしたのですか?」
「いや、この前仕事の都合でこの辺りに引っ越した。」
「へぇ、そうなのですね。」
「一応、挨拶しとこうと思ってな。」
甚爾と結月は結月が小学生だった頃からの知り合いだ。どのようにして出会ったのかは割愛するが、現在はそこそこ良好な関係を保っている。
元々は、呪術界の情報を
しかし、三年前、結月が偶然彼の妻の身体の内側に巣食っていた呪霊を駆除したことで、それまで結月に対して雑(というより乱暴)だった甚爾の態度がやや柔らかいものに変化したのである。甚爾の態度が軟化してからしばらくの間、結月が気味の悪いものを見る目で甚爾を見ていたのは仕方がないことだ。とりあえず、
「わざわざそれだけで訪ねて来るような人ではないでしょう、貴方は。」
「ひでぇな。……ま、実際そうなんだが。……なぁ、アイツと恵が持ってる羽根、もう一枚貰えねぇか?恵の呪力に反応しねぇヤツ。」
甚爾はそう言いながら、結月が座っている階段に腰掛けた。
「え?甚爾さんの分は、以前邪魔とおっしゃっていませんでしたか?もしかして恵君の分の予備ですか?」
たしか、体内に呪霊を収納している関係で、結月の羽根は仕事の邪魔になる可能性が高く、伏黒一家の中で甚爾のみが所持していなかったはずだ。
「いや、俺の分じゃねぇよ。それに、恵の分も悪影響があるかもしれねぇから、成長して自分の身を守れるようになったら取るつもりだ。」
「まぁ、特定の呪力に対しては反応しないように細工したとはいえ、呪術師の身体に良いものかどうかはわかりませんものね。」
「多分悪いぞ。呪術師なんて、受肉した呪霊とそう大して変わらねぇからな。周囲の呪力を浄化して呪霊を祓うような代物、体にいいわけがねぇ。」
「あら、そうなのですか?」
結月は目を瞬いた。
「大体、強い呪術師なんて頭のネジが何本か抜けてるような奴しかいねぇだろ。強さに反比例して人間らしさを失ってんだよ。」
甚爾は嘲笑うようにそう吐き捨てた。
「それで、誰の分なのですか?」
結月が甚爾に尋ねた。少し不自然だったかもしれないが、結月は話している方も聞いている方も楽しくない無益な話を続けたくなかったのである。
「……アイツの親戚のガキを一人引き取った。必要な羽根はその分だ。」
「へー……え?」
「非術師のガキだからな。とりあえず持ってたほうがいいだろ?」
「ああ、なるほど……。わかりました。恵君の呪力にのみ反応しないように調整しておきますね。」
「助かる。」
結月は学生鞄の中に入っていた羽根に触れて、細工を施した。金色の模様のようなものが白い羽根に浮かんだことを確認すると、結月は息を吐いた。
「はい、終わりましたよ。」
結月はそう言って羽根を甚爾に手渡した。
呪術界に関する結月の知識は、ほとんど全て甚爾から聞いたものだ。
結月と甚爾が出会って間もない頃、結月は甚爾が教えてくれる呪術界の情報に対する報酬として、いつも異能力で作った神器や薬などを渡していた。(余談だが、甚爾が結月に対して報酬を強請ったわけではない。彼としては、物珍しい雰囲気の子どもを揶揄うついでに呪術界のことを世間話程度に話していただけだったのだが、他人に借りを作りたくなかった結月が無理矢理物品を押し付けたのである。)
今でもその関係は続いており、甚爾が結月に情報を渡し、結月が甚爾に物品を渡すのが暗黙の了解のようなものになっている。最近では、甚爾が結月の作った品物を必要としたときに、結月にその旨を伝えてから呪術界の話をすることが多い。今回もその例に漏れず、二人はのんびりと情報交換(という名の世間話)を始めた。
「そういえば、私の家も今度親戚の子どもを引き取ることになっているのですよ。……たしか、恵君と同じくらいの年頃の双子の女の子ですよ。一人っ子だった私に妹が二人できるのです。」
「へぇ、うちに来るのも女だ。歳は恵よりも上らしいがな。」
