2006年10月上旬
授業の終わりを知らせるチャイムが鳴った。ピンと張り詰めていた教室の空気がどことなく緩んだのを感じる。
「起立、礼」
今日の日直である結月の声が、静かな教室に凛と響いた。結月の声に応じて、生徒の椅子が不揃いな音を立てた。椅子から立ち上がり「ありがとうございました。」と口にしながら、生徒たちが先生に向かって礼をした。
「……着席。」
生徒たちは再び不揃いな音を立てながら椅子に座り直した。
休み時間が始まる。結月は机の上に出していた国語の教材を鞄の中にしまった。
*
甚爾から、理子の懸賞金についての話を聞いてから四か月が経った。季節はすでに秋という風情で校庭の銀杏はもうすっかり黄色になっている。甚爾の助言通り、結月は理子と極力関わらないようにしていた。二人の関係は先輩と後輩として普通の、そこまで親しくはない関係。少なくとも結月はそう思っている。
(……甚爾さんが仰っていた暗殺については、私が考えても仕方のないことだよな。そもそもどうして天内さんが狙われているのかも知らないし。)
結月は座っていた椅子から立ち上がり、黒板のほうに向かった。黒板消しを手に取って、黒板に書かれた文字を消そうとしたところで、次の授業の先生が教室に入ってきた。
「今日の日直は枷場と樋口か。」
「はい。」
気難しそうな老人が眼鏡の奥から結月を見た。彼は社会の担当の教師だ。目が悪く、物を見るときに目を細める癖があるため、本人は睨んでいるつもりがないのだが、まるで睨んでいるようにみえる。
「枷場、悪いが先生と一緒に社会科講義室から資料を運んでくれ。樋口はそのまま黒板消しといてくれ。」
「わかりました。」
「はぁい、せんせー。」
結月ともう一人の日直が先生にそう答えた。
*
「枷場、この教材を半分持ってくれ。」
先生が結月に教材を手渡した。
「はい。」
「……重いか?……枷場は背が低いから黒板消しよりもこっちのほうがいいと思ったんだが、無理なら先生が全部持って行くぞ。」
結月が小柄だからだろう。先生が心配そうに結月を見た。
「いえ、大丈夫です。筋力は見た目よりもあります。荷物を運ぶのは得意なのです。」
「そうか、頑張れ。」
チャイムが鳴った。
「あー……急がなければなりませんね。」
結月が焦った顔になった。
「まぁ、枷場たちのクラスは他のクラスに比べて授業内容が進んでいるから遅れても大丈夫だ。むしろ、多少遅刻したほうがみんな喜ぶだろう。」
先生が落ち着いた様子でそう言った。
「ええ……。」
「先生は学生時代そうだった。」
「あら、まあ。」
この先生は厳格そうな見た目に反して案外親しみやすい。結月がクスクスと笑いながら階段を登ると、彼は愉快そうに話した。
「先生は不真面目な奴だったからな。ま、今でもそうだが。……このまえなんて、数学の幸田先生に考査の試験監督のときに居眠りしてたのを叱られたよ。」
「あー、たしかに寝ていましたね。」
この前のテスト中のことを思い出しながら、結月が苦笑した。
「いや、カンニングするような奴、この学校にいないと思うんだよなぁ、みんな大人しいし。」
「そもそも受験して入学しますものね。」
「そう、それなんだよ。みんなお利口さんでさ、俺の学生時代とは大違い……なんだ、この音。」
先生が眉を寄せた。先生が話している途中で、誰かが廊下を走っている音と、男性が争う声が聞こえたからだ。
「侵入者でしょうか?……この学校の先生の声ではありませんよね。」
廉直女学院は、その名の通り女子校だ。男子生徒などいるはずがない。
「ああ。」
先生の声が硬くなる。二人は息を殺して音のしたほうを伺った。
大きな音が廊下に響いた。硝子が割れた音と、何かを殴る鈍い音だ。それから、重たいものがどさり、と床に落ちた音がした。
先生が結月の一歩前に出た。結月を庇うようにしながら、先生が身構えた。
「
「まァね、アンタずっと近づきたくてウズウズしてたろ。……勝ち方が決まってる奴は勝ち筋を作ると簡単にノってくる。」
掠れた老人の声と、柔らかい男の声がした。結月たちからは彼らの姿は見えない。先生が教材を階段の手摺り壁の天端に置き、携帯電話に手を伸ばした。
「枷場、逃げろ。職員室の先生にこのことを——!」
「そこ、誰かいるのか?」
先生が小声で結月に指示を出したことで、男に気づかれたようだ。足音が近づいてくる。
「枷場!早く!」
先生が結月を急かす。結月は手に持っていた教材を床に置いて、走り出した——いや、走り出そうとした。
男の足音がぴたりと止まる。結月が走り出すよりも先に、男が結月たちのすぐ側に来たことがわかった。
「あなたたちは……。」
若い男だ。どこかの学校の制服のように見える上着を着て、ボンタンズボンを履いている。黒い長髪を一つに纏めて団子にして、左側の前髪を一筋だけ垂らしているのは、何かこだわりがあるからだろうか。
青年は先生と結月を見ると、剣呑な雰囲気を少しだけ和らげた。
「ああ、この学校の関係者でしたか。……ここは危険ですから早く避難を——」
「君は誰だ!学校名と名前を言え!」
先生が叫んだ。結月は驚いて肩を震わせた。青年は肩をすくめて眉を下げた。
「あー、私は呪術高専二年の夏油傑です。とりあえず、避難を……。」
「避難?なにを言っているんだ、君は。とにかく、このことは君の保護者に連絡させてもらうからな。」
先生が厳しい口調で青年にそう言ったのと同時に、床に落ちている硝子が踏まれて擦れ、割れる音がした。結月と青年——傑が音のしたほうに首を向けた。
「老いぼれを、舐めるなよ、小僧……‼︎」
手拭いを頭に被って作務衣を着ている満身創痍の老人が、おぼつかない足取りで傑に向かって走ってくる。老人は結月と先生を見て、にたりと嫌らしい笑みを浮かべた。
「人質……‼︎」
老人が結月たちに向かって手を伸ばした。
「……ッ!」
(ダイヤのエース!)
