口福~不幸と幸福の交わる言峰とシスターの仄暗い日常~ 作:アイコ
ちゅんちゅん、と鳥の鳴く声で目が覚めた。外が思ったよりも明るくて跳ね起きる。携帯電話で時計とカレンダーを見てホッと一息をついた。
そうだ、今日は言峰が朝食を担当する日だ。
いつもより少し朝寝坊した女は、それでもいつも通り軽くストレッチをした後、修道福に着替えてゆっくりと食堂へ向かう。
「遅かったではないか」
相変わらず、パンの耳を切り取ったトーストを手に取ったギルガメッシュが女に目をやった。
「あら、王様こそ。もう食べ終わっていると思いましたわ」
「今日は無性に卵が食べたい気分でな。あいにく切らしていたから探しに行っていた。貴様がおれば、行かせたものを」
「あら、本当。目玉焼きがあるのね」
「君の分も用意しておいた。ソースか醤油。どちらを用意すれば良いかね」
言峰は両面焼きの目玉焼きをフライパンから皿に移し、女に手渡す。受け取りながら彼女は「気になさらなくてよろしくてよ」と告げた。
「わたくし、塩コショウで十分ですの」
「この極東の地のショウユというものは、格別だぞ」
「知っておりますけれど、素材の味というものを大事にしたいのですわ」
「煙草で舌が使い物にならなくなった雑種がよく言う」
「相変わらず、失礼なお方」
フン、と鼻で笑って流されるのにも慣れてしまった。女は受け取った目玉焼きをトーストの上にのっけて半分に折る。最初からトーストの上に乗せてもらえば、洗い物が一つ減ったな、と今更どうしようもないことを考えながら。
言峰は最後に自分の分の目玉焼きを焼いたらしい。女と同じことを考えたのか、彼は空っぽになった女の皿を手に取り、それに自分の分を置いた。
「目玉焼きにはケチャップだと相場が決まっている」
それだけ言うと、言峰は黙々と朝食を口に運び始めた。
三人だけの静かな空間。これが日常であることに慣れてしまった。女は整った顔立ちだけが共通で別方向に美丈夫な二人の男を前に、平穏だけがあるのに対して違和感を持った。
(最初はあんなにも気の重い任務だったのに)
もうメンソールのガムも必要となくなってしまった。当然、煙草も口にしていない。それだけの年月が経ったのだと実感させられる。
朝食を食べ終わり片付けを手伝っていると、ふと思い出したように隣に立つ言峰が言う。
「今日は外に出てほしい」
「というと?」
「隣町の教会へ届け物があってね。君に行ってきてもらいたい」
「郵送ではなく?」
「郵送するより速い上に確実だろう」
時々そういう事があった。聖堂教会同士で大切な書類のやりとりする際に、シスターを走らせることが。郵送だと事故があった際に困ることが多い。
女が来るまではそれも自分で届けていたそうだが、女がここにシスターとして赴任してきてからというものの、彼女をうまく使っている。
「わかりましたわ、言峰神父。大切なお役目、仰せつかいます」
「ゆっくり帰ってきていい。今日は業務も比較的少ないのでな」
「お気遣い、感謝いたしますわ」
片付けもちょうど終わった。女の礼には、言峰は気にするなと言うように彼女の方を向かずに首を振る。女が振り返るとギルガメッシュはとうにいなくなっていた。
さて、と、狭いキッチンから離れようとして思わず肩と肩がぶつかり、お互いが謝罪をしたので、女はなんだかおかしくなった。
隣町の教会は近いので、タクシーを拾って迎えばすぐに辿り着いた。この辺りの立地は東西は行き来しやすいのだが南北には動きにくいので、坂も多いことだし今日は風も強いしとお金に任せて行動することにしたのだった。
(楽をしたことがバレたら、また嫌味を言われるわ……)
女はそう思い、タクシー代の請求はしないことにする。煙草ぐらいが女の出費だったのに、それもなくなった今、お金に苦労はしていない。それでも帰りはタクシーも捕まえにくいので歩いて帰ろうと決意して、隣町の教会から出た。
用事は本当に荷物を運ぶだけだった。立ち話もそこそこに切り上げて――ここの神父の長話は有名だ――女は歩いて帰った。冬木市の駅前でパスタを食べてゆっくりと歩いて帰ると、教会の前でギルガメッシュと鉢合わせた。
