夕暮れの噴水。
そこに彼女は佇んでいた。
しなやかそうな手足を伸ばし、いかにも勝気そうな彼女。
けれど……その横顔には寂しげな表情が揺れて……。
「……マックイーン」
こちらを向く彼女。だが、その顔からその表情は消えていない……。
「……あっ……」
「……ひょっとして」
何も言わずただ此方を見つめる彼女。
「……待っていた?」
「……ええ」
噴水を見下ろすベンチに腰を下ろす。
ゆっくりと流れる時間。
「……謝ろうと」
彼女がポツリと話す。
「……」
「この前の事」
マックイーンは、ベンチに座ったままじっと下を向いて話していた……。
「うん……」
「でも…………行けませんでしたわ。あなたの所」
「うん……」
「だから……ずっとお待ちしていました。…………きっと来てくださるような気がしていましたから」
「そうか……」
二人は此処で出会った。
マルゼンスキーさんに言われ、真っ先に考えた場所がここだった。
だから……。
……そんなことは言う必要がない、言わないでもわかる筈だから……黙って彼女の隣に腰を下ろした。
「……マックイーン」
彼女は膝を抱え、背中を丸めている。
夕日に照らされたその姿はいつもより一回りも二回りも小さく見えた。
「……怪我していたこと……黙っていてごめんなさい」
「いいよ。もう、気にしてないから」
「でも、ごめんなさい。言わないと気が済みませんから」
微かに震える声。
「ごめんなさい……彰さん」
重ねられる謝罪の言葉。
しかし、マックイーンの目は伏せられたままで、此方を見ようとはしなかった。
「……マックイーン」
そのまま暫らく時が流れた。
「……逃げてきたんです」
唐突にマックイーンが話し始めた。
「……いつかお話ししましたわよね、目標の話」
「うん……」
「……次の天皇賞」
「うん」
「次の天皇賞で勝てればトレーナーと約束した三つの目標をすべて果たすことができたのです。……でも私は春の天皇賞で大きな怪我をしてしまいましたわ」
目を閉じるマックイーン。
その時の光景を思い出しているのだろうか。
「天皇賞で一着は取れました。……でもその時には私の足はもう……」
「……」
「怪我が治っても、足が思うように動きませんでした。……悔しかった、ここまで来てって」
俯くマックイーン。
「何度も何度も自分の足を叩きましたわ。動いて、動いて……ここまで来たのにって」
膝を抱え込む腕が震える。
「ここには逃げて来たのですわ。……あそこには居られませんでした。皆が気を遣って腫れ物を扱うみたいに心配してくださいました。……それが私には辛かったのです。走れない私には、何もありませんでしたから」
「……マックイーン」
マックイーンがゆっくりと首を振り、僕を見た。
「でも、今はもう、平気ですわ……。思い出しましたから、最初の気持ち」
「最初の気持ち……」
「ええ。一番最初の……気持ち」
そういって僕を見つめるマックイーン。
「メジロの皆で屋敷のターフを走り回って。それだけで楽しかったあの頃の気持ち。……彰さん、あなたのおかげですわ」
「僕の……?」
「ええ。……本当に楽しかった。最後は喧嘩になってしまいましたけど、……でもおかげで決心がつきましたわ」
「決心……?」
「ええ。やっぱり逃げてても駄目ですわ。言いましたわね、私。誰にも何もして欲しくないって。……その通りでしたわ。そうでなければいけませんわ」
自分に言い聞かせるように、マックイーンは自らの決心を話しつづける。
「私が立てた目標ですもの。誰かを頼りにしていては駄目ですわよね、甘えていては……ひとりで頑張らなくては」
決意を固めるように一言、一言、ゆっくりと……。
「彰さん。私、東京に帰りますわ。勝利を義務付けられたメジロのウマ娘として責任を果たしたいのです」
「マックイーン……」
「……」
小さく頷くマックイーン。
その口元には決意がある。
「ここに来て良かったです。あなたに会えてよかった……。いい休暇でしたわ……」
「……」
「ありがとうございます、彰さん」
微かな笑みを彼女は浮かべた。
「……マックイーン」
「もう行かなくては」
夕陽の色に染まるマックイーンの横顔。
そこには決意があった。
しかし、そこにはそれと同じくらい、彼女の決意と同じくらいの……。