結月の話に甚爾が相槌を打った。
「甚爾さんに娘さんができるのですね。」
「まぁな。……そういや、さっきから気になってたんだが、なんでお前から呪力が出てるんだ?生まれつき妙な力を使えるだけで、呪術師じゃねぇだろ、お前。」
甚爾が不思議そうにそう言った。
甚爾は天与呪縛のせいで呪力を持たないため、本来は呪力を感じることも呪霊を見ることも出来ない。しかし、皮肉なことにその天与呪縛によって得た強靭な肉体のおかげで、彼は呪力も呪霊も感じ取ることができるのだ。
「あー……、話すと長くなるのですが、実は来年から東京高専に通うつもりなのです。」
「あ?なんで。」
甚爾が眉を寄せた。
「後々呪術師に見つかって呪詛師として追われるくらいなら、初めから呪術師として登録しておいたほうが良いでしょう?だから、六眼を誤魔化すための道具を作って呪術師として生きることにしたのですよ。これで、どこからどう見ても普通の呪術師でしょう?」
『……吾子の体に穢れがまとわり付くのは気に食わぬが致し方あるまい。』
「たしかに、俺の目から見ても不自然なところはねぇよ。正直、本当にお前なのか一瞬疑った。……あー、保護者サマは何つったんだ?何か言ったみてぇだが。」
甚爾は面倒臭そうに顔を顰めた。
じつは、魔王は日本語を理解しているし、話すこともできる。魔王が日本語を使わずにわざわざ精霊語で話すのは甚爾のことが嫌いだからだ。
「甚爾さんがそうおっしゃるなら安心ですね。……魔王さんは、“吾子の体に汚れがつくのは不本意だけれど仕方ない”とおっしゃっています。」
「ハッ、そーかよ。……ま、それで六眼を騙せるかどうかは知らねぇがな。」
甚爾は投げやりにそう言ったあと、座っていた階段から立ち上がった。
「……おい、結月。お前、たしか廉直女学院の生徒だったよな?」
甚爾がふと思い出したようにそう言った。
「ええ、そうですよ。」
結月がそう答えると、甚爾は眉間に皺を寄せた。
「天内理子って名前の奴は知ってるか?」
「……ええ。」
結月は甚爾の目を見た。
「ソイツとは親しいのか?」
甚爾が険しい表情で結月を見ていた。
「ええ、まぁ……同じ委員会の仕事を担当しています。」
「……呪詛師御用達のサイトに天内理子の暗殺の依頼があった。まぁ、前にも何度か似たような依頼はあったらしいがな。妙な宗教団体が出してる依頼だ。最近依頼料が跳ね上がってるから、時雨の奴が俺に声をかけてきた。」
結月は目を見開いた。
「彼女の暗殺……なぜでしょうか?」
「俺は受けてねぇから詳しい話は知らねぇ。ただ、危ねぇからあまり近寄るなよ。」
甚爾が厳しい口調で結月にそう言った。
「……そう、ですか。ご心配ありがとうございます。」
「じゃあな。」
「はーい。」
結月が緩く手を振った。甚爾は結月に背中を向けたまま片手を上げて、そのままその手をズボンのポケットに入れた。小さくなっていく甚爾の背中を見ながら結月はぽつりと言った。
「……暗殺。」
結月の脳裏に理子の笑顔が浮かんだ。魔王の腕が結月を慰めるように結月の体を撫でた。
長袖の制服に、じわりと汗が滲んだような気がした。今日はこんなに暑かっただろうか。結月は冷たい魔王の腕に触れた。
静かだった境内に段々と音が戻ってきた。結月は学生鞄を持って立ち上がり、安定した足取りで神社の階段をゆっくりと降りていった。
主人公は、呪術高等専門学校に……
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入学する(東京校)
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入学する(京都校)
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入学しない