「なんだ、もう帰ってきたのか」
「ええ。長々と無駄話に付き合ってても仕方ないでしょう?」
「違いない」
今日は風が強い。はためく修道服を抑えながら、向かいの彼に問う。
「あなたが昼間に教会にいるのも珍しいわね。どうしたのかしら?」
「勘だ」
「えっ?」
「何か面白い物が見れる予感がした故、こうして見張ってるわけだ」
ギルガメッシュのいる位置はちょうど教会内部から死角になる位置で、彼の視線の先には言峰がいた。老婦人とにこやかに会話している。
「言峰神父が何か?」
「確証はない。だがこの教会で何かあるとすれば奴か、あるいは――」
また強い風が吹いた。言峰は自分の衣服がはためき髪が風に流されるのも気にせず、老婦人を気遣っている。吹き飛びそうになるストールをつかまえて、倒れ込みそうになる老婦人を支えているその姿は女の理想をしていた。
どくん、どうしてだか言峰をみると心臓が高鳴るのを自覚する。朱が走った頬をギルガメッシュに見られたくないが、もう遅い。
「なるほどな」
ニヤニヤと笑う彼が何を納得したのか、気付きたくなかった。
言峰は女とギルガメッシュのことなんて意識もしないまま、風に吹かれた髪を直した。その姿がまた――
「理想的な神父の姿に焦がれるのは私の生来の性質だもの」
「ほう」
自分に言い訳をしたつもりが隣のギルガメッシュが楽しそうに相槌を打ってきて、女は動揺した。
口をひらけば開くだけ面白がらせると分かっていながら、言い訳が止まらない。
(だって、そうじゃなきゃ私があの人に気があるってことじゃない)
神父としてのあの姿は作り物だってわかっている。信仰は本物だ。だが、必要とあれば指の先まで作り込むことのできる男に、どうして気が許せようか。
「私は神父様に助けていただいたのよ。だから、どうしたってああいう姿には焦がれてしまうの」
「それだけじゃないように見えたがな……しかし、我の勘は当たったようだ。これからの貴様の身の振り方が楽しみだな、雑種よ」
それだけ言うともう興味は失せたとばかりに、ギルガメッシュは教会前から立ち去った。
取り残された女が呆然と立っていると、老婦人を伴った言峰が門の前にやってきた。
「おや、シスター。早かったな」
「ええ、まあ。ええ……」
「あらあら。あらあら」
切れの悪い返答に訝しむ言峰だが、老婦人の方は何かに気がついたように楽しそうにコロコロと笑った。
「お似合いだと思ってたんよ、おふたり。そうやわ、今度、なにかお祝いをしなくちゃいかませんわ」
女よりよっぽど、女の子らしい上品な仕草で言うものだから、否定するのも躊躇われた。変に否定して言峰に意識されたくなかったのもある。曖昧に笑うと、言峰はそっと老婦人に言う。
「悪戯は控えめにしていただきたい。あなたももう歳なのだから」
「あら、そんな大そうなことじゃないんよ。ねぇ、シスター」
「え、ええ」
「ほんなら、今日はこの辺でお暇するわ。神父さん、タクシーの手配ありがとう」
「今日は風が強いですから……ご無理をなさらずよう」
にこにこと笑う老婦人を見届けた後、言峰はため息をついて振り返った。
「それで君はこんなところで何をしていたんだ?」
「先ほどまで王様が居られましたの。立ち話をしていてよ」
「あいつが? 珍しい」
「そう思って話し込んでおりましたの。大したことじゃありませんでしたわ」
「私に聞かれたくない話かね」
「そんなことは……ああ、そうだわ。荷物はきちんと届けましたので、ご報告しておきますわ」
図星を刺され、深く追求される前に女は報告だけすると足早に立ち去った。
深夜。胸の奥にくすぶるもやもやだけを抱えて、女は部屋から食堂へ飲み物を取りに向かった。言峰のことを考えるだけで胸が高鳴ってしまうのはどうしたものか。まなざしにも明確な熱がこもっているのを自分でも感じている。
(これじゃあ、いけないわ。わたくしの使命にも、信仰にも影響が……)
食堂への途中、浴室から通じる廊下で考えながら歩いていると、ちょうどそちらの方から不意に出てきた人影があり、避ける間もなくぶつかった。
「きゃっ」
「ん」
言峰だった。
分厚い胸板に頭をぶつけ、壁のようだわと思いつつも女はまず謝罪する。
「ごめんあそばせ……考え事をしておりましたわ」
「いや、私もぼんやりしていた」
「珍しいですわね、あなたがそのようにされるのは」
「君の様子が気になっていた」
「あら……なんですの」
そう言って改めて言峰を見た女は、言峰の格好を見て仰天とする。「あら、まあ……」いつもふさふさと生えている髪は濡れてしんなりとしているのがまず目に入り、そして服装も当然ながらいつもの礼服ではなく、Tシャツと短パンという簡素な出で立ちだった。
女はまたしても自分の頬が赤く染まるのを感じ両手で頬を抑えて、とっさに目を伏せた。
(変だわ、こんなこと、何度もあったのに……)
今までもあったこと――さすがに漫画のように脱衣所でばったりと裸を見たり見られたりするようなことはなかったが、このような簡素な寝巻を着た姿を見ることはお互いにあった。
その時にはこんな反応はしなかった。ただ普段通りにやり過ごすだけだったというのに、今回は如実にいつもと違う対応をとってしまった。
(認めざるを得ないわ……わたくし、この方に恋をしてしまった)
この年になって初めて知る感情。認めると、更に心臓がどくん、どくんと主張をする。
女を見ていた言峰は、ひとつ頷いて考えこむ。
「ふむ……」
「な、なんですの?」
「……そうか、君はそうなのだな」
言峰は納得のいったように呟いて、女を見た。無機質な中に揶揄いを湛えたまなざし。女はそれを受けて目を伏せた。
「なるほど、弱ったな……分かりやすい女だ。そういうものは然るべきタイミングまで伏せておいてほしかったのだがね」
そう言いながらにやりと笑った、(ああ、)言峰本人にもきっと知られてしまっている。その表情にもときめきを覚えるのだから、もう仕方がない。
「然るべきタイミングと言いましても!」
「ククッ、良いだろう。サービスしてやる」
言峰は揶揄うようにそう言って、廊下を先導した。立ち止まったままの女に向かって振り返りざまに「おいで」と囁くように言う。掠れた声が静かな廊下と、女の鼓膜に響き、振動する。
「部屋に行こう。わざわざお使いに行ってくれた、我が教会の優秀なシスターを労わってあげようではないか」
「……っ」
言葉にならない声をあげ、女はようやく着いていくしかできなかった。
薄暗い廊下から、言峰の私室に移動してふと女は思う。ここでふたりきりになるのは慣れないと。
(いつもは王様がいるもの)
ギルガメッシュのいない状況に気付き、また心拍数が上昇する。言峰が何か用意している間、先にいつもの席に座りながら、胸を押さえた。
言峰はグラスを女に手渡す。入っている液体が透明で、女は首を傾げた。
「水だ。別にこの部屋ではワインしか飲まないと決めているわけではない」
てっきりワインを手渡されると思っていた女は図星を指され、黙り込む。他方、言峰も黙ってしまった。言峰なりのジョークだったのだろう。気まずい空気が流れた。女は慌てて話題を変える。
「では、サービスと仰っていたのは? 良いワインではないんですの?」
藪蛇だったと気付いたのはすぐだった。
「足を触らせてもらう」
「えっ」
唐突な言葉に戸惑いつつも、頷いた。だが、もう寝る予定だったので、スリッパに素足の状態だった。直で触られるのを想像して身が震える。
「なに、軽いリラクゼーションだ。たくさん歩いただろう?」
「え、ええ……」
タクシーを使ったなんて言えないと思いながら、頷いて肯定した。
「痛かったら言ってほしい。その場合、力加減が強すぎるんでね」
「わかりましたわ」
言峰は椅子に座っている女の前にしゃがみこんで膝をつく。自分の視線より下に言峰の顔があることに慣れていない。女は見ていられなくなってそっと視線を外した。
そんな反応を見てクツクツ笑いながら、言峰はそっと女の左の素足を撫でた。右手でスリッパを抜き取り、踵を支え左手でふくらはぎを。
「……っ」
女の漏らした吐息に満足そうに頷いて、言峰はオイルを取り出した。その間に女は手に持っていたグラスの水を飲み干して、テーブルに置く。