握りしめられていた結月の右手の中にカードが一枚現れた。カードは煙のようにその形を変え、小さな子どもの姿になって結月を守るように向かってくる老人の前に立ち塞がった。
老人が子どもにぶつかりそうになった瞬間、透明な障壁が老人の体を阻んだ。汚い声を出しながら老人が床に崩れ落ちたのを見て、結月は思わず安堵の息を漏らした。
結月のカードの式神が作る結界は、結月が特別な指示をしない限り、攻撃を弾く効果と呪力を吸収する効果をもつようにあらかじめ設定している。老人は、残り少なかったであろう呪力を吸われて立ち上がる気力もないように見えた。
(なんとか、使えた。)
結月はどこか呆然としたような顔で倒れた老人の体を眺めた。老人の意識がないことを確認すると、式神は結月にお辞儀をして煙のように消えてしまった。
「……今のは君の術式かな?」
傑が結月を鋭い目で見た。
「……ええ。」
「大丈夫ですか⁉︎すぐに怪我の手当を……!」
先生がそう言いながら倒れた老人に駆け寄ろうとしたのが視界の端に映った。
「呪術師、という言葉を聞いたことはあるかい?」
傑が結月にそう尋ねた。
「……父の兄が呪術師であったと聞いております。」
「君のお父さんは?」
「父の家系は呪術師の家系らしいです。父は才能がなかったため勘当されたそうです。」
「……そうか。」
傑が大きな溜息を吐いた。
「一体、何の話をしているんだ!大体、君は……!」
傑が右手を軽く上げた。黒い渦が傑の右手の辺りの空間に渦巻く。結月が警戒しながらそれを見つめていると、渦の中から、鼻の短い象と猪が混ざったような生き物の形をした呪霊が現れた。
(あれは……漠、か?)
呪霊は息をするたびに鼻から煙のようなものを出している。結月は煙に触れないように距離を取ろうと先生の袖を掴んだ。
「ごめんね。」
いつのまにか結月の背後にいた傑が小さな声でそう言った。結月が何かを言う前に、呪霊が結月たちに向かって強く息を吹きつけた。
(しまった、結界を……!)
結月が式神を出す前に、先生の体が床に崩れ落ちた。
「先生に、何をしたの。」
「……おかしいな。君も眠らせたはずなんだけど。」
白い煙とともにカードの束が結月の右手の中に現れた。結月はカードの束を握りしめた。
「生憎と、毒も呪いも効きにくい体質なのですよ。」
「そうか、それは面倒だ。」
「改めてお聞きします。先生に何をしたのですか?」
結月の顔を見て、傑が眉を下げた。
「命に別状はないよ。」
「なぜ、このようなことをしたのですか?」
結月の問いに対して、傑は顔を引き締めた。
「残念だけど、君が生徒に扮した呪詛師である可能性もあるからね。……私たちがこの学校を出るまでの間、眠ってもらおうと思ったんだ。」
「……そう、ですか。」
結月は一度目を伏せて、傑の目を見た。
「夏油さんは、呪術高等専門学校に所属している呪術師ですよね。」
「ああ。」
「……通報は、しばらくしません。先生が意識を失った恐怖で動くことができなかったことにします。早くこの学校から出て行ってください。私は五分後に職員室に向かいます。」
結月がそう言うと、傑は目を見開いた。しばらく呆けた顔をした後、傑は愉快そうに笑って、口を開いた。
「できれば十分にしてくれないかな。」
「……いいですよ。どうせ授業はもう始まっておりますから。それに、このようなことがあった直後に普通に授業ができるとは思えません。」
結月が遠い目をしたのをみて、傑はますます笑った。
「もし、呪術師になるつもりがあるなら歓迎するよ。君ならいい術師になれそうだ。」
小さくなっていく傑の背中を見つめながら、結月は重い溜息を吐いた。
(起こそうとした形跡は残しておいたほうが良いよな。)
先生の体を割れた窓硝子の破片や瓦礫から遠ざけてから、心の中でそう呟くと、結月は先生の体を揺すった。
(大変なことになったなぁ。)
結月はぼんやりとそう考えながら、途方に暮れたようにその場に座り込んだ。
主人公は、呪術高等専門学校に……
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