口福~不幸と幸福の交わる言峰とシスターの仄暗い日常~ 作:アイコ
冬木市から電車で一時間くらいの温泉地に行くことになった。
というのも、信徒の方から善意で言峰神父とシスター相手に、と温泉旅館のチケットを頂いたのだ。それも、ペアチケットを。
言峰と女は思わず顔を見合わせたが「いつも気ぃ張ってらっしゃるから、ゆっくりしていらっしゃい」と微笑まれて、ひきつった表情を隠せないままに頷いた。
信徒の老婦人は寄付もたくさんしてくれており、この冬木の言峰教会にも長く通われている方で聖堂教会自体でも顔の利くので、ご丁寧に教会の上の方にも根回ししてくれていた。
その上、その場に居合わせたギルガメッシュも愉快そうに、行かせることを約束してしまったので、女はこっそりとため息を吐いた。
(完全に面白がられているわ)
言峰に対する恋慕はとっくに皆に知られてしまっている。
言峰自身も知っているくせに、結局、女と二人で行くことを承知していた。
どんな気持ちで朝を迎えれば分からないまま、当日を迎えてしまった。
本当に二人で行くとは朝の朝まで思ってなかったというのが、女の本音だ。
朝方は本当にいつも通りだった。朝食に始まり、朝のミサを終わらせ、信徒さんに聖書の解説をし、夕方の業務に向けて休憩を取ろうかというときだった。昼食を取ろうと食堂に向かおうとすると、言峰は「食事は外でとろう」と言う。
昼間は好きにふらついているらしいギルガメッシュもいないので、「ええ、わかりましたわ」承知の旨を伝えると、なんとそのまま温泉街に向かうと言うではないか。慌ててタオルと着替え、基礎化粧品等を荷物詰めして、言峰に待たせた旨を謝った。
「全ての想定に対処できるよう、次からはあらかじめ準備しておくように」
特別怒ってはいないようだったが、上司としての注意を女は素直に受け取った。
そして職務をこなす時と同じ礼装のまま言峰と女は食事をとり、電車に乗る。温泉街の玄関口までは乗り継ぎが多少面倒ではあったが、荷物もそう多くないため問題なく到着した。
駅の目の前にはコンビニがある。向かうのは高級旅館だ。何も持っていかなくたって旅館の方で用意があるだろうが、念のため飲み物だけ購入してタクシーを拾う。女は歩いていけると思っていたが、この辺りは坂道が多いと言峰が言うので従った。どうせ言峰も女も金は余らせている。
真昼の温泉街は思いのほかにぎわっていた。今日は平日だというのに、存外人は出かけるものなのだなと冷静に思いながらタクシーの窓から覗く。食べ歩き、サイダー、それから手をつなぐカップル達。もしかしたら運転手には自分たちもそう見えているのかもしれないと思い、胸が高鳴った。
言峰の方をこっそり見やるが、彼は涼しい顔を崩さない。過去に妻を失ったと聞いたことがあるが、その時もこんな風に余裕を失わなかったのだろうか――と考えて、嫉妬で胸を焦がしそうになるので、思考を打ち切った。
美しいひとだったと聞く。
自身も美しさでは他者に引けを取らないと思うが、それが言峰に有効だとは思えない。
このように一緒に旅行に行く程度には好意は持たれていると考えてよいだろうが、それがどの程度のものなのか、女には分からなかった。
宿の前に着いた。老舗の宿のわりに綺麗にしていて、さすが高級旅館だと感じる。エントランスを入るとガラスの窓越しに中庭が目に入り、池の中、涼し気に鯉が泳いでいた。
言峰がチェックインをしている間、広いロビーで出してもらったお茶を飲んでいると、宿の係員が「奥様」と女のことを呼んだ。
初め、自分が呼ばれたと認識できなかった女も、何度か「奥様、お部屋にご案内します」と言われ、ようやく気が付き、何度も呼ばせてしまったのと奥様と呼ばれるのと、二重の恥ずかしさで頬を染めた。
「やだ、わたくしったら」
係員の人が微笑ましそうに笑うのが、余計に恥ずかしい。
「ではこちらになります。お荷物お持ちいたします」
「いいわ、そんなに持ってきてないもの」
係員の隣にいる言峰を見ると、笑いをかみ殺している。まったく、人の恥を笑うんじゃない。
道すがら、大浴場への行き方を案内されつつ、部屋に着く。食事の時間を確認し、今からだとまだ数時間あるなと思いながら、部屋に入った。
スイートルームと言うべきか、非常に広い部屋だった。食事をするであろうちゃぶ台のある部屋、そして既に布団のひいてある――二枚の布団がくっついているのが妙にこそばゆかった――寝室。
そこの窓から覗くのは大自然だったが、ふと見慣れないものが目に入った。近づいてみると、部屋には扉が付いていて、窓から見えるのは露天風呂だった。
「なっ!」
「あのばあさんは、いらない気をまわしたようだ――もっとも、これに入るかは自由だがね」
「相当高かったんじゃない?」
「あの人からすれば、ほんの些細な金額だ。私のことを孫か息子か、そんな風に思っているのだろう」
「確か息子さんを失くされたのでしたわね」
「ああ」
信徒さん達は何かしら事情を抱えている人が多い。
そうでなければ、こうも熱心に信仰心を抱かないだろう――今の日本人は特にそうだ。
私たちは、特殊なのだ。ちらりと、言峰を見てそう思う。この人は本物の信仰心を持っている。それでも歪んでいる自分に自傷の気持ちさえ抱いてそうだけれど――
触れられたくない傷にあえて触れる趣味はない。ましてや、それが自分をも傷つけるなら。
女はそう考えて、その場を離れた。部屋を散策していると、引き出しの中からタオルセットと浴衣を見つけ、言峰を見る。
「夕食の前に、大浴場に行きたいですわ」
「異論はない。時間はしばらくあるからな。ここの露天は金泉しかひいていなさそうだ。銀泉にも浸かりたいだろう」
「部屋の露天風呂を使うとは言っておりませんわ!」
クッと笑った言峰にからかわれたことを知る。それでも悪い気分にはならなくて、足取り軽く大浴場へ向かった。
広い風呂に浸かるのは、それだけで久しぶりだった。
建物の高層階にある大浴場は、まず浴室から見える景色もいい。そもそもこの宿自体が、この温泉地のだいぶ高いところにあるのだからそれも当然と言えよう。
浴室内に人がぼちぼちいることを確認し、女はまず洗顔した後、髪を洗う。丁寧に流し終わった後、身体を洗い身を清めた。そして、まずは銀泉――透明の温泉――から浸かる。少し熱いくらいだった。
この熱が身体の芯まで刺激して、心地よい。足を伸ばしてしばらく浸かっていると、筋肉もほぐれてきた気がする。
ただ少しのぼせてくる気配がしたので、一度湯から上がって、水風呂から足元へ冷たい水をかけた。
二、三度そうした後、ゆっくりと今度は金泉――茶色く濁った温泉――の方へと向かった。金泉の方が湯がぬるかった。のぼせる心配が少ないことにホッとしながらも、段差に腰かけ、半身だけ湯につかる。露天と浴室を行き来する人がいるせいで時折冷たい風が入ってくるのが気持ちよかった。
露天風呂に人が少なくなったタイミングで女は外へ向かう。金泉の壺風呂に入ると、じゃばん、と音を立てながら湯が溢れた。
(そういえば、部屋にも露天があったわ……)
あれを使えば、必然的に言峰に肌を晒すことになる。それが嫌ではないどころか、心の底では望んでいるのが、自分のことだけに分かってしまう。彼にすっかりまいっているのを、この感情をどうすればよいのか、女は持て余していた。
浴衣を着て部屋に帰るとちょうど夕食時だった。濡れた髪はある程度乾かしたがまだ半渇きである。言峰はそれを見て呆れたように言う。
「なんだ普段よりだらしがないではないか」
「気を抜いたっていいでしょう、ここにはあなたしかいないんですから」
「気を抜いても良い相手だと認識するには、いささか不用心とは思わないのかね」
「そんなの今更でしょう?」
「まあ、なんだ、君がどう思うかは君の勝手だが……」
言葉を濁すのは言峰らしくない。どうしたのか問おうとしたところで、女将さんが食事を運んできたので、その疑問は永久に解決することはなかった。食事時は静かなものだった。普段からそうなのだが、言峰は食事中あまり会話を好まない。
淡々と会席料理を食した後、二人はサイダーを片手に向かい合った。
「あのばあさん、余計な気をまわしたと思ったが。存外良いものだな。温泉というのは」
「ええ、こういう機会でないとなかなかゆっくりできないから、わたくしも結果としては喜ばしい思いですわ」
ぱちぱちと口の中で炭酸がはじける。
気にしないようにはしていたが、タオルで水分をふき取ったであろう言峰の、それでもしっとりと湿った肌艶や、普段見慣れない浴衣姿がどうしても目については心臓が跳ねる。
「結果としては、とは?」
それを分かっていて言峰は追いかけてくるのだから性質が悪い。
女はもぞもぞと身体を動かし、手に持った瓶をゆらゆら揺らし、「想像の範囲の事ですわ、言峰神父」と誤魔化した。
「さあ? 知っての通り、私は他人の感情の機微に疎くてね……」
「わたくしの何が知りたいと言って?」
のらりくらりとお互い交わしあっていると突然、言峰が仕掛けてきた。
「まだ名は明かしてくれないのか」
「え、」
「名は明かしてはくれないのかと聞いたのだが」
「ええ、ええ……聞こえてますわ」
「返事にはなっていないようだがね」
「それ、は……」
女は発するべき言葉を忘れてしまったようだった。かろうじて意味もない音を何度か出すと、突然張り詰めた空気を壊すように「わたくし、お風呂に入らせていただきます!」と叫ぶようにして言い、言峰がわらいを堪えているのを横目に、部屋に備え付けの温泉へ向かった。
「わたくし、わたくしは……」
女の名前には意味があった。
それは彼女を守る魔術──通常の防御魔術とは比べ物にならない鉄壁の守護。かつて多くの魔術が魔法であった時代の遺物だ。
だから簡単に教えていいものではない。
「ああ、神様」
女の信仰心も本物だった。浴衣に着替えてなお、首から下げていた赤いビーズに繋がれたロザリオを握りしめて、深呼吸する。
「そう。そうよ、教えてはならないの。わたくしの感情ひとつで決めていいものじゃないから」
少なくともいまは言峰を守る任務がある。誰にも教えたことのない秘密を、誰が聞いてるとも分からないこの場所で明かすべきではない。
あとのことは考えていなかった。浴衣を脱ぎ捨てて、ロザリオをその上に置き、檜の湯舟に浸かる。熱に浮かされて、この動揺が分からなくなってしまえばいいのに。
(名前を教えてしまいたいと思った自分が、確かにそこにいたのよ……)
込み上げてくる感情は、罪悪感かそれとも他の何ものかか。
景色を見て、気持ちを紛らわしていると、ガラッと扉が開く音が鳴って「きゃっ」女は驚きのあまり短い悲鳴を上げた。当然だが立っていたのは、言峰だった。
「そんな反応をされると、こちらも些か傷つく」
「レディの入浴中に黙って入ってくるのが悪いのよ」
「せっかくだから一緒に堪能しようかと思ってな。二人くらいは入れるサイズだ」
「わたくし、許可してませんわ」
「許可など取らん」
言峰がサッと湯舟に入ると、彼の大柄な体躯の体積分だけ、お湯がまた溢れた。代行者だった頃の名残か、その体は上から下まで鋼のような筋肉が覆っている。女は言峰の裸体を見て、サッと目を逸らす。
湯につかってしまえば濁り湯で全て隠れてしまうが、時折肌が当たると、その部分がカッと熱くなったような気がする。気のせいだとわかりつつも、この気持ちは抑えられない。
こんな短時間でのぼせたのか、それとも違う要因か。どきどきと高鳴る鼓動だけが、女の頭の中を駆け巡っている。
「……あなたにしては珍しい行動ね、言峰神父」
「どうしても――」
言峰は掠れた声を出した。腰に響く低音は女の心臓を加速させる。
「どうしても、お前の名前を呼びたい」
この人は今までこうやって女を口説いてきたのかしらん、と女は妙に冷静になってしまった。それでもそのまま手を引かれ、いつもの礼装からではわかりにくいその筋肉質な胸に抱き寄せられると、理性も朦朧としてくる。
「だめよ」
「どうしても?」
「どうしても。ええ、どうしても、よ」
言峰は女の言葉を奪うようにしてそのまま口を塞いだ。上唇と下唇の間を舌が行き来して、優しく撫でる。唇を許したのは、油断があったからだ。それでも、女は満足だった。
このまま部屋に戻ったら、身体を暴かれるのだろう。女はきっと、それを望んでいる。