「そうだな、その方が安全だろう」
女はこの状況に混乱していた。その間にも言峰が女のパジャマをふとももまで上げ、左足からオイルを塗る。手の中で温まったそれは肌になじむ。
撫でられているだけでも気持ち良かった。そこに力を入れられ両手でふくらはぎを揉まれ、単純に気持ち良い。
「痛くはないか?」
「大丈夫ですわ」
「それなら良い」
それを最後に無言の空間が続いた。今日はタクシーを使ったとはいえ、毎日が立ち仕事だ。脚が凝っていないわけではない。
ふくらはぎのもみほぐしを終え、するすると両手が足裏に移る。足裏のリフレはたまに行くが、それを上回る気持ち良さで「ん……」思わず声が出た。
言峰はそれに満足そうに頷いて施術を続ける。
また無言の時間が続く。静かな空間に時折、女から漏れる声が響きわたって、それが少し恥ずかしい。しかし生理的に出てしまう声は仕方がなかった。
とある箇所を強く押され、女は思わず今度は痛みに声を上げる。
「ああ、言峰神父。少しばかり痛いですわ」
「ここだろう?」
「あっ……」
言峰が面白がるように、再度押してみせた足裏のツボ。痛みに身体が緊張する。
女は抗議をしようと思ったがそれより先に言峰が、揶揄うように言う。
「肝臓が疲れているぞ、酒の飲み過ぎではないか」
「あなたに言われたくないですわ」
「そうかな。私が摂取しているのは適量だが」
「毎日のように飲んでいるじゃない」
女の精いっぱいの反撃に対して、言峰は「飲み歩いてはいない」と飄々と告げる。女は、男性たちを弄んで酒を飲み歩いていたことがバレていたと知って、ぎくりとする。ギルガメッシュが告げたのだろうか、否。彼はそんな野暮なことはしないだろう。言峰自身の伝手で知ったのだ。
女はこの気持ちを抱いた相手に良くない所業を知られていたことが少し憂鬱になるも、きっと彼はそのようことで気にする性質ではないだろう。
それに――
「もう、しませんわ」
「それは心情の変化か?」
「分かっている質問をしないでくださいませ」
「ククッそうだったな」
気持ちを知っているくせに、と女は拗ねる。言峰はそんな女の様子に笑った。
施術は右足に移る。右の方が凝っていたのか、それとも緊張が緩んだせいか声が先ほどよりも出やすくなった。女のあえぐような声に、言峰は再び笑いを溢す。
「んっ……ああっ……」
「良い声で鳴くではないか」
揶揄いを込めた言葉に、女は反論する。
「はあ……ん、そうさせてるのはあなたでしょう?」
「そうだな」
言峰は否定をしない。
女はこの段階になっても、今の状況が信じられなかった。
恋を自覚した相手から、そのすぐあとに脚だけとはいえ、肌に触れられるなんて。それに部位も部位だ。脚は普段人に触られる場所ではない。そのうちに、言峰は手を止める。
「今日はこのくらいだ」
言峰が一度部屋を離れている間に、女は息を整える。
彼は温かい濡れタオルを片手に戻ってきて、女の足についたオイルのふき取りを始めた。
女はゆっくりと声を出して、礼を言う。
「ありがとうございます。意外な才能、でしたわ」
「効率的に攻撃を入れるには人体を把握していないとならない」
「代行者時代に身に付けたのね、おかしなひと」
ふき取りが終わり、再度水を渡される。
身体が水分を欲していた。ごく、ごくと喉を鳴らして飲み干すと、グラスを言峰に返す。
飄々とした顔で受け取る彼に情を抱いてしまっているのだと、もう、誤魔化せない。今の今まで自分に触れていた、筋張った手に欲情を抱いてしまう前に女は立ち上がった。
廊下へ出る扉の前に向かう。自然と言峰も着いてきていた。内開きの扉を開けると、彼は閉まらないように扉を支えてくれる。
「言峰神父、」
「なんだ」
「……おやすみなさい」
危うく言いそうになった、好きよ。の三文字、今はまだ大事に心の底に沈めておこう。女はそう決意して、就寝の挨拶に置き換える。
「ああ、おやすみ」
女の気持ちが伝わったのかもしれない。それでも何も追及することなく、言峰もそう返してくる。女はそれを受けて、廊下へ足を進めた。自分の部屋へと帰るために。