「待てよ。マックイーン」
決意と同じだけの寂しさが溢れていた。
「え?」
その言葉に、マックイーンが振り向く。
「待てよ」
その言葉を繰り返した。
思わず口をついて出た言葉だった。普段なら言わない言葉だった。
何故そんなことを言ったのか、自分でもわからない。
「本当にいいのか?」
「……何がですか?」
マックイーンが僕を見つめる。
何を言いたいのかわからない。といった様子だった。
自分自身、何を言おうとしているのか、解らないまま話し続ける。
「それで、構わないのか?」
今もマックイーンの横顔に湛えられ、彼女が決意を語った時ですら消える事のなかった寂しさが、何かを訴えかけているような気がした。
――マックイーンをこのまま行かせてはならない。
そんな言葉が脳裏にうかぶ。
「何で……。何故そのようなことをおっしゃるのでしょうか?」
マックイーンはその『何か』を飲み込もうとしている。
その『何か』を押し殺したまま行こうとしている。
『……ひとりで頑張らなくては』
マックイーンはそう言った。
今、このまま行かせたら、マックイーンは、彼女は本当に『独り』になってしまう。学園に帰って、トレーナーと一緒に、好敵手たちと一緒に、仲間達と、メジロ家の皆と一緒にいても、彼女は『独り』になってしまう……。
「マックイーン……」
「……」
「行くなよ、マックイーン」
「えっ……」
「行っちゃ駄目だ」
「どうして……?」
マックイーンが訝しげに見据える。
「何をおっしゃってるの? 彰さん……」
「なぁ……。ここに逃げてきたって言ってたよな……」
「ええ……」
彼女は言っていた。
ここには逃げてきたと。
そして逃げては駄目だと気付いたと。
しかし……。
「僕には……マックイーンが、今ここから逃げ出しているように見える……」
「……っ!」
目を見開いて言葉を失うマックイーンに、続けた。
「ここから、じゃないかもしれない。……もしかしたら、君は、君は自分自身から逃げ出そうとしているんじゃないか?」
「……っ!」
こちらを睨む様に彼女が振り向いてくる。
「そんな気がするんだ……」
マックイーンの眼に力が篭る。
でも僕には……幼子が道に迷って泣いていて、でも無理をして強がっている。そんな眼にしか見えなかった。
「なにを……」
「マックイーン……」
「何を勝手に……解ったような事を……私は、走らねばらならないのです……こんな所で時間を無駄になんか出来ませんわ」
搾り出すように呟くマックイーンの声が、少しづつ大きなものになっていく。
「こんな所で暇を持て余しているあなたと……あなたと遊んでいる時間など無いのです!」
「……やっぱり、君は……」
そうやって、一人で抱え込んで、自分を鎧って、今まで生きて来たのか……?
弦を張りっぱなしの楽器はいつか壊れる。
……マックイーン、無理しすぎだよ。
「何がやっぱり、ですか! もうたくさん! 関係ないでしょ、あなたなんかに!」
マックイーンは怒りに任せ、この前と同じように尖った言葉をぶつけて来る。
……不思議なほど冷静だった。冷静に、今の自分が彼女に出来る事を探していた。
今、僕にできること……。
「放っといてください、邪魔しないで! 私は走らなければいけないのです。走って、天皇賞で勝利して……。それ以外は不要です! そのために私は走ってきたのです。……これからだって!」
「……だったら……」
「……何よ?」
「だったら走ってみろよ、マックイーン。ここで走ってみろよ」
「え……?」
「賭けているんだろ? 次の天皇賞に。……走ってみろよ、俺と。見せてくれよ、君の走りを。……俺と走って勝てたら、俺はここから消える。……さぁ、走ってみろよ」
「……」
マックイーンは頭を巡らし、足元の石畳を見やった。
「……走れるんだろ? 立って、俺と走れよ」
その言葉に押されるように、マックイーンが身を乗り出す。
身体を起こし、ゆっくりと立ち上がろうとする。
「……あ……ぁ……」
マックイーンの肩が小さく震えだした。
目を閉じ、何度も首を振る。
「早く走れよ、でなきゃ君はずっとこのままだ。……走って勝ちたいんだろ? 高がヒトの俺に勝てないようじゃどんなレースでも勝てない。……だから、走って見せろよ、俺と! マックイーン!」
「あ……あぁ……あ……」
中腰になったままの姿勢で、マックイーンは凍りついたように動かない。
「マックイーンっ!!」
「いっ……いやぁぁっ!」
悲鳴をあげ、その場に蹲る。
「ああ……ああ……ああぁっ……!」
そして、彼女は子供のように泣き出した。
「……走れない……走れないのよぉ……。私、走れない。走れなくなっちゃった……」
嗚咽混じりのマックイーンの声。
「………自分しか頼れないのに、頼っちゃいけないのに………わからないよ。………私、どうすればいいの? わからない、わからないよぉ……!」
「……マックイーン……」
「わからない……よ……」
僕は泣き崩れるマックイーンの肩に手を置いた。
「助けて。彰……アキラ……あきらぁぁぁ……助けてよぉぉぉ」
泣きじゃくりながら、マックイーンが僕の名を呼び続け、助けを求めていた……。
* * * * *
「人前で涙見せて泣いたの、久しぶりですわ……」
ひとしきり泣き腫らした後、マックイーンはポツリポツリと話し始めた。
「……この間喧嘩した時もすこし涙出ましたけど……」
「うん。見えてたよ」
「うそですわよね?」
「さて、どうでしょう」
「久しぶりの涙、2回ともあなたに見られたのですわね」
マックイーンが振り向く。
「そうなるのかな」
「……私、よく考えたら、どっちもあなたに泣かされたのですね。恥ずかしいですわ」
そう言うマックイーンの頬には笑みがあった。
「……泣いたカラスがもう笑ってるよ……」
そう言うとマックイーンの頬に朱が差す。
「……さっきはごめん……」
「私こそ、ごめんなさい。酷い事、言ってしまって………ごめんなさい、彰」
「……泣いたら、しおらしくなっちゃってるよ……」
苦笑する僕を、マックイーンが上目遣いに睨みつける。
しかしそれは一瞬だけで、またもとの笑顔に戻っていた。
「怖かったです。走れないのもそうですが、それより」
「それより?」
「何とかしないといけないのに、どうしたら良いか解らなくて……でも誰にも言えなくて……」
「一人で抱えすぎなんだよ……マックイーン」
「はい……」
頷くマックイーン。
「あなたに関係ないと、放っといてっと言ってしまった時、ああ、これで本当に独りになったしまったと思いました。……そうしたらそれが恐くなってしまって……走れなくなる事より、そのことが恐かった。もう誰も私を助けてくれる人はいなくなってしまった、と。ここにも居られないって……でも、彰、あなたは……」
「……」
「あなたは……それでも……」
マックイーンの瞳から幾筋も涙が流れる。
「……泣くなよ……」
「ん……それでもあなたは私の側にいてくれて……ありがとう、見捨てないでくれて……。ありがとう、側にいてくれて……」
「側に、か……」
「うん……」
「安心するのは早いと思うけどね。一番の問題が全く手付かずで残っているんだから」
「……そうね」
「……大変だよ、これから……」
「でも……」
マックイーンが柔らかな笑みを浮かべる。
「落ち込んでなんかいられませんわ。私は最強であり続けなければならないのですから」
微笑むマックイーン。
「それに、何か考えていますわよね?」
「え?」
「あれだけ芝居がかった事して……私を泣かせた責任、とって頂けますわよね?」
「え……。そ、そんな。考えなんて……。それに、ぼ、僕が責任? ……と、取り敢えず、頑張ろう、二人で。……これじゃダメ?」
マックイーンの思いがけない言葉に、しどろもどろになってしまった。
……突然そんな事言われても、いい考えなんて浮かばないし……。
それを見て、マックイーンが目を細めて笑う。
「ひどいですわ。名家の令嬢を泣かせて責任も取らないなんて。……でも、まぁ……何とかなるでしょう」
微笑むマックイーン。
「……だいぶ、吹っ切れたみたいだね」
「おかげ様で。……取り敢えず、頑張ろう、二人で。ですか」
頬に手を当て何やら考え込むマックイーン。
「ええ、それで良いですわ。気に入りましたわ」
力強く頷くマックイーンに、頷きを返す。
夕陽のせいか、泣き腫らしたせいか、彼女の頬に薄らと朱が差していた。
「……気に入りましたわ。……特に、二人で、という言葉が、ね」
マックイーンを鎧っていた物が砕け散りました。
次回以降言葉遣いが若干変わります。